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「…………は?」
今のはきっと幻聴に違いない、と自分に言い聞かせて黎峯に訊き返す。しかし恐ろしいことに、黎峯が明星のよく知る『黎峯さま』に戻る気配はなかった。
ほんのり頬を染め、恥らうように睫を伏せた少女は、どこをどう見ても記憶にある黎峯と一致しない。もしやこの十年の間に、姫は強く頭でも打ったのだろうか。だとしたら大変だ。
「あ、あの……ほんとに大丈夫か、黎峯様? その、頭を強く打ったとか……」
念のために訊いてみる。
黎峯は頸を横に振って言った。
「いいえ。おかげさまで傷一つ負っておりません。ご心配いただき、ありがとうございます」
いやいやいや。ここは黎峯ならば「助けが遅い、このたわけ者が!」だろう。そのはずだ、そうであるべきだ、絶対に。
しかし眼前の黎峯は罵るどころか、にっこり明星に笑いかけてすらいる。
(誰……?)
軽い恐慌状態に陥った明星は、顔から血の気を引かせて黎峯を見つめた。逆に黎峯は明星の視線を受け、ますます頬を赤らめる。
これは怒りの赤面だろうか。昔の姫を知っているだけに怖い情景だ。龍の十年など人の一年くらいの感覚でしかないと聞いていたのに、あれは流言だったのだろうか。俺は騙されたのか。
迷走する明星をよそに、黎峯は奥ゆかしく縮こまっている。やがて伏せていた瞳を揺らすと、姫はゆっくりと唇を開いた。
「あの、一つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「な、なんでしょう?」
応じる明星は限りなく硬い。
「貴殿の御名を、お聞かせ願えますか?」
キデンノミナヲ、オキカセネガエマスカ。
その問いを、明星はたっぷり十数えるほどの間、心で反芻した。
「……なんだ。そういうことか。びっくりした」
力が抜ける。ようやく謎が解けた明星は、その場でへなへなとうずくまった。
簡単な話だ。黎峯は単純に、明星があの『名無しの明星』だとわからなかっただけなのである。だからこんな、猫をかぶった態度だったのだ。
「あの、どうかなさいましたか?」
心配そうに黎峯が覗き込む。
それに、しゃがんだ明星は下から笑って名乗りを上げた。
「久しぶり、黎峯様。俺は明星だ」
「…………は?」
黎峯は、先ほどの明星とまったく同じ仕草で訊き返した。
「す、すみません。良く聞こえなかったようで……今、なんと?」
「俺は明星だよ」
「あ、アカフシ様、ですか?」
「違う、明星だよ。明けの星と書いて、明星。あ、か、ぼ、し」
「ま、まあ。そっ、それは奇遇な。妾の知り合いにも、同じ名の童が」
「それが俺だって。黎峯様、俺だよ俺。不帰の森で師匠に拾われた、明星だ」
「………………お前が、あの明星?」
「そう、その明星だ!」
立ち上がり、明星はどんと自分の胸を叩く。
それを見た黎峯は、たっぷり三十数えるほどの間、固まった。ぴくりとも動かない。硬直の長さに明星が心配になり始めた頃、ようやく黎峯は表情を改めた。
ふっ、と何もかも見透かしたような顔で、なんの前触れもなく、
「そう。明星は死んだのね」
と言う。
「は⁉ 死⁉」
「ふん。お前の考えていることなど、妾にはすべてお見通しよ!」
姫はいったい俺の何を見通しているんだろうか。
答えに窮する明星を尻目に、黎峯は「そらみたことか」と言わんばかりの勝ち誇った笑みを浮かべた。
どうにも状況が読めない明星だったが、黎峯自身は、かつて不帰の森を歩いたときの勝気な姫に戻っている。
「わかっているのよ。お前は妾がこの墓碑へくることを、最初から知っていたのでしょう?」
「いや、知らない」
初耳だ。
明星は正直に答えたが、黎峯はそれを一笑に付した。
「はん、あくまでとぼけるのね? いいわ、では続きを教えてあげる。ここで待ち伏せていたお前は、頃合を見てそこの下郎どもに妾を襲わせた。そう、お前とこの下郎どもは、共犯だったのよ!」
「俺がこいつらと共犯なら、なんで俺は仲間を倒しちまったんだ? 一緒に襲えばいいのに」
「莫迦ね。颯爽と妾を助けて、信用を得るためよ」
「ああ、なるほど」
ぽんと手を打ち、明星は頷く。
「でも、なんでそれで俺が死んだことになるんだ?」
「往生際の悪い男ね。お前がここへくる途中に、本物の明星を殺して成り代わったのでしょう⁉ そう、お前の正体は――妾の暗殺をもくろむ刺客よ!」
びしりと明星に指を突き立て、堂々と黎峯は言い放つ。
