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4-4

「ああー、確がにこりはちげえ! いやあ、気づがねでわりがたな、黎峯様!」


 黎峯はぽかんと口を開けたまま、呆然と明星に見入った。

 数拍の間を置いたのち、


「ちょっ――歯っ! 歯を見せなさい歯を!」


 がっと両手で明星の顔を掴んだかと思うと、指の腹で唇を引っ張り上げる。


「はがッ⁉」


 最初は何事かと思った明星も、少し遅れてその意図に気づいた。

 そうか、八重歯だ。顔貌かおかたちは似せられても、歯並びまではそう変えられない。


 果たして黎峯は目当てのものを見つけたようで、数歩よろけるように後退すると、ぱくぱく口を開けたり閉じたりした。あと一押しという感じである。

 今のうちにと、明星は里言葉のままで口調を変えた理由わけを話した。


「いや、都に行っだら、まわりのやずらに『足もど見られっがらくぢ直せ』っで言われでな。んで、そっがらかれこれはず年ぐれえがな。ずうっと標準語ひょうずんごで喋ってだがら、おらもすっがり忘れでだんだ。最初っがらこっずで喋れば良がったんだな。ほんどにすまねぇ、黎峯様」

「で――ででっ、では、ほほ本当に、あの、明星なの……?」


 心なしか青褪めた顔で、黎峯がそろそろと明星に問いかける。

 ようやく姫に信じてもらえた安堵感で、明星は力いっぱい破顔して頷いた。


「んだ! 久すぶりだな、黎峯様!」

「っきゃ――――――――――――――っ‼」


 姫の絶叫が、朱州の山奥に響き渡った。


「え? れ、黎峯様?」

「う、嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ! わ、妾は認めぬ、認めんぞ! 何ゆえ明星が、あの明星がこっ、この、このような……け――っ」

微毛びけ? 黎峯様、落ちいでけろ。言葉こどばだけでそっだら驚ぐとは、おら夢にも思っでねぐて……黎峯様がこっずがいいんなら、ずっどさど言葉こどばで喋っがら」

「阿呆! 戻せ! すぐ戻せ! 今すぐ戻さぬか!」


 完全に姫口調に戻った黎峯に凄まれ、明星は身を仰け反らせた。

 駄目だ、姫の心がさっぱりわからない。仲間たちが言うところの読心術の腕は、前よりも鈍ったらしい。


「わ、わかった。戻す。これでいいか?」


 言われた通りにしてみるが、黎峯の錯乱が収まる気配はない。明星のげんなぞまるで耳に入ってない様子で、深刻そうにぶつぶつ呟いている。


「明星の癖に明星の癖に明星の癖に! 何ゆえかような、小洒落こじゃれたなりが似合におうておるのじゃ⁉」

「え? こざれた何が臭う? 風呂にはちゃんと入ったんだけどな、そんなに臭うか。すまん、黎峯様」

「そうじゃ謝れ! 敬え! 明星の分際で小洒落おってからに!」

「すまん、これからは『こざれ』んようにするよ。それで黎峯様、『こざれ』ってどういう意味――」

「うわああああ、訊くな莫迦もんが! 忘れろ! 今あったことはすべて忘れるのじゃ! 即刻、記憶の彼方に消し去れえっ‼」

「しょ、承知しました」


 明星はぎこちなく黎峯に頷く。

 姫は毛を逆立てた猫のように殺気立っていたが、やがて正気に戻ったようだ。長々と息を吐き出すと、足もとに転がる山賊に眼を落として黎峯は呟いた。


「……そういえば。この下郎ども、起き出したりしないわよね?」

「ああ。あの忘却薬くすり、見かけによらず結構強力なんだ。人間ひとなら丸一日起きらんねぇはずだから、そこは安心してくれ」

「そう、だったらいいわ。……取り乱して悪かったわね」

「いや。俺も紛らわしいことして、すまなかった」


 ごく自然に詫びた姫に返答した明星だが、内心では驚いていた。

 先ほどもそうだが、黎峯が明星相手に「悪かった」など、昔では考えられない台詞だ。やはり姫は成長している。確実に、それも良い方向へ。

 密かに明星が感動していると、黎峯は上目遣いにこちらを睨んで言った。


「ふん。図体だけは大きくなったじゃないの」

「はは! そっか。ありがとな、黎峯様」

「褒めてないわよ」


 仏頂面で言うも、愛らしさが先に立って微笑ましい。黎峯は腕を組んで瞳を眇めると、明星の全身を頭から爪先まで観察した。


「それにしても、化けたわね。随分と――万人受けする顔になったじゃない」

「そうか? やっぱり毎日(めし)が喰えるようになったからかな。あの頃は骸骨みてぇにがりっがりに痩せてたもんな。顔にも肉がついて、多少は変わるか」

「多少どころじゃ……まあ、いいわ」


 黎峯は何かを言いかけ、思い直したように口を噤む。

 多少どころでなく何なのか、明星は続きが気になったが、先手で姫が新たな衝撃を与える方が早かった。

 明日の天気でも訊くように黎峯は、


「それはそうとお前、伝令の任はいいの? ()()()()()()()()()()()()、遠路はるばるわたしに伝えにきたのでしょう? 役目をきちんと果たしなさいな」


 ──え?

