3ー6
「驚いた」
呑気な感想が聞こえた。
血まみれの大刀を、無造作に肩に担いで。
普段と変わらぬたたずまいで、翠姫は片膝をつく凱夏を見下ろして言った。
「あの攻撃をずらすかねえ? 普通は即死だろ? まったく、おっかない男だよ。子弟の中で、お師様がアンタだけ隔離した気持ちがよくわかるね。アンタを見てると、努力って言葉の虚しさを痛感する」
「す、翠……」
凱夏の呼びかけに眼もくれず、翠姫は紅く染まった大刀を振った。刀身は振り抜かれることなく、棒立ちになっていた明星の頸で停止する。
ぴっと数滴、凱夏の血が明星の頬に飛んだ。
あと、少し。
その手を横に引くだけで、明星の頸からは盛大な血飛沫が舞うだろう。
「ごめんよ、明星。アンタはアタシを恨んでいい。――黎公主」
聖母のように、明星には優しく。
鬼神のように、黎峯には冷たく──翠姫は告げた。
「明星を殺されたくなかったら、こっちへきな。『黎宝珠の頸飾り』を渡すんだ」
空いた左手を突き出し、翠姫は姫を強請る。
黎峯は、その要請に応じなかった。いや応じる応じない以前の問題として、翠姫の言葉が理解できていないようだった。
がたがたと震えるばかりの黎峯を、翠姫は冷徹なまなざしで観察して言う。
「動け、公主。明星が死ぬぞ。それとも、明星を見捨てるのか? 黎公主よ」
いまだ一言も発せぬ明星の前で、翠姫はわずかに大刀の刃を動かした。
つうっと紅い雫が一筋、明星の咽喉を流れ落ちる。それを眼にし、黎峯の瞳にようやく意思が灯った。のろのろとした動きで、黎峯は翠姫を見る。次いで、明星に眼を移した。
黎峯と明星の視線が交差する。
黎峯は、明星から逃れるようにして――白い面を伏せた。震えではなく痙攣と言った方が正しい動きで、姫は大地にうずくまる。
明星は、そんな黎峯を優しいまなざしで見つめていた。
責める瞳では、なかった。
「決まりだね」
酷く平坦に、翠姫が呟いた。
「まあ、無理もないか。今アタシに殺されなかったところで、帰還ったら頸斬られるのは眼に見えてるしねえ」
「──れ、黎峯……」
凱夏は痛みに耐え、不規則な呼吸を繰り返す黎峯を呼んだ。
「安心しろ、黎峯。翠姫は……小童を、殺せない……」
それを聞いた黎峯が、涙に濡れた顔を上げる。
凱夏は微笑んだ。
「賭けてもいい。翠姫に子殺しはできない。あいつの子は、生きてりゃ明星ぐらいの齢だ……。確か、男の子だったよな、翠?」
「ははっ。良くわかってるじゃないか」
翠姫は笑い、あっさり大刀を下げる。
「だが、そんなアタシの事情なんて、そっちの姫さんは知らなかったろう?」
黎峯の顔色がまた変わる。試されていたと気づいたのだろう。
穏やかながらも底冷えのする微笑をたたえ、翠姫は黎峯に語りかけた。
「アタシはね、黎公主。これでも最後の最後まで、『頸飾り』の主たるアンタに賭けてたんだよ。その細腕でアタシに挑めなんて、無茶なことは言わないさ。ただ、それ以外の選択をしてくれりゃ良かった。それ以外の行動を取って欲しかったんだよ、アタシは。ただ、明星を──人を、見捨てないでくれれば……アタシは、喜んでアンタに仕えていた」
言って翠姫は天を仰ぐと、金の双眸だけを凱夏に向けた。
「にしても、てんで驚かないねえ、凱夏。もしかして露見てたかい?」
「まあ、な。この燃えにくい森で、あれだけ派手な火災だ。土地鑑のある奴がいなきゃ、ああはならねぇだろ。それにお前は、登場からして出来過ぎてたし……俺たちは名目上、世間じゃ『お宝を盗んだ大逆賊』ってことになってんだよ。だがお前は、そのことについちゃ、一切触れなかったよな……?」
翠姫は真偽を確かめるどころか、『頸飾り』の盗難に関して、ろくに話題にすることもなかった。それはつまり、この件について翠姫は訊く必要がなかった、初めから虚報だと知っていたからだろう。
「こんな森の奥に住んでる設定にすんなら、いっそなんにも知らねぇ演技するか……一度、確認ぐらいは取るべきだったな、翠……?」
「はは。そういや普通に、べらべら裏事情を喋っちまったねえ。もう少しそらっとぼけるか、あるいは誤解した演技でもすべきだったか。でもまあ、そこまで怪しいと思って手を出さなかったんだ。相変わらず女には甘いねえ、アンタは」
