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「無理に民を慈しめとは言わんさ、黎峯」


 出し抜けに凱夏がそう言ったのは、明星を拾った数日後のことだった。

 意味がわからず、「は?」と訊き返した黎峯に、


「無理に民を慈しめとは申しません」


 と、丁寧に言い換えて凱夏は繰り返す。

 それを黎峯は鼻で笑った。

 なあに、それ。お前それ、本気で言っているの?


「無論だとも。だが私は、民が困窮すれば良いと思っているわけではないぞ? 別段、いとおしんでもないものをいとおしむ演技ふりをするくらいなら、それは不要だと言っている」


 そのような心持ちでは、仮に黎峯が玉座を奪還したところで早晩、徒労に終わる。ならば己に正直に生きる方が、まだしも健全であろうと。

 歪な信念は、かえって国を傾けるものだ、と凱夏は語る。


 黎峯はそれを曲解して、まあそれは気が楽だわ、と厭味たらしく返した。

 だったら正直に言うけれど、見ず知らずの民がどれだけ野垂れ死のうと、わたしに害が及ばない限り知ったことじゃないわ。だってそんなの、わたしのあずかり知らぬことだもの。


「そう言うと思った。そこまで飾らんと、いっそ心地良いな」


 凱夏は屈託なく笑い、けれど続く言葉で唇を引き締めた。


「顔の見えん民を慈しむことなど、誰もできはしない。それは私もだ。何せ、顔が見えんのだからな。……個を愛せぬ者に、万民たみを愛することはできない」


 へえそう。で? お前は結局、わたしに何が言いたいのよ?


「黎峯。まずは明星を慈しんでくれ」


 冗談じゃないわ、あんな醜い童。視界に入れるだけで吐き気がする。


「空を舞う蝶とて、蛹から羽化かえる前はああだろう?」


 しれっと告げる凱夏が憎たらしい。黎峯はいらついて言い返した。

 それが何よ。そんな安い説教で、このわたしが改心するとでも思った?


「いいや、思わん」


 答えて凱夏はにやりと笑い、「そこでだ、黎公主様」と慇懃無礼に持ちかけた。


「私と賭けをいたしませんか? 私は、明星に賭けましょう」


 あれはいずれ、蝶に化けると。





 その日、明星は朝から上機嫌だった。

 理由は見当がつく。回復の目処が立った翠姫と一命を取りとめた司馬を、青州へ返品──もとい、送り返したからだ。


 当初は朱州に引き取ってもらおうと思った黎峯だが、あの翠姫のことだ。まっとうな手続きを踏んで朱州こちらへ来た可能性は限りなく低い。現在の翠姫の立場を鑑みても、ここは何もなかったものとして、青州に送り返すのが最良という決着がついた。


 そうでなくとも、不安定なこの情勢だ。青州と朱州の諍いなぞ御免である。

 邑の者も、仲間に死者を出して心中は辛いだろうに、そこは黎峯に同意してくれた。彼らは実に理性的に、手際よく事を運んでくれたと思う。


 その屈強な精神と行動を目の当たりにするたびに、黎峯は凱夏の人を見る眼と、人望の厚さを思い知らされた。あれはこちらの耳に痛いことばかり口にする男だったが、今こうして振り返ると、苦しいときに決まって思い出されるのは凱夏の言葉だ。


(死んだら、賭けにならないじゃないの。莫迦者が)


 じわ、と涙と自己嫌悪が込み上げて、慌てて黎峯は己の感情に蓋をした。

 後悔と反省は、夜寝る前にする。昼はしない。それが黎峯の中の決まりだ。そうでもしないと、弱い自分は前へ進めない。立ち止まって俯いてしまう。


 黎峯はこっそり、両手で頬を叩いた。しゃきっと気合を入れるためだ。これから自分は、あの怪物男を越える偉業を為さねばならない。気が遠くなりそうな大事業だが、これはもう決定事項である。生涯をかけ、子や孫に引き継がせてでも、黎峯はそれを達成するのだ。


