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4-2

 黎峯が身を潜めている邑は、朱州の片田舎だ。州都みやこを発ってもう二日経つため、人とすれ違う数もめっきり減っている。今、馬で駆けているところなど廃道も同然で、地面は少し土を踏み固めたといった程度。ときおり狐や狸が横切り、道中は半分獣道と化していた。このあたりでは最近追剥おいはぎが出ると聞くが、それも致し方ないことだと頷ける。


 高い金を出しても、長靴ブーツを履いてきて良かった、と明星は思った。

 今はまだ騎乗しているが、この二日間ほぼ走り通しである。そろそろ馬も音を上げる頃合いだ。そうなれば、今度は明星が歩かねばならない。普通の布靴くつでこの悪路は難儀だろう。


 最初は履き方も分からなかった編み紐の長靴ブーツは、今やすっかり明星の足に馴染んでいる。昔は「着る」と言うより「着られてる」感が満載だったこの長外衣ロングコートも、それなりに着こなせるようになった。今では明星の大のお気に入りだ。

 朱州の州都みやこではもっぱら臙脂色が流行している外衣コートだが、明星は師に倣い、黒を好んで着ている。


『それに黒い方が、汚れが目立たねぇしな! そのぶん洗濯回数が減って、長く着られるし』


 以前そんなことを言った明星を、仕立屋の主人はたいそう気に入ってくれた。おかげで今の外衣コートには、気を利かせてくれた主人の『仕掛け』がいくつか付与されていた。仕立屋のおっちゃんに感謝だ。


「どう!」


 二股の分かれ道に至り、明星はいったん馬を停止させた。

 道に迷ったわけではない。道順はしっかり脳味噌に叩き込んである。そもそもこのあたりまでなら、仲間に連れられて明星も何度か訪れたことがあった。


 明星は邑に続く道とは逆の、細い山道を眺めた。こちら側に進めば、志半ばで落命した仲間を祀る、墓碑がある。

 そして今日は、師匠の忌日めいにちだった。


「手だけでも合わせて行けりゃ良かったんだけどな、皇護こうご


 明星は愛馬に話しかける。皇護は明星に同意するように、低く鼻を鳴らした。


 寄り道したいのは山々だが、黎峯の身に危険が迫っている。この報せは一刻も早く、姫に届けねばならない。

 明星は騎乗したまま、墓碑のある方角に頭を下げた。師匠にはこれで勘弁してもらい、黎峯の待つ邑へ馬首を巡らそうとする。


 明星の耳が、かすかな悲鳴を拾ったのは、そのときだった。

 木立のざわめきにまぎれ、若い女の声が聞こえる。

 邑ではない、墓碑の方角だ。

 しかも、


(この声は──)


 閃くような予感があった。

 今日は師匠の忌日めいにちだ。多分間違いない。

 もう十年耳にしていない声だが、自信がある。


 気づけば明星は、墓碑に向けて皇護を全力疾走させていた。いくらも行かないうちに道幅は萎み、明星の行く手を阻む。墓碑は容易に悟られぬよう、やや奥まった場所にある。騎乗したままでは入れない。

 迷わず皇護から飛び降り、明星はひたすら先を急いだ。


「近寄らないで!」


 先ほどよりも間近く、少女の高い声がした。

 草叢を掻き分けて奥に進むと、若い尼が三人の男に囲まれている。顔も見えないその尼を視界に収めた瞬間、明星の推測は確信へと切り替わった。


 まばゆいばかりの、黄金こがねいろ。細く太く、たゆたう金糸を纏ったかのようなその姿。まるで「天上そらから舞い降りた天女様のようだ」と昔、明星が比喩した少女がそこにいた。


 明星は誇らしい気持ちで思う。

 ほら見たことか。やっぱり優しい姫じゃないか。


「黎峯様ッ!」


 深く考える前に、明星はその名を口にしていた。口走ったあとで己の迂闊さを悔やんだが、言ってしまったものはしょうがない。

 反省は後回しだ。今は、黎峯の救出が最優先である。

 間に割って入ると明星は姫を背に庇い、前方を睨まえた。


「あぁ? あんだ、てめぇは?」


 手前にいた、ひときわ体格がたいの良い男が話しかけてくる。こいつが頭目だろう。

 明星はまず真っ先に、男たちの双眸そうぼうへと視線を走らせた。


 頭目の眼は黒。そのほかの男も、色は黒か茶。

 龍ではない。人間だ。

 ならば追っ手の線も低くなる。山賊か何かだろう。


「割って入るたぁ、いい度胸じゃねぇか。おめぇ、なにもんだ?」

「賊に名乗る名はねぇよ」


 師匠にもらった大切な名だ。明星は言下に退ける。

 すると頭目は黄ばんだ前歯とともに、下卑た笑いを口に刻んだ。


 どちらかと言うと細身の明星とは異なり、頭目はかなりの巨漢だ。自身の優位を確信しているのだろう。手にはそりの強い曲刀をげ、子分は二人。わずかな手勢と雰囲気からして、生粋の賊ではない。農民崩れだろう。


