3-5
「旦那は縁者もろとも、腰斬刑だったかのう! 人間の分際で龍に手を出すなぞ、胴体を二分されても文句は言えぬわぁっ‼」
直後、稲妻が迸った。
そう錯覚してしまうほどに激烈な斬撃が、凝縮した殺意が火を噴く。
旋風をともなう鋭い衝撃と打音が、空手の凱夏を打ち据えた。
覚悟して大刀の柄を押さえた左腕が、音を立てて軋む。
まずい。これは確実に骨がイった。
だが、そんな些事に気を払っている余裕はない。
続く第二撃のために離れようとした柄を、凱夏は空いた右手で掴み防いだ。
「その手を離せえぇ、凱夏ぁぁぁ――――っ‼」
普段の彼女どころか、女性のものとも思えない音階で翠姫が吼える。
憤怒の形相で翠姫が見つめる先は、凱夏の背後。
そこには、腰を抜かした黎峯がいた。
「お、落ち着け……翠……ッ」
凱夏は翠姫の動きを封じながら、必死で説得を試みた。
しかし、悪意をもって龍の逆鱗に触れられた翠姫は、まったく聞く耳を持たない。
「黙れえぇっ‼ アタシにその女を殺させろぉおぉぉっっ‼」
「翠……翠姫ッ、頼む! 正気に戻ってくれ!」
みしりと音を立てて、凱夏の両腕が悲鳴を上げる。
猛り狂った龍の全力だ、長くはもたない。
「頼む、翠姫! 堪えてくれ!」
「殺す、殺す殺す殺すっ‼ ぶっ殺してやるぁぁあぁぁぁぁ――――っっ‼」
柄を持った凱夏ごと、薙ぎ飛ばす気なのだろう。
翠姫は龍の剛力まかせに大刀を振るおうとする。
それを右手と踏ん張った両足で抑えながら、凱夏は声を張り上げた。
「翠っ! 止めろ、翠姫――……ッ、小童の前だぞッ‼」
ほんの一瞬、大刀ごしにわずかな振動が伝わった。
この機を逃すまいと、凱夏は渾身の力を絞る。
ありったけの思いで、眼前の翠姫に訴えた。
こどもが見ている。
ちいさな子が見ているぞ、と。
「明星が――明星がお前を見ている! そんな姿、小童に見せるなッ!」
最後の求めは、懇願だった。
激しく凱夏と競り合いながら、殺意の対象しか見ていなかった翠姫の瞳が揺れる。潤んだ金色の先では、小さな少年が、地面にへたり込んでいた。
怯えていた。
今にも泣き出しそうな顔で。
翠姫が明星の姿を捉えると、大刀にかかる力は徐々に弱まっていった。力の込め過ぎで痙攣した腕が、わななく刃が、ゆっくりと外に引かれる。
大刀が完全に凱夏から離れると、翠姫はごく小さく呻いた。
「……少し、ときを――くれ……」
そう残し、逃げるように森の奥へ消える。
不帰の森は、翠姫の庭のようなものだ。ある程度、気が鎮まれば無事この場所に戻ってくるだろう。
凱夏は片腕を押さえて立ち上がり、背後を振り返った。
「姫」
背中に庇っていた、黎峯を見下ろす。
黎峯は地面に尻をつき、心ここに在らずといった体で放心していた。
凱夏はつかつかと歩み寄ると、黎峯の正面で腰を落とした。無傷の右手を伸ばし、黎峯の左頬へもっていく。
ぱん、とごく軽い音が鳴った。
打たれた頬に、黎峯は手も添えない。置いていかれた小童のような顔で、黎峯は無言のまま凱夏を見上げた。
「翠姫の言葉が行き過ぎていた点は、俺も認める。確かに配慮が足りなかっただろう。だが、だからと言って、貴女が翠姫を傷つけていい理由にはならない」
そこまで言うと、凱夏は険しかった声音をやわらげ、姫に語りかけた。
