1-3
頸を伸ばして黎峯の様子を窺うと、姫は焚火に背を向け、両膝を抱え込んでいる。凱夏の位置からは、姫の丸まった後姿しか見えない。
彼女の激しい抵抗によって大切な食料、もとい芋虫がおじゃんになりかけたのは、ほんの半刻前の話だ。結局、木実や手持ちの干肉で手を打ったのだが、黎峯様のご機嫌はいまだ上昇の兆しを見せない。
その証拠に姫は今でも、
「これだから人間は好かんのじゃ。いっそ二人まとめて腹を壊してしまえ、野蛮人が」
といった具合に、小言が途切れることなく延々と続いている。
「だから壊さねぇって、なんべんも言ってるけど。それにこいつは、蝦と同じ味がしてほんと美味いんだぜ? 試しに喰ってみろよ。外はカリッ、中はじゅわっと――」
「口を閉じろ野人! それ以上言ったら殺す!」
振り向きざまに鬼気迫る涙眼で言うので、凱夏は口を結んだ。ほんとに美味しいんだけどなぁと思いながら、黙って芋虫を咀嚼した。
「それはそうと凱夏! 貴様、『これ』はいったいどういう了見じゃ!」
倒木から勢いよく腰を上げると、黎峯は明星を指差してがなる。
凱夏は素知らぬ顔で答えた。
「それはほら、こいつ名前がないって言うからさ。不便だし、やっぱり呼び名は必要だと――」
「そのような些事は訊いておらぬわ! この、あほんだら! 甲斐性なし!」
みなまで言わせず、黎峯の罵詈雑言が降ってくる。
相変わらず、この姫の悪態は表現豊かだ。ある意味、凱夏も見習うべきだろう。
「姫様、いったいどこからそんな罵倒語仕入れてくるんだ?」
「煩い黙れ従僕! とっとと妾の問いに答えぬか!」
「そこは『とっととわたしの問いに答えなさい』だろ? はい復唱」
「ふざけるな! 妾は本気で問うておるのじゃぞ⁉」
色をなしてこちらに詰め寄る黎峯に、凱夏は真顔で応じた。
「俺だって本気だ、姫様。そろそろ本腰入れて練習しておかねぇと、本番でしくじるぞ? はっきり言わせてもらうが、もしも街中で龍に殺到されたら、さすがに俺も太刀打ちできない」
淡々と事実を突きつける。
どちらかと言えば物静かな凱夏の口調だったが、黎峯は怯んだ。
「じゅ、従僕の分際で、偉そうな口を」
「だが、事実だ。悪いことは言わない、今すぐ喋りを市井の言に変えろ。本当はできるんだろう、黎峯? 皇太后様はそうおっしゃっていたぞ?」
「……っ!」
またもや名を呼び捨てたからだろう。憎悪すらこもる金の瞳で、黎峯は凱夏を睨めつけた。いつもの癇癪はなく、ひたすらに無言だ。
黎峯は本当に激したときにこそ、黙り込む傾向があることを凱夏は知っている。普段よりも長い沈黙に、姫の怒りのほどが窺えた。
(……ここらが潮時かな)
凱夏は冷静に判じる。
宮廷育ちの公主には、このあたりが限界だろう。
凱夏は黎峯の側に歩み寄ると、隣に腰を下ろした。姫は納得いかない表情つきのまま、折り曲げた膝を抱いて凱夏を見た。
「明星が俺の弟子になりたいと言った理由、姫様も聞いただろ?」
小声で言いつつ、ちらりと横を確認。
明星は蝦味の芋虫に夢中のようだ。こちらを気にかける様子はない。
「お前の戦いが見事だとか、言っていたかしら」
仏頂面で黎峯が応じる。言葉を修正したようだ。
凱夏にしてみれば、まだまだ綺麗過ぎる発音だったが、指摘はせずに話を進めた。
「そう。あいつ、俺の戦いを見てたんだよ」
「それがどうかした?」
「俺は、明星の存在に気づかなかった。いや、気づけなかった」
本音では口にしたくない失態だが、白状する。
あのときの凱夏は戦闘中だったこともあり、周囲にはそれなりに神経を尖らせていた。にもかかわらず、明星の察知にあれだけの時間を要したのだ。
「俺が戦いで疲れて、見ていた明星に敵意がなかったことを差っ引いても、大した隠形だ。五十年、いや百年に一度の逸材だな、あいつは」
あの齢で、あの殺し合い《たたかい》を冷静に見ていたなら、末恐ろしい小童である。異常と言って差し支えなかったが、これは黎峯には伏せておく。
