6-3
「お師匠って、龍だったのか?」
初耳である。
「あれが人なわけなかろうが! あやつは混血じゃ!」
「なんだ、そうだったのか……道理で、強えわけだ……」
「そうじゃ、龍は強い! じゃからのう、お前のような若輩は、決して龍に戦いを挑んではならんのじゃ! このたわけめ、身のほどをわきまえよ! 妾のことなぞ捨て置け!」
「そりゃ無理な相談だ。俺はお師匠の代わりに、黎峯を守るって――」
「かようなこと、凱夏は一言も言うておらぬわ、莫迦が!」
ぺし、と明星の額を叩いて黎峯は怒る。「でも」と明星が反駁しようとしたとき、横から小さな笑い声が聞こえてきた。
翠姫だった。
「っは、はは……こりゃ、とんだ道化だ……ねえ……」
眼尻に涙をため、今までの戦いが嘘のような弱々しい物言いだ。息も絶え絶えに黎峯を見上げると、翠姫は優しく眼元を和らげた。
「アンタの、勝ちだ……公主……」
どこか吹っ切れたような表情で、翠姫は血のついた唇を曲げる。
「良い、国を……皆に住み良い国を、作っておくれよ……黎公主」
強く胸に迫る、その末期の台詞を、
「何をたわけたことを言っているの? お前もやるのよ、一緒に」
言葉をもとに戻し、ばっさりと黎峯は両断した。
唖然とする翠姫と明星の前で、黎峯はごしごし眼を擦って立ち上がる。
「ああ、阿呆らしい。大莫迦者と莫迦な話をしていたら、なんだか妙に落ち着いてしまったわ。ねえ明星。お前、龍脈を突いたとか言っていたけど、翠姫は死ぬの?」
「あ、いや。位置は少しずらしたから、今から手当てすりゃあ、多分」
「助かるのね? ならば手当てをしましょう。妾も少しは医術の心得があるから、多分なんとかなるわ。明星、悪いけどお前は元気そうだから、後回しにするわよ」
「な……何故……?」
心底困惑した顔で、翠姫は問いかける。
口を開きかけた黎峯の頬に、ふっと黒い影が落ちた。何事かと影を仰いだ、黎峯の顔が凍りつく。明星がそちらを見ると、短刀を片手に、眼鏡をかけた男が立っていた。
司馬と呼ばれていた、翠姫の最後の部下。
頭脳労働専門で、武芸はからきしだという、龍。
「ご心配なく、黎公主」
予想に反した穏やかな笑顔で、司馬は黎峯に微笑みかけた。
「人の君も、どうぞご無理をなさらず。そう焦らずとも、公主に害は与えませんから」
飛鏢を出そうともがく明星にも、そんなことを言う。
こうしてまじまじ見ても、司馬の腹の内は読めない。信用できない男だ。
飛鏢に手をかけたまま警戒を解かない明星に、司馬は苦笑した。
「そう怖い顔をなさらないでください。私の目的は最初から公主ではなく、そちらのお嬢様なのですよ」
「お嬢様?」
「是。お嬢様です」
聞き返した明星に、司馬は視線で翠姫を示す。
明星の頭が遅れて、翠姫が先代東嶽公の実娘であることを思い出した。言動から察するに、この男は先代の東嶽からに仕えている龍なのだろう。
「いつか必ず、このような機会が訪れると信じておりましたよ。お嬢様」
司馬は、どことなく暗い瞳で翠姫を見下ろした。その口調に宿る不穏は感じ取れるものの、翠姫も彼の真意を図りかねているようだった。
「どういう……意味、だい?」
「お心当たりがありませんか。先代様の仇討ちですよ」
手にした短刀で陽光を弾き、司馬は淡々と告げる。
青白い翠姫の面に、理解の色が広がった。明星も、つい先日まで先代派と今代派で争っていた経緯を思い出した。どうやら司馬は、先代を支持する一派だったようだ。
「はっ……あの、糞親爺……臣下にだけは、好かれて、やがる……」
浅い呼吸の合間を縫い、翠姫はそんな憎まれ口を叩く。
一方の司馬は悠然とした態度を崩さず、流暢に舌を動かした。
「お嬢様が東嶽の座に就いてからと言うもの、我が州の金蔵は目減りする一方です。民のため、心血注いで先代様が積み上げた財を、お嬢様はわずか数十年で使い切ろうとしている。公主が手を下されないと言うなら、その罪は私が引き受けましょう。先代様が築かれた青州の安寧を、みすみす壊させはしません」
「そうかい……構わんよ。覚悟は……できてる」
ごっそりと力の抜けた、けれど彼女らしい不遜な物言いで、翠姫は瞼を下ろす。
