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「朱州の長、南天南嶽公。そこまで交渉下手な男だったとは記憶していないわ。温厚で優しい気質の持ち主よ。恐らく、みずから積極的に妾を捕らえようとはしないはず。だから、そうね……『妾に関する有力情報の提供』あたりが、落としどころとしては妥当かしら。まあ、今はそこまで焦ることはないでしょう」
「でも、黎峯様」
「わかってる。明日、邑を発ちましょう。手負いの東嶽が寝込んでいるうちにね。隠密であるお前が訪れたということは、そういうことなんでしょうし」
「じゃあ、すぐに」
「その前に」
ぴ、と黎峯は人差し指を立て、それを横に倒した。なんの仕草だろうかと頸をかしげる明星に、黎峯は苦笑してその額を軽く小突いた。
「お前も弟子なら、手ぐらい合わせて行きなさい。邑に直行せずにこちらへ来たということは、そのつもりだったのでしょう?」
完全な不意打ちだった。黎峯の安否に気を取られ、すっかり忘れていたことだ。思いもかけなかった提案に、明星は不覚にも眼頭が熱くなった。
本当に、いつの間に。いつから彼女は、こんな素敵な心配りができるようになったのだろう。背中を丸めて己の不運ばかり嘆いていたあの頃が、嘘のようだ。
――十年前を、明星は回想する。
あのときの黎峯には、こういったものの言い方はできなかった。それ以前の問題として、彼女はこういった思慮に至れなかったのだ。
何故ならそれは、龍である黎峯に『人間として生きろ』という意味だったから。公主であった黎峯にとって、それは根本から認識をすげ替える作業だ。極端な言い方をすれば、ある日突然「人間をやめて家畜として生きろ」と言われたようなものである。
人としての尊厳を捨て、明日から家畜として生きろと言われたなら。果たしてそのような理不尽に自分が耐えられるかどうか、明星には自信がない。
しかし、黎峯はそれをやってのけたのだ。
(お師匠様……)
十年前、翠姫と対峙した師匠の背中が眼裏に浮かんだ。翠姫の厳しい追求に、師が不敵に言い返した言葉を思い出した。
ああ、師匠は、
――見解の違いだな。お前と私では、見ているものが違う……それだけだ。
師匠はきっと、『これ』を見ていたのだ。
天と師が見出した黎峯の資質とは、このことだったに違いない。
満身創痍となりながらも一歩を踏み出す、この強靭な精神。あらゆる痛みを血だらけになって抱きしめ、離さず昇華する強さ。それこそが黎公主たる彼女の才であり、本質なのだ。
幼い自分は、それを無意識に感じ取っていたのだろう。だから明星は、どんな暴言を受けても黎峯を嫌えなかったし、憎めなかった。自業自得と、見捨てることもできなかったのだ。
だって彼女はもう、こんなにも傷だらけだから。
やっとわかった。十年かけて。
(お師匠様には、かなわないよなぁ……)
今さらながら、己の目指す山の偉大さを明星は痛感した。
果たして人の短い一生で、自分はあの頂を越えられるだろうか。越えられないまでも、せめて同じぐらいの高さには到達できるだろうか。
あの賢明な、師のように。
「ちょっと、明星。さっきから何ぼうっと突っ立っているのよ?」
黎峯は何も知らず、無垢な少女のように笑っている。
「ああ。すまん、黎峯様。ちょっとお師匠のこと考えてた」
「でしょうね、そんなことだろうと思ったわ。見てくれは垢抜けたのに、中身はちっとも変わらないのね。でも──」
と、黎峯は語尾に否定を加えて、静かに笑いを収めた。
「でもまあ、見違えたわ、明星。折角ここまできたのだから、あの男にも見せておやりなさい。今のお前を見たら、凱夏もさぞかし驚くでしょうよ」
微笑して告げる黎峯に、今度こそ明星は両手で顔を覆いたくなった。さすがにもういい大人なので、そこは意地でも平静を装ったが。
まったく、末恐ろしい姫君だ。
ただでさえ、こんなに参っているというのに。
とどめとばかりに追い討ちをかけるのだから、始末に終えない。
「……ありがとう、黎峯様」
万感の想いで告げ、明星は黎峯と連れ立って山道を歩き始めた。
墓参りも済み、明星は黎峯とともに山道を引き返していた。
邑の分岐点まで戻ると、憶えのある馬の嘶きが耳に届く。先ほど山中に置いてきた皇護が、主人の帰りを待っていた。
「お前、ずっとここで待っててくれたのか!」
明星が駆け寄ると、皇護は誇らしげに鼻を鳴らして主人に擦り寄った。
「あら、賢い馬だこと。名はなんと言うの、明星?」
「ああ、こいつの名は『皇護』って言うんだ」
「字は?」
「皇帝陛下の『皇』に、守護の『護』」
「では、名付け親はお前ね?」
またしても姫に看破され、言葉に詰まる。黎峯はそんな明星の反応から自分の指摘が正しかったことを知り、満足気に微笑んだ。
「今、玉座は空じゃない。なのに『皇帝を守護しろ』と言うのはおかしいわ。ならばこれは次期皇帝、つまり『妾を護れ』という意味でしょう。そんな甘っちょろい命名を一番しそうなのは──」
言いながら、黎峯はじいっと明星に視線を注いだ。
……はい、御推察の通りです。
明星は両手を挙げて、姫に降参の意を伝えた。
見事な姫の推察には、ほとほと頭が下がる。勘が頼りの明星の読心など、彼女の足元にも及ばない。黎峯の言った通り、皇護の名は「皇帝を守護るように」と明星がつけたものだった。