 一瞬明星の思考が止まる。姫は今、なんと言った?

 的確に図星を指された明星は唖然として、黎峯の顔をまじまじと見、訊き返した。


「な、なんでそのこと……黎峯様は、朱州の政変について知ってたのか?」

「知らなかったわよ。今知ったわ」


 こともなげに言い、黎峯は髪をかき上げる。


「でも、虎の子のお前が単騎でわたしのもとへ寄越されたんだもの。何かがあったことぐらい想像はつくでしょう?」

「でも、それでわかるのは『何かあった』ってことだけだ。それだけじゃ朱州の政変まで、結びつけらんねぇだろ?」

「結びつけられるわよ」


 さも平然と、黎峯は言ってのけた。


「こんな、ど田舎にまで賊が出るほど朱州が不作なのは、お前に説明されなくてもわかるわ。たった今、えらい目に遭ったばかりだもの。かつてない大規模な飢饉へと拡大するのも、これじゃあ時間の問題ね。となれば、朱州は他州まわりに援助を頼むしかない。外交盛んな朱州と言えど、貿易だけじゃとても州民たみを賄い切れないもの。

 そして朱州を除く三州のうち、他所よそにまで物資を回す余裕があるのは、ただ一州──豊作続きの青州だけよ。で、()()()()()()()()()青州東嶽公は、無償でほいほい物資ものをくれてやるような慈善家ではないわ。朱州には必ず、なんらかの見返りを求めるはず」

「それが、継承問題における朱州の中立撤回……」


 明星が呟くと、黎峯は天を仰ぐようにしてそれに同意した。


「朱州の手札で、()()()()が一番欲しそうなものと言ったら、それぐらいしか思いつかないわね。ある程度予想はしていたけど、思ったより早かったわ」


 すらすらと論拠を述べる黎峯に、明星は賞賛のまなざしを送った。

 すげえ。黎峯様、ほんとすげえ。

 もうそれしか言えない。


「すげえな、黎峯様。いつの間にそんな、すらすら物事ものがわかるようになったんだ?」

「すごかないわよ、全然。わたしなんてまだまだだわ」

「いやいや、そんなことねぇって」


 否定する明星に、黎峯は複雑な笑みを返して瞳を伏せた。


「お前ね、あれからいったい何年経っていると思うの? 十年よ。それだけあれば、どんな莫迦ばかだって多少は知恵をつけるわ」


 ひねた、どこかせせら笑うような口調で黎峯は言う。

 これに明星は、強い既視感を持った。黎峯の、何かにつけて皮肉で返してしまう癖。素直になれず、つい肩肘を張ってしまう性分には憶えがある。


 しかし、決定的な相違点もあった。

 それは言葉の向かう矛先が、ほかならぬ彼女自身へと向いている点だ。その切れ味たるや、昔を凌ぐものがある。まるで自分の咽喉もとへ、刃の先端を押し当てるような──自傷じみた容赦のなさがあった。


「黎峯様、俺は」


 沈んだ声で言い差した明星を、黎峯は半ばで遮った。


「任をまっとうなさい、明星。ほかに何か、わたしに言うことは?」

「……青州でも、政変があった。今まで青州は先代東嶽派の官吏と、翠──今代の東嶽とで争ってたんだが、この問題が終結した。今代の勝利だ」

「なるほど、こちらは思ったより長引いたわね。さしものあの女も、まつりごとばかりは不得手とみえる。もっと順を追って反対勢力をけば、結果として早く終わらせられたでしょうに。いささか性急に過ぎる傾向があるわね、今代の東嶽は。ほかには?」

「その騒ぎで、東嶽自身も怪我をしたらしい。今は青州の医院で療養中だそうだ」

「まあ、それはめずらかなこと。あの化生に傷を負わせたのは、いったいどんな妖怪変化かしらね」

「黎峯様」

「冗談よ」


 芝居がかったしぐさで黎峯は肩をすくめる。

 何気ないその所作さえ、明星の眼にはどこか悲壮なものに映った。


 不安になる。彼女は確かにめざましい成長を遂げた。けれど黎峯は、過去の何もかもを自分の責だと考えてはいないだろうか。会話を重ねるほどに、姫が心配になってくる。


「黎峯様、邑に戻ったら明日にでもここを発とう。ぼやぼやしてると、朱州の方からも追っ手がきちまう」


 こうして黎峯と合流できたからには、長居は無用だ。立場の弱い朱州に留まるくらいなら、力の拮抗している他州へ逃げた方がまだ安全だ。仲間からも、状況如何(いかん)によっては黎峯を連れて逃げるよう指示を受けていた。

 しかしこれについても、黎峯の見解は明星と異なるようだった。


「東嶽はともかく、南嶽なんがくは追っ手など出しやしないわよ」


 明星の焦りを知ってか知らずか、姫はあくまで鷹揚に異議を唱えた。


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