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4-5

「朱州の長、南天なんてん南嶽公(なんがくこう)。そこまで交渉下手な男だったとは記憶していないわ。温厚で優しい気質の持ち主よ。恐らく、みずから積極的にわたしを捕らえようとはしないはず。だから、そうね……『わたしに関する有力情報の提供』あたりが、落としどころとしては妥当かしら。まあ、今はそこまで焦ることはないでしょう」

「でも、黎峯様」

「わかってる。明日、むらを発ちましょう。手負いの東嶽が寝込んでいるうちにね。隠密であるお前が訪れたということは、そういうことなんでしょうし」

「じゃあ、すぐに」

「その前に」


 ぴ、と黎峯は人差し指を立て、それを横に倒した。なんの仕草だろうかとくびをかしげる明星に、黎峯は苦笑してそのひたいを軽く小突いた。


「お前も弟子なら、手ぐらい合わせて行きなさい。むらに直行せずにこちらへ来たということは、そのつもりだったのでしょう?」


 完全な不意打ちだった。黎峯の安否に気を取られ、すっかり忘れていたことだ。思いもかけなかった提案に、明星は不覚にも眼頭が熱くなった。


 本当に、いつの間に。いつから彼女は、こんな素敵な心配りができるようになったのだろう。背中を丸めて己の不運ばかり嘆いていたあの頃が、嘘のようだ。


 ――十年前を、明星は回想する。

 あのときの黎峯には、こういったものの言い方はできなかった。それ以前の問題として、彼女はこういった思慮に至れなかったのだ。


 何故ならそれは、龍である黎峯に『人間ひととして生きろ』という意味だったから。公主であった黎峯にとって、それは根本から認識をすげ替える作業だ。極端な言い方をすれば、ある日突然「人間をやめて家畜として生きろ」と言われたようなものである。


 人としての尊厳を捨て、明日から家畜として生きろと言われたなら。果たしてそのような理不尽に自分が耐えられるかどうか、明星には自信がない。

 しかし、黎峯はそれをやってのけたのだ。


(お師匠様……)


 十年前、翠姫と対峙した師匠の背中が眼裏まなうらに浮かんだ。翠姫の厳しい追求に、師が不敵に言い返した言葉を思い出した。

 ああ、師匠は、


 ――見解の違いだな。お前と私では、見ているものが違う……それだけだ。


 師匠はきっと、『これ』を見ていたのだ。

 天と師が見出した黎峯の資質とは、このことだったに違いない。


 満身創痍となりながらも一歩を踏み出す、この強靭な精神。あらゆる痛みを血だらけになって抱きしめ、離さず昇華する強さ。それこそが黎公主たる彼女の才であり、本質なのだ。


 幼い自分は、それを無意識に感じ取っていたのだろう。だから明星は、どんな暴言を受けても黎峯を嫌えなかったし、憎めなかった。自業自得と、見捨てることもできなかったのだ。


 だって彼女はもう、こんなにも傷だらけだから。

 やっとわかった。十年かけて。


(お師匠様には、かなわないよなぁ……)


