終
「無理に民を慈しめとは言わんさ、黎峯」
出し抜けに凱夏がそう言ったのは、明星を拾った数日後のことだった。
意味がわからず、「は?」と訊き返した黎峯に、
「無理に民を慈しめとは申しません」
と、丁寧に言い換えて凱夏は繰り返す。
それを黎峯は鼻で笑った。
なあに、それ。お前それ、本気で言っているの?
「無論だとも。だが私は、民が困窮すれば良いと思っているわけではないぞ? 別段、愛おしんでもないものを愛おしむ演技をするくらいなら、それは不要だと言っている」
そのような心持ちでは、仮に黎峯が玉座を奪還したところで早晩、徒労に終わる。ならば己に正直に生きる方が、まだしも健全であろうと。
歪な信念は、かえって国を傾けるものだ、と凱夏は語る。
黎峯はそれを曲解して、まあそれは気が楽だわ、と厭味たらしく返した。
だったら正直に言うけれど、見ず知らずの民がどれだけ野垂れ死のうと、妾に害が及ばない限り知ったことじゃないわ。だってそんなの、妾のあずかり知らぬことだもの。
「そう言うと思った。そこまで飾らんと、いっそ心地良いな」
凱夏は屈託なく笑い、けれど続く言葉で唇を引き締めた。
「顔の見えん民を慈しむことなど、誰もできはしない。それは私もだ。何せ、顔が見えんのだからな。……個を愛せぬ者に、万民を愛することはできない」
へえそう。で? お前は結局、妾に何が言いたいのよ?
「黎峯。まずは明星を慈しんでくれ」
冗談じゃないわ、あんな醜い童。視界に入れるだけで吐き気がする。
「空を舞う蝶とて、蛹から羽化る前はああだろう?」
しれっと告げる凱夏が憎たらしい。黎峯はいらついて言い返した。
それが何よ。そんな安い説教で、この妾が改心するとでも思った?
「いいや、思わん」
答えて凱夏はにやりと笑い、「そこでだ、黎公主様」と慇懃無礼に持ちかけた。
「私と賭けをいたしませんか? 私は、明星に賭けましょう」
あれはいずれ、蝶に化けると。
*
その日、明星は朝から上機嫌だった。
理由は見当がつく。回復の目処が立った翠姫と一命を取りとめた司馬を、青州へ返品──もとい、送り返したからだ。
当初は朱州に引き取ってもらおうと思った黎峯だが、あの翠姫のことだ。まっとうな手続きを踏んで朱州へ来た可能性は限りなく低い。現在の翠姫の立場を鑑みても、ここは何もなかったものとして、青州に送り返すのが最良という決着がついた。
そうでなくとも、不安定なこの情勢だ。青州と朱州の諍いなぞ御免である。
邑の者も、仲間に死者を出して心中は辛いだろうに、そこは黎峯に同意してくれた。彼らは実に理性的に、手際よく事を運んでくれたと思う。
その屈強な精神と行動を目の当たりにするたびに、黎峯は凱夏の人を見る眼と、人望の厚さを思い知らされた。あれはこちらの耳に痛いことばかり口にする男だったが、今こうして振り返ると、苦しいときに決まって思い出されるのは凱夏の言葉だ。
(死んだら、賭けにならないじゃないの。莫迦者が)
じわ、と涙と自己嫌悪が込み上げて、慌てて黎峯は己の感情に蓋をした。
後悔と反省は、夜寝る前にする。昼はしない。それが黎峯の中の決まりだ。そうでもしないと、弱い自分は前へ進めない。立ち止まって俯いてしまう。
黎峯はこっそり、両手で頬を叩いた。しゃきっと気合を入れるためだ。これから自分は、あの怪物男を越える偉業を為さねばならない。気が遠くなりそうな大事業だが、これはもう決定事項である。生涯をかけ、子や孫に引き継がせてでも、黎峯はそれを達成するのだ。
とまあ、そんな風に色々根詰めて考えている最中だったので、
「翠姫、今ごろは青州に着いてっかなぁ」
横で呑気に呟くどたわけを、黎峯は眉根を寄せて睨みつけた。
「お前ねえ、いったい誰のせいで死にかけたか、わかって言っているの?」
「誰って――別に誰のせいってわけでもねぇだろ?」
「違う。翠姫とその下僕どもの仕業よ」
「手を下したのはそうでも、原因となった根っこの部分は違うだろ?」
その切り返しに、黎峯は苦い思いで口角を下げた。すぐに明星の言わんとすることを察したからだ。
つまり、翠姫たちは明星を殺したかったわけではなく、明星が翠姫の目的を阻んだからそうしたわけで、その目的はつまるところ、民のためである。手段は難ありだが、その志は正しい。では、明星が半殺しにされた原因とは民か? この国の未熟な政治体制か? 不甲斐ない黎峯か? それとも、黎峯を主上に選んだ王母だろうか?