司馬を牽制しようと、明星は飛鏢を握る手に力を込める。しかし明星が動く前に、別方向から鋭い制止が飛んだ。
「お止めなさい」
翠姫を庇うようにして、黎峯が立ちはだかった。
翠姫の瞼が持ち上がる。司馬は姫の行動に一瞬たじろいだものの、すぐに持ち直して軽薄な笑みを浮かべた。
「失礼、公主。今、なんとおっしゃいましたか?」
「あら、聞こえなかったの? 耳が遠いのね。『止めろ』と言ったのよ」
頬にかかる髪をかきあげ、黎峯が答える。
それに司馬は、いくぶん気色ばんだ声で黎峯に訊ねた。
「何故、そのようなことをおっしゃるのでしょう、黎公主?」
「何故って? そんなもの、翠姫が東嶽に相応しいからに決まってるじゃない」
「恐れながら、公主。世知に暗い貴女様に、一州を担う公の器量を見定めることは、いささか酷ではないかと――」
「口が過ぎるぞ、石頭」
一転して声色を変え、黎峯は司馬を睨め上げた。
有無を言わさぬ、他を圧倒する威厳を秘めた叱責だった。紛れもない王の風格に、明星は武器の構えも忘れて黎峯に魅入った。
居合わせた誰もが呆気にとられる中、黎峯は舌鋒鋭く司馬に切り込んだ。
「この十年。妾は市井に紛れ、朱州の民草とともに国の情勢を判じておったのじゃぞ? 貴様なぞより余程、民には通じておるわ。して、妾の知見ではな。これなる翠姫が東嶽となって以降、青州の人民の暮らしは劇的に向上しておる。それも、他州の追随を許さぬほどにのう」
「しかしながら公主。我が州の財は、年々恐ろしい速さで減り続けております」
「まだまだ、たんと残っておろうが。青州の官ともあろう者が、多少目減りした程度でぎゃあぎゃあ喚くな。見苦しい」
「ですが! この状態があと十年も続けば、我が州の財政は──」
「四、五年で、収益は増転換しような」
くすりと笑い、黎峯は司馬の語尾をつけ足す。このときばかりは長大な年月を髣髴とさせる、艶めいた仕草で黎峯はこう言った。
「ふふ。どうじゃ、妾と賭けをしてみるか。妾は、翠姫に賭けようぞ?」
気圧された司馬は、数歩後ずさると激しくかぶりを振った。
「ば――莫迦莫迦しい! 話にならない!」
短刀を突きつけ、動揺もあらわに司馬は唾を飛ばして叫ぶ。
「無学な公主の口車になぞ、この私が乗るものか! さっさとそこを退かんか、小娘ッ!」
「化けの皮が剥がれたか。まあ、ここでうぬが何を言おうが、それは個の自由じゃ。熟考の末の結論であるならば、妾もこれ以上口は出すまいて。……じゃがのう、最後にこれだけは言うておこうか」
ちら、と司馬の背後を一瞥して、
「我が村邑の民を見くびるでないぞ、司馬」
黎峯が言い終わる前に、鈍い打音が司馬を直撃した。自力で束縛を脱したらしい邑の青年が、農業用の鍬で司馬の頭を殴打したのである。
しかし。
(駄目だ、浅い)
龍を想定した戦闘訓練をこなしてきた明星は、すぐに邑人の詰めの甘さを見抜いた。
恐らく邑の青年は、無意識のうちに「鍬の刃を頭蓋に突き立てる」という凄惨な行為を避けたのだろう。善良な彼は至って人道的に、「鍬の柄の部分」で司馬を殴り倒した。
人ならこれでいい。人間相手なら、これで充分通じる。
だが龍を戦闘不能にするなら、人は相手を殺すくらいの気構えが要求される。
これでは逆効果だ。
武芸の心得もない龍に、こんな中途半端なことをすれば。
「下等な人間の分際で、全能なる龍を傷つけるとは……この無礼者がぁ‼」
明星の懸念は的中した。
司馬は箍が外れたように激昂し、腰を抜かした邑人に短刀を振るう。
すぐさま明星は、司馬めがけて飛鏢を打った。しかしその鏢は、別方向から飛んできた石飛礫によって弾かれる。
黎峯が足元にあった石を拾い、投げつけたのだ。
公主と言えど、黎峯も龍である。力はそこそこ強い。
黎峯の飛礫は明星の飛鏢を跳ね返し、あやまたず司馬の頭に命中した。二度にわたり直撃を喰らった司馬は、ばたりと顔から地面に突っ伏して倒れた。
「何をしておる! 早う逃げい!」
邑人を急き立てる黎峯に、司馬の血走った目玉がぎょろりと向いた。
「き、貴ッ様……凡愚な小娘の分際でぇぇえぇぇぇぇぇぇ――――――ッ‼」
鼻から下を血だらけにした司馬が、恐ろしく俊敏な動きで黎峯に肉薄した。
