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久方ぶりに、夢を見た。幼い頃の夢だ。
どうやら師匠を真似て、剣の修行をしているらしい。
夢の中で彼は、拾った棒切れをやたらめったら木に打ち付けていた。本人は真剣そのものだが、今見ると頭をかかえたくなる光景だ。微笑ましさよりも恥ずかしさが先に立つ。そこでの自分の齢を考えても、明星の影響を受けたことが丸わかりの夢だった。
──あれは、いつだったか。
こんな阿呆な場面を師匠に見つかって、
「お前はいったい、何をしているんだ?」
そうそう、こんな風に声をかけられた。
彼が後ろを振り返ると、いつの間にかそこに、師匠が立っていた。
師匠は、いかにも武芸者らしい、均整の取れた体躯の持主だった。加えて動きは軽やかで、獣のように優雅なのだから神様はずるい。黒衣に包まれた師匠の引き締まった身体と、自分の細い腕を見比べて、溜息ばかりついていた時期もあった。そのつど師匠は「心配無用だ。私もお前くらいの時分はそんなものだった」と笑って言ったものだ。
師匠は総じて、優しいひとだった。最初こそ近寄り難い雰囲気があったものの、たまに笑うととても印象が柔らかくなり、その眼は今でも強く心に残っている。気性に反して精悍な顔立ちだったから、その点、師は外見で損をしていたかもしれない。
師匠の髪は鴉のように黒く、瞳は――……。
そう、瞳は榛色だ。最初に薄茶色と称していたら、あとで榛色という情緒的な言い方を教わった。
彼は、この優しい色をした双眸が、師匠の中で一番好きだった。
……さて、話を「修行」に戻して。
ある昼下がり、突如滑稽なことをおっ始めた弟子に、師は訊ねた。
「もしやとは思うが、剣の修行をしていたのか?」
いつも悠々と落ち着いた師匠の声が、このときばかりは若干上擦っていた。
無理もない。これが赤の他人なら、自分もその場で笑い転げていただろう。
だがやはり、師匠は別格だった。かの師が自分を嘲った記憶など、ただの一度もない。彼が敬愛してやまぬ師は、他者の努力を決して笑わぬひとだったのである。
師匠の問いに少年は臆面もなく「師匠の動きを再現していた」と答えた。今聞くと顔から火が出る発言だが、少年はさらに続けて「自分も剣をやってみたい」と師匠にねだった。
「ふむ。そうだな」
師匠は顎に手をあてて、やや考える素振りを見せた。
「並以上にはなるよう、仕込んでやろう。後年、お前が恥をかかんようにな」
それを聞いた少年は喜んだが、師匠の言葉に引っかかりを感じないわけではなかった。師匠の言い方では、自分は剣で大成できないように聞こえる。
「聡いな、お前は。だがその通りだ。お前は、剣には向いていない」
この宣告は、当時少年だった彼に、大きな打撃を与えた。師は小童相手でも言葉を偽らない大人だったし、その実、剣術使いは彼の将来の目標だったのだ。師匠が、自分の一番得意なものは剣だと言っていたからである。
この世の終わりのように嘆く弟子に、師は苦笑して続けた。
「私は、剣には向かんと言っただけだ。お前には別に、優れた才がある」
師匠の言葉に一度は顔を輝かせたものの、その「優れた才」を教えられた彼は、がっくりと肩を落とした。
理由は簡単だ。師匠が少年に告げた「才」は地味な上に、まったくもって格好良くなかったのである。そもそも師の言う「才」が本当に才能と呼べるものなのか、それすら当時の彼には疑問だった。
「だが、人には向き不向きがある。不得手な剣を突き詰めるより、有利な天賦の才を磨いた方が効率的だろう?」
師匠の言うことはもっともである。だが、理屈で十かそこらの小童がすんなり納得できるわけもない。
まあ、昔からへんに大人びたところがあったので、泣いて師匠を困らせるようなことはなかったが。失意がありありと顔に出ていたのだろう。
師匠はたまにしか見せない、柔らかな笑顔を見せてこう言った。
「そうめげるな。お前の才は、私のそれをはるかに超えているのだぞ?」
その台詞の威力は、効果てきめんだった。
雲の上のような存在のひとに、「己を超えている」と。ほかでもない師匠自身の口から、直接告げられたのだ。
