4-1
「明星、黎峯を連れて行け!」
鬼気迫る師匠の呼びかけ。
弾かれるようにして、明星は地を蹴った。
咽喉にあてがわれていた翠姫の刃は、もうない。それなのに足がもつれる。身体が震える。自由なはずの両足は、ちっとも明星の思い通りに動いてくれない。
ままならぬ我が身に焦りながら、転がるようにして明星は姫の元にたどり着いた。黎峯は心ここに在らずといった体で、ぼんやりと明星の背後を眺めている。
そこで繰り広げられている、師匠の死闘を見ている。
「黎峯さまッ! こっずだ!」
垂れ下がった姫の手を取り、明星は吊橋の方へ引っ張った。
「あ……」
小童のような吐息がこぼれた。潤む金色の瞳に、焦点が結ばれる。そこで初めて明星の存在に気づいたように、黎峯は白い相貌をこちらへ向けた。
「わ……わ、妾……っ」
たどたどしい仕草で、黎峯は色の抜けた唇を動かす。話した拍子に、ぼろりと大粒の涙が両の頬を流れて落ちた。
可哀想に。姫は自分なんかより、ずっとずっと傷ついている。本当はちゃんとなぐさめてあげたいけれど、でも。
明星は意を決して、自分の眼の高さにある黎峯の肩を掴んだ。
出会って以来、初めて姫に向かって声を荒げる。
「黎峯さま、お師匠が戦っでんだ! 早ぐ逃げねど!」
手を置いた黎峯の肩が、びくりと跳ねた。
姫は手の甲で涙をぬぐうと、地面に手をついて立ち上がる。
──ごめんな、黎峯さま。
心で謝りながら、明星は黎峯とともに吊橋へ急いだ。このときばかりは、明星も姫の心情を慮っている余裕はなかった。
だって、後ろでは師匠が、必死で戦ってくれているのだ。
あんなに、あんなにたくさん血を出して。
自分と、黎峯のために。
戦場で窮したときは駆け回れ、と言っていた師匠の言葉を思い出す。
戦いの場では、立ち止まってたら駄目なんだ。
動いて、走らなきゃ。
逃げなきゃ。
「黎峯さま、早ぐッ‼」
手と手を繋いで、黎峯と一緒に吊橋を渡る。
足もとには、底の見えない奈落が広がっていた。真っ黒な闇は、まるで不気味な生き物のようだ。上から落ちてくる獲物を待ち構え、大口を開けて潜んでいる。
不安定な足場は歩くたびに揺れたが、黎峯も明星も黙々と吊橋を進んだ。かつてない切羽詰った状況が、恐怖をすべて吹き飛ばしていた。
おぼつかない足取りで、けれど両者は確実に吊橋を渡ってゆく。
「くっそ! アンタって男は、ほんっと反則的な強さだねえ!」
突如響いた声に、明星は驚いて後ろを振り返る。
そこには大刀を片手に舌打ちする、翠姫の姿があった。
師匠は明星と黎峯を庇うように、こちらに背を向けて立っている。
「真性の化物め! それとも、その腹の傷はアタシの眼の錯覚かい?」
「まさか、本物だとも。今にも卒倒しそうなほど痛いが?」
脂汗をかいて応じる師匠に、「嘘こけ!」とすかさず翠姫が反論した。
「やはり、慢心はいかんな。いくら致命傷を与えたとは言え、相手は天武。格の違いは素直に認めて、小者は小者らしく戦うべきだ」
「天武……? それは買いかぶり過ぎだ、翠姫」
「いいや。アンタは自分の、度を越えた強さを理解していない。そして、そこが恐ろしい。悪いが、出し惜しみなしでやらせてもらうよ。チンタラしてたら、取り逃がしちまう」
眼だけ動かして、翠姫が一瞬こちらを見る。
ぞくり、と明星の頸筋に鳥肌が立った。すぐに身体の向きを戻し、黎峯の手を握り直す。とにかく早く、吊橋を渡ることだけに集中した。
「行くぞ、凱夏。――『獅青の槍』よ」
静かな森によく通る、翠姫の美声が響いた。
「我が名は史翠。東方の主、青龍の末裔なり。東天東嶽の名において命ず。『獅青の槍』よ、我に汝の力を示せ。其は糖蜜のごとく甘き夢。其は野に遊ぶ蝶なり」
吊橋を、渡り切った。
黎峯と一緒に、倒れ込むようにして明星は地面に転がった。
師匠……お師匠は?