振りかぶられた司馬の短刀が、黎峯めがけて振り下ろされる。
「黎峯――――ッ‼」
全身の痛みも忘れて、明星は地を蹴った。
黎峯の腕を掴み、入れ替わるように姫を自分の背に移す。
理想としては、ここで明星も何かしらの防御を取りたかった。
だが、間に合わない。時間切れだ。
なんの手立ても打てぬまま、明星の胸に司馬の短刀が突き立てられた。
強打。
激痛と激震。
呼吸どころか、瞬間的に意識も吹っ飛ぶ。
時間差で頭が働き出した頃に、黎峯の絹を裂くような悲鳴が上がった。背中から倒れた明星を覆い隠すように、両手を広げた黎峯が抱きついてくる。
いけない、黎峯。
それじゃ敵の格好の的だ。
危ない。意味がない。逃げろ。
明星は退かそうともがいたが、黎峯はぴたりと寄り添って離れなかった。
「逃――……れ……ッ」
「動くでない! 喋るな‼」
頭ごなしに怒鳴りつけ、頸だけ回して黎峯は背後を見る。
そして再び明星に向き直ると、息がかかるほどの距離で叫んだ。
「案ずるな! 向こうは片付いた!」
そう告げた黎峯の後ろでは、司馬が邑の男衆にこっぴどく痛めつけられていた。二十人ぐらいいるだろうか。あれだけ人数をそろえれば、龍が相手でも安心だ。司馬はもともと、武芸に暗い。反撃されて窮地に陥る心配もないだろう。
緊張の糸が切れる。
明星は脱力して、間近にある黎峯の肩にもたれかかった。
「れ――ほ……俺は……だい――ぶ……から」
「煩い! 煩い煩い煩い、黙れっ!」
怒涛のお叱りを受けた。大丈夫だと伝えようにも、黎峯は聞く耳を持たない。傷口を確認しようと、鬼のような形相で外衣を引っぺがしにかかる。
そんな黎峯に、明星はなんだか胸がいっぱいになった。
「本当……大丈……だか、ら……」
「何が大丈夫じゃ、莫迦たれ! 大丈夫なわけなかろうが! あ、あれほど思い切り、心の臓に刃を立てられたのじゃぞ⁉ 大丈夫なわけ――」
大声で捲くし立てる黎峯の口が、明星の上着を剥いたところでぴたりと止まった。
(ほら。だから大丈夫だって言ったろ?)
黎峯の大きな瞳は、明星の心臓の上に釘づけになっている。
上を向いたままの明星には見えないが、呼吸に合わせで上下する胸の上には、金色の頸飾りがでんと乗っかっているはずだ。
十年前、黎峯から預かった、『黎宝珠の頸飾り』が。
ふっ、と短く黎峯は息を吹いた。岩のように硬かった顔が、泣き出す寸前の小童のようにくしゃりと歪む。決壊した。
「っく……ふわああぁぁぁん! ばか……明星のばかぁー‼」
ひたすら「ばか」を繰り返しながら、黎峯は親に置いて行かれた小童のように、わんわんと泣きじゃくった。事実、彼女は「置いて逝かれそう」になったのだ。
いつかの赤い夕日を思い出しながら、明星は黎峯に平謝りした。
「すまん……悪かった、黎峯」
「す、捨て置けとっ――妾はお前に、言うたじゃろうに!」
「すまん。身体が勝手に、動いちまった」
「ま、またっ……また、凱夏のように……死……かと――思、てっ」
「うん、ごめんな。またお師匠のときみたいな、つらい思いをさせるところだったよな」
べそをかいた子を宥める母親のような心地で、明星は辛抱強く黎峯に応じる。
さっきはうんと年上に見えたのに、今ではこっちが年長者のようだ。誇らしいような、くすぐったいような気持ちに明星が浸っていると、黎峯が涙声で訊ねた。
「ねえ、明星。今度は……今度こそ妾、ちゃんとできたかしら?」
何が、とは黎峯は言わなかった。言われずともわかった。
だから即答する。
「ああ。すげえよ、黎峯。お師匠もあの世で、きっと鼻高々だ」
「そう。良かった」
まぶしい笑顔を見せると、黎峯は奥に倒れていた翠姫に近づいた。翠姫は意識が朦朧としていたようだが、黎峯が近寄るとかすかに瞳を揺らし、姫を見上げた。
黎峯は、翠姫を覗き込むようにして告げた。
「死んでは駄目よ、翠姫。妾たちは生きねば。罪深いからこそ、最後の最後までみっともなく足掻いて、苦しんで……それでも生きるの。生きるのよ」
「そう……かい……」
黎峯の呼びかけに、翠姫は薄く微笑した。
「主命、確かに賜った……我が君よ……」
意識を失う直前、翠姫がそう呟くのを、明星は確かに耳にした。