 今さらながら、己の目指す山の偉大さを明星は痛感した。

 果たして人の短い一生で、自分はあのいただきを越えられるだろうか。越えられないまでも、せめて同じぐらいの高さには到達できるだろうか。

 あの賢明な、師のように。


「ちょっと、明星。さっきから何ぼうっと突っ立っているのよ?」


 黎峯は何も知らず、無垢な少女のように笑っている。


「ああ。すまん、黎峯様。ちょっとお師匠のこと考えてた」

「でしょうね、そんなことだろうと思ったわ。見てくれは垢抜けたのに、中身はちっとも変わらないのね。でも──」


 と、黎峯は語尾に否定を加えて、静かに笑いを収めた。


「でもまあ、見違えたわ、明星。折角ここまできたのだから、あの男にも見せておやりなさい。今のお前を見たら、凱夏もさぞかし驚くでしょうよ」


 微笑して告げる黎峯に、今度こそ明星は両手で顔を覆いたくなった。さすがにもういい大人なので、そこは意地でも平静を装ったが。


 まったく、末恐ろしい姫君だ。

 ただでさえ、こんなに参っているというのに。

 とどめとばかりに追い討ちをかけるのだから、始末に終えない。


「……ありがとう、黎峯様」


 万感の想いで告げ、明星は黎峯と連れ立って山道を歩き始めた。






 墓参りも済み、明星は黎峯とともに山道を引き返していた。

 邑の分岐点まで戻ると、憶えのある馬の嘶きが耳に届く。先ほど山中に置いてきた皇護が、主人の帰りを待っていた。


「お前、ずっとここで待っててくれたのか!」


 明星が駆け寄ると、皇護は誇らしげに鼻を鳴らして主人に擦り寄った。


「あら、賢い馬だこと。名はなんと言うの、明星?」

「ああ、こいつの名は『こう』って言うんだ」

「字は?」

「皇帝陛下の『皇』に、守護の『護』」

「では、名付け親はお前ね?」


 またしても姫に看破され、言葉に詰まる。黎峯はそんな明星の反応から自分の指摘が正しかったことを知り、満足気に微笑んだ。


「今、玉座はからじゃない。なのに『皇帝を守護しろ』と言うのはおかしいわ。ならばこれは次期皇帝、つまり『わたしを護れ』という意味でしょう。そんな甘っちょろい命名を一番しそうなのは──」


 言いながら、黎峯はじいっと明星に視線を注いだ。

 ……はい、御推察の通りです。

 明星は両手を挙げて、姫に降参の意を伝えた。


 見事な姫の推察には、ほとほと頭が下がる。勘が頼りの明星の読心など、彼女の足元にも及ばない。黎峯の言った通り、皇護の名は「皇帝れいほう守護まもるように」と明星がつけたものだった。


「黎峯様にかかったら、何もかも全部お見通しだな」

「何言ってるの。お前がわかり易いだけよ」


 さっぱりとした態度で黎峯は言う。謙遜には見えない。

 彼女とっては本当に造作もないことなのだろう。


「己を自覚なさい、明星。弟子が師にならうのは結構なことだけど、なんでもかんでも真似すれば良いというものでもないわよ?」


 言いながら、姫は明星の漆黒の外衣コートに眼を落とす。


「お、おっしゃる通りです……」

「ええ、精進なさい。じゃあ、皇護に乗せて頂戴」


 両手を広げた黎峯の意を汲み、明星は姫を抱き上げると、皇護の背に降ろした。

 護衛としては情けない限りだが、こういうことができるようになっただけでも、今は良しとしよう。


 明星は騎乗せず、皇護の手綱を引いて山道をたどった。山を下り切ると、前方にはなだらかな平地が出現する。このあたりは四方を山に囲まれた盆地で、米作りが盛んな地域だ。青空を背に朱州らしい個性的な形の奇山がそびえ、ささやかな集落と広大な農地が広がっている。黎峯の邑は、そんな集落の一つだった。


 明星が見た景色では、広い田圃たんぼの中にぽつんと置かれた赤が印象的だった。朱州という名の通り、このあたりは土色が赤く、民家の色も赤い。これは州民が赤を好むだけでなく、壁の造りがれんがを赤土で塗り固める手法だからだ。


「今年の稲はひでひでぇって聞いてたけど、ここはそんなに悪くなさそうだな」

「まあ、余所よそと比べればね。いい方ではあるけれど。でも、ほら」


 黎峯は馬上から、近くの田圃たんぼを指さした。近づいて見ると、確かに稲穂はどれも貧弱だ。色がくすんで、酷いものは黒く変色してしまっている。は総じて少なく、田圃たんぼの稲は櫛の歯が欠けたようにそこここで倒伏たおれていた。ここはましな方だと黎峯は説明したが、不作の影響は大きいようだ。