言い放たれた明星は、なんとなく遠い眼になってしまった。
そういえば師匠も昔、「黎峯は物事を決めつけてかかる傾向がある」と言っていた気がする。確かに、あり得なくはない話だ。
しかし今回の明星は、正真正銘の本物である。何故、このような推理が姫の中で形成されてしまったかは謎だが、誤解は早急に解かねばなるまい。
だが、どう説明したものか。
思案に暮れる明星をよそに、黎峯は勝者の笑みを浮かべ、さらに続けた。
「でも、残念。成り代わるには、お前は明星を知らな過ぎたわ」
「そ、そうか?」
「そうよ! いいこと? 明星はね、もうこの世のものとは思えないほど不潔で、野暮ったくて、田舎丸出しの、それはそれは見苦しい童だったの!」
姫の真っ正直な言葉の矢が、ぐさぐさと明星の身体に突き刺さった。
まったくもっておっしゃる通り。弁解の余地もない。
「それは……否定しない……」
「でしょう⁉ あれとは十年ほど顔を合わせてないけど、妾にはわかるわ。あんなに野暮ったかったんですもの。どうせ今も優しさだけが取り柄の、うだつの上がらない男に育っているはずだわ。だって、ねえ、あの明星なのよ? 間違ってもこんな――」
いったん言葉を切り、大きく息を吸い込むと、黎峯は声高に断言した。
「こんなに凛々しい、美男子になるわけないじゃない!」
「そ、そんなことねぇって! 今でも野暮天とか言われるぜ? ええと、あいつらなんてったかな。普段は莫迦みたいに鋭い癖に、色には鈍いとか、なんとか……」
ごにょごにょと反論を唱える明星に、業を煮やした黎峯は叫んだ。
「これでもまだしらを切るつもり⁉ いいわ、そっちがその気なら――明星の仇!」
護身用に所持していたらしい短刀を出し、黎峯は明星めがけて突進してくる。
いかん、姫は本気で俺を殺る気だ。
「ちょ! うわ、危ねッ」
突撃を紙一重でかわすと、明星は側面から黎峯の身体を押さえ込んだ。
姫の手首を掴み、ぺしっと短刀を叩き落とす。
「痛っ!」
「あ、すまん! そんな痛かったか?」
慌てて明星は身を離し、叩いた黎峯の手首を診た。骨に異常はないようだが、こんな華奢な手だ。腱を痛めているかもしれない。
念のために、と明星が外衣から軟膏を取り出しかけたところで、黎峯は奪うように自分の手を引いて後ろに下がった。姫のつぶらな金の眼は、依然として明星への敵意で満ちている。
「まいったな。どうすりゃ俺が明星だって信じてくれんだ、黎峯様?」
「ならば、証拠を見せなさい。お前が明星だという証拠を」
証拠と聞いてまず頭に浮かんだのは、姫から預かった『黎宝珠の頸飾り』だった。
「じゃあ、『黎宝珠の頸飾り』を――」
「駄目よ。そんなもの、明星を殺して奪ったらいいだけじゃない」
即座に却下される。
外衣の奥に腕を突っ込んだ状態で、明星の動きは止まった。
「だ、だったら顔は? よく見りゃ昔の面影が」
「ないわ。髪は染めればこと足りるし、瞳は――明星はわりと珍しい、紅い眼をしていたけれど。それだって探せば、同じ色の人間くらい見つかるでしょう」
「ええッ? 顔なんて変えてないんだけどな、俺。でもそうか、なら、うーん……あ! これはどうだ⁉」
明星はおもむろに、自身の前髪をかき上げた。明星の額を何気なく見た黎峯が、あっと小さく息を呑む。
額を横切るように走る、口減らしの傷跡。これなら疑うべくもない。
だが姫は、明星の意に反してすぐさま反証を並べた。
「それは……あとから傷をつけたのよ! そうよ、きっと前々から綿密に練られていた計画なのよ。それぐらい周到な用意をしていても、おかしくはないわ」
「ええ、これでも駄目なのか⁉ うあー、ほかになんかあったかな?」
両手で頭を搔き毟り、明星はうんうん唸る。
これは困った。まさか、自分が自分であることを疑われる日が来ようとは、夢にも思わなかった。もっと決定的な証拠はないだろうか。
十年前の記憶を片っ端からさらい、「ああでもない、こうでもない」と明星は頭を抱える。黙ってその様子を見つめていた黎峯は、決まり悪そうに視線を宙へ漂わせた。
「ほ、本当に、明星なら……」
散々迷った末、酷く言い辛そうに黎峯は切り出す。
「お前が本物の明星なら……あの言葉は、どうしたのよ?」
「あの言葉?」
何か、合言葉でもあっただろうか。
考えあぐねるうち、明星はついに思い出した。
そうか!
「あー、ほうが! こど『なまり』のごどが!」
明星は大声を上げて、ぱんっと自身の膝を打った。




