6-2
錘についた縄を『獅青の大刀』に絡め、翠姫の進撃を阻止する。
しかし、
「くどいぞ! 童!」
ぐい、と飛錘ごと身体を引っ張られた。
足が地面を離れ、身体がふわりと宙に浮く。翠姫の側から縄を操り、凧揚げに似た要領で明星を空に投げたのだ。
天地が逆転する。
頭上に赤い大地と、飛錘の縄を握る翠姫が見えた。
次に起こるであろう事態を、明星は正確に予測する。
右と左、どちらを犠牲にするか考えて、左を選択した。
どうせ左肩は、大虞との戦いで負傷している。
残すなら、無傷の右半身だ。
翠姫を円心として空を飛んでいた明星の身体が、頂点を通過する。
となれば、残りの弧を描いてあとは地面に叩きつけられるだけだ。
衝突する寸前、明星はむしるようにして外衣の中の『紐』を引いた。
空気嚢を展開。
そして、激突。
馬車に撥ね飛ばされたようなその衝撃に、明星は声にならない声で呻いた。
虎の子の空気嚢を駆使して、この損傷。深刻である。
左足が動かない、左大腿骨付近を負傷。加えて左腹部にも、無視できない重い痛みがある。端から左肩は諦めていたが、これは肋骨も何本か折れている可能性が高い。
今すぐ卒倒してしまいたい気分だったが、明星は死に物狂いで腕を動かした。激痛に耐え、萎んだ空気嚢を押しのけて、外衣の中から飛鏢を出す。
明星はがむしゃらに、金の気配を纏う翠姫に向けて飛鏢を打ち込んだ。どう考えても、悪手としか言えない一手である。
だが意外なことに、その一投は翠姫の歩みを阻んだ。
「がはっ⁉」
身を折って、翠姫は脇腹を押さえる。
明星の飛鏢は、奇跡的に翠姫の腹に当たったらしい。
素晴らしい偶然もあったものだ。
「我が公!」
すっかり存在を忘れていた司馬が、慌てて翠姫に駆け寄ろうとする。
その司馬とすれ違うようにして、黎峯がこちらに駆けてきた。
明星は渾身の力で、右の長靴の踵を地面に打ちつけた。吹き上げる白い煙幕に紛れ、黎峯の肩を借りて近くの厩に逃げる。倒れこむようにして飼料の藁に腰を下ろすと、明星は真っ先に黎峯に言った。
「俺は足手まといになる。独りで先に逃げろ、黎峯」
「嫌じゃ!」
声高に宣言すると、黎峯は声を潜めて再度、明星に拒絶を告げた。
「誰かを見捨てて逃げるのはもう真っ平じゃ! 逃げるのならば、お前とともに。でなければ、妾は死んでもここを動かん」
「駄目だ、それじゃ。そんなことされたら、お師匠に合わせる顔が──」
明星が言いかけたとき、翠姫の明朗な声が厩の中まで響いた。
「黎公主、どこに逃げたんだい! さっさと顔を出しな! 今なら苦しまずに死なせてやるよ! それとも、明星ともどもなぶり殺しにされたいかい⁉」
それを聞き、外へ身体を向けた黎峯の手を明星は引き寄せる。かろうじてまともに動く右手で、姫の頭を胸に抱え込んだ。
先方がこちらに気づいた様子はない。幸運にも牝馬の鳴き声で、こちらの会話は届かなかったようだ。
「我が公、ここは一つ一つ怪しい家屋をさらってみては?」
落ち着いた口調で司馬が提案する声が聞こえた。
あまり遠くへは逃げられなかったらしい。
敵は両名、かなり近い場所にいる。
「家を一つづつ探す? 莫迦言ってんじゃないよ。明星はともかく、公主は無傷だ。こっちにはアンタとアタシしかいないんだよ? 悠長に捜してる間に、とんずらこかれちまう」
「しかし、捨て置くでしょうか? あれほどの臣下を」
「捨てるさ。平気で捨てて逃げる。あの女なら。十年前もそうだった!」
冷静を欠いた声で、断定的に翠姫は吐き捨てた。
彼女らしからぬ、怒気と苛立ちを顕にした物言いだ。酷く気分が高揚している。激した龍特有の、箍が外れた状態にあるようだ。
まずい、と明星は胸中で冷や汗を流した。
