1-2
「――黎峯。そのまま適当に、なんでもない風を装ってくれ」
早口で告げる。
名を呼ばれ顰面の姫を無視して、凱夏はさりげなく半身を開いた。
──近い。この感覚は、獣の類ではない。
今の今まで不審者の存在に気づけなかった焦りが、にわかに凱夏の鼓動を速めた。血が上りそうになる頭を冷まし、意識を戦闘時のそれに切り替える。
随分と接近を許してしまったが、先方に殺気はない。極めて隠形に長けた者だが、今すぐこちらをどうこうする気はないようだ。
眼玉だけ忙しなく動かしながら、凱夏はそっと腰に手をまわした。革帯から飛刀を引き抜き、気配で相手の位置を割り出す。
不意に、凱夏が注視していた先の木葉が揺れた。
息を殺して相手の出方をうかがっていると、
「ぅひゃ!」
草叢から兎を思わせる動きで、小さな影がひょこりと顔を出した。
凱夏とまともに眼が合うと、その影は慌てて元の草叢の中へと引っ込む。
「「…………」」
凱夏と黎峯は、無言で顔を見合わせた。
差し向かいの黎峯の表情が「なんだ、あれは?」と言っている。
だが凱夏としても、肩をすくめるほかない。
結局沈黙を破ったのは、どこまでも不機嫌な黎峯の問いかけだった。
「あれは、人の童かえ?」
「みたいだな。齢は、十かそこらか」
武器の構えを解いて凱夏は歩み寄り、草叢から小童を引っ張り出した。
「うひゃぁ!」
再び、素っ頓狂な悲鳴があがる。
すぐに男だとわかったが、それよりも、引き上げた少年の軽さに凱夏は驚いた。なんの気なく視線を下げて、ぎょっとする。
その少年の身体は文字通り、骨と皮だけだった。
凱夏が掴んだ手首は、少年の齢を考慮しても小枝のように細い。穴の開いた襤褸を纏う下は当然のように素肌で、あばら骨がくっきりと浮き出ている。無論、その顔立ちに小童らしい肉の丸みはない。ごっそり削げた頬と、尖った顎。落ち窪んだ眼窩が印象深い少年だった。
「……汚らわしい」
口もとを袖で覆い隠し、黎峯が呟く。
もう何日も風呂に入っていないのか、少年の身体は垢にまみれ浅黒く、すえたような臭いが漂っていた。
「姫様」
視線で姫を制し、窘める。
凱夏は掴み上げた少年を地面に下ろすと、しゃがんで小童に好かれそうな笑みを作った。
「よう、小僧。お前一人か?」
不帰などと名のつく森に、骨が浮くほど痩せた小童だ。連れなどいやしないだろうと思ったが、一応確認する。
果たして、少年は頸を縦に振った。
「悪い。ちょっと見せてくれな?」
言って凱夏は、少年の藍色がかった黒髪に手で触れた。頭垢だらけの前髪を上げると、額にはまだ生々しい刃傷痕がある。
意識して上げていた口角がわずかに下がった。胸中に苦い思いが広がる。額に一文字の刃傷痕は、この国に古くから伝わる慣習だ。
「なんじゃ、『口減らし』か」
「姫ッ!」
あまりにもあけすけな物言いに、語気が強くなった。
やや怒気を孕んだ声で凱夏が咎めると、黎峯はびくりと両肩を震わせた。しかし、すぐに拗ねた顔で「ふん」とそっぽを向く。
小童じみたその態度に、凱夏はこの姫の将来が不安になった。龍の精神は外見に引きずられる傾向があるが、黎峯はこれでも齢三十年を経た龍だ。境遇に斟酌の余地があるとは言え、あまりにも幼い。
(それだけ周囲に甘やかされたんだろうから、無理もねぇけど……)
暗い諦観に沈んでいると、不意に凱夏の袖を少年の手が引いた。
「『くちべらす』っで?」
訛りの強い口調で少年が訊ねる。
やや吊り気味の、紅玉のような瞳に見つめられて、凱夏はなんと答えるべきか迷った。
「ああ、気にすんな。そんな深い意味はねぇから」
「けんど、おらみでにいらねぇ子のこど、『くちべらす』って言うんでねが?」
問いではなく、確認する口調で少年は訊き直す。いやに落ち着いた少年の言動に戸惑っていると、またしても黎峯が要らぬ横槍を入れた。
「ほう。卑しいながらも、ようものの道理がわかっておる童ではないか。あっぱれじゃのう」
貴族らしい言い草で、黎峯は冷ややかに嗤う。