「もう一度、落ち着いて自分が口にしたことを思い出してみろ。ほかでもない自分のせいで、それも実の父親の手にかかって、旦那が殺されるのを目の当たりにした──翠姫の心を想像しろ。あまりにも心ない発言だったとは思わないか?」
一拍置いて、音もなく黎峯の顎から涙の雫が滑り落ちた。表情を止めたまま、姫は壊れた人形のように涙を流す。
凱夏は黎峯の頭を撫でると、折り曲げた膝を伸ばして言った。
「少し、ここで頭を冷やすといい。俺も近くに控えている」
凱夏は明星に歩み寄ると、いったんこの場を離れるよう身振りで伝えた。黎峯もしばらく独りになりたいだろう。
うながされるまま立ち上がった明星は、凱夏と連れ立って歩き出し――三歩ほどで足を止めた。肩越しに黎峯を振り返る。黎峯は地べたに座り込んだまま、宙を見つめて泣いていた。
そっとしておいてやれ、と言いかけて、凱夏はふと思い直した。
ああ、そうか。明星だけは違うのだ。
「行ってやれ、明星」
凱夏が許可を出すと、明星は瞳を輝かせて黎峯のもとに駆け寄った。それでも過度には近寄らず、いくらか距離を置いたところにちょんと腰を下ろす。
見事なものだ。
いかにも明星らしい、それは絶妙な間の取り方だった。
「黎峯さま」
明星は沈痛に過ぎぬ声で、そっと姫に呼びかける。
明星は言った。
みんなにいらないって言われるのは、つらいよな、と。
でも、黎峯さま。
「黎峯さま。おらは、黎峯さまが死んじまえばいいなんで、思わねぇよ?」
にこ、と小さな八重歯を見せて、明星は言葉を継いだ。
「おらは、黎峯さまには長生ぎすでほしいな」
お前に言われても、嬉しくもなんともない、と黎峯は言わなかった。
その言の葉こそが、最も正しく彼女のもとに届けられた。
*
翌日。明星の仲立ちもあり、翠姫と黎峯は和解に至った。
黎峯は翠姫に頭を下げ、翠姫は「不始末のかわりに」と、朱州への案内役を買って出た。そこからの道のりは順調で、一行は凱夏の見込みよりもはるかに早く、目的地に到着しつつあった。
堯国随一と謳われる豊穣の地、朱州。そもそも不帰の森は、東の青州と南の朱州を分かつ、広大な森林地帯の名称でもある。森を西へ抜けると、関門をくぐらずに朱州へ至ることができるのだ。それが凱夏の狙いだった。
すでに朱州では、凱夏の仲間が森の出口付近で待機している。姫の継承問題に中立を貫く朱州は、皇家との繋がりが薄い。加えて朱州は、堯国唯一の貿易地を持つ州だ。人も物も大量に行き交うため、凱夏らが身を隠すにはもってこいの場所だった。
凱夏は連日、暇を見つけては姫と明星に朱州での立ち居ふるまい、習慣などを教え込んだ。明星は大変熱心に、黎峯は大抵不熱心に話を聞いていたが、水と油のようなこの二名が肩を並べるという状況が、凱夏にとって何より喜ばしいものだった。
西へ進むにつれ、森の大気には水気が増し、気温には厚みが加わる。むせ返るような緑の香も、心なしか甘く和らいでいる気がする。
堯国の南方に広がる朱州は、花の都としても有名な土地だ。領内のどこにいても、どこからともなく花の香りが漂う州なのである。
あの花は、確か蘭だったか――凱夏がそんなことを考えていたときだった。
「そういや、凱夏。アンタ、なんでわざわざ関門を避けたんだい?」
大刀でざくざく枝葉を刈りながら、翠姫が訊ねた。
「アンタほどの腕がありゃあ、夜陰に乗じるなりなんなりして突破できたろ、あれくらい。始めから真っ直ぐ関門に向かってりゃあ、今ごろ朱州に着いてただろうに。なんでこんな遠回りしたんだい?」