「ならば、伸ばさぬ手はなかろう。お前は人の身でありながら、素晴らしい才を得た。お前のそれは龍を凌ぎ、やがては龍を打倒するだろう」
やがては、龍を。
古の姿に変じ、神通力で気候すら繰る、あの龍を凌ぐと。
まるで絵空事のような話に、けれど、師匠は嘘を口にしないのだと思い返して。
「それほどの才だ。どうだ、伸ばしてみないか?」
師匠の問いに、幼い自分が無我夢中で頷く──そんな夢。
焦がれるほどにあたたかく、切ないほどに懐かしい。
師匠がまだ、存命のときの夢だった。
*
突然だが、凱夏の旅装は一風変わっている。
外交が盛んな朱州育ちの凱夏は、装束が欧風なのである。
無論ゆえあってのことで、そうでなければ凱夏とて、このように目立つ格好でほいほい歩き回ったりはしない。逃走に不帰の森を選んだことは、姫だけでなく己の身なりにも頓着せずに歩ける、という利点もあった。
よって凱夏は、暑さが残るこの時期も――それでもこの森は、外に比べだいぶ涼しいのだが――黒の長外衣に同色の長靴といういでたちだった。
せめて腕捲りでもできればと思うが、凱夏の場合そうもいかない。朱州のとある職人に作らせたこの特注外衣は、肩や背など細部に至るまで、大小さまざまな『仕掛け』がほどこされている。したがって袖にも細工があり、不用意に捲ることができないのだ。
しかし、寒さ暑さには耐性のある凱夏である。
暑熱で倒れるような不手際はしないが、
「なあ、黎峯。いい加減そのびらびら重い長裙、脱いだらどうだ?」
宮中仕様の長裙の裾を、ずりずり、ずりずり。
袖を枝に引っかけ引っかけ進む黎峯に、凱夏は声をかけた。
「やかましい。黙れ」
「いや、でもよ」
と、凱夏は言いよどむ。
ぜえぜえ息をつきながら必死でついてこられても、罪悪感にかられるんだが。
凱夏が背負って歩こうにも、先ほど姫に「臭い」と一蹴されたばかりである。どうも明星の臭気が、いくらか移っているようだ。
「黎峯さま。裾んとごだげでも、おらが持つ――おらに持だせでくんろ」
見かねた明星が、限りなく腰を低くして黎峯に話しかけた。
おらが持つよ、と言いかけたのを『持たせてください』と訂正したあたりに、明星の高い学習能力を感じる凱夏である。
「じょ、冗談じゃ……ない! お前なんかに、触られたら……ッ……あ、垢がつくでしょ!」
びらびらの長い裳を身につけたまま、息も絶え絶えに言い返す黎峯。
実のところこれは、「音を上げた姫を説得し、庶民着に着替えさせる」という凱夏の作戦だったのだが、意外や意外。姫もなかなか根性がある。
(けどまあ宮廷育ちの姫じゃ、ぶっ倒れるのも時間の問題だな)
ということで、凱夏はせっせと先を急いだ。足もとに点々と連なる、小さな獣の足跡を追う。
先に姫が力尽きたら仕方ない。無理にでも背負って行くつもりだったが、運良くその前に一行は目的地に到着した。
出し抜けに、凱夏を阻んでいた緑の覆いが解ける。眼の前に姿を現したのは、ほの暗い朝靄の中でひっそりとたたずむ、小さな泉だ。
川でも沼でもなく、湧き出る泉というところがついている。基本的に湧水や井戸は、地層で濾過されるため安全性が高い。これに煮沸消毒を加えれば、衛生面は完璧である。
試しに泉をすくってみるが、水質も申し分ない。かなりの優良物件を見つけて、凱夏は心中ご満悦だった。
「はあっ……どうやら、水は確保できたようね。夜明けとともに叩き起こされた挙句、えんえん森を歩き回されたかいがあったというものだわ」
「そうだな。黎峯にぶーぶー文句を言われながらも、朝っぱらから地べたに這いつくばったかいがあった」
姫の皮肉には皮肉で返してやる。しかし黎峯は顔色一つ変えず、平然とそれを聞き流した。面の皮が厚い姫君だ。宮廷生活が長かっただけある。
厭味皮肉にはめっぽう強く、そして、逆境にも強い。こういう気骨のあるところは、黎峯の特筆すべき美点だった。
(なんだかんだで、姫はこっちの指示に従ってくれるしな。べそべそ泣かれるよかよっぽど助かるし、飲み水の重要性も理解してる)
ここで弁明しておくと、凱夏は別に嫌がらせで早起きしたわけではない。動物が水を摂取するのは大抵早朝と夕方なので、足跡を辿るならこの時間が最適なのだ。
「危険がないか調べる。お前らはここで待ってろよ」
姫と明星に言い置いて、凱夏は一足先に泉へ足を踏み入れた。