6-1
俺は、明星だ。
思い出したぞ、くそったれ。
「す――ッ、翠、姫ぃいぃぃいぃぃぃぃぃ――――――――ッ‼」
自分のものとは思えないような、ひび割れた音程の叫び。
あらん限りの力で吼えた途端、がくりと膝が折れた。
世界がちかちかと明滅を繰り返している。
全身から冷たい汗が吹き出す。
ここはどこだ。
翠姫はどこへ行った?
あれからどれだけ経ってる?
滝のように流れ落ちる疑問符に、思考が追いつかない。
身体を支えきれず、明星は地面に爪を立てて呻いた。
つち。てのひらに、やわい土の感触がある。
さらりとした、あかい色の土だ。
日はまだ、高い。明るい。
濃い、血の臭いがする。
と言うことは、
「――――――かぁ……ッ⁉」
意識が追いついたところで、明星は背後から敵の襲撃を受けた。
咽喉に棒状のものをあてがわれ、上体を引き上げられる。
強引に気道を塞がれて、呼吸が詰まった。
痛い。苦しい。
なんなんだ、こいつは誰だ?
明星が棒の間に指を割り入れたとき、耳元で女の罵声が弾けた。
「師匠が師匠なら、弟子も弟子だねえ! そろいもそろって化物だよ! こうもあっさり、獅青の力を退けるとは!」
すいき。
翠姫の声。
と言うことは、この棒みたいなものは『獅青の大刀』か。
己の洞察に、明星は唇の端を上げた。背中に回った翠姫の顔は見えないが、声の調子で相当余裕がないことはわかる。
(なんだ。この様子なら、まだそれほど刻は経っちゃいない)
直後だ。
ほぼ、直後。
技をかけられて、まだ間もない。
多分、あのときと同じだ。
師匠のときと、同じぐらいの誤差。
間に合った。刹那の夢を越えて、自分は間に合ったのだ。
「黎公主を出しな、明星! そうすりゃ命は助けてやる!」
切羽詰った声で翠姫が脅しつける。
大刀の柄が持ち上がり、さらに咽喉を絞め上げられる。
失神寸前になりながら、明星は必死で大刀の柄を押し返した。
「出す、わきゃ、ねぇだろ! それにもう、黎峯は、ここにはいない!」
あれから随分時間が経っている。少なくとも、黎峯はこの邑から脱出できているはずだ。
「もうここにはいない? だったら、ちょいと前まではここにいたのかい?」
暗い愉悦の滲む問いかけに、明星は己の失言を悟った。
「よくよく考えてみりゃあ、登場からして不自然だ。あんなに隠形の得意だったアンタが、桶を倒すなんてへま、するかねえ?」
「ちがッ……あれ、は……俺が――」
慌てて明星が否定しかけたところで、急激に翠姫の力が弱まった。
わけがわからないまま、明星は四つん這いになって肺に空気を送り込む。咳き込みながら肩越しに振り返ると、翠姫の呆然とした横顔があった。
何事かと、明星は翠姫の視線を追いかける。そして、絶句した。
目線の先に、見憶えのある少女がたたずんでいる。
莫迦な。どうして。
なんでまだここに、黎峯がいる?
朱州の青空を背負い、赤い大地に黎峯が立っていた。別れたときと変わらぬ尼姿で、陽光の下にその身をさらけ出している。
ただしもう、黎峯は震えてはいなかった。凛と力強い立ち姿で、燃えるような黄金の眼を翠姫に定めていた。黎峯は明星の視線に気づくとわずかに微笑み、瞳を翠姫に戻した。
「ありがとう、翠姫」
まず、黎峯はそう告げた。
清廉で潔い、感謝の言葉だった。
「妾、ずっと……これがしたかったの」
そう言い、公主はどこまでも晴れやかに笑う。
今にも泣き出しそうな、けれどしっかりした口調で。決然と。
それで明星は気づいてしまった。
十年前、黎峯が明星を見捨てたあの行為を、いまだに悔いていたことを。当事者の明星ですらとっくに忘れていたような出来事を、未だにだ。
黎峯は、気づいていないのだろうか。
師匠も明星も、そして恐らくは翠姫も。あのとき黎峯が取った行動を、責めてはいないということを。それが全員の共通認識として根底にあることを、彼女は知らないのだろうか。
命のやり取りなど知らず、苦労も知らず、周囲にただ愛され育てられた公主に、あの場で威厳を求めるのは無理がある。それは師匠も、翠姫も頭ではわかっていたはずだ。
武官じゃあるまいし、そのような教育を黎峯は受けていないのだから当然だ。どこの誰だって、自分の命は可愛い。会って間もないの赤の他人のために、身を投げ出せる者などそうはいない。期待を強いる方が酷というものである。
あれが普通だ。
あれが普通で、仕方がなかった。
それは師匠の死とて、同じことである。
誰もがそれで納得して、「ああ、やはり酷なことだった」と忘れ去っていたことを、黎峯だけが忘れなかった。「どうしようもなかった」「仕方がなかった」と、そんな当たり前の帰結を、黎峯だけが許さなかったのだ。
黎峯はこの瞬間まで、ひたすら自分と向き合ってきたのだろう。深い苦悶をおくびにも出さず、みずからの戒めとして。それこそ、血だらけになって痛みを抱きしめたまま――今日まで生きてきたのだ。
光の速さで、師が称えた明察と想像力で、それが明星にはわかった。
何故なら黎峯は、そういう女の子だから。
強くて、賢くて、不器用で、根はとても優しい娘だから。
「れ――ほ、逃げ……ッ」
危険を知らせようにも、呼びかけが小さ過ぎる。
畜生、息が足りない。空気を寄越せ。
焦る明星を差し置いて、黎峯は悠々と翠姫に向かい両手を広げた。
「さあ。お前の望み通り出てきてやったわよ。だから、明星の命は助けなさい」
まるで台本でも読み上げるように、すらすらと姫は要求する。見ようによっては厚顔とも取れるその態度に、翠姫はわななきながら声を張り上げた。
「黎公主、貴様……何故、それを十年前にできなかった⁉」
ざくりと、心を刻むような問いかけ。
痛烈無比なその批判を、黎峯は甘んじて受けた。
受け入れた上で、あくまで不遜に彼女は答える。
「それは無理な話ね」
「無理だと?」
唸るように言う翠姫に、黎峯は平然と頷いた。
「ええそう、無理。だって今の妾があるのは、凱夏が死んだおかげだもの。あれが死ななきゃ、こんなこと到底できなかったわ」
「なんだ、その横柄な言い草は? 黎公主、アンタ、凱夏がいったい誰を守るために死んじまったか、わかってて言ってんのかい⁉」
「翠姫ッ‼」
いつぞやの師匠に似た怒声が、明星の口から飛び出した。
誰かが誰かに対し、再起不能にしかねない一言を放ったときに、師匠が出していた声。過ぎた言の刃を諌める声。
しかし受け手である黎峯は、やはり強かった。
翠姫の振るう刃にも、己の過ちからも、彼女は眼を逸らさなかった。
「誰を守るために? 何を今さら」
黎峯は眼を伏せ、哀しく嗤う。
罪咎を真っ向から認め、自身への嫌悪と嘲笑を込めて。
「そんなの、妾のために決まってるじゃない。あれが、凱夏の天命だったのよ」
その、吐き捨てるように紡がれた言葉を。
その真意を、この場に居合わせたどれだけの者が汲み取れただろうか。
――必ず天命にしてみせる。無駄死にになど、決してしない。
――だからこそ、自分は俯かない。上に立つ者としての尊大さを貫く。
――その死に、自分が値するように。徹底して。
それは、開き直りなどでは決してなかった。彼女の気質をよく知る明星には、そんな黎峯の痛ましい決意が理解できた。
そして、同時に拙さも感じた。
(それじゃ駄目だ、黎峯)
その信念は、あまりにもわかりにくい。
もっと言葉と情理を尽くさねば、曲解を招く。
「……この、暗君が‼」
突き抜けるような翠姫の罵声が轟いた。
あの小娘は、友が命を捨ててまで託した遺志を嗤った。踏みにじった。
そう解釈した翠姫の心理にも、明星は同じように理解が及んだ。むしろ字面では、こちらの解釈の方が自然だ。翠姫を責められない。
「身のほども知らん、傲慢な小娘め! 冥土で凱夏に詫びるがいい‼」
明星を放り出して、翠姫は黎峯のもとへ向かおうとする。
「させるか!」
すかさず明星は、革帯に仕込んでおいた腰帯剣を抜いた。
この剣は携帯に特化した暗器で、刀身がぐにゃりと柔軟にしなるのが特徴だ。つまり、腰に剣を巻いたまま抜刀することができる。
明星は腰帯剣を抜きざま、翠姫の足に斬り込んだ。
まともな攻撃をしかけて、翠姫に敵うわけがない。
良くて足止め。足止めさえできればいい。
そんな明星の甘やかな攻撃は、いとも容易く翠姫に見切られた。
「ぬるい!」
一喝し、翠姫は素手で腰帯剣の刃を掴む。
ぶつりと力任せに刀身を引き千切ると、翠姫は『獅青の大刀』の石突を振り下ろした。間一髪で防御した腰帯剣の柄を叩き割り、大刀の柄が明星を殴打する。
痛恨の一撃。
瞼の裏に、特大の火花が乱れ飛ぶ。
それでもなんとか踏みとどまると、明星は翠姫に体当たりをかけた。
「アンタって子は!」
忌々しげに翠姫は舌打ち、明星の髪を掴んで腹に蹴りを入れる。
武門の龍に本気で蹴りを入れられれば、吐血してもおかしくない。加減されていたのだろう。それでも堪らず、明星は胃の中のものを嘔吐した。
翠姫は明星の外衣掴み上げると、片腕一本で宙に投げ飛ばした。受身もろくに取れずに着地した明星は、眩暈と打撲、強烈な吐き気に見舞われる。
(こなくそッ!)
最後は気合で、明星は顔面を押し上げた。
地震のようにぐらつく大地の先で、黄金色のきらめきが移動している。翠姫が姫に歩み寄ろうとしている。大刀が鈍く光り、刃に黎峯の姿を映し出した。
今から走ったところで、この身体では到底間に合わない。
(くそ、飛錘ッ!)
明星は大虞との戦闘で使用した、左袖の飛錘を打ち込んだ。