こういうときの龍は危険だ。何をしでかすか、わかったものではない。
翠姫は自制がきく龍だったと記憶していたが、師匠の一件が引き合いに出され、抑制が解けてしまったようだ。翠姫にとっても、師匠の死は心の傷だったのだと明星は悟る。
「逃がしゃしないよ。あの公主はアタシが殺る。この機会を逃しちまったら、次は何年、何十年先になる? その間も、奴はのうのうと生き延びるんだ。その足に、無数の屍をこさえながらね。そんな毒婦、一日たりとも長く生かしてはおけん」
「しかし、この数の民家をどうやって」
困惑した風の司馬に、くすくすと翠姫の笑う声がした。
何かの一線を越えてしまったような雰囲気に、明星の背筋をさらなる悪寒が駆け抜ける。
「簡単なことさ。鼠が逃げたなら、まとめて住処を吹き飛ばしちまえばいい。身も隠せんほどにね」
翠姫が告げると、俄に空が翳った。日中の明るさが見る影もなく薄れ、入れ替わるように夜闇が広がる。
生暖かい風が、ぬるりと明星の頬を撫でてゆく。
わけもわからず、心臓の鼓動が早まった。
なんだ、どうした。
何が起ころうとしている。
「ま、まさか……」
腕の中で、黎峯が愕然とした呟きを落とす。その真意を訊ねる前に、遠雷にも似た地響きが明星の鼓膜を震わせた。
耳鳴りのような大気の振動。顔面に吹きつける風は、場違いに華やかだ。春風のような芳醇な香りが、明星の鼻腔をくすぐる。
直後、突き抜けるような凄まじい閃光が迸った。
明星は咄嗟に黎峯を庇った。厩の屋根が、今まで経験したこともない暴風によって吹き飛ばされる。黎峯を抱いて天を仰いだ明星は、その光景に言葉を失った。
天空で、無数の雷を孕んだ黒雲が塒を巻いている。その中心で、幻想的な青白い燐光を全身に纏った、青龍が出現していた。
人と同じ容の龍ではない。
遥か神代の時代より伝わる、彼らの真の姿だ。
その、まばゆいばかりの神々しさ。牡鹿の角と大蛇の胴。鷹の爪に、長髯をたくわえた顔つき。螺鈿のような鱗で光り輝く神体は、上空を見上げるほどの大きさを誇っている。
(これが、顕現……)
全なる龍が顕す、真の姿。
通常、血が薄れた近代の龍で、ここまで巨大な姿に転じることは不可能だ。
しかし、翠姫は齢二百に満たない若い龍で、その血統は文句のつけようがなく、濃い。
すべての条件を完璧に整えた、顕現可能な龍──本来、もっともその可能性を疑わなければならない存在だった。翠姫を敵に回した時点で、ほかの龍など気にしている場合ではなかったのだ、自分は。
しかし、こうなってしまってはもう遅い。
圧倒的な神威を前に、呼吸すらままならない。
ただ空を見上げるだけだった明星の瞳に、下界を見下ろす青龍の視線が重なった。
眼が合った。
見つかった。
絶望的な理解が駆け抜ける。
轟く龍の咆哮が、天地を震撼させた。鋭い牙がずらりと並ぶ、顎が開かれる。こちらに急降下する青龍を前に、明星は死を覚悟した。
ぼんやりと、今際の際の師匠を思い出す。死んだらあの世で、俺はまた師匠に会えるだろうか。師匠は、俺になんと言うだろう。怒られるだろうか。お前には期待していたのに、と失望されるだろうか。
後者の可能性が高いかもしれない、と明星は思った。
なにせ師匠は、人である明星に対し、あんなにも不遜極まりないことを平気で口にしていたのだから。
そう、師匠は──。
──お前のそれは龍を凌ぎ、
──やがては龍を打倒するだろう。
打倒。
龍を打倒。
龍を、討伐する。
落雷のような閃きが、明星の体内で爆ぜた。
そうだ。俺にはまだ、『あの力』があった。
「莫迦だな、俺は……」
弱々しい呟きが漏れる。
己の莫迦さ加減に、笑いが込み上げてきた。
何故こんなにも重要なことを、今の今まで失念していたのか。釈明させてもらうなら、不意打ちで再会した龍が顔見知りの翠姫で、直前までは獅青の『夢』を魅せられていた影響もあっただろう。
