表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/32

4-1

「明星、黎峯を連れて行け!」


 鬼気迫る師匠の呼びかけ。

 弾かれるようにして、明星は地を蹴った。

 咽喉のどにあてがわれていた翠姫の刃は、もうない。それなのに足がもつれる。身体が震える。自由なはずの両足は、ちっとも明星の思い通りに動いてくれない。


 ままならぬ我が身に焦りながら、転がるようにして明星は姫の元にたどり着いた。黎峯は心ここに在らずといったていで、ぼんやりと明星の背後を眺めている。

 そこで繰り広げられている、師匠の死闘たたかいを見ている。


「黎峯さまッ! こっずだ!」


 垂れ下がった姫の手を取り、明星は吊橋の方へ引っ張った。


「あ……」


 小童こどものような吐息がこぼれた。潤む金色こんじきの瞳に、焦点が結ばれる。そこで初めて明星の存在に気づいたように、黎峯は白い相貌をこちらへ向けた。


「わ……わ、わたし……っ」


 たどたどしい仕草で、黎峯は色の抜けた唇を動かす。話した拍子に、ぼろりと大粒の涙が両の頬を流れて落ちた。

 可哀想に。姫は自分なんかより、ずっとずっと傷ついている。本当はちゃんとなぐさめてあげたいけれど、でも。


 明星は意を決して、自分の眼の高さにある黎峯の肩を掴んだ。

 出会って以来、初めて姫に向かって声を荒げる。


「黎峯さま、お師匠がたたがっでんだ! 早ぐ逃げねど!」


 手を置いた黎峯の肩が、びくりと跳ねた。

 姫は手の甲で涙をぬぐうと、地面に手をついて立ち上がる。


 ──ごめんな、黎峯さま。

 心で謝りながら、明星は黎峯とともに吊橋へ急いだ。このときばかりは、明星も姫の心情を慮っている余裕はなかった。


 だって、後ろでは師匠が、必死で戦ってくれているのだ。

 あんなに、あんなにたくさん血を出して。

 自分と、黎峯のために。


 戦場いくさばで窮したときは駆け回れ、と言っていた師匠の言葉を思い出す。

 戦いの場では、立ち止まってたら駄目なんだ。

 動いて、走らなきゃ。

 逃げなきゃ。


「黎峯さま、早ぐッ‼」


 手と手を繋いで、黎峯と一緒に吊橋を渡る。

 足もとには、底の見えない奈落が広がっていた。真っ黒な闇は、まるで不気味な生き物のようだ。上から落ちてくる獲物を待ち構え、大口を開けて潜んでいる。


 不安定な足場は歩くたびに揺れたが、黎峯も明星も黙々と吊橋を進んだ。かつてない切羽詰った状況が、恐怖をすべて吹き飛ばしていた。

 おぼつかない足取りで、けれど両者は確実に吊橋を渡ってゆく。


「くっそ! アンタって男は、ほんっと反則的でたらめな強さだねえ!」


 突如響いた声に、明星は驚いて後ろを振り返る。

 そこには大刀を片手に舌打ちする、翠姫の姿があった。

 師匠は明星と黎峯を庇うように、こちらに背を向けて立っている。


「真性の化物バケモンめ! それとも、その腹の傷はアタシの眼の錯覚かい?」

「まさか、本物だとも。今にも卒倒しそうなほど痛いが?」


 脂汗をかいて応じる師匠に、「嘘こけ!」とすかさず翠姫が反論した。


「やはり、慢心はいかんな。いくら致命傷を与えたとは言え、相手は天武。格の違いは素直に認めて、小者は小者らしく戦うべきだ」

「天武……? それは買いかぶり過ぎだ、翠姫」

「いいや。アンタは自分の、度を越えた強さを理解していない。そして、そこが恐ろしい。悪いが、出し惜しみなしでやらせてもらうよ。チンタラしてたら、取り逃がしちまう」


 眼だけ動かして、翠姫が一瞬こちらを見る。

 ぞくり、と明星の頸筋に鳥肌が立った。すぐに身体の向きを戻し、黎峯の手を握り直す。とにかく早く、吊橋を渡ることだけに集中した。


「行くぞ、凱夏。――『獅青の槍』よ」


 静かな森によく通る、翠姫の美声が響いた。


「我が名は史翠。東方のぬし、青龍の末裔なり。東天とうてん東嶽とうがくの名において命ず。『獅青の槍』よ、我に汝の力を示せ。其は糖蜜のごとく甘き夢。其は野に遊ぶ蝶なり」


 吊橋はしを、渡り切った。

 黎峯と一緒に、倒れ込むようにして明星は地面に転がった。


 師匠……お師匠は?

