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当の翠姫は、「余計なこと喋りやがって」と言わんばかりに凱夏を睨む。
「親爺は、こないだくたばったばっかりだろ。もう東嶽なんぞ関係ないし、生まれなんて関係ないね。こっちは百年近く前に勘当された身だ」
「でしょうね。こんな下品な女が実娘では、かの東嶽公も縁を切りたくなるでしょうよ」
先んじて平静を取り戻したのは、やはり黎峯だった。翠姫の出自を聞いても、皇家の直系たる姫君はびくともしない。
黎峯の露骨な悪罵に、翠姫は唇を笑みの形に歪めた。
「親爺と同じことを言うねえ、公主は。程度が知れるよ。……ああ、でもそうか。だからか」
芝居がかった抑揚で言い、翠姫は手にした大刀で黎峯を指す。
「こんな愚蒙な娘が『頸飾り』の主になっちまったから、国中総出で狩り出してるんだものなぁ? そりゃ程度が知れるってもんだ。困ったもんだよねえ。今代の州公どもは暗愚じゃないが、いかんせん取り合わせが悪い。どいつもそれぞれの思惑でどん詰まって、我が国は八方塞だ」
一気に周囲の温度が下がった、と凱夏は思った。
先ほど、明星がかすめた核心。その真相を白日の下に晒しながら、翠姫は朗々と言の葉を紡ぐ。
「ま、運が悪かったねえ。まさか今代で女が──公主が主上に選ばれちまうなんて、運が悪かったとしか言いようがない」
言うと、翠姫は後ろで呆然としている明星を振り返った。
「お聞きよ、明星。なんとこの女は『黎宝珠の頸飾り』――かの主上のお宝に選ばれた、次期皇帝陛下なんだよ? だが見ての通り、高い血統のわりになんの力もない、平平凡凡な小娘でね。顕現はできないし、主上に選ばれながら、具わるはずの神通力も遣えやしない。神サマが耄碌したとしか思えない昏君っぷりでねえ。みんなこいつを帝位から降ろしたくって仕方ないんだが、残念なことに、今は四嶽の頭数が足りないんだよ。この小娘が死なない限り、次に位を譲れない。厄介な理だよ、本当」
金の双眸を閉じて、翠姫は大袈裟に嘆息してみせる。
「それでも性根を据えて、国を背負ってく気概でも見せてくれりゃあ、話は違ったんだけど。どっかの公主さんは、我が身可愛さに逃亡こいちまったからねえ。朝廷に頸斬る絶好の口実を与えちまったんだから、そりゃ殺されても仕方ないと思わないかい? そも、女帝は凶兆の象徴だ」
悪意の延長でしかない問いかけに、黎峯の頬からさあっと朱が引いた。
黎峯は真実感情を揺さぶられたとき、決して紅潮しない。逆に青くなる。それを知っていた凱夏は、眼光鋭く翠姫に詰め寄った。
これは翠姫の口が過ぎる。
「短絡的な物言いはよせ、翠姫! 状況なんてのは、時間が経ちゃ変わるだろう? 皇家だって、姫の退位について各州に呼びかけを――」
「呼びかけてどうなる? 『黎宝珠の頸飾り』の主は、もうこいつになっちまったんだよ? あんなの全部口先だけさ。どいつも腹ん中じゃ、殺した方が早いって思ってんだ。阿呆な女神の沙汰なぞ待ってらんないよ」
一顧だにせず、翠姫は冷然と切って捨てる。
「そも、この国にゃ女帝を受け入れるだけの度量はない。がっちがちの男尊女卑、血統重視の思想が根付いてやがる。加えて龍は愚鈍だ。五十や六十の年月はあっという間に浪費しちまう。龍はそれでもいいかもしれんが、人はもたない。その間、どれほど多くの人民が困窮するか――わからないとは言わせないよ、凱夏」
翠姫の言及に、凱夏は奥歯を噛んだ。
翠姫の言うそれもまた、ゆるぎない真実だったからだ。
とっさに反論できない凱夏を見て取り、翠姫は再び黎峯に視線を戻した。
「無能な公主ではなく、皇子が玉座に就くべき。それも一刻も早く。誰もがそう思っている。それが道理で国のためでもあるのに、何故にお前は生き恥を晒す、黎公主よ?」
「史翠ッ‼」
声の限りに怒