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黎峯が身を潜めている邑は、朱州の片田舎だ。州都を発ってもう二日経つため、人とすれ違う数もめっきり減っている。今、馬で駆けているところなど廃道も同然で、地面は少し土を踏み固めたといった程度。ときおり狐や狸が横切り、道中は半分獣道と化していた。このあたりでは最近追剥が出ると聞くが、それも致し方ないことだと頷ける。
高い金を出しても、長靴を履いてきて良かった、と明星は思った。
今はまだ騎乗しているが、この二日間ほぼ走り通しである。そろそろ馬も音を上げる頃合いだ。そうなれば、今度は明星が歩かねばならない。普通の布靴でこの悪路は難儀だろう。
最初は履き方も分からなかった編み紐の長靴は、今やすっかり明星の足に馴染んでいる。昔は「着る」と言うより「着られてる」感が満載だったこの長外衣も、それなりに着こなせるようになった。今では明星の大のお気に入りだ。
朱州の州都ではもっぱら臙脂色が流行している外衣だが、明星は師に倣い、黒を好んで着ている。
『それに黒い方が、汚れが目立たねぇしな! そのぶん洗濯回数が減って、長く着られるし』
以前そんなことを言った明星を、仕立屋の主人はたいそう気に入ってくれた。おかげで今の外衣には、気を利かせてくれた主人の『仕掛け』がいくつか付与されていた。仕立屋のおっちゃんに感謝だ。
「どう!」
二股の分かれ道に至り、明星はいったん馬を停止させた。
道に迷ったわけではない。道順はしっかり脳味噌に叩き込んである。そもそもこのあたりまでなら、仲間に連れられて明星も何度か訪れたことがあった。
明星は邑に続く道とは逆の、細い山道を眺めた。こちら側に進めば、志半ばで落命した仲間を祀る、墓碑がある。
そして今日は、師匠の忌日だった。
「手だけでも合わせて行けりゃ良かったんだけどな、皇護」
明星は愛馬に話しかける。皇護は明星に同意するように、低く鼻を鳴らした。
寄り道したいのは山々だが、黎峯の身に危険が迫っている。この報せは一刻も早く、姫に届けねばならない。
明星は騎乗したまま、墓碑のある方角に頭を下げた。師匠にはこれで勘弁してもらい、黎峯の待つ邑へ馬首を巡らそうとする。
明星の耳が、かすかな悲鳴を拾ったのは、そのときだった。
木立のざわめきにまぎれ、若い女の声が聞こえる。
邑ではない、墓碑の方角だ。
しかも、
(この声は──)
閃くような予感があった。
今日は師匠の忌日だ。多分間違いない。
もう十年耳にしていない声だが、自信がある。
気づけば明星は、墓碑に向けて皇護を全力疾走させていた。いくらも行かないうちに道幅は萎み、明星の行く手を阻む。墓碑は容易に悟られぬよう、やや奥まった場所にある。騎乗したままでは入れない。
迷わず皇護から飛び降り、明星はひたすら先を急いだ。
「近寄らないで!」
先ほどよりも間近く、少女の高い声がした。
草叢を掻き分けて奥に進むと、若い尼が三人の男に囲まれている。顔も見えないその尼を視界に収めた瞬間、明星の推測は確信へと切り替わった。
まばゆいばかりの、黄金色。細く太く、たゆたう金糸を纏ったかのようなその姿。まるで「天上から舞い降りた天女様のようだ」と昔、明星が比喩した少女がそこにいた。
明星は誇らしい気持ちで思う。
ほら見たことか。やっぱり優しい姫じゃないか。
「黎峯様ッ!」
深く考える前に、明星はその名を口にしていた。口走ったあとで己の迂闊さを悔やんだが、言ってしまったものはしょうがない。
反省は後回しだ。今は、黎峯の救出が最優先である。
間に割って入ると明星は姫を背に庇い、前方を睨まえた。
「あぁ? あんだ、てめぇは?」
手前にいた、ひときわ体格の良い男が話しかけてくる。こいつが頭目だろう。
明星はまず真っ先に、男たちの双眸へと視線を走らせた。
頭目の眼は黒。そのほかの男も、色は黒か茶。
龍ではない。人間だ。
ならば追っ手の線も低くなる。山賊か何かだろう。
「割って入るたぁ、いい度胸じゃねぇか。おめぇ、なに者だ?」
「賊に名乗る名はねぇよ」
師匠にもらった大切な名だ。明星は言下に退ける。
すると頭目は黄ばんだ前歯とともに、下卑た笑いを口に刻んだ。
どちらかと言うと細身の明星とは異なり、頭目はかなりの巨漢だ。自身の優位を確信しているのだろう。手にはそりの強い曲刀を提げ、子分は二人。わずかな手勢と雰囲気からして、生粋の賊ではない。農民崩れだろう。
頭目は余裕の表情で明星を眺め回している。察するに、明星の外衣を売り飛ばす算段でもしているのだろう。確かにこれを売れば、賊の懐はかなり暖まる。