くつくつと咽喉で笑い、翠姫は大刀で肩を叩く。しかしすぐさま笑顔を削ぎ落とすと、翠姫は凍てつくような声で凱夏に問うた。
「何故、公主につく、凱夏?」
集約し、翠姫は短く問う。
「断言してもいいが、この女はあの糞親爺と同類だよ。人を家畜か虫螻程度にしか思っていない。身に着けた絹の衣服が、豪勢な飯が、誰の手に依るものかまるでわかっちゃいないし、考えたことすらないんだ。己が龍である以上、何もかも与えられて当然と思ってやがる。そういう奴らなんだよ、龍なんて。それはアンタだって、良くわかってるはずだ」
「……だから?」
「あんな思いは、アタシはもう真っ平なんだよ」
肺腑から絞るような、けれど断固とした発音で翠姫は告げた。
「だからアタシは、すぐにでも頭上に戴く主上が欲しい。下らん龍の政治闘争で、ばたばたと人が死んでいくのは我慢ならん。それにアタシは、力も欲しい。龍を屈服させ、法すら捻じ曲げる、強大な権力が。そのために、公主の頸と『頸飾り』が欲しい。それは旧友たるアンタを裏切り、踏み台にしてもだ」
「それで……朝廷に切り込む、と?」
「そうだ」
「お前は、黎峯が……無能だと言うのか?」
途切れがちに凱夏が訊くと、翠姫は直ちに顎を引いた。
「当たり前だろう。典型的な暗愚じゃないか。こんなのを船頭に据えた日にゃ、即日この国は沈むぞ?」
「なるほどな……お前も典型的な龍だ。現状を善しとし、改革を嫌う」
「改悪だろ、これは」
「さあ、どうだろう……。見解の違いだな」
「白々しい。本っ当、喰えない男だねえ、アンタは」
ぼたぼたと滴り落ちる凱夏の血を見ながら、翠姫は溜息をついた。実は先ほどから止血を試みているのだが、当たりどころが悪かったのか、どうにも追いついていない。
それでも意地と虚勢で会話を続ける凱夏に、翠姫は呆れたのだろう。やれやれと大仰に肩をすくめ、翠姫は額にかかる髪を払った。
「やはり、理解できない。アンタほどの男が、なんでこんな娘に顎で使われてんだい? まだ明星に仕えると言う方が納得できるぞ、アタシは」
「だから、言ったろ? 見解の違いだよ。お前と俺じゃ、見ているものが違う……それだけだ」
「ならアタシたちの主張は、永遠に平行線のままだねえ」
「のようだな。残念だ」
「ああ、それは同感だ」
淡々と翠姫は応じる。
その台詞を皮切りに、翠姫の戦意が急速に膨れ上がった。
どうやらお喋りは、これでおしまいらしい。
止血はここで諦めるしかなさそうだ。
凱夏は腰から飛刀を引き抜くと、素早く左右に視線を走らせた。
一歩、前に出る。
背には吊橋、身動きの取れない黎峯。
前方には翠姫と、身体の自由な明星。
翠姫は大刀を上段に構え、戦闘体勢に入る。
血滴を散らして踏み込むと同時、凱夏は叫んだ。
「明星、黎峯を連れて行け!」
直後、眼の前で旋風が巻き起こった。
長柄の利点を最大限に活かし、凱夏の攻撃圏外から翠姫は斬撃をかける。
左から右へ、円を描くように旋転。
回転の勢いで敵を薙ぐ、刺突よりも斬撃に特化した大刀の攻撃。
重量を生かしたその技は、どれも一発喰らえば即死である。
翠姫を視る。
しなる柄を視る。
迫りくる刃を視る。
すべてを統合して、限りなく現在に近い未来を予測する。
疾風のごとき刀刃は、正確に凱夏の頸筋を目指していた。
かつ、振り抜いた軌道は明星の頭上を計算している。
的確な判断は、さすが翠姫だ。
槍を始めとする長兵器に長けた、青州東家ならでは。
凱夏は翠姫との間合いを詰めながら、紙一重でその第一刃をかわした。
ヴン、と虫の羽音のような音が耳を過ぎる。
まずは一回転。
問題はここからだ。
薙ぎに真価を発揮する大刀の技は、ほぼ二段構え。
一度目で仕損じてもいいよう、二回転目も念頭に置かれている。
(二回転の前に懐に入る――のは、無理か)
速度は落とさず、瞬きの半分以下の刻で下す。
翠姫の大刀捌きは、並をはるかに凌ぐ速さを誇る。
あの細腕から、想像を絶する速度の連撃が繰り出されるのだ。
しかも大刀に限っては、長柄武器の師を打ち負かしてしまったほど。
(さあ、どうくる)
一回りして、続く第二撃が戻ってくる。
狙いはどこだ。
頸か、傷を負った胴か――いや、もっと低い。
足だ。足を斬る魂胆。
軌道が低いが、明星が巻き添えにならないか?
