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?ー2

 吹き出す鮮血が頬に散った。

 血のついた頬をぬぐう間を惜しんで、反転。

 返す刃で、背後に迫っていた龍の喉を斬り裂く。

 手ごたえは、やや浅い。

 ひゅっと風が通るような音を吹き、その龍は草叢くさむらの中に沈んだ。


 まだ息はある。

 すかさず間合いを詰め、手にした剣で心臓を突いた。

 彼が顔を上げると、鬱蒼と生い茂る木々が眼に入った。まだ昼だというのに薄暗い森は、不帰の森と銘打つだけの深緑を有している。


 仕留めた龍の絶命とともに、周囲にあった殺気はすべて消えた。恐らくこれで最後だろう。なんとか追手は撃退できたらしい。大きく息をついて、彼は肩から力を抜いた。


 緊張が解けた所為か、手にした剣の重みがとたんに鬱陶しくなる。すでに刀身は折れ、血油がべっとりと付着した剣だ。もう使い道はない。

 その場で捨てようとして、ふと彼は手を止めた。


 強力無比な、既視感。違和感。

 何か、何かがおかしい。

 何がおかしい?


 今まさに手放そうとしていた剣を見つめる。なんの気なく血振りをして、彼は折れた刀身に自分の姿を映した。

 瞬間、かすめるように紅い光がぎる。


 あれっと思い、眼を擦ってもう一度刀身を覗き込む。何も起こらない。ごく普通の薄茶色をした、自分の瞳と眼が合うだけだ。

 宵色の黒髪に、色素の薄い、茶の双眸そうぼう


 ……茶?

 そういや、この薄茶色。

 別に何か、違う言い回しがあったような。


『なあに、その情緒のない物言いは。まあでも、下賎な人間さるに情緒を期待するわたしが愚かよね。いいこと? あれは、はしばみ――』


「何をしておった、『凱夏』!」


 出し抜けに名を呼ばれ、彼は驚いて声の方向を振り返った。そこでは真っ赤な長裙きものを着た黎峯が、両手を腰にあてて立っている。


「貴様、従僕の分際で妾を捨て置くとは何事じゃ! この役立たず!」

「あ、ああ。……すまん、黎峯」

「駄目じゃ! 許さぬ!」


 黎峯の台詞を聞いた途端、ぐらりと視界が歪んだ気がした。

 ああ、まただ。

 度外れて強烈な、この既視感。


 いったいなんなんだ、この違和感は?

 俺はいったい何が許せない、何が不満なんだ。

 この満ち足りた世界の、俺は何が我慢ならない。


「――イカ、ガイカ。おい、『凱夏』!」


 ぐい、といきなり黎峯に袖を引かれる。

 我に返ると、腕を掴んだ黎峯がこちらを睨め上げていた。


「何をぼうっとしておる。妾に幾度名を呼ばせる気じゃ、貴様は」


 えらく不機嫌そうに黎峯は告げる。

 それを聞き、初めて彼は、姫が自分の名を呼び続けていたことに気づいた。

 自分の――まったく自分のものだという気がしない、その名を。


 ガイカ? なんだそれ。俺の名前ってそんなだったか?

 黎峯は何か、勘違いしてないか?