明星が冷静に分析していると、背中からそっと寄り添う気配があった。ふわりと花のような芳香が過ぎる。
横目でちらりと確認した。黎峯だ。
まだ事態が呑み込めず、姫は怯えているようだった。「ようだった」と描写が曖昧なのは、明星には黎峯の表情が確認できなかったからだ。
一見して龍と露見てしまう、金の眼を隠すためだろう。黎峯は尼僧姿の上に、頭からすっぽりと面紗を被っていた。
なるほど、尼ならこの格好も不自然ではない。良い着想だ。しかし本物の尼に扮するなら、黎峯は剃髪にすべきなのだが──そこは姫も女の子だ。さすがに譲れなかったらしい。それでも、昔は踝まであった黎峯の黒髪は、ばっさりと背の中ほどで切られていた。
「おい、優男。女と身包み置いて行きゃあ、命だけは助けてやるぜ?」
濁声が聞こえ、明星は再び意識を頭目に転じた。
「断る」
「はッ、威勢だけは一丁前な餓鬼だ! あとで吠え面かいても知らねぇぞ!」
二十歳になっても、まだ餓鬼呼ばわりされるか。
明星は少々辟易しつつ、眼前の敵を見据えた。生粋の龍とは言え、黎峯は戦力に数えられない。三対一の構図である。
(でもま、これなら問題ねぇか)
気がかりなのは黎峯の名を口にしてしまったことだが、これはあとで忘却薬を使えばすぐに忘れるだろう。ほんの一瞬のことであるし、薬で消し去れないほど強固な記憶でもないはずだ。もう忘れているかもしれないし。
(いつもはまず頭を叩いて、逃げ出す奴は放っとくんだけどな。今回はそうもいかねぇから、とりあえず一人づつ倒して、薬を飲ませて──)
「──しねぇと……も、──ぞ? おい。てめぇ、聞いてんのかッ⁉」
明星が今後の方針をまとめている間も、敵の口上は続いていたらしい。
しびれを切らした頭目は、とうとう実力行使に踏み切る。
頭上から垂直に振り下ろされた曲刀を、
「あ。すまん、忘れてた」
のんびりと、造作もなく明星は躱した。
さらに片足を引っかけ、頭目をごろんと地面に転がす。
「ぐぁ! てめえ――ッ」
「悪ぃな」
怒号を飛ばしかけた頭目の股間を、明星は容赦なく踏み潰した。
どご、と男にしかわからない悲惨な衝撃が走る。
足裏になんとも居心地の悪い感触が伝わった。
明星は外衣の中から小瓶を取り出すと、歯で栓を抜いた。泡を吹いて気絶した頭目の口に、忘却薬を一滴垂らし込む。
よし、これでまずは一人。
残りはあと二人だ。
「お、お頭! てめえッ‼」
手下のうち一人が、背後から剣で斬りかかってくる。
明星は敵に背を見せたまま、頸だけ横に傾けてそれを避けた。
これなら『仕掛け』を使うまでもない。明星は栓を咥えたまま蹴りを放ち、剣を持った手下はその一撃で気を失った。
かくも人間相手は楽なもんである。
明星は律儀に、その手下にも忘却薬を含ませた。
「ひいっ」
恐らく、明星が毒を飲ませているとでも思ったのだろう。最後の手下は、あろうことか仲間を置いて逃げ出そうとする。けしからん奴だ。
明星はその男の首根っこを掴むと、首筋に強烈な手刀を見舞ってやった。最後の手下にも忘却薬を飲まし、薬瓶に栓をして外衣の中にしまい込む。
山賊を片付けた明星は「ふう」と出てもいない汗をぬぐい、息をついた。これで一件落着だ。出くわした男がただの人間で、それも三人だけで良かった。
落ち着いたところで、明星はようやく黎峯に向き直った。視線を向けられ、わずかに黎峯がたじろぐ。戦闘のあとだ、怖がっているのかもしれない。
明星は不用意に距離を詰めず、少し離れたところから姫に頭を下げた。
「出会い頭に不用意な発言しちまって、すまなかった。以後は気をつける」
本来は丁重な礼でもって謝罪すべきなのだが、なにぶん「普段から敬語は使うな」と固く言いつけられている。黎峯を俗世に慣れさせ、万一のときに公主と悟られないための処置だ。
「ほんとにごめんな、怖い思いさせて」
これ以上、失言を重ねるわけにはいかない。あえて気安い言葉を選び、明星はもう一度姫に謝った。
黎峯の白い指先が動く。顔面を覆っていた面紗を下ろすと、明るい金色の瞳でまじまじと明星を見上げた。陽の下に晒された姫の面差しは、幼い頃の明星の記憶そのままだったが、
(うわ、ちっさくなったなぁ)
明星は胸裏でそんな感想を漏らした。
まあ実際は、自分の方が大きくなっているのだが。なんとも不思議な心地だ。
のほほんと感慨に耽っていた明星は、しかし次なる黎峯の行動に、度肝を抜かれることとなる。なんと黎峯が、あの気位の高い『黎峯さま』が、明星に向けて頭を垂れたのだ。
しかも、それだけではない。
「このたびは危ういところをお助けいただき、ありがとうございました」
丁重な礼まで返ってくる。
明星の思考は、停止した。