後ろを振り返って、師匠をさがす。いた。
けれど師匠は動きを止めたまま、ぴくりとも動かない。
そんな師匠のもとに、大刀を担いだ翠姫は無造作に歩み寄った。
「一応、説明はしておこう。アタシはつい最近、東嶽になった。お前も知ってる親爺の急死、あれはアタシの仕業でね。昨今の飢饉やらなんやらで、やっとアイツの寝首をかく機会が訪れたもんだからさ。実行したら、次にアタシが東嶽になっちまった――」
淡々と語り、翠姫は視線を折り返してこちらに爪先を向ける。
「さあて。国土を荒らす、鼠を狩らないと」
明星は慌てて、となりにいる黎峯の衣服を掴んだ。
翠姫がこっちに来る。師匠を避けて、吊橋を渡ろうとしている。
明星が姫を急き立てようとしたとき、師匠の凄まじい咆哮が大気を切り裂いた。
「す――ッ、翠、姫ぃいぃぃいぃぃぃぃぃ――――――――ッ‼」
師匠が腕を伸ばして、翠姫の肩を掴む。
翠姫は手にした大刀で、師匠の頭を殴り飛ばした。
柄を回し、上から叩きつけるようにして大刀を振り下ろす。
今まで聞いたこともないような恐ろしい音が、師匠の身体から聞こえた。
師匠はもう、頸から上が真っ赤で。上半身も血で真っ赤で。
でも、それでも決して、抗うことを止めなかった。
「アンタって男は! 本当に、往生際が悪い奴だねっ‼」
叫ぶ翠姫に、師匠は無言のまま手にした飛刀を振り上げた。
掲げた飛刀は翠姫ではなく、吊橋の縄に突き立てる。
ぶつり、と吊橋の片側が切れ、大きく傾いだ。
意図を察した翠姫が、吊橋から離脱する。
師匠はもう、翠姫を見てはいなかった。
視えていないのかも知れない。
ただ独り吊橋に残り、先ほどと同じように反対側の縄を断つと、師匠は満足げに笑って膝を折った。
明星は夢中で師匠を呼んだ。けれど、実際に咽喉から出たのは汚い嗚咽だけだ。
師匠の身体が落ちてゆく。
闇に呑まれてゆく。
明星は崖の縁に身を乗り出して、声を張り上げた。
漆黒に身を預けていた師匠が、ふと、こちらに視線を向けた。
刹那を何十倍にも引き伸ばした世界で、明星は見た。
自分を見つめる師を。大好きな、榛色の瞳を。
頼む、と師匠に言われたような気がした。
私のあとを頼む。
黎峯を頼むと。
それが、明星が最後に眼にした『凱夏』の姿だった。
*
あれから十年経った。
十年かけて、ようやく黎峯と再会する機会を得た。
朱州の州都から、黎峯が暮らす邑へと続く道中。愛馬にまたがり、漆黒の外衣を背になびかせ、明星は黎峯との再会に胸を膨らませていた。
もちろん、これが遊びでないことは重々承知している。大事な報せを黎峯の元へ届ける、重要な任務である。
それでも明星は、黎峯との再会に心が浮き立つのを自覚せずにはいられなかった。伝令のことは念頭に置きつつも、ついつい「会ったらなんて言おう。姫は俺を見てなんて言うかな?」などと余計なことを考えてしまう。
さすがに、あの頃よりは自分も成長している。運が良ければ、「ふん、図体ばかりでかくなりおって」くらいのお褒めの言葉はもらえるかもしれない。
(あ。でもそういや、黎峯様も姫語は直したんだっけか……)
手綱を取りながら、明星は馬上で考えを改める。
昔、師匠がしきりに注意していた「なんとかじゃ」という口調はその後、矯正されたと聞く。ならば今は、「ふん。図体だけはでかくなったじゃないの、従僕」だろうか。
いずれにせよ、黎峯と直に会えることが明星は楽しみでならなかった。朱州の仲間にも嬉々としてそれを告げると、何故だか可哀想な子を見るようなまなざしを向けられた。
曰く、「お前の下僕根性って、筋金入りだよな」とのことである。
しかし明星に言わせれば、黎峯の言葉は辛辣なわりに、毒は薄い。大体あれは一種の自己防衛みたいなもので、素直さの裏返しなのだ。注意して見ていれば、それを本気で言ってるのか、虚勢を張っているだけなのかはすぐにわかる。
(それに、自分を正す心も姫は、ちゃんと備えてる)
昔、黎峯は師匠に一喝されると、決まって夜は声を殺して泣いていた。そうでない日も、母恋しさにすすり泣きしていたのを明星は知っている。そしてそんな夜を経るたびに、少しずつ姫の態度は和らいでいった。彼女が本当の暴君ならば、このような変化は起こらないはずだ。
黎峯は淋しがり屋で甘えん坊の、けれど根は素直で優しい姫君なのだ――と、明星のそんな主張は、残念なことにあまり周囲の賛同を得られなかった。
曰く、「そんなことがわかんのは、お前だけだ」とのことである。
これがどうにも明星は腑に落ちない。少なくとも十年前は翠姫と違い、姫の本心は明白だった。師匠もよく、「黎峯はわかり易い」と口にしていたものだ。仲間の前で反論すると差し障りがありそうだったので、否定はせずにおいたが。
しかし、思い起こしてみれば、師匠も仲間と似たようなことは言っていたかもしれない。「人間性が優れている」とか「賢い」だとか、師はおもに明星の内面を評価していた。明星本人としては、内面よりも武術の才を認めて欲しかったのだが──いかんせん嘘をつかない師匠だったので、そっち方面は芳しくない。天は人に二物を与えないのだ。
(いかんいかん。また余計なこと考えちまった)
軽く頭を振ると、明星は意識を山道に引き戻した。