「ああ、それは俺も少し迷ったんだけどな。皇太后様の御助言で、不帰の森を選んだ」
「皇太后様の?」
訝りながら繰り返した翠姫に、凱夏は頷いた。
「ああ。あの関門付近には、皇家御用達の『龍討師』がいるんだと」
凱夏の放った『龍討師』という言葉には、さしもの翠姫も一瞬手を止めて立ちすくんだ。
「『龍討師』って……あの『龍討師』のことかい?」
「そう。その『龍討師』だ」
「お師匠、『りゅうとうす』っで?」
例によって、下から明星が問いかける。
それには凱夏よりも早く、意外なことに黎峯が答えた。
「なあに、お前はそんなことも知らないの? 物知らずねえ」
黎峯はあまり発育していない胸を張ると、得意顔でこう述べた。
「『龍討師』と言うのはね、代々伝わる秘術だかなんだかで龍を殺する、野蛮で愚劣極まりない女人どものことよ! その存在があまりにも不遜だから、父上が御存命のときに一度粛清したのだけど、まだ生き残りがいたのね。妾が読んだ書では、顔立ちは美しい人の娘だけど、下半身は鱗で覆われた大蛇の姿で――」
「明星、黎峯の言うことは概ね合っちゃいるが、大蛇云々の話は嘘だ。真に受けるな」
話がおかしな盛り上がりを見せたところで、凱夏が下方修正をする。
「それに黎峯。お前、自分で最初に人間どもって言ったろ? そんな妖魔が関門を徘徊してたら、世間様は阿鼻叫喚だぞ? 『龍討師』の見かけは、少なくともごく普通の人間だ」
「でも凱夏! 史書に出てくる『龍討師』は、大体そんなものよ! 一見するとただの人の娘だけど、実は耳まで口が裂けていたり――」
「そりゃ、討たれる側の龍が書きゃそうなるさ。誰だって敵は悪者にしたいだろうよ」
「事実、悪者よ! たかが婢女の分際で龍を弑するなんて、思い上がりも甚だしい! とんだ悪女の集団だわ!」
鼻息荒い姫をあしらいつつ、凱夏は黎峯の頭に手を置いて嘆息した。
「威勢がいいのは結構なことだが。黎峯、お前は少し頭っからものを決めてかかる傾向があるぞ? 果断も過ぎれば、ただの偏見だ。気をつけろ。『龍討師』だって一概に悪とは言い切れねぇし、良い女がいれば悪い女も――」
言いかけたところで、ふつりと凱夏の言葉は途切れた。
待て待て。今の会話、黎峯はなんと言った? とんだ悪女の集団、そうは言わなかっただろうか。つまり、女の集まりだと。女だけの。
それは、ひょっとすると。
「ちょっと、凱夏? どうかしたの?」
「ああいや、なんでもない。とにかく黎峯、なんでも頭から決めてかかるなよ」
「お前に言われなくても、わかってるわよ!」
やれやれ、本当にわかってるんだか。
凱夏が苦笑する先では、翠姫が無言で黎峯を眺めていた。今のところ、翠姫の表情から以前のような憎悪は一切感じられない。ただ見ているだけだ。
だが凱夏は、その面持ちの静けさが気になった。
「なあ、翠」
「おや、やっと着いたねえ。ここまでくりゃ、朱州はもう眼と鼻の先だよ」
他人の話をまったく聞かず、翠姫はさっさと先へ行く。凱夏は明星と姫を連れ、翠姫のあとを追った。生い茂る木の葉を左右に掻き分けると、古びた柱の前で翠姫が待っていた。
大人が両手を広げたぐらいの感覚で、左右に二本。太い木の柱が垂直に立っている。柱の間は山道だ。何枚もの木板を連ねていった道が一本、森の奥まで伸びている。
一見したときは、騙し絵のような茂みに隠されてわからなかった。
