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吹き出す鮮血が頬に散った。
血のついた頬をぬぐう間を惜しんで、反転。
返す刃で、背後に迫っていた龍の喉を斬り裂く。
手ごたえは、やや浅い。
ひゅっと風が通るような音を吹き、その龍は草叢の中に沈んだ。
まだ息はある。
すかさず間合いを詰め、手にした剣で心臓を突いた。
彼が顔を上げると、鬱蒼と生い茂る木々が眼に入った。まだ昼だというのに薄暗い森は、不帰の森と銘打つだけの深緑を有している。
仕留めた龍の絶命とともに、周囲にあった殺気はすべて消えた。恐らくこれで最後だろう。なんとか追手は撃退できたらしい。大きく息をついて、彼は肩から力を抜いた。
緊張が解けた所為か、手にした剣の重みがとたんに鬱陶しくなる。すでに刀身は折れ、血油がべっとりと付着した剣だ。もう使い道はない。
その場で捨てようとして、ふと彼は手を止めた。
強力無比な、既視感。違和感。
何か、何かがおかしい。
何がおかしい?
今まさに手放そうとしていた剣を見つめる。なんの気なく血振りをして、彼は折れた刀身に自分の姿を映した。
瞬間、かすめるように紅い光が過ぎる。
あれっと思い、眼を擦ってもう一度刀身を覗き込む。何も起こらない。ごく普通の薄茶色をした、自分の瞳と眼が合うだけだ。
宵色の黒髪に、色素の薄い、茶の双眸。
……茶?
そういや、この薄茶色。
別に何か、違う言い回しがあったような。
『なあに、その情緒のない物言いは。まあでも、下賎な人間に情緒を期待する妾が愚かよね。いいこと? あれは、はしばみ――』
「何をしておった、『凱夏』!」
出し抜けに名を呼ばれ、彼は驚いて声の方向を振り返った。そこでは真っ赤な長裙を着た黎峯が、両手を腰にあてて立っている。
「貴様、従僕の分際で妾を捨て置くとは何事じゃ! この役立たず!」
「あ、ああ。……すまん、黎峯」
「駄目じゃ! 許さぬ!」
黎峯の台詞を聞いた途端、ぐらりと視界が歪んだ気がした。
ああ、まただ。
度外れて強烈な、この既視感。
いったいなんなんだ、この違和感は?
俺はいったい何が許せない、何が不満なんだ。
この満ち足りた世界の、俺は何が我慢ならない。
「――イカ、ガイカ。おい、『凱夏』!」
ぐい、といきなり黎峯に袖を引かれる。
我に返ると、腕を掴んだ黎峯がこちらを睨め上げていた。
「何をぼうっとしておる。妾に幾度名を呼ばせる気じゃ、貴様は」
えらく不機嫌そうに黎峯は告げる。
それを聞き、初めて彼は、姫が自分の名を呼び続けていたことに気づいた。
自分の――まったく自分のものだという気がしない、その名を。
ガイカ? なんだそれ。俺の名前ってそんなだったか?
黎峯は何か、勘違いしてないか?
だって、俺の名は――。
「凱夏、妾の話を聞いておるのか? 凱夏! これ凱夏っ!」
無視されたと思ったのか、黎峯はますます声を荒げて彼に詰め寄る。
だが彼は、そんな黎峯に応じる余裕がなかった。
心臓の音がやけに煩い。気分が悪い。今にも草叢の中に倒れてしまいそうだ。
「……『凱夏』」
声に出して、彼はその名を紡ぐ。
やはり、違う。
確信が胸を突く。
これは違う。この名は違う。
これは俺の名前じゃないと、断言できる。
「黎峯。それ、俺の名じゃないよな?」
「はあ? お前は何を言うておる?」
「『凱夏』は、俺の名じゃない」
二度目にはもう、迷いはなかった。断固として宣言する。
黎峯はそれを聞き、路端の虫でも見るような視線を彼に寄越した。
「莫迦か、貴様は。気でもふれたのか?」
黎峯は鼻で笑う。
だが彼は引き下がらない。
「俺は、『凱夏』じゃない」
愚直に繰り返す。
どこかで何かが、矛盾していた。徐々に緩み出したほころびが、ついに決定的なものになりつつある。それが彼にはわかる。
理屈ではなく、確たる信が胸を突くのだ。
「ああ、そうかそうか。ならばお前は、『凱夏』でなくとも良いわ」
取り合うのが面倒になったのか、黎峯は彼をあしらうようにそう言った。しかし返す刃で「だが」と、鋭く彼に迫る。
「しかれども、だ。貴様が『凱夏』でないならば、うぬは何者じゃ?」
核心に迫る問いかけ。賽が投げられた感覚。
その通りだ。ならば自分は、誰なのか。
凱夏ではない。
黎峯ではない。
翠姫でもない。
ならば、
――私は宵が好きだ。この静けさを気に入っている。
――そら。お前はあの夜空に浮かぶ、小さな星だ。
――まだ、その瞬きは幼い。だがわかるか?
――あれは、
刹那、光を掴んだ気がした。
ぶつり、と何かが千切れた音がする。決壊する音が聞こえる。歪み、捻じ曲げられた世界で、それでもなお塗り潰せないものがあった。
彼の心の中には常に真実が、『師匠』がいたから。
だから、齟齬が生じたのだ。
それを彼は思い出す――思い出した。
深い緑の天蓋に、ぽっかりと開いた大穴。
緑穴の向こうの、宝箱をひっくり返したような星天。
月夜の森で、天上の星々を指差して。
かの師は彼に、こう告げたのだ。
――そら。お前はあの夜空に浮かぶ、小さな星だ。
――まだ、その瞬きは幼い。だがわかるか?