 だって、俺の名は――。


「凱夏、妾の話を聞いておるのか? 凱夏! これ凱夏っ!」


 無視されたと思ったのか、黎峯はますます声を荒げて彼に詰め寄る。

 だが彼は、そんな黎峯に応じる余裕がなかった。

 心臓の音がやけに煩い。気分が悪い。今にも草叢の中に倒れてしまいそうだ。


「……『凱夏』」


 声に出して、彼はその名を紡ぐ。

 やはり、違う。

 確信が胸を突く。

 これは違う。この名は違う。

 これは俺の名前じゃないと、断言できる。


「黎峯。それ、俺の名じゃないよな?」

「はあ? お前は何をうておる?」

「『凱夏』は、俺の名じゃない」


 二度目にはもう、迷いはなかった。断固として宣言する。

 黎峯はそれを聞き、路端の虫でも見るような視線を彼に寄越した。


莫迦ばかか、貴様は。気でもふれたのか?」


 黎峯は鼻で笑う。

 だが彼は引き下がらない。


「俺は、『凱夏』じゃない」


 愚直に繰り返す。

 どこかで何かが、矛盾していた。徐々に緩み出したほころびが、ついに決定的なものになりつつある。それが彼にはわかる。

 理屈ではなく、確たる信が胸を突くのだ。


「ああ、そうかそうか。ならばお前は、『凱夏』でなくとも良いわ」


 取り合うのが面倒になったのか、黎峯は彼をあしらうようにそう言った。しかし返すやいばで「だが」と、鋭く彼に迫る。


「しかれども、だ。貴様が『凱夏』でないならば、うぬは何者じゃ?」


 核心に迫る問いかけ。賽が投げられた感覚。

 その通りだ。ならば自分は、誰なのか。

 凱夏ではない。

 黎峯ではない。

 翠姫でもない。

 ならば、


 ――私は宵が好きだ。この静けさを気に入っている。

 ――そら。お前はあの夜空に浮かぶ、小さな星だ。

 ――まだ、そのまたたきは幼い。だがわかるか?

 ――あれは、


 刹那、光を掴んだ気がした。

 ぶつり、と何かが千切れた音がする。決壊する音が聞こえる。歪み、捻じ曲げられた世界で、それでもなお塗り潰せないものがあった。

 彼の心の中には常に真実が、『師匠』がいたから。

 だから、齟齬が生じたのだ。


 それを彼は思い出す――思い出した。

 深い緑の天蓋に、ぽっかりと開いた大穴。

 緑穴りょくけつの向こうの、宝箱をひっくり返したような星天せいてん

 月夜の森で、天上の星々を指差して。

 かの師は彼に、こう告げたのだ。


 ――そら。お前はあの夜空に浮かぶ、小さな星だ。

 ――まだ、そのまたたきは幼い。だがわかるか?

 ――あれは、希望の光だ。


 そして、名をもらったのだ。

 漆黒のを照らす、明けの星。

 それがお前の名だと。

 ゆえに、


 ――ゆえに、お前の名は『  』。どうだろうか?


 どうだろうか、と自信なげに訊ねた師匠が、とても好きだった。

 そして嬉しかった。本当に、涙が出るほど嬉しかったのだ。

 捨てられた自分を拾って、必要だと言ってくれたこと。

 黎峯や翠姫と、同じように接してくれたこと。

 色々な知識、武術を教えてくれたこと。

 それらすべてが、奇跡のように。


 ――くそったれが。全部思い出した。


 嗚咽を堪えて、彼は世界に吐き捨てた。

 この世界。儚くも美しい、彼の理想郷へと。


「だが夢は、いつかは醒めるもんだ。そうだろ?」


 ゆっくりと告げ、彼は傍らの黎峯に問いかける。

 黎峯は眉間に皺を寄せて、鬱陶しげに髪を払いのけた。


「お前は、何を頓珍漢とんちんかんなことをうておる。もしや、寝ぼけておるのか?」

「ああ、そうだ。寝ぼけてた」


 彼は笑って答えた。

 そうだ、これは夢だ。

 とびきり性質たちの悪い、素敵な悪夢なんだと。


『対峙した者に、そいつが最も望んでいる夢を魅せるんだよ――』


 それを彼は、翠姫自身の口から教えられていた。『獅青の槍』は、相手にもっとも都合の良い、甘美な夢で惑わすと。

 手品の種を始めから知っていて、このていたらく。これでは死んだお師匠に合わせる顔がない。あのひとは俺と黎峯を、命がけで朱州へ逃がしてくれたのに。


 心で詫び、彼は眼の前にいる黎峯を見下ろした。

 改めて見た彼女はこんなにも小さく、か細い。

 否、己が成長したのだ。


「なあ、黎峯。『黎宝珠の頸飾くびかざり』を見せてくれよ」


 前後もなく、唐突に彼は乞う。


「はあ? なんじゃ、藪から棒に」

「いいから、見せてくれよ。『黎宝珠の頸飾くびかざり』。黎峯は、肌身離さず持っていたはずだ」


 そう言って、片手を黎峯――少女へと差し出す。

 少女は困惑の色を浮かべて、胸元に両手を押しつけた。かつて、黎峯が『頸飾くびかざり』をかけていた場所だ。彼女は沐浴のときもそれを身につけ、普段は衣服ふくの下に隠していた。


