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5-1

「これは、また……」


 磚造れんがづくりの門を見上げ、明星は顔をしかめた。

 邑の出入り口である。寝静まったような静寂と、人気のなさ。場にそぐわぬ火煙かえんの臭いが、侵入者の存在を色濃く示していた。


「明らかにおかしいわね。静か過ぎるもの」


 邑門ゆうもんにへばりつき、中の様子を窺いながら黎峯が言った。

 確かに、と明星も頷く。それほど邑は、不気味な静寂に包まれていた。


 このあたりの村邑そんゆうは、どこへ行っても賑やかなのが普通だ。大抵は家畜の鳴き声がひっきりなしに聞こえ、さらに小童こどもの笑い声などが重なって、日暮れまで喧騒が絶えないものである。


「家畜の方は、驚いてどっかに逃げたみたいだな」


 地面に残された豚と鶏の足跡を見て、明星は言った。このような邑では、小型の家畜は放し飼いになっていることが多い。


「あら、不思議ね。いったい何に驚いたのかしら? 確かめる必要があるわね」


 空々しい口調で黎峯がうそぶく。

 明星は嫌な予感を覚え、恐る恐る姫に訊ねた。


「黎峯様、まさか、『様子を見に行こう』とか言ったりしねぇよな?」

「言うわよ、言うに決まってるでしょ? 邑の者が心配じゃないの、お前は?」

「それは、もちろん。でもそれだと、黎峯様の身の安全が──あ、そうか。俺が一人で見に行くからさ、それまで姫様はどっかに隠れててくれ」

莫迦者ばかもの。このわたしが行かず、ほかの誰が行くと言うのよ?」


 力強く、どこか師を髣髴ほうふつとさせる叱咤しったを姫は放つ。


「でも、黎峯様。さすがにここは危険だし、俺が」

うるさい、黙りなさい。明星の癖に口ごたえするんじゃない」


 取りつく島もない。黎峯の気の強さは健在だ。

 そういえば、師匠も姫の強情っぱりには手を焼いていたなと明星は思い返す。


「大体お前は、ここの地理に疎いじゃない。わたしが同行した方が安全だわ。ということだから、行くわよ、明星。皇護を裏に置いて、わたしについてらっしゃい」


 言って、黎峯は小気味よく僧衣の裾を翻す。明星は姫に従い、慌てて皇護を門の裏手に繋いだ。少し奥まった場所なので、ここなら敵も発見しにくいだろう。


「できたわね? じゃあ出発するわよ」

「あ、ああ……」


 結局、姫に押し切られてしまう。

 当惑しながらも瞳に敬意を滲ませて、明星は黎峯を見つめた。


 これが、あの黎峯。日がな敵に怯え、一度ひとたび戦いが起きればがたがたと震えていた、あの姫君なのだろうか。この勇ましさは、いったいどこからくるのだろう。


「俺なんかより、やっぱり見違えたのは黎峯様の方だな」


 吐息のように明星は言葉を落とす。それを拾った黎峯は金の双眸を揺らし、物憂げな表情かおで明星を見上げた。

 黎峯は幾度となく繰り返された明星の賛辞を、今度は否定しなかった。何も言わずに視線をもとに戻す。硬く前を見据えたまま、姫は静かに頷いた。


「ええ、そうね。お前がそこまで言ってくれるなら、そうかもしれない。元手もとでがかかっているもの、当然だわ」

「元手?」

「お前とわたしでは、踏みにじってきた命の数が違う」


 もう、取り返しもつかないほどに──。

 口に出されなかった姫の真意を、この瞬間、明星は確信した。

 黎峯はやはり後悔し、深く己を恥じている。にもかかわらず、その気持ちを表には出さない。いつも斜に構えて、ともすると逆の意味に取られかねない発言を、平気で口にする。


 何故か。明星はこう解釈した。

 それが、黎峯がみずからに科した戒めなのだ、と。

 だとするなら──これだけは、彼女に明言しておかねばならない。


「俺はその信念を否定しない。けど一つだけ訂正させてくれ。少なくともお師匠は、踏みにじられたなんて思っちゃいない。絶対に」

「……ありがとう、明星」


 泣きそうな声で、囁くように姫は礼を返した。一度、金色こんじきの眼を閉じる。瞼を持ち上げると、すでに黎峯の表情は引き締められていた。


「行きましょう。明星、供をお願い」

「御意」


 頭を垂れると、明星は黎峯とともに邑門をくぐり抜けた。

 わざわざ目立つ通りを歩く必要はない。邑内に足を踏み入ると、明星たちは脇道に逸れた。木や壁伝いに身を隠しながら、慎重に足を運ぶ。通り過ぎる民家は特に荒らされた様子もなく、どこもがらんどうだ。家畜用と思われる水桶も道端に放置され、まるで神隠しのあとである。