 後ろを振り返って、師匠をさがす。いた。

 けれど師匠は動きを止めたまま、ぴくりとも動かない。

 そんな師匠のもとに、大刀を担いだ翠姫は無造作に歩み寄った。


「一応、説明はしておこう。アタシはつい最近、東嶽になった。お前も知ってる親爺じじいの急死、あれはアタシの仕業でね。昨今の飢饉やらなんやらで、やっとアイツの寝首をかく機会が訪れたもんだからさ。実行したら、次にアタシが東嶽になっちまった――」


 淡々と語り、翠姫は視線を折り返してこちらに爪先を向ける。


「さあて。国土を荒らす、鼠を狩らないと」


 明星は慌てて、となりにいる黎峯の衣服ふくを掴んだ。

 翠姫がこっちに来る。師匠をけて、吊橋を渡ろうとしている。

 明星が姫を急き立てようとしたとき、師匠の凄まじい咆哮が大気を切り裂いた。


「す――ッ、翠、姫ぃいぃぃいぃぃぃぃぃ――――――――ッ‼」


 師匠が腕を伸ばして、翠姫の肩を掴む。

 翠姫は手にした大刀で、師匠の頭を殴り飛ばした。

 柄を回し、上から叩きつけるようにして大刀を振り下ろす。


 今まで聞いたこともないような恐ろしい音が、師匠の身体から聞こえた。

 師匠はもう、頸から上が真っ赤で。上半身も血で真っ赤で。

 でも、それでも決して、抗うことを止めなかった。


「アンタって男は! 本当に、往生際が悪い奴だねっ‼」


 叫ぶ翠姫に、師匠は無言のまま手にした飛刀を振り上げた。

 掲げた飛刀は翠姫てきではなく、吊橋の縄に突き立てる。

 ぶつり、と吊橋の片側が切れ、大きくかしいだ。


 意図を察した翠姫が、吊橋から離脱する。

 師匠はもう、翠姫を見てはいなかった。

 視えていないのかも知れない。


 ただ独り吊橋に残り、先ほどと同じように反対側の縄を断つと、師匠は満足げに笑って膝を折った。

 明星は夢中で師匠を呼んだ。けれど、実際に咽喉から出たのは汚い嗚咽だけだ。


 師匠の身体が落ちてゆく。

 闇に呑まれてゆく。

 明星は崖のふちに身を乗り出して、声を張り上げた。

 漆黒に身を預けていた師匠が、ふと、こちらに視線を向けた。

 刹那を何十倍にも引き伸ばした世界で、明星は見た。

 自分を見つめる師を。大好きな、榛色の瞳を。


 頼む、と師匠に言われたような気がした。

 私のあとを頼む。

 黎峯を頼むと。

 それが、明星が最後に眼にした『凱夏』の姿だった。





 あれから十年経った。

 十年かけて、ようやく黎峯と再会する機会を得た。


 朱州の州都みやこから、黎峯が暮らすむらへと続く道中。愛馬にまたがり、漆黒の外衣コートを背になびかせ、明星は黎峯との再会に胸を膨らませていた。


 もちろん、これが遊びでないことは重々承知している。大事なしらせを黎峯の元へ届ける、重要な任務である。

 それでも明星は、黎峯との再会に心が浮き立つのを自覚せずにはいられなかった。伝令のことは念頭あたまに置きつつも、ついつい「会ったらなんて言おう。姫は俺を見てなんて言うかな?」などと余計なことを考えてしまう。


 さすがに、あの頃よりは自分も成長している。運が良ければ、「ふん、図体ばかりでかくなりおって」くらいのお褒めの言葉はもらえるかもしれない。


(あ。でもそういや、黎峯様も姫語は直したんだっけか……)


 手綱を取りながら、明星は馬上で考えを改める。

 昔、師匠がしきりに注意していた「なんとかじゃ」という口調はその後、矯正されたと聞く。ならば今は、「ふん。図体だけはでかくなったじゃないの、従僕」だろうか。


 いずれにせよ、黎峯と直に会えることが明星は楽しみでならなかった。朱州の仲間にも嬉々としてそれを告げると、何故だか可哀想な子を見るようなまなざしを向けられた。


 曰く、「お前の下僕根性って、筋金入りだよな」とのことである。

 しかし明星に言わせれば、黎峯の言葉は辛辣なわりに、毒は薄い。大体あれは一種の自己防衛みたいなもので、素直さの裏返しなのだ。注意して見ていれば、それを本気で言ってるのか、虚勢を張っているだけなのかはすぐにわかる。


(それに、自分を正す心も姫は、ちゃんと備えてる)


 昔、黎峯は師匠に一喝されると、決まって夜は声を殺して泣いていた。そうでない日も、母恋しさにすすり泣きしていたのを明星は知っている。そしてそんな夜を経るたびに、少しずつ姫の態度は和らいでいった。彼女が本当の暴君ならば、このような変化は起こらないはずだ。


 黎峯は淋しがり屋で甘えん坊の、けれど根は素直で優しい姫君なのだ――と、明星のそんな主張は、残念なことにあまり周囲の賛同を得られなかった。

 曰く、「そんなことがわかんのは、お前だけだ」とのことである。


 これがどうにも明星は腑に落ちない。少なくとも十年前は翠姫と違い、姫の本心こころは明白だった。師匠もよく、「黎峯はわかり易い」と口にしていたものだ。仲間の前で反論すると差し障りがありそうだったので、否定はせずにおいたが。


 しかし、思い起こしてみれば、師匠も仲間と似たようなことは言っていたかもしれない。「人間性が優れている」とか「賢い」だとか、師はおもに明星の内面を評価していた。明星本人としては、内面よりも武術の才を認めて欲しかったのだが──いかんせん嘘をつかない師匠だったので、そっち方面は芳しくない。天は人に二物を与えないのだ。


(いかんいかん。また余計なこと考えちまった)


 軽く頭を振ると、明星は意識を山道に引き戻した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