表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/32

2-1

 久方ぶりに、夢を見た。幼い頃の夢だ。

 どうやら師匠を真似て、剣の修行をしているらしい。


 夢の中で彼は、拾った棒切れをやたらめったら木に打ち付けていた。本人は真剣そのものだが、今見ると頭をかかえたくなる光景だ。微笑ほほえましさよりも恥ずかしさが先に立つ。そこでの自分のとしを考えても、明星の影響を受けたことが丸わかりの夢だった。


 ──あれは、いつだったか。

 こんな阿呆あほな場面を師匠に見つかって、


「お前はいったい、何をしているんだ?」


 そうそう、こんな風に声をかけられた。

 彼が後ろを振り返ると、いつの間にかそこに、師匠が立っていた。


 師匠は、いかにも武芸者らしい、均整の取れた体躯の持主だった。加えて動きは軽やかで、獣のように優雅なのだから神様はずるい。こくに包まれた師匠の引き締まった身体からだと、自分の細い腕を見比べて、溜息ばかりついていた時期もあった。そのつど師匠は「心配無用だ。私もお前くらいの時分はそんなものだった」と笑って言ったものだ。


 師匠は総じて、優しいひとだった。最初こそ近寄り難い雰囲気があったものの、たまに笑うととても印象が柔らかくなり、その眼は今でも強く心に残っている。気性に反して精悍な顔立ちだったから、その点、師は外見で損をしていたかもしれない。


 師匠の髪はからすのように黒く、瞳は――……。

 そう、瞳は榛色はしばみいろだ。最初に薄茶色と称していたら、あとで榛色という情緒的な言い方を教わった。

 彼は、この優しい色をした双眸が、師匠の中で一番好きだった。


 ……さて、話を「修行」に戻して。

 ある昼下がり、突如滑稽なことをおっぱじめた弟子に、師は訊ねた。


「もしやとは思うが、剣の修行をしていたのか?」


 いつも悠々と落ち着いた師匠の声が、このときばかりは若干上擦っていた。

 無理もない。これが赤の他人なら、自分もその場で笑い転げていただろう。


 だがやはり、師匠は別格だった。かの師が自分をわらった記憶など、ただの一度もない。彼が敬愛してやまぬ師は、他者ひとの努力を決して笑わぬひとだったのである。


 師匠の問いに少年は臆面もなく「師匠の動きを再現していた」と答えた。今聞くと顔から火が出る発言だが、少年はさらに続けて「自分も剣をやってみたい」と師匠にねだった。


「ふむ。そうだな」


 師匠は顎に手をあてて、やや考える素振りを見せた。


「並以上にはなるよう、仕込んでやろう。後年、お前が恥をかかんようにな」


 それを聞いた少年は喜んだが、師匠の言葉に引っかかりを感じないわけではなかった。師匠の言い方では、自分は剣で大成できないように聞こえる。


「聡いな、お前は。だがその通りだ。お前は、剣には向いていない」


 この宣告は、当時少年だった彼に、大きな打撃を与えた。師は小童こども相手でも言葉を偽らない大人だったし、その実、剣術使いは彼の将来の目標だったのだ。師匠が、自分の一番得意なものは剣だと言っていたからである。

 この世の終わりのように嘆く弟子に、師は苦笑して続けた。


「私は、()()()向かんと言っただけだ。お前には別に、優れた才がある」


 師匠の言葉に一度は顔を輝かせたものの、その「優れた才」を教えられた彼は、がっくりと肩を落とした。

 理由は簡単だ。師匠が少年に告げた「才」は地味な上に、まったくもって格好良くなかったのである。そもそも師の言う「才」が本当に才能と呼べるものなのか、それすら当時の彼には疑問だった。