しかし近づいてみて、凱夏もすぐにそれと気づく。
これは、橋だ。
太い柱に綱をめぐらせ、向こう岸まで渡した吊橋。
山道ではない――そう認識した途端、下から吹き抜けるような風音を耳が捉えた。
やはり、五感に狂いが生じている。
吊橋の手前まで行くと、漆黒の闇が眼下で口を開けている。柵もなく、地面からいきなり切り立った崖だ。吊橋がなければ、黎峯や明星は足を滑らせていたかもしれない。
凱夏が崖を覗き込むと、光が届かないせいか、真っ暗な闇にしか見えなかった。わずかに水音のようなものは聞こえるような気がするが、自信はない。とりあえず、尻がひやりとする高さであることは間違いなかった。
落ちれば即、あの世へ旅立てるだろう。
「なあ、翠姫。吊橋はもしかして――」
「昔、アタシと旦那で造ったんだ」
凱夏の語尾を引き受けて、翠姫が答える。
「食料にしてもなんにしても、手に入れるなら朱州のが豊かだろう? 物価も安いしね。だから向こうへのちょいとした近道ってことで、旦那と一緒に造ったんだよ。懐かしいねえ」
「ちょっと待て。つうことはこの吊橋、結構な年代ものじゃねぇか?」
「大丈夫だって、心配すんな。なんせ、アタシと旦那が丹精込めて作った吊橋だからな!」
「いやいや、すげぇ心配だって! 旦那はともかく、お前は適当と大雑把を絵に描いたような女だろうが!」
「お前ってヤツは、龍が気にしてることをずけずけと! そんなんだからアンタは独り身なんだよ。大雑把じゃなく、大味と言っとくれ! 大味と!」
「どっちも同じ意味だろ!」
「ぎゃんぎゃん煩いわね、はしたない」
声を荒げる凱夏の横で、黎峯が耳を押さえて睨む。
「喚くなら余所でやってちょうだい、凱夏。そうして気が済んだなら、早く吊橋を渡りなさい。この中ではお前が一番重いのだから、お前が落ちなければあとは誰でも大丈夫よ」
「……黎峯。お前最近、強かさに拍車がかかってないか?」
「お生憎さま。そうでもないと、国賊なんてやってられないの」
「ごもっとも」
ぐうの音も出ない。
凱夏はおとなしく吊橋に寄ると、柱、綱の順で劣化の度合いを確認した。翠姫の旦那は相当腕が良かったと見えて、古いが、今すぐ橋が落ちるような危険はなさそうだった。身をかがめて橋板の部分も確認するが、朽ちた様子はない。きっちり防虫塗料を仕込んでいたのだろう。行けそうだ。
凱夏のすぐ横で、黎峯が物珍しげに吊橋を眺めている。
問題なさそうだぞ、と凱夏は声をかけようとして、
しかし、敵に機先を制される方が早かった。
ほとんど無意識のうちに、凱夏の身体は回避行動を取った。
だがそれは、意思の力で強引に留める。
駄目だ、回避は不可。
軌道上に黎峯がいる。
避ければ黎峯に当たる。
躱さず、凱夏は身を捻る。
そうすることで、わずかに急所をずらした。
刃は甘んじて受けるしかない、負傷は覚悟の上だ。
そうして最初に感じたのは、痛みではなく熱だった。瞬間的なそれが通り過ぎると、意識が吹っ飛びそうな激痛が訪れる。
まるで腹に穴が空いたようなという表現は、比喩ではなく現実だ。容赦なく横っ腹を貫く痛み。鉄の感触。完全な致命傷である。
脇腹から、ずるりと敵の刃が引き抜かれた。
途端にあふれる血液が着衣を濡らす。
せり上がる嘔吐感。吐血感。
察するに、胃が傷ついた可能性が高い。
咽喉にせり上がるものを呑み下して、凱夏はようやく背後を振り返った。