だが、まさかこんな形で、『この力』を試すことになろうとは。
こちらに迫る青龍に視線を投じたまま、明星は懐に手を入れる。
震える手で、飛鏢を一本取り出した。
二本目を出す余裕はないが、構わない。
言い伝えが正しいなら、これで充分なはずだ。
(伸るか、反るか)
明星は片肘を突いて上体を起こすと、投擲の体勢に入った。
青き龍はもう、眼と鼻の先にいる。
紅い双眸を厳しく眇め、明星は視た。
黄金色に輝く、金糸のごときその流れを。
龍の全身を包むように揺れる、鮮烈な光を。
その一点に向けて、明星は手にした飛鏢を打った。
──いけ。
恐れ多くも神の眷属を御前に、卑しき人の一投。
蟻が象に歯向かうような、無謀極まりない構図。
──討て。
飛翔する銀の刃は一路、細く揺らめく金糸を目指す。
長らく明星は、この金色の意味するところを知らずに生きてきた。この金糸が、自分の眼にしか視えていないということも、知らなかった。龍女は皆、その黄金の瞳と同じように、金の気配を漂わせているものだと思い込んでいたのだ。
龍の身を護るように流れる、この黄金色の糸は、その名を『龍脈』。
あるいは龍の命脈とも呼ぶ――龍の急所である。
青龍の絶叫が響いた。
世界に再び、穏やかな日輪の輝きが戻る。天変地異などなかったかのような鮮やかな青が、見上げた空一面に広がっていた。
黎峯は、明星の腕で呆然としている。少し離れたところに、人の姿に戻った翠姫が倒れていた。その手に握られていた『獅青の大刀』は、ただの棒切れのように彼女の足もとに転がっている。
龍脈を突かれた翠姫の容態は、胸元から肩口にざっくりと走る傷が致命傷となっていた。力なく地に横たえられた身体と、青褪めた顔。そして唇から流れる血液の量が、龍脈を突く威力の凄まじさを物語っていた。
あんな貧弱な攻撃で、この幕引き。
龍が恐怖するはずである。
「なんだっ……だい? 今、のは……?」
虫の息の翠姫が、瞳だけこちらに向けて訊ねた。
満身創痍の明星は、空元気の笑顔でそれに応じる。
「龍脈を突いた」
「りゅう……みゃく?」
問い返す翠姫に、明星はゆっくりと頷き返した。
「昔、生まれ里で俺は、男だったから捨てられた。男じゃ女の龍脈しか視えねぇから、使い勝手が悪いんだ。俺たちは常に、異性の龍の急所しか視えない。だから討師の里では、男より女が重用されるんだよ。翠姫みてぇな強ぇ龍女は、稀だからな」
「じゃ……あ、明星。お前は――」
「ああ。俺は『龍討師』だ」
真相を打ち明ける。
すると翠姫は彼女らしい、豪胆な笑みを浮かべて言った。
「そう……かい」
完敗だねえ、と天を仰ぐ翠姫に言葉をかけようとして、明星は堪え切れずに咳き込んだ。口元に添えた手が赤い。内蔵が少し傷ついているようだ。
「明星っ!」
時間が動き出したように、静止していた黎峯が声を上げた。
「待っておれ、すぐに手当てしてやる。じゃから死んではならん、死んではならんぞ。どこぞの師匠のように、妾の許可なく死ぬことは許さんからな!」
黎峯の瞳から涙があふれる。姫の頬を伝い落ちた雫は、朱色の地面に点々と濃い染みを作った。明星の血を拭おうとする指が、小刻みに震えている。
動転して昔の口調に戻ってしまった黎峯を見て、明星は笑った。早く安心させようと、努めて明るく黎峯に告げる。
「大丈夫だよ、黎峯。この程度の傷なら、まだ死なねぇから」
「莫迦者! 人はな、脆いのじゃ。とてもとても脆いのじゃ。もっと身を大事にせい。お前は凱夏と違うて、龍の血を一滴も継いでおらんのじゃぞ!」
黎峯はぼろぼろ泣きながら、明星を叱りつける。
明星はと言うと、明かされた事実に眼を瞬かせて訊ねた。