 こんなとき、師匠がいたらどうするだろうかと明星は考えた。蝦味えびあじの芋虫にしてもそうだが、師はどんな状況でも飲水のみみずや食料を完璧に調達した。中でも非常食に関する知識は豊富で、茸や野草の類はおろか、食べられる土や動物の糞の種類まで──ただし、これらは極めて不味いと念を押していたが──把握していた。


(お師匠がいたら、不作これにも何か対策を立てられたんだろうな)


 栓のない話だ。だが、どうしても考えてしまう。

 明星の発見が遅れた理由は、そんなことに思考を働かせていたせいでもあった。油断していたつもりはなかったが、気が緩んでいたこと否めない。

 よって、先に異変に気づいたのは黎峯だった。


「ねえ、明星。あれ」


 ふいに名を呼ばれる。明星は顔を上げた。

 姫の視線の先に、細々と空に立ち昇る黒煙こくえんが見える。煙の根本は赤い、黎峯の邑だ。山を降りた直後ときには見当たらなかったものである。


「ただの焚火、ってことはねぇかな?」

「色が気になる」


 短く、姫は断じる。


「田舎で焚火なんて珍しくもないけど、いつもは大抵白煙はくえんなの。あんなに真っ黒な色、最近見かけなかったから少し気になるわ」


 つまり、普段は燃やさないものを燃やしている可能性があるというわけだ。それでは、「普段燃やさないもの」とはいったい何か。この状況では、あまりよろしくない想像ばかり掻き立てられてしまう。


「わかった。ここからは警戒して行こう」

「そうね。杞憂で済めばそれでいいし」

「黎峯様、乗馬は?」

「できないことはないけれど、正直苦手よ」

「じゃあわりいけど、相乗りさせてもらっていいかな?」


 馬上の姫に伺いを立てる。

 明星に、師匠のような戦闘力はない。龍を相手取った戦闘となれば、せいぜい時間稼ぎが関の山である。危急の際は明星が敵を足止めし、黎峯が馬で逃げるのが最善だ。しかし不得手と言うなら、手綱は自分が引いた方がいい。

 この申し出を、黎峯は二つ返事で受け入れた。


「むしろ、わたしがお願いしたいくらいだわね。お乗りなさい」


 身体を前にずらして黎峯が場所を譲る。明星は黎峯の後ろでまたがると、手綱に手を伸ばしながらもう一度姫に謝った。


「ほんと悪い、黎峯様。安全が確認できたら、俺はすぐ降りるから」

「悪かないわよ、全然。お前は何をそんなに気にしているの?」

「いや、その……黎峯様、俺に触れられるの苦手だったろ?」


 告げると、黎峯からすうっと表情が消え失せた。

 あれ、と明星が戸惑っているうちに、低く黎峯が呟く。


「……吐気がするわね」

「そ、そうか? すまん、じゃあやっぱり降りた方が」

「違う、わたしに対してよ。ごめんなさい。昔、わたしが口にした下劣な発言は、一切忘れて頂戴」

「そんな、下劣だなんて俺は」

「忘れて。お願い。わたしの一生のお願いだから」


 語尾をもぎ取るように姫は繰り返した。明星の位置からは潤んでも見える瞳に、じくりと胸が痛む。けれどその反面、姫の心が嬉しくもあった。


「わかった、忘れる。でもそのへんについちゃ、俺はまったく気にしてねぇから。黎峯様も気に病まないでくれ。──俺の一生のお願いだから」


 黎峯ははっとして明星を振り仰いだ。驚きが支配していた顔が、やがて大輪の花のような笑顔に取って代わる。


「お前も女に甘いわねえ、師匠に似て。困ったものだわ」


 と、まったく困った風もなく笑う。

 そのかんばせに憂いがないことを認めてから、明星は急ぎ皇護を走らせた。


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