突き詰めて考えれば悪者などいないではないかと、簡単に言えばそういう理屈である。
「俺は莫迦だからさ。単純に、翠姫が死ななかったことが嬉しいんだ」
人より牛とすれ違う機会が多い、田舎道。
皇護の手綱を引き、洒落た長靴でかつかつ歩きながら、このたわけ者はどん臭いことを言う。本当にもう、度し難いお人好しである。
どうやら明星の中では、つい最近まで寝台の住人だったことや、しばらくまともに歩くことも叶わなかった事実が、記憶から抹消されているようだ。
黎峯は明星の隣を歩きながら、これみよがしに盛大なため息をついた。
見てくれはこんなにも洒脱になったというのに、この明星は言うこと為すこと、ちっとも垢抜けない。
――そんな明星の愚かさに救われ、己は生かされているのだと、わかってはいるのだけれど。あり得ないほど優しくない明星なんて、そんなのはもう明星ではないと、わかってはいるのだけれど。
生来気性の悪い黎峯は、もどかしく思ってしまうのだ。叫び出したくなるのだ。お前はとんだ甘ちゃんよ、激甘なのよ。もっと自覚なさい、と。
「こういう輩はいつか、法か何かで保護してやらねば駄目ね。絶滅危惧種だわ」
視線を逸らし、わりと真剣に独りごちた黎峯に、
「ええ? あいつらが?」
もお~と近くで草を食む牛を見て、明星は頸を傾げた。
鋭い癖に、ときどき天然男である。
「なんでもないわ、独り言よ」
会話を打ち切り、黎峯はのどかな田園風景に意識を移した。説明する気などさらさらないが、仮に話してやったところで、本人は必ず否定するだろう。
こういうときは、さっさと思考を切り替えるに限る。
ふと顎を上げ、黎峯は天を仰いだ。
朱州は今日も快晴だ。良い天気である。このぶんなら、今年の作物の収穫は上向くだろう。とは言え、朱州はこの国きっての人口を誇る州だ。当分青州からの支援は継続されるに違いない。今回朱州に売った恩を上手く使えば、あの世渡り下手な翠姫も、青州の諸官を黙らせることができるだろう。
大体あの女は、良い政をするのにやり方が下手糞なのだ。潔癖なので、小悪を泳がせるということができない。ばんばん目障りな官吏を解雇するため、増産される敵の数に、味方が追いつかないのである。
(それもまあ、妾の文に眼を通せばなんとかなるでしょう)
宮中での身の立て方は、黎峯のお家芸だ。そのあたりの薀蓄を滔々としたためた文を翠姫に括りつけたので、読めばあの女も少しはやり方を改めるであろう、多分。
「なあ、黎峯」
考え中に、またもや明星が嘴を突っ込んできた。昔はよく空気を読む童だったのだが、それも成長して鈍ったのだろうか。
「何よ?」
つっけんどんに黎峯が訊くと、明星は端正な顔立ちに笑みを作って、
「今、翠姫のこと考えてなかったか?」
神がかった問いを発した。この、悟りの化物め。
「やっぱり黎峯も、本心じゃ翠姫のこと好きなんだよな?」
「莫迦おっしゃい。そんなわけないでしょう? 誰があんな野蛮な女。もう二度とお眼にかかりたくない程度には大嫌いよ」
「あはは。そっか」
何が「あはは」だ。なんだ、その見透かしたような態度は。
しかし、彼我の優劣を測ることには長けた黎峯である。自身の旗色の悪さを察知した黎峯は、早々に翠姫の話題を転じることにした。
「そういえば、明星。お前、翠姫に御技をかけられたわよね?」
御技とは、東西南北の四公が用いる神秘の能力のことだ。東方青州を司りし東嶽の宝、『獅青の槍』。その担い手は、対峙した者に決して逃れえぬ夢を魅せると云う。偽りの夢を与え、死へ誘うと。