 とまあ、そんな風に色々根詰めて考えている最中だったので、


「翠姫、今ごろは青州に着いてっかなぁ」


 横で呑気に呟くどたわけを、黎峯は眉根を寄せて睨みつけた。


「お前ねえ、いったい誰のせいで死にかけたか、わかって言っているの?」

「誰って――別に誰のせいってわけでもねぇだろ?」

「違う。翠姫とその下僕どもの仕業よ」

「手を下したのはそうでも、原因となった根っこの部分は違うだろ?」


 その切り返しに、黎峯は苦い思いで口角を下げた。すぐに明星の言わんとすることを察したからだ。


 つまり、翠姫たちは明星を殺したかったわけではなく、明星が翠姫の目的を阻んだからそうしたわけで、その目的はつまるところ、民のためである。手段は難ありだが、その志は正しい。では、明星が半殺しにされた原因とは民か? この国の未熟な政治体制か? 不甲斐ない黎峯か? それとも、黎峯を主上に選んだ王母だろうか?


 突き詰めて考えれば悪者などいないではないかと、簡単に言えばそういう理屈である。


「俺は莫迦だからさ。単純に、翠姫が死ななかったことが嬉しいんだ」


 人より牛とすれ違う機会が多い、田舎道。

 皇護の手綱を引き、洒落た長靴ちょうかでかつかつ歩きながら、このたわけ者はどん臭いことを言う。本当にもう、度し難いお人好しである。


 どうやら明星の中では、つい最近まで寝台の住人だったことや、しばらくまともに歩くことも叶わなかった事実が、記憶から抹消されているようだ。


 黎峯は明星の隣を歩きながら、これみよがしに盛大なため息をついた。

 見てくれはこんなにも洒脱になったというのに、この明星は言うこと為すこと、ちっとも垢抜けない。


 ――そんな明星の愚かさに救われ、己は生かされているのだと、わかってはいるのだけれど。あり得ないほど優しくない明星なんて、そんなのはもう明星ではないと、わかってはいるのだけれど。


 生来気性の悪い黎峯は、もどかしく思ってしまうのだ。叫び出したくなるのだ。お前はとんだ甘ちゃんよ、激甘なのよ。もっと自覚なさい、と。


「こういうやからはいつか、法か何かで保護してやらねば駄目ね。絶滅危惧種だわ」


 視線を逸らし、わりと真剣に独りごちた黎峯に、


「ええ? あいつらが?」


 もお~と近くで草をむ牛を見て、明星はくびかしげた。

 鋭い癖に、ときどき天然男である。


「なんでもないわ、独り言よ」


 会話を打ち切り、黎峯はのどかな田園風景に意識を移した。説明する気などさらさらないが、仮に話してやったところで、本人は必ず否定するだろう。

 こういうときは、さっさと思考を切り替えるに限る。


 ふとあごを上げ、黎峯は天を仰いだ。

 朱州は今日も快晴だ。良い天気である。このぶんなら、今年の作物の収穫は上向くだろう。とは言え、朱州はこの国きっての人口を誇る州だ。当分青州からの支援は継続されるに違いない。今回朱州に売った恩を上手く使えば、あの世渡り下手べたな翠姫も、青州の諸官を黙らせることができるだろう。


 大体あの女は、良いまつりごとをするのにやり方が下手糞なのだ。潔癖なので、小悪を泳がせるということができない。ばんばん目障りな官吏を解雇するため、増産される敵の数に、味方が追いつかないのである。


(それもまあ、わたしふみに眼を通せばなんとかなるでしょう)


 宮中での身の立て方は、黎峯のお家芸だ。そのあたりの薀蓄うんちくを滔々としたためたふみを翠姫に括りつけたので、読めばあの女も少しはやり方を改めるであろう、多分。


「なあ、黎峯」


 考え中に、またもや明星がくちばしを突っ込んできた。昔はよく空気を読む童だったのだが、それも成長して鈍ったのだろうか。


「何よ?」


 つっけんどんに黎峯が訊くと、明星は端正な顔立ちに笑みを作って、


「今、翠姫のこと考えてなかったか?」


 神がかった問いを発した。この、悟りの化物め。


「やっぱり黎峯も、本心じゃ翠姫のこと好きなんだよな?」

莫迦ばかおっしゃい。そんなわけないでしょう? 誰があんな野蛮な女。もう二度とお眼にかかりたくない程度には大嫌いよ」

「あはは。そっか」


 何が「あはは」だ。なんだ、その見透かしたような態度は。

 しかし、彼我の優劣を測ることには長けた黎峯である。自身の旗色の悪さを察知した黎峯は、早々に翠姫の話題を転じることにした。


「そういえば、明星。お前、翠姫に御技みわざをかけられたわよね?」


 御技みわざとは、東西南北の四公が用いる神秘の能力ちからのことだ。東方青州を司りし東嶽のほう、『獅青の槍』。その担い手は、対峙した者に決して逃れえぬ夢を魅せると云う。偽りの夢を与え、死へいざなうと。