「だが、人には向き不向きがある。不得手な剣を突き詰めるより、有利な天賦の才を磨いた方が効率的だろう?」


 師匠の言うことはもっともである。だが、理屈で十かそこらの小童こどもがすんなり納得できるわけもない。

 まあ、昔からへんに大人びたところがあったので、泣いて師匠を困らせるようなことはなかったが。失意がありありと顔に出ていたのだろう。

 師匠はたまにしか見せない、柔らかな笑顔を見せてこう言った。


「そうめげるな。お前の才は、私のそれをはるかに超えているのだぞ?」


 その台詞の威力は、効果てきめんだった。

 雲の上のような存在のひとに、「己を超えている」と。ほかでもない師匠自身の口から、直接告げられたのだ。


「ならば、伸ばさぬ手はなかろう。お前は人の身でありながら、素晴らしい才を得た。お前のそれは龍を凌ぎ、やがては龍を打倒するだろう」


 やがては、龍を。

 いにしえの姿に変じ、神通力で気候すらる、あの龍を凌ぐと。

 まるで絵空事のような話に、けれど、師匠は嘘を口にしないのだと思い返して。


「それほどの才だ。どうだ、伸ばしてみないか?」


 師匠の問いに、幼い自分が無我夢中で頷く──そんな夢。

 焦がれるほどにあたたかく、切ないほどに懐かしい。

 師匠がまだ、存命のときの夢だった。





 突然だが、凱夏の旅装は一風変わっている。

 外交が盛んな朱州育ちの凱夏は、装束が欧風なのである。

 無論ゆえあってのことで、そうでなければ凱夏とて、このように目立つ格好でほいほい歩き回ったりはしない。逃走に不帰の森を選んだことは、姫だけでなく己の身なりにも頓着せずに歩ける、という利点もあった。


 よって凱夏は、暑さが残るこの時期も――それでもこの森は、外に比べだいぶ涼しいのだが――黒の長外衣ロングコートに同色の長靴ブーツといういでたちだった。


 せめて腕捲りでもできればと思うが、凱夏の場合そうもいかない。朱州のとある職人に作らせたこの特注外衣コートは、肩や背など細部に至るまで、大小さまざまな『仕掛け』がほどこされている。したがって袖にも細工があり、不用意に捲ることができないのだ。


 しかし、寒さ暑さには耐性のある凱夏である。

 暑熱しょねつで倒れるような不手際ヘマはしないが、


「なあ、黎峯。いい加減そのびらびら重い長裙ふく、脱いだらどうだ?」


 宮中仕様の長裙きものすそを、ずりずり、ずりずり。

 袖を枝に引っかけ引っかけ進む黎峯に、凱夏は声をかけた。


「やかましい。黙れ」

「いや、でもよ」


 と、凱夏は言いよどむ。

 ぜえぜえ息をつきながら必死でついてこられても、罪悪感にかられるんだが。


 凱夏が背負って歩こうにも、先ほど姫に「くさい」と一蹴されたばかりである。どうも明星の臭気が、いくらか移っているようだ。


「黎峯さま。裾んとごだげでも、おらが持つ――おらに持だせでくんろ」


 見かねた明星が、限りなく腰を低くして黎峯に話しかけた。

 おらが持つよ、と言いかけたのを『持たせてください』と訂正したあたりに、明星の高い学習能力を感じる凱夏である。


「じょ、冗談じゃ……ない! お前なんかに、触られたら……ッ……あ、垢がつくでしょ!」


 びらびらの長いを身につけたまま、息も絶え絶えに言い返す黎峯。

 実のところこれは、「音を上げた姫を説得し、庶民着に着替えさせる」という凱夏の作戦だったのだが、意外や意外。姫もなかなか根性がある。


(けどまあ宮廷育ちの姫じゃ、ぶっ倒れるのも時間の問題だな)


 ということで、凱夏はせっせと先を急いだ。足もとに点々と連なる、小さな獣の足跡そくせきを追う。

 先に姫が力尽きたら仕方ない。無理にでも背負って行くつもりだったが、運良くその前に一行は目的地に到着した。


 出し抜けに、凱夏を阻んでいた緑の覆いが解ける。眼の前に姿を現したのは、ほの暗い朝靄あさもやの中でひっそりとたたずむ、小さな泉だ。


 川でも沼でもなく、湧きいでる泉というところがついている。基本的に湧水わきみずや井戸は、地層で濾過ろかされるため安全性が高い。これに煮沸消毒を加えれば、衛生面は完璧である。


 試しに泉をすくってみるが、水質も申し分ない。かなりの優良物件を見つけて、凱夏は心中ご満悦だった。


「はあっ……どうやら、水は確保できたようね。夜明けとともに叩き起こされた挙句、えんえん森を歩き回されたかいがあったというものだわ」

「そうだな。黎峯にぶーぶー文句を言われながらも、朝っぱらから地べたに這いつくばったかいがあった」


 姫の皮肉には皮肉で返してやる。しかし黎峯は顔色一つ変えず、平然とそれを聞き流した。面の皮が厚い姫君だ。宮廷生活が長かっただけある。


 厭味皮肉にはめっぽう強く、そして、逆境にも強い。こういう気骨のあるところは、黎峯の特筆すべき美点だった。


(なんだかんだで、姫はこっちの指示に従ってくれるしな。べそべそ泣かれるよかよっぽど助かるし、飲み水の重要性も理解してる)


 ここで弁明しておくと、凱夏は別に嫌がらせで早起きしたわけではない。動物が水を摂取するのは大抵早朝あさと夕方なので、足跡を辿るならこの時間が最適なのだ。


「危険がないか調べる。お前らはここで待ってろよ」


 姫と明星に言い置いて、凱夏は一足先に泉へ足を踏み入れた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