手放しの賞賛のあとに続けて、凱夏は明星にまつわる疑問をかいつまんで姫に語った。中でも、明星の名無しは妙だ。実の親がいなかったとしても、育ての親がいれば世間体がある。どんな冷血漢でも命名ぐらいはしそうなものなのに、これが凱夏はどうも腑に落ちなかった。
話を聞き終えた黎峯は、ふうん、と見るから関心のなさそうな相槌を打った。
「どこぞの変態に、拉致監禁でもされていたのではないの? 下品な人間にはよくいるじゃない、そういう稚児趣味の手合いが」
(いねぇよ! 時間と金の有り余る龍の方が多いだろ、そういうのは)
という反論は、確実に姫の怒りを買うので黙っておく。そっと胸の奥にしまい、凱夏は黎峯に頭を振った。
「違うな。血色は悪いが、あれは陽に当たった肌だ。それにあいつの掌を見てみろ。あれは労働を知っている手だ」
年齢と不釣合いな、明星のぼろぼろの両手を思い出す。土にまみれて潰れた指先、皮の厚さは、農具かそれに準じるものを握った証だ。それも過度に。
「でも、どれも憶測でしょう? お前の考え過ぎではないの?」
「かもな。でもどっちにしろ、明星はしばらく俺の手もとに置いておきたい」
「へえ。あれを第二の従僕に仕立て上げるわけ?」
嘲るような音階で黎峯が問う。
世間知らずの姫君も、こういう策謀にはなかなか鋭い。さすが宮中生まれなだけある。頭の回転が速いのだろう。
凱夏は苦笑し、足もとで踊る炎に薪を投げ入れた。
「打算がないと言ったら嘘になる。でも、決めるのは明星だ。それに弟子入りを許した一番の理由は姫、いや黎峯のためだからな」
「妾のため?」
不審そうに黎峯が顔を曇らせる。
対照的に、凱夏は清々しい気持ちで答えた。
「黎峯には、本当の『人間』ってものを見てもらいたいんだ。字面じゃなくって、生の人間を。世の中は龍より、人の数の方が圧倒的に多い。国を動かすのは龍だが、国を支えるのは人民なんだ。我が君においては是非、それを肌で感じていただきたい」
「お前の言いたいことはわかったわ」
黎峯は真面目な顔で頷いた。
が、続けてこう言った。
「でも、何もこんな貧相な童でなくても良いでしょう? 何故この妾が、こんな不潔極まりない醜い童を連れ歩かねばならないのよ? お前も額の傷を見たわよね。あれは非人よ。人間以下の家畜じゃない。汚らわしい」
言いながら、黎峯は明星に視線を移す。
折り悪く、それは芋虫を食む明星の瞳と重なった。
この公主がかなりの面食いであることは承知していたが、それにしても言葉が過ぎる。凱夏は再び黎峯に苦言を呈しようとして──しかし、明星の瞳に意識を縫い止められた。
──驚いた。
驚きで反応が遅れてしまうほど、それは聡明なまなざしだった。
明星の小さな二粒の真紅が、ひたと黎峯に据えられている。そこに、怒りや哀しみといった感情は読み取れない。
明星の湖面のような静けさを見て、凱夏は直感的に悟った。
――わかっているのだ。
明星は静かに凱夏たちの会話を聴き、理解し、納得して、受け入れている。捨てられても仕方がない、という哀しい諦観がそこにはあった。
「ほんに、醜穢よのう」
声を潜めて黎峯が呟く。
その言葉で、凱夏は黎峯が明星の知性に気づかなかったことを知った。
「見苦しい。視界に入れるのも不愉快だから、あとでどこかへ捨ててきて頂戴、凱夏。間近く見るなら、もっと見場の良い者がいいわ」
冷ややかな笑みすら浮かべて耳打ちする黎峯に、凱夏は一言。
「なるほど」
醒めた声で、独りごちた。
(なるほど。理想への道は遠く、険しいらしい)
忘れかけていた疲労が、肩に重くのしかかってくる。
あまねく龍人の運命を司ると云う西王母に、己の覚悟を試されているような気がした。
――王母は常に、悲劇をもって龍人を試す。だが、お前は天命に屈するな。
そうだ。たとえ相手が神様だろうと、屈服しない。ましてや底意地の悪い王母の好き勝手になど、断じて。
なけなしの意地がむくりと頭をもたげる。
神に挑むように、凱夏は昂然と面を上げた。
「やっぱり、今の台詞で確信したよ。あんたは明星といるべきだ」