 しかし黎峯も、その具体的な効果までは知らない。逃れえぬ夢とは、いったいどのような夢なのだろうか。


「ねえ、お前はあのとき、どんな夢を魅たの?」

「ああー……」


 明星は決まり悪そうに頭を掻くと、明後日の方角に眼を泳がせた。

 珍しい。これは俄然、気になるではないか。


「何よ。隠し立てなんかせず、とっととおっしゃい。命令よ」


 優位を確信した黎峯が命じると、明星は歯切れ悪くこう答えた。


「……お師匠に、なってた」

「は? 凱夏に?」


 訊き直すと、明星は無言のままあごを引く。


「凱夏の姿を借りて、なみいる敵を蹴散らすとか、そういうこと?」


 言いながらも、確かにこれは爽快そうだと黎峯は思った。なにせ、凱夏はべらぼうに強かったので。

 けれど明星は大きく腕を振って、黎峯の問いを否定した。


「違うんだ。そう言うんじゃなくってさ、俺は俺なんだ。なんて言うか、俺がお師匠になりきって、小っせえ俺や黎峯と旅をするって言うか……芝居をさせてくれた、って感じだったな」

「芝居?」

「そう。お師匠が俺を不帰の森で拾って、朱州へ逃がしてくれるまでのお芝居だ。その凱夏役おししょうやくを、大人いま明星おれが演じる。で、最後まで演じ切ったらまた最初に戻る。そんな感じで、俺を物語の主人公にしてくれるんだよ」


 なるほど、わかり易い例えだ。しかも言い回しを「凱夏が死ぬまで」ではなく、「逃がしてくれるまで」と、柔らかく置き換えている。黎峯への配慮だろう。

 その好意をありがたく思いながら、黎峯は素知らぬ顔で明星に訊ねた。


「つまり御技みわざが発動すると、その凱夏の芝居がずっと頭の中で繰り返される、ということ?」

「ああ。でも所詮、俺は代役だ。それらしく振る舞っても、当然本物には敵わない。それに俺の中には、『本当の配役と台本』の記憶が、中途半端に残っちまってたからな……。夢の中で現実だと思ってたことが夢で、夢だと思ってた記憶が、現実だった」

「ややこしいわね。つまるところ、凱夏の演技ふりして楽しんでいたと、そういうことでしょう?」

「そういうことだな」


 八重歯をみせて笑う明星を、黎峯は眼を細めて見つめた。

 目鼻立ちも良いが、それ以上に、人間性が底を上げた笑い方だ。やさしく甘やかだが、決して軽くはない。辛苦に裏打ちされた、見る者の心を打つ笑顔かおだ。


 この笑顔を見るたびに、黎峯の心にはいつも歯止めがかかる。昔の明星は痩せてこそあれ、醜い少年ではなかった。そのように彼を見る己が醜かったのだと、そう自覚するからだ。

 綺麗な明星はこう言う。


「だから思う。やっぱり翠姫は、お師匠の息の根を止めるつもりはなかったんだよ。あれは夢を魅せるだけで、殺傷させる技じゃない。敵を無傷で無力化できる、優しい能力ちからだ」


 素敵な発想だ。でも甘い、と黎峯は思う。そしてそう思うことが——明星の甘さに警鐘を鳴らすことが、己の役目であると黎峯は認識していた。

 だから、厭味たらしく黎峯は言い返すのだ。


「甘いわね。動きを止めてから、あとで殺す気だったかもしれないじゃない」

「でも、少なくとも不帰の森では、翠姫はお師匠を置いて吊橋を渡ろうとしていた。その場で手にかけることだって、できたはずなのに」

「だから、それが甘いと言うのよ」


 手を緩めず、黎峯は告げる。甘さと無縁の言葉を投げる。


「きっと殺意はあったわ。あのときは急いでいたから、後回しにしただけ。凱夏の力を翠姫が見誤っただけの話よ」

「翠姫はそんなへましないさ。しかも、あのお師匠相手に後回しなんて、とてもとても。本気だったらあの時点で即、息の根を止めたはずだ。でも翠姫は、俺にもお師匠にもそういうつかい方はしなかった。殺すために獅青をつかったんじゃない、殺さないためにつかったんだよ。戦わずに済むなら、こんなに素敵な能力ちからはないと俺は思う」