この物言いには、さしもの凱夏も腹に据えかねた。
姫を怒鳴りつけようとしたとき、
「おら、あっぱれなんて言われだの初めてだ。へへへ」
へらりと少年が黎峯に笑いかけた。口もとに小さな八重歯をのぞかせ、小童らしい笑顔を披露する。
そんな少年を眼にし、黎峯は居心地悪そうに視線を逸らした。追い討ちをかけないあたりに、この姫にも善意があるのだと凱夏は自分に言い聞かせた。
そうだ、彼女はまだ若い。変われるはずだ。
でなければ、『頸飾り』の主に黎峯が選ばれるわけがない。
「いらなくなんかねぇよ」
少年を眼を移し、柔和な声を心がけて凱夏は言った。
ほえ、と少年が凱夏を見上げる。もう一度、凱夏は繰り返した。
「お前はいらなくなんかない。小童は国の宝だ」
かつて、凱夏が師から譲り受けた言葉、そのままを口にする。
少年は紅い瞳を瞬かせて、凱夏に訊き返した。
「おら、いらなぐね?」
「ああ。いらなくねぇ」
「そっだら!」
突然、少年の語気が強まった。居住まいを正すと地面に両手をつき、傷ついた額もそこへ押しつける。
「そっだら、お願えだ! おらを『おっしょう』の、弟子にしてくんろ!」
呆気にとられた凱夏と黎峯は、大口を開けて土下座する少年の姿を眺め続けた。
*
凱夏は、少年に『明星』と名づけた。
何故わざわざ命名したかと言うと、明星には名前がなかったからである。
この国では、龍は玉音、人には和訓で名をつけ、龍人を問わず名には思い入れがあるのが普通だ。龍は特に極端だが、人も産まれた子には丹精込めた名をつけるし、例えば死産の場合なども大抵の親は名を残す。明星はかなり、特殊な環境で育てられた小童だと推測できた。
……まあ、当の本人は呑気なもので、与えられた名を楽しげに舌で転がしていたが。
ぱちん、と視線の先で火花が散る。
凱夏はいったん思考を止め、こうこうと赤く色づく炎に枯枝をくべた。
ふと、空を見上げる。
頭上は手を伸ばせば届きそうな、満天の星空だ。都で見るよりはるかに美しく、荘厳な夜空に、凱夏はしばし時を忘れて魅入った。
この森は覆いかぶさるように茂る木々のせいで、星月を仰ぐ機会があまりない。外界と切り離された森の閉塞感に精神をやられ、最後は死に至ることも多いと聞く。
そんなわけで明星を拾ったあと、凱夏がまず行ったことは、寝床の確保だった。凱夏が今腰を下ろしている場所は、巨木が倒れた跡地である。
隙間なく頭上を覆う緑の天蓋に、ぽっかりと丸い穴が開いている。緑穴の向こうに、宝箱をひっくり返したような星天が広がっていた。
いい夜だ、と思う。
凱夏は空が好きだ。
中でもとりわけ、夜空が好きだった。
――私は宵が好きだ。この静けさを気に入っている。
――そら。お前はあの夜空に浮かぶ、小さな星だ。
――まだその瞬きは幼い。だがわかるか?
――あれは、
希望の光だ。
そう指差して言った、師の心地良い声が蘇る。
少し感傷的な気分になっていた凱夏は、焚火から聞こえてきたぽん、ぽんという軽妙な音に意識を引き戻した。夕飯が焼けたようだ。
空から視線を下ろすと、好奇心満々の体で焚火にかじりつく、明星の姿がある。凱夏は焚火に放り込んだ「食材」を木の枝で突き、明星に見せた。
枝の先端に刺さっているのは、黒っぽい蛾の幼体だ。
要するに芋虫である。
「見た目はアレだけどな。こいつは芋虫の中じゃ、一、二を争う美味さで有名なやつだ。おまけに栄養価も高い。騙されたと思って喰ってみろ」
こんがり焼けた芋虫を受け取ると、明星は躊躇なく口へ運んだ。もぐもぐと小動物のように頬張る明星の眼が、大きく見開かれる。
明星は声を弾ませて凱夏に言った。
「うめえ! おら、こんなうめえもん初めで喰っだ」
「そりゃ良かった。まだ山ほどあるから、たんと喰え。ただし、お前は絶食で胃腸が弱ってるだろうからな。よく噛むんだぞ?」
「んだ、お師匠!」
笑顔全開で明星は頷き、またぽんっと皮のはじけた芋虫を木の枝でほじくり出した。
「下手物喰いめ……」
焚火を挟んだ向こう側から、げんなりした黎峯の声がした。