「持ってないよな」


 そこに何もないことを、今の彼は知っている。


「そりゃそうだ、俺に貸しっぱなしなんだから。あんたが持ってるわけがない」


 言いながら、彼は外衣コートの中から『頸飾くびかざり』を引き出し、少女の前に掲げて見せた。

 黄金の頸飾り。本物の、『黎宝珠の頸飾くびかざり』だ。


()()()()()()、あのとき俺に、『黎宝珠の頸飾くびかざり』を貸してくれたんだよ。あとで必ず返せって言ってな」


 ──憶えている。

 一緒に泣きながら森を抜け、師匠の仲間と合流したあと。姫は彼に『黎宝珠の頸飾くびかざり』を託し、こう言ったのだ。


『お前に貸してあげる。貸すだけよ。だから必ず、わたしに返しなさい』と。


 あのときはわからなかった。

 これほど大事な『頸飾くびかざり』を、何故自分のような卑賤ものに渡すのか。姫の真意が読めなかった。けれど大人になった今なら、なんとなくわかる。


(多分、黎峯は俺の性格を見越して……俺が死なないように、『黎宝珠の頸飾くびかざり』を持たせた)


 前轍ぜんてつは踏むまい。

 これ以上、誰も死なせてなるものか、と。

 そう、彼女は固く心に誓ったのではないだろうか。


 この『頸飾くびかざり』を持つ限り、彼は死に物狂いで生きる。何がなんでも死守して、いつかそれを、黎峯に返さねばならないと思うだろう。


 そして事実、そうなった。

 黎峯は明確な目標を彼に与えることで、生に執着の薄かった少年を、未来へ生かそうとした──大人になった彼には、そう思えてならないのだ。


 生きて、ここに帰ってくるように。

 かつて師のように、死なないように。

 あたたかな願いが込められていたと、彼は思うのだ。

 例えそれが、彼女の自責の念からの行動だったとしてもである。


「あんたは黎峯じゃない」


 彼は、眼前に立つ少女に告げた。

 そうだ、あんたは黎峯じゃない。今の、黎峯は違う。


「あんたは本物の黎峯じゃない。俺の夢だ。……偽者だよ」


 告げると、黎峯をかたどっていた少女は表情を止めたまま、すうっと背後の景色に溶けて消えた。少女の消失に端を発し、彼を取り巻いていた森も、空も、大地も、すべてが積木を突き崩すように壊れてゆく。


 崩落する世界を眺め、「まるで絵巻のようだな」と彼は思った。

 鮮やかな顔料で彩られていた物語が急速に色褪せ、跡形もなく消えてゆく。絶対的な現実を前に為す術もなく、己の本分に立ち返るように。


 そうして、闇が訪れた。

 ついに足場も消え失せ、彼は無明の空間に取り残された。

 不思議と恐怖はない。むしろ肌に心地よく、懐かしい気さえする。ふわふわと漆黒の中を漂いながら、彼はゆるりと(まぶた)を閉じた。


 夜にも星は明るく瞬き、光は差すと言った、師匠の言葉が蘇る。

 さあ、夢から醒めるときがきた。

 もう振り返らない。

 もう惑わされない。

 今度こそ、正しい過去を回想する。


 俺はかつて凱夏に拾われ、黎峯とともに森をゆき、翠姫に裏切られた。






 さあ、御立会おたちあい。

 れよりが本番。

 此度こたびは、凱夏の語りにあらず。

 れなる真の語り部は、明けの星。

 すなわち、『明星(あかぼし)』の物語なり──。


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