「黎峯様にかかったら、何もかも全部お見通しだな」
「何言ってるの。お前がわかり易いだけよ」
さっぱりとした態度で黎峯は言う。謙遜には見えない。
彼女とっては本当に造作もないことなのだろう。
「己を自覚なさい、明星。弟子が師に倣うのは結構なことだけど、なんでもかんでも真似すれば良いというものでもないわよ?」
言いながら、姫は明星の漆黒の外衣に眼を落とす。
「お、おっしゃる通りです……」
「ええ、精進なさい。じゃあ、皇護に乗せて頂戴」
両手を広げた黎峯の意を汲み、明星は姫を抱き上げると、皇護の背に降ろした。
護衛としては情けない限りだが、こういうことができるようになっただけでも、今は良しとしよう。
明星は騎乗せず、皇護の手綱を引いて山道をたどった。山を下り切ると、前方にはなだらかな平地が出現する。このあたりは四方を山に囲まれた盆地で、米作りが盛んな地域だ。青空を背に朱州らしい個性的な形の奇山がそびえ、ささやかな集落と広大な農地が広がっている。黎峯の邑は、そんな集落の一つだった。
明星が見た景色では、広い田圃の中にぽつんと置かれた赤が印象的だった。朱州という名の通り、このあたりは土色が赤く、民家の色も赤い。これは州民が赤を好むだけでなく、壁の造りが磚を赤土で塗り固める手法だからだ。
「今年の稲は酷ぇ酷ぇって聞いてたけど、ここはそんなに悪くなさそうだな」
「まあ、余所と比べればね。いい方ではあるけれど。でも、ほら」
黎峯は馬上から、近くの田圃を指さした。近づいて見ると、確かに稲穂はどれも貧弱だ。色がくすんで、酷いものは黒く変色してしまっている。実は総じて少なく、田圃の稲は櫛の歯が欠けたようにそこここで倒伏ていた。ここはましな方だと黎峯は説明したが、不作の影響は大きいようだ。
こんなとき、師匠がいたらどうするだろうかと明星は考えた。蝦味の芋虫にしてもそうだが、師はどんな状況でも飲水や食料を完璧に調達した。中でも非常食に関する知識は豊富で、茸や野草の類はおろか、食べられる土や動物の糞の種類まで──ただし、これらは極めて不味いと念を押していたが──把握していた。
(お師匠がいたら、不作にも何か対策を立てられたんだろうな)
栓のない話だ。だが、どうしても考えてしまう。
明星の発見が遅れた理由は、そんなことに思考を働かせていたせいでもあった。油断していたつもりはなかったが、気が緩んでいたこと否めない。
よって、先に異変に気づいたのは黎峯だった。
「ねえ、明星。あれ」
ふいに名を呼ばれる。明星は顔を上げた。
姫の視線の先に、細々と空に立ち昇る黒煙が見える。煙の根本は赤い、黎峯の邑だ。山を降りた直後には見当たらなかったものである。
「ただの焚火、ってことはねぇかな?」
「色が気になる」
短く、姫は断じる。
「田舎で焚火なんて珍しくもないけど、いつもは大抵白煙なの。あんなに真っ黒な色、最近見かけなかったから少し気になるわ」
つまり、普段は燃やさないものを燃やしている可能性があるというわけだ。それでは、「普段燃やさないもの」とはいったい何か。この状況では、あまりよろしくない想像ばかり掻き立てられてしまう。
「わかった。ここからは警戒して行こう」
「そうね。杞憂で済めばそれでいいし」
「黎峯様、乗馬は?」
「できないことはないけれど、正直苦手よ」
「じゃあ悪いけど、相乗りさせてもらっていいかな?」
馬上の姫に伺いを立てる。
明星に、師匠のような戦闘力はない。龍を相手取った戦闘となれば、せいぜい時間稼ぎが関の山である。危急の際は明星が敵を足止めし、黎峯が馬で逃げるのが最善だ。しかし不得手と言うなら、手綱は自分が引いた方がいい。
この申し出を、黎峯は二つ返事で受け入れた。
「むしろ、妾がお願いしたいくらいだわね。お乗りなさい」
身体を前にずらして黎峯が場所を譲る。明星は黎峯の後ろでまたがると、手綱に手を伸ばしながらもう一度姫に謝った。
「ほんと悪い、黎峯様。安全が確認できたら、俺はすぐ降りるから」
「悪かないわよ、全然。お前は何をそんなに気にしているの?」
「いや、その……黎峯様、俺に触れられるの苦手だったろ?」
告げると、黎峯からすうっと表情が消え失せた。
あれ、と明星が戸惑っているうちに、低く黎峯が呟く。
「……吐気がするわね」
「そ、そうか? すまん、じゃあやっぱり降りた方が」
「違う、妾に対してよ。ごめんなさい。昔、妾が口にした下劣な発言は、一切忘れて頂戴」
「そんな、下劣だなんて俺は」
「忘れて。お願い。妾の一生のお願いだから」
語尾をもぎ取るように姫は繰り返した。明星の位置からは潤んでも見える瞳に、じくりと胸が痛む。けれどその反面、姫の心が嬉しくもあった。
「わかった、忘れる。でもそのへんについちゃ、俺はまったく気にしてねぇから。黎峯様も気に病まないでくれ。──俺の一生のお願いだから」
黎峯ははっとして明星を振り仰いだ。驚きが支配していた顔が、やがて大輪の花のような笑顔に取って代わる。
「お前も女に甘いわねえ、師匠に似て。困ったものだわ」
と、まったく困った風もなく笑う。
その顔に憂いがないことを認めてから、明星は急ぎ皇護を走らせた。