 頭目は余裕の表情で明星を眺め回している。察するに、明星の外衣コートを売り飛ばす算段でもしているのだろう。確かにこれを売れば、賊の懐はかなり暖まる。


 明星が冷静に分析していると、背中からそっと寄り添う気配があった。ふわりと花のような芳香がぎる。

 横目でちらりと確認した。黎峯だ。

 まだ事態が呑み込めず、姫は怯えているようだった。「ようだった」と描写が曖昧なのは、明星には黎峯の表情かおが確認できなかったからだ。

 一見して龍と露見バレてしまう、金の眼を隠すためだろう。黎峯は尼僧姿の上に、頭からすっぽりと面紗ヴェールを被っていた。


 なるほど、尼ならこの格好も不自然ではない。良い着想だ。しかし本物の尼に扮するなら、黎峯は剃髪ぼうずにすべきなのだが──そこは姫も女の子だ。さすがに譲れなかったらしい。それでも、昔は踝まであった黎峯の黒髪は、ばっさりと背の中ほどで切られていた。


「おい、優男。女と身包み置いて行きゃあ、命だけは助けてやるぜ?」

 濁声が聞こえ、明星は再び意識を頭目に転じた。

「断る」

「はッ、威勢だけは一丁前な餓鬼だ! あとで吠え面かいても知らねぇぞ!」


 二十歳このとしになっても、まだ餓鬼呼ばわりされるか。

 明星は少々辟易しつつ、眼前の敵を見据えた。生粋の龍とは言え、黎峯は戦力に数えられない。三対一の構図である。


(でもま、これなら問題ねぇか)


 気がかりなのは黎峯の名を口にしてしまったことだが、これはあとで忘却薬を使えばすぐに忘れるだろう。ほんの一瞬のことであるし、薬で消し去れないほど強固な記憶でもないはずだ。もう忘れているかもしれないし。


(いつもはまずかしらを叩いて、逃げ出す奴は放っとくんだけどな。今回はそうもいかねぇから、とりあえず一人づつ倒して、薬を飲ませて──)


「──しねぇと……も、──ぞ? おい。てめぇ、聞いてんのかッ⁉」


 明星が今後の方針をまとめている間も、敵の口上は続いていたらしい。

 しびれを切らした頭目は、とうとう実力行使に踏み切る。

 頭上うえから垂直に振り下ろされた曲刀を、


「あ。すまん、忘れてた」


 のんびりと、造作もなく明星はかわした。

 さらに片足を引っかけ、頭目をごろんと地面に転がす。


「ぐぁ! てめえ――ッ」

わりぃな」


 怒号を飛ばしかけた頭目の股間を、明星は容赦なく踏み潰した。

 どご、と男にしかわからない悲惨な衝撃が走る。

 足裏になんとも居心地の悪い感触が伝わった。


 明星は外衣コートの中から小瓶を取り出すと、歯で栓を抜いた。泡を吹いて気絶した頭目の口に、忘却薬を一滴垂らし込む。

 よし、これでまずは一人。

 残りはあと二人だ。


「お、おかしら! てめえッ‼」


 手下のうち一人が、背後から剣で斬りかかってくる。

 明星は敵に背を見せたまま、くびだけ横に傾けてそれを避けた。


 これなら『仕掛け』を使うまでもない。明星は栓を咥えたまま蹴りを放ち、剣を持った手下はその一撃で気を失った。

 かくも人間相手は楽なもんである。

 明星は律儀に、その手下にも忘却薬を含ませた。


「ひいっ」


 恐らく、明星が毒を飲ませているとでも思ったのだろう。最後の手下は、あろうことか仲間を置いて逃げ出そうとする。けしからん奴だ。


 明星はその男の首根っこを掴むと、首筋に強烈な手刀を見舞ってやった。最後の手下にも忘却薬を飲まし、薬瓶に栓をして外衣コートの中にしまい込む。


 山賊を片付けた明星は「ふう」と出てもいない汗をぬぐい、息をついた。これで一件落着だ。出くわした男がただの人間で、それも三人だけで良かった。


 落ち着いたところで、明星はようやく黎峯に向き直った。視線を向けられ、わずかに黎峯がたじろぐ。戦闘のあとだ、怖がっているのかもしれない。

 明星は不用意に距離を詰めず、少し離れたところから姫に頭を下げた。


「出会い頭に不用意な発言しちまって、すまなかった。以後は気をつける」


 本来は丁重な礼でもって謝罪すべきなのだが、なにぶん「普段から敬語は使うな」と固く言いつけられている。黎峯を俗世に慣れさせ、万一のときに公主と悟られないための処置だ。


「ほんとにごめんな、怖い思いさせて」


 これ以上、失言を重ねるわけにはいかない。あえて気安い言葉を選び、明星はもう一度姫に謝った。


 黎峯の白い指先が動く。顔面を覆っていた面紗ヴェールを下ろすと、明るい金色こんじきの瞳でまじまじと明星を見上げた。陽の下に晒された姫の面差しは、幼い頃の明星の記憶そのままだったが、


(うわ、ちっさくなったなぁ)


 明星は胸裏でそんな感想を漏らした。

 まあ実際は、自分の方が大きくなっているのだが。なんとも不思議な心地だ。


 のほほんと感慨に耽っていた明星は、しかし次なる黎峯の行動に、度肝を抜かれることとなる。なんと黎峯が、あの気位の高い『黎峯さま』が、明星に向けてこうべを垂れたのだ。

 しかも、それだけではない。


「このたびは危ういところをお助けいただき、ありがとうございました」


 丁重な礼まで返ってくる。

 明星の思考は、停止した。


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