ああ、もう黎峯のもとへ行ったのか。なら安心だ。
安堵の笑みを唇に刻み、凱夏はひょいと片足を持ち上げた。
刃が届く寸前、ありったけの力を靴底に込め、大刀の刃を踏みつける。
大刀が止まった。
斬撃の阻止に成功。
刃物の堅い感触が足裏に伝わる。
武器破壊には失敗。
あわよくば刀刃を踏み砕けるかと思ったが、そう都合良くはいかないらしい。
凱夏は踏みつけた大刀を足場に、大きく前へ跳躍した。
ここでようやく、翠姫の懐に到達。
凱夏の攻撃圏内だ。
柄を握る翠姫の左肘を制しつつ、右手の飛刀を逆手に。
勢い、翠姫の胴を突く。
手ごたえはあった。が、浅い。
ほとんどかすっただけだ、手傷とも言えない。
並の手合いならこれで終わるのだが、長柄の大家、東家直系の翠姫が相手では――それも、腹に穴が開いた状態では――無理があったらしい。
すんでのところで翠姫は体転し、凱夏の攻撃を柄で払うと後退した。
「くっそ! アンタって男は、ほんっと反則的な強さだねえ!」
歯を剥いて怒号し、翠姫は大刀を構え直す。
「真性の化物め! それとも、その腹の傷はアタシの眼の錯覚かい?」
「いや、本物だ。今も卒倒しそうなほど痛いぞ?」
「嘘こけ! あれが手負いの動きかいっ!」
噛みつくように一喝して、翠姫はふっと呼気を正した。
「やはり、慢心はいかんな。いくら致命傷を与えたとは言え、相手は天武。格の違いは素直に認めて、小者は小者らしく戦うべきだ」
らしくない卑屈な物言いだ。凱夏は苦笑した。
「おいおい……。そりゃ買いかぶり過ぎだぞ、翠姫」
「いいや。アンタは自分の、度を越えた強さを理解していない。そして、そこが恐ろしい。悪いが出し惜しみなしでやらせてもらうよ。チンタラしてたら、取り逃がしちまう」
そう言い、ちらりと横を一瞥。その先は凱夏も知っている。明星が黎峯の手を引いて、背後の吊橋を渡っているのだ。
翠姫の酷薄なまなざしに、ぞろりと凱夏の背を悪寒が走った。
あいつ、まさか、ここで『顕す』気か。
そうなれば、凱夏は敗北するしかない。
一か八かで刺し違えることすら不可能だ。
顕現した龍に、人は決して太刀打ちできない――。
「行くぞ、凱夏。――『獅青の槍』よ」
予想だにしない呼びかけに、凱夏は耳を疑った。
しかし、翠姫の流れるような口上は止まらない。
「我が名は史翠。東方の主、青龍の末裔なり。東天東嶽の名において命ず。『獅青の槍』よ、我に汝の力を示せ。其は糖蜜のごとく甘き夢。其は野に遊ぶ蝶なり」
直後大刀が煌めいたかと思うと、凱夏を取りまくすべての時が停止した。指を動かすことはおろか、瞬き一つできない。
(な――なんだ、これは……⁉)
驚愕する凱夏のもとに、大刀を背負った翠姫が歩み寄る。
「夢に抱かれて、アンタにゃもう聞こえちゃいないだろうけど……一応、説明はしておこう」
手を伸ばせば触れられるような近さで、翠姫はこともなげに告げた。
アタシは『東嶽』になった、と。
「アタシはつい最近、東嶽になった。お前も知ってる親爺の急死、あれはアタシの仕業でね。昨今の飢饉やらなんやらで、やっとアイツの寝首をかく機会が訪れたもんだからさ。実行したら、次にアタシが東嶽になっちまった。そしたら『獅青の槍』も、勝手に大刀に変化してねえ。どうやら宝貝は、持主の得手で姿を変えるようだよ?」
まあこれも、きっと天命ってやつさ。
淡々と事の経緯を語り終えると、翠姫はその視線を折り返した。
向かう先は、吊橋。
頼りない足取りで吊橋を渡る、黎峯と明星だ。
「さあて。国土を荒らす、鼠を狩らないと」
固定された凱夏の視界から、翠姫が消える。
土を踏み遠ざかる音が、凱夏の耳朶を打つ。
莫迦な、と凱夏は心中で吐き捨てた。
これが天命?