――あれは、希望の光だ。
そして、名をもらったのだ。
漆黒の夜を照らす、明けの星。
それがお前の名だと。
ゆえに、
――ゆえに、お前の名は『 』。どうだろうか?
どうだろうか、と自信なげに訊ねた師匠が、とても好きだった。
そして嬉しかった。本当に、涙が出るほど嬉しかったのだ。
捨てられた自分を拾って、必要だと言ってくれたこと。
黎峯や翠姫と、同じように接してくれたこと。
色々な知識、武術を教えてくれたこと。
それらすべてが、奇跡のように。
――くそったれが。全部思い出した。
嗚咽を堪えて、彼は世界に吐き捨てた。
この世界。儚くも美しい、彼の理想郷へと。
「だが夢は、いつかは醒めるもんだ。そうだろ?」
ゆっくりと告げ、彼は傍らの黎峯に問いかける。
黎峯は眉間に皺を寄せて、鬱陶しげに髪を払いのけた。
「お前は、何を頓珍漢なことを言うておる。もしや、寝ぼけておるのか?」
「ああ、そうだ。寝ぼけてた」
彼は笑って答えた。
そうだ、これは夢だ。
とびきり性質の悪い、素敵な悪夢なんだと。
『対峙した者に、そいつが最も望んでいる夢を魅せるんだよ――』
それを彼は、翠姫自身の口から教えられていた。『獅青の槍』は、相手にもっとも都合の良い、甘美な夢で惑わすと。
手品の種を始めから知っていて、この体たらく。これでは死んだお師匠に合わせる顔がない。あのひとは俺と黎峯を、命がけで朱州へ逃がしてくれたのに。
心で詫び、彼は眼の前にいる黎峯を見下ろした。
改めて見た彼女はこんなにも小さく、か細い。
否、己が成長したのだ。
「なあ、黎峯。『黎宝珠の頸飾り』を見せてくれよ」
前後もなく、唐突に彼は乞う。
「はあ? なんじゃ、藪から棒に」
「いいから、見せてくれよ。『黎宝珠の頸飾り』。黎峯は、肌身離さず持っていたはずだ」
そう言って、片手を黎峯――少女へと差し出す。
少女は困惑の色を浮かべて、胸元に両手を押しつけた。かつて、黎峯が『頸飾り』をかけていた場所だ。彼女は沐浴のときもそれを身につけ、普段は衣服の下に隠していた。
「持ってないよな」
そこに何もないことを、今の彼は知っている。
「そりゃそうだ、俺に貸しっぱなしなんだから。あんたが持ってるわけがない」
言いながら、彼は外衣の中から『頸飾り』を引き出し、少女の前に掲げて見せた。
黄金の頸飾り。本物の、『黎宝珠の頸飾り』だ。
「本物の黎峯は、あのとき俺に、『黎宝珠の頸飾り』を貸してくれたんだよ。あとで必ず返せって言ってな」
──憶えている。
一緒に泣きながら森を抜け、師匠の仲間と合流したあと。姫は彼に『黎宝珠の頸飾り』を託し、こう言ったのだ。
『お前に貸してあげる。貸すだけよ。だから必ず、妾に返しなさい』と。
あのときはわからなかった。
これほど大事な『頸飾り』を、何故自分のような卑賤に渡すのか。姫の真意が読めなかった。けれど大人になった今なら、なんとなくわかる。
(多分、黎峯は俺の性格を見越して……俺が死なないように、『黎宝珠の頸飾り』を持たせた)
前轍は踏むまい。
これ以上、誰も死なせてなるものか、と。
そう、彼女は固く心に誓ったのではないだろうか。
この『頸飾り』を持つ限り、彼は死に物狂いで生きる。何がなんでも死守して、いつかそれを、黎峯に返さねばならないと思うだろう。
そして事実、そうなった。
黎峯は明確な目標を彼に与えることで、生に執着の薄かった少年を、未来へ生かそうとした──大人になった彼には、そう思えてならないのだ。
生きて、ここに帰ってくるように。
かつて師のように、死なないように。
あたたかな願いが込められていたと、彼は思うのだ。
例えそれが、彼女の自責の念からの行動だったとしてもである。
「あんたは黎峯じゃない」
彼は、眼前に立つ少女に告げた。
そうだ、あんたは黎峯じゃない。今の、黎峯は違う。
「あんたは本物の黎峯じゃない。俺の夢だ。……偽者だよ」
告げると、黎峯を模っていた少女は表情を止めたまま、すうっと背後の景色に溶けて消えた。少女の消失に端を発し、彼を取り巻いていた森も、空も、大地も、すべてが積木を突き崩すように壊れてゆく。
崩落する世界を眺め、「まるで絵巻のようだな」と彼は思った。
鮮やかな顔料で彩られていた物語が急速に色褪せ、跡形もなく消えてゆく。絶対的な現実を前に為す術もなく、己の本分に立ち返るように。
そうして、闇が訪れた。
ついに足場も消え失せ、彼は無明の空間に取り残された。
不思議と恐怖はない。むしろ肌に心地よく、懐かしい気さえする。ふわふわと漆黒の中を漂いながら、彼はゆるりと瞼を閉じた。
夜にも星は明るく瞬き、光は差すと言った、師匠の言葉が蘇る。
さあ、夢から醒めるときがきた。
もう振り返らない。
もう惑わされない。
今度こそ、正しい過去を回想する。
俺はかつて凱夏に拾われ、黎峯とともに森をゆき、翠姫に裏切られた。
さあ、御立会い。
此れよりが本番。
此度は、凱夏の語りにあらず。
此れなる真の語り部は、明けの星。
すなわち、『明星』の物語なり──。