 意外だな、と明星は思った。

 侵入者が現れたなら、もっと荒らされていそうなものだ。よほど相手の手際が良かったのか、人道的なのか。あるいはその両方かもしれない。


 焦げ臭いにおいは、邑の奥から漂っている。異臭と立ち昇る黒煙を頼りに、明星と黎峯は発生源を目指して歩いた。

 そのまま、民家を六つほど通り過ぎた頃だ。


「――が、惜し――、黎――の居――――しろ」


 切れ切れに、見知らぬ男のがなり声が聞こえてきた。


「黎峯様、ここからは俺を先に行かせてくれ」


 ここまできたら、黎峯に先導させるわけにはいかない。先回りするように明星は願い出た。本音を言うと黎峯には引き返してもらいたかったが、今までのやり取りを鑑みるに、姫は承服しないだろう。


「相手が龍なら、中には勘の鋭い奴がいるかもしれない。これ以上距離を詰めるなら、俺が間合いをとった方が安全だ」

「そう言えば、お前の隠形は凱夏すら出し抜くほどだったわね。いいでしょう。ここからはお前が先行なさい。わたしは後ろに付いていくわ」

「ありがとう。俺より前には出ないでくれ。音もなるたけ立てないように」

「お前に言われずともわかっているわ、その程度のこと」


 素っ気なく言い、黎峯は明星の背中に隠れた。明星の腰できょろきょろあたりを警戒するさまは、母猫の背に隠れる子猫か何かにしか見えない。可愛いものである。


「何をもたもたしてるの。早くお行きなさい」

「承知」


 笑いを堪えて、明星は姫の指示に従い、家畜小屋に向かった。小屋の中には数頭の馬がいる。これなら相手に気づかれにくい。小屋の壁伝いに、明星と黎峯はぐるりと反対側へ回り込んだ。


「この先は、広場よ」


 明星の袖を引いて、黎峯が耳打ちする。

 明星は小さく頷き返し、壁ごしに声のする方向を窺った。

 開けた空間がある。普段は集会などに使うのだろう。草を刈られて、赤土が剥き出しになった場所がぽっかりと空いている。


 中央には幾つもの人影があった。邑人むらびとたちだ。近くには侵入者と思しき、戎装じゅうそうの男が立っている。ちらりと見えた男の横顔には、見間違えようのない黄金おうごんの輝きがあった。


 戦慄が明星の背を走り抜ける。

 金の瞳。龍だ。

 龍兵と思われる男が、一、二、三――三名いる。

 そのうち一名が邑人むらびとを立たせ、手にした槍を突きつけていた。


 朱州の龍は、槍を好かない。特にこのような田舎は治安も良いので、警吏も武器は棍などで済ましてしまう。隣接州という位置関係、そして侵入者の得物が槍であることを考えても、彼らは青州から遣わされた刺客で間違いないだろう。


 なにせ、昔見た青州龍は、長柄ながえの不利な森の中でさえ、短槍で師匠と戦っていたくらいだ。武具に対する龍のこだわりは、生半可なものではない。


「どうした、さっさと言わぬか!」


 武装した年嵩としかさの龍が、三十ほどの邑人を一箇所に集めて恫喝する。

 奇妙なことに、広場に引っ立てられた邑人たちは皆、成人した男ばかりだった。仲間に聞いた話では、女小童おんなこどももそれなりにいるということだったが。どこか別の場所に囚われているのだろうか。


「――、――――」


 様子を見ていた一番若い外見の龍が、槍を持った年嵩としかさの龍に小声で話しかける。壮年の龍は無言で首肯すると、手にした槍で近くの邑人の胸を突いた。

 ずるり槍頭が引き抜かれ、その刃は別の邑人の頸に押し当てられる。


 そこから先は、勝手に手が動いた。

 明星の腰では、同じように広場を窺う姫の顔がある。

 くうに鮮血が飛び散る前に、明星は側にいた黎峯の両眼を塞いだ。


「は、離しなさい、明星。わたしは――わたしは、最後まで……っ」


 黎峯は震える指で、瞼を覆う明星の手をどかそうとする。

 それを明星は押し留めて言った。


「見なくていい」


 強く言い切り、再び広場に視線を戻す。

 邑人の亡骸に心で哀悼を捧げ、明星は敵の戦力を測った。今の動きを見る限り、敵は熟達した槍の遣い手だ。しかも龍。上等な身なりから高位の龍である可能性は高く、さらに複数である。