これで終わりだと?
こんなにも呆気なく?
正す機会も与えられずに?
(ふざけんな。冗談じゃねぇぞ……)
ならば何故、黎峯は女神に選ばれたのだ。
殺されるために、生を受けたと?
認めない。冗談じゃない。
そんな王母の手前勝手、俺は断じて許さない。
「す――ッ、翠、姫ぃいぃぃいぃぃぃぃぃ――――――――ッ!!」
気のふれた、死に際の獣のような咆哮が響いた。
ぐい、と力任せに凱夏は頸を回す。
身体が悲鳴を上げ、意識がぶつ切りになる。
血管だか神経だかが切れたような気がしたが、この際構わない。
こちらを振り返った、翠姫の両足が止まった。
金の眼を見開き、凱夏に何事か告げる。
渾身の力で、凱夏は腕を伸ばした。
情けないほど緩慢な動き。
でも、翠姫の肩を掴んだ。
引き止めた。
直後、耳元で凶悪な打音が炸裂した。
頭蓋が割れるような衝撃。
次いで、左肩が砕ける感触。
凱夏の視野を、赤黒い液体が瞬く間に覆った。
いつもの半分以下になった景色。
そこかしこで、おかしな光が明滅している。
泥酔したように取り留めのない世界で、凱夏は飛びそうになる意識を繋ぎ止めた。辛うじて、翠姫に大刀で殴り飛ばされたらしいことを知る。
柄で打撃。
頭を強打。
吹き飛ばされて――柱に叩きつけられた。
はしら。
つり橋の、柱。
ひだり。左肩から、だ。
「ア――タっておと……は、ほ……に、――……、だ――っ!」
翠姫の罵倒が切れ切れに聞こえる。
まずい。何を言ってるのか、まったくわからない。
ああ、頭が割れるように痛む。
もう割れているかもしれない。
まともにものを考えられない。
危険だ。
危険、危険、危険。
武器を手に持った誰かが、こちらに近づいてくる。
とどめを刺しに、違う、橋の向こう側へ。
吊橋を、越えようとしている。
それは駄目だ。
許さない。
黎峯。
明星。
最後の力を振り絞り、凱夏は右手に掴んだ飛刀を振りかざした。今まで取り落とさなかったのが奇蹟とも言えるそれを、吊橋の縄に突き立てる。
繋がっていたものが、ぶつりと絶える感触。
爽快だ。感覚だけで、音はもう聞こえない。
眼もろくに視えない。
凱夏は勘を頼りに、手にした刃を翻した。
もう一回。
もう一度、向こう側も。
ぶつりと再び、綱を断つ感覚。
崩壊の確かな手ごたえに、笑みがこぼれた。
よし……よし。
これで、いい。
これで敵は、こちら側にこれない。
その事実に満足して、凱夏は宙に身を任せた。
母の腕を思わせる浮遊感と、背に吹きつける疾風が妙に心地良い。瞼を閉じる寸前、凱夏は、頬に突き刺さる強い視線に気づいた。
身体は言うことを聞かない。
眼玉だけ動かす。
刹那を何十倍にも引き伸ばした世界で、凱夏は見た。
紅い。
燃えるように紅い、一対の真紅。
その、緋色の瞳の主を。
(明星――――……頼む)
彼が、死の最期の瞬間に抱いた願いだった。