 おめでたい明星の返答に、黎峯は頭痛を覚えて押し黙った。


 この男はどうしてこう毎度毎度、懲りもせずにこうなのか。もしやあれか、実は仏様の化身か何かなのか。あるいはその齢で、もう悟りを開いてしまったのだろうか。これは大変だ。すぐに寺を建立して監禁、いや祀って差し上げねば。


 意味もなく叫び散らしたい衝動を押さえつけて、黎峯は声を絞った。


「でも、翠姫のしたことをなんでもかんでもゆるすのは、どうかと思うわよ」

「そんな黎峯、ゆるすなんて俺は――……あ?」


 否定しかけて、明星は急にその場で立ち止まった。おとなしく手綱を引かれていた皇護も、主人に合わせて足を止める。


 何事かと黎峯が小首をかしげると、明星は突然、黎峯の前で両手を合わせた。ちょうど黎峯を拝むような格好である。意味がわからない。

 しかしそれも、明星の次なる台詞を聞いて腑に落ちた。


「すまん、黎峯様! 俺途中からずっと、黎峯様のことを呼び捨てにしてたよな⁉」


 明星の申告を受けて、黎峯も遅ればせながら気づいた。

 言われてみればそうだ。まったく違和感がなかったので、指摘されるまで気づかなかった。


「そうね。いつの間にか変わってたわね。どこからかしら?」

「多分、夢から戻ってからだ。お師匠はずっと黎峯様を名で呼んでたから、その名残で」


 頭を下げたまま明星が答える。「これからはちゃんと様つけてしゃべっから」と平身低頭して謝る明星に、黎峯はさらりと返した。


「別に、構いやしないわよ」

「いや、でも」


 過去、さんざ呼び捨てを嫌がっていた黎峯を憶えているのだろう。渋る明星を説得するために、黎峯は少しだけ本心を明かすことにした。

 なるべく平素を装って、なんでもないことのように言う。


わたしを名で呼んでくれる者は、今ではもうほとんどいないのよ。だから、そのままでいいわ」


 一応駄目押しで、「お母様にいただいた名なの。とても気に入ってるのよ」とつけ加えてみる。すると明星は、ふと真顔で黎峯の顔を見つめた。一拍置いて、彼独特の微笑とともに首肯する。


「わかった、黎峯」


 一丁前に男らしく応えた。

 まあ、偉そうに。でも誤解のなきよう。お姉さんなのはこちらである。

 立てた指を明星の鼻先に突きつけると、黎峯は唇を尖らせてこう言った。


「ただし。お前が『黎峯』と名指しで呼んでいいのは、今みたいに誰もいないときだけよ。余所よそでは新しい方の名で呼んでくれなきゃ困るわ」


 悪戯っぽく告げると、明星はまばたきをして黎峯に訊き返した。


「新しい方の名?」

「そう。いつも本名で呼ばわっていたら危険でしょう? 大きな城市まちに着いたら人だらけよ。どこで誰に聞かれるか知れたものじゃないわ。だから、新しい名を考えたの」


 数歩明星の前を行き、くるりと黎峯は身を返す。双肩に青空を背負い、両手をめいっぱい広げて、黎峯は宣言した。


「いいこと? わたしの名は『胡蝶こちょう』。様はいらない、ただの胡蝶。それがわたしの新しい名よ」


 自分で考え、自分で決めた名だ。

 賭けに負けた黎峯の、せめてもの意趣返し。


 明星が蝶になったのだから、自分だって絶対になってみせる。そのために、今しばらくは、己の足で祖国を歩きたい。そうして得た自分の言葉で臣に、民に訴えるのだ。いつの日か、この国の玉座に腰を下ろすために。


わたしだって、化けてやるわ。そこで見ておいでなさい」


 壮大な夢である。

 果てない夢である。

 しかればれもまたすなわち、胡蝶の夢なのだろう。




<胡蝶之夢 完>


このあとに、あとがきがあります!

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