(最悪だな)


 これほど劣悪な状況は、今までお眼にかかったことがない。何が起ころうとも、戦闘だけは絶対に避けねばならない図式だった。明星とて本心では邑人を助けたいが、この場合はやむを得ない。


 何より、そのための明星である。こうした事態を回避するため、自分は姫のもとへ遣わされたのだ。どれほど多くの犠牲を払おうとも、ここで黎峯を失うわけにはいかなかった。


 この邑の民は全員、明星と立場を同じくする者たちだ。

 皆、最初から覚悟はできている。


(本当にすまない。みんな)


 黎峯を引きずってでも、明星がその場を離れようとしたときだった。


「もうやめな。ここの連中は、脅されたって口を割りゃあしないよ」


 ときが凍った。

 この旋律は忘れもしない。

 雄々しく、たおやかで奔放な、女の声。

 明星は戦慄した。驚愕で頭が真っ白になる。


 ――そんな、莫迦な。彼女は今や、一州を担う州公だぞ? あんな少ないともの数で、こんな朱州の片田舎に、いるわけがない。


 そう思う一方で、しかし明星は、「ああ、彼女ならあり得る」とすんなり納得もしていた。そう、彼女なら。みずから他州に乗り込んでくるくらいのこと、平気でやってのけるだろう。

 いつも大胆不敵で、唐突で。昔もそうだったじゃないか。


 ──東嶽自身も負傷したらしい。今は青州の医院で療養中だそうだ。


 違う、と明星は過去の自分の発言を撤回した。


(違う。療養中なんかじゃなかった。すべては俺たちを油断させるため、そういう名目で自由に動くための、虚報うそだった)


 ふと横を見れば、紙のように白い顔をした黎峯と眼が合った。姫にもわかったのだ。彼女が誰であるか。声だけで。

 恐る恐る、明星は広場を覗き込んだ。


 まず眼に飛び込んできたのは、長い黒髪だった。その中にある白い美貌と、金の瞳は記憶のまま。身につけた衣服ふくも相変わらずの男装で、相変わらずよく似合っている。青州らしい紺と金刺繍の戎装は、一州の主としては簡素だが、昔に比べるとだいぶ華やかになり、彼女の美しさを惹き立てていた。

 大刀を肩に担ぐその仕草も、泣きたくなるほど懐かしい。


 彼女、すなわち――青州東嶽公、翠姫。

 先ほどまで、翠姫は明星の死角にいたのだろう。さばさばとした足取りで広場の中央に立つと、翠姫は残る邑人たちの面相かおを見渡した。


「この邑の連中は、どいつも凱夏の朋輩ほうばいだろ? じゃあ無理さ。眼を見りゃわかる。人の命は短いんだ、無駄な殺生はおよし」

「では、民家を端から洗わせましょう。いずこかに、公主の手がかりがあるやも」


 思いのほか落ち着いた声で、若い精悍な顔立ちの龍が提案する。


「いいや、大虞だいぐ。それはない」


 青年姿の龍の名を呼び、翠姫は否定した。


「だからこそこいつらは、先に火をつけたんだよ。自分でね。アタシらが期待するようなもんは、今ごろみぃんな灰になっちまってるさ」


 陽射しを避けるように手をかざし、黒煙の昇る空を仰いで翠姫は言った。


「では、あちらの家屋に捕らえた者どもを――」

女小童おんなこどもに手を出すんじゃない。我が名においた命だ」

「は。御意にございます」


 翠姫の命に、大虞と呼ばれた青年は引き下がる。それで広場の空気はわずかに弛緩したが、こと明星に限って言えば、混乱の極致にあった。


 明星とて、必死に平静を保とうと努力はしている。だが先ほどから、師匠の顔がどうしても頭から離れない。あんな大怪我をして。でも、それでも吊橋を落としてくれて。真っ黒な谷底に溶けて消えた、師匠の残像が。


「あ……かっ、……はあっ……は……はっ……」


 苦しげな呼気が聞こえ、明星は背後を振り返った。過呼吸状態に陥ったらしい姫が、両手で胸元を押さえている。

 黎峯はよろよろと数歩後ずさり、そして、


 ごん。


 後ろに下げた姫の右足に、何かが当たった。


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