しかし黎峯も、その具体的な効果までは知らない。逃れえぬ夢とは、いったいどのような夢なのだろうか。
「ねえ、お前はあのとき、どんな夢を魅たの?」
「ああー……」
明星は決まり悪そうに頭を掻くと、明後日の方角に眼を泳がせた。
珍しい。これは俄然、気になるではないか。
「何よ。隠し立てなんかせず、とっととおっしゃい。命令よ」
優位を確信した黎峯が命じると、明星は歯切れ悪くこう答えた。
「……お師匠に、なってた」
「は? 凱夏に?」
訊き直すと、明星は無言のまま顎を引く。
「凱夏の姿を借りて、なみいる敵を蹴散らすとか、そういうこと?」
言いながらも、確かにこれは爽快そうだと黎峯は思った。なにせ、凱夏はべらぼうに強かったので。
けれど明星は大きく腕を振って、黎峯の問いを否定した。
「違うんだ。そう言うんじゃなくってさ、俺は俺なんだ。なんて言うか、俺がお師匠になりきって、小っせえ俺や黎峯と旅をするって言うか……芝居をさせてくれた、って感じだったな」
「芝居?」
「そう。お師匠が俺を不帰の森で拾って、朱州へ逃がしてくれるまでのお芝居だ。その凱夏役を、大人の明星が演じる。で、最後まで演じ切ったらまた最初に戻る。そんな感じで、俺を物語の主人公にしてくれるんだよ」
なるほど、わかり易い例えだ。しかも言い回しを「凱夏が死ぬまで」ではなく、「逃がしてくれるまで」と、柔らかく置き換えている。黎峯への配慮だろう。
その好意をありがたく思いながら、黎峯は素知らぬ顔で明星に訊ねた。
「つまり御技が発動すると、その凱夏の芝居がずっと頭の中で繰り返される、ということ?」
「ああ。でも所詮、俺は代役だ。それらしく振る舞っても、当然本物には敵わない。それに俺の中には、『本当の配役と台本』の記憶が、中途半端に残っちまってたからな……。夢の中で現実だと思ってたことが夢で、夢だと思ってた記憶が、現実だった」
「ややこしいわね。つまるところ、凱夏の演技して楽しんでいたと、そういうことでしょう?」
「そういうことだな」
八重歯をみせて笑う明星を、黎峯は眼を細めて見つめた。
目鼻立ちも良いが、それ以上に、人間性が底を上げた笑い方だ。やさしく甘やかだが、決して軽くはない。辛苦に裏打ちされた、見る者の心を打つ笑顔だ。
この笑顔を見るたびに、黎峯の心にはいつも歯止めがかかる。昔の明星は痩せてこそあれ、醜い少年ではなかった。そのように彼を見る己が醜かったのだと、そう自覚するからだ。
綺麗な明星はこう言う。
「だから思う。やっぱり翠姫は、お師匠の息の根を止めるつもりはなかったんだよ。あれは夢を魅せるだけで、殺傷させる技じゃない。敵を無傷で無力化できる、優しい能力だ」
素敵な発想だ。でも甘い、と黎峯は思う。そしてそう思うことが——明星の甘さに警鐘を鳴らすことが、己の役目であると黎峯は認識していた。
だから、厭味たらしく黎峯は言い返すのだ。
「甘いわね。動きを止めてから、あとで殺す気だったかもしれないじゃない」
「でも、少なくとも不帰の森では、翠姫はお師匠を置いて吊橋を渡ろうとしていた。その場で手にかけることだって、できたはずなのに」
「だから、それが甘いと言うのよ」
手を緩めず、黎峯は告げる。甘さと無縁の言葉を投げる。
「きっと殺意はあったわ。あのときは急いでいたから、後回しにしただけ。凱夏の力を翠姫が見誤っただけの話よ」
「翠姫はそんなへましないさ。しかも、あのお師匠相手に後回しなんて、とてもとても。本気だったらあの時点で即、息の根を止めたはずだ。でも翠姫は、俺にもお師匠にもそういう遣い方はしなかった。殺すために獅青を遣ったんじゃない、殺さないために遣ったんだよ。戦わずに済むなら、こんなに素敵な能力はないと俺は思う」
おめでたい明星の返答に、黎峯は頭痛を覚えて押し黙った。
この男はどうしてこう毎度毎度、懲りもせずにこうなのか。もしやあれか、実は仏様の化身か何かなのか。あるいはその齢で、もう悟りを開いてしまったのだろうか。これは大変だ。すぐに寺を建立して監禁、いや祀って差し上げねば。
意味もなく叫び散らしたい衝動を押さえつけて、黎峯は声を絞った。
「でも、翠姫のしたことをなんでもかんでも赦すのは、どうかと思うわよ」
「そんな黎峯、赦すなんて俺は――……あ?」
否定しかけて、明星は急にその場で立ち止まった。おとなしく手綱を引かれていた皇護も、主人に合わせて足を止める。
何事かと黎峯が小首を傾げると、明星は突然、黎峯の前で両手を合わせた。ちょうど黎峯を拝むような格好である。意味がわからない。
しかしそれも、明星の次なる台詞を聞いて腑に落ちた。
「すまん、黎峯様! 俺途中からずっと、黎峯様のことを呼び捨てにしてたよな⁉」
明星の申告を受けて、黎峯も遅ればせながら気づいた。
言われてみればそうだ。まったく違和感がなかったので、指摘されるまで気づかなかった。
「そうね。いつの間にか変わってたわね。どこからかしら?」
「多分、夢から戻ってからだ。お師匠はずっと黎峯様を名で呼んでたから、その名残で」
頭を下げたまま明星が答える。「これからはちゃんと様つけて喋っから」と平身低頭して謝る明星に、黎峯はさらりと返した。
「別に、構いやしないわよ」
「いや、でも」
過去、さんざ呼び捨てを嫌がっていた黎峯を憶えているのだろう。渋る明星を説得するために、黎峯は少しだけ本心を明かすことにした。
なるべく平素を装って、なんでもないことのように言う。
「妾を名で呼んでくれる者は、今ではもうほとんどいないのよ。だから、そのままでいいわ」
一応駄目押しで、「お母様にいただいた名なの。とても気に入ってるのよ」とつけ加えてみる。すると明星は、ふと真顔で黎峯の顔を見つめた。一拍置いて、彼独特の微笑とともに首肯する。
「わかった、黎峯」
一丁前に男らしく応えた。
まあ、偉そうに。でも誤解のなきよう。お姉さんなのはこちらである。
立てた指を明星の鼻先に突きつけると、黎峯は唇を尖らせてこう言った。
「ただし。お前が『黎峯』と名指しで呼んでいいのは、今みたいに誰もいないときだけよ。余所では新しい方の名で呼んでくれなきゃ困るわ」
悪戯っぽく告げると、明星は瞬きをして黎峯に訊き返した。
「新しい方の名?」
「そう。いつも本名で呼ばわっていたら危険でしょう? 大きな城市に着いたら人だらけよ。どこで誰に聞かれるか知れたものじゃないわ。だから、新しい名を考えたの」
数歩明星の前を行き、くるりと黎峯は身を返す。双肩に青空を背負い、両手をめいっぱい広げて、黎峯は宣言した。
「いいこと? 妾の名は『胡蝶』。様はいらない、ただの胡蝶。それが妾の新しい名よ」
自分で考え、自分で決めた名だ。
賭けに負けた黎峯の、せめてもの意趣返し。
明星が蝶になったのだから、自分だって絶対になってみせる。そのために、今しばらくは、己の足で祖国を歩きたい。そうして得た自分の言葉で臣に、民に訴えるのだ。いつの日か、この国の玉座に腰を下ろすために。
「妾だって、化けてやるわ。そこで見ておいでなさい」
壮大な夢である。
果てない夢である。
然れば此れもまた即ち、胡蝶の夢なのだろう。
<胡蝶之夢 完>
このあとに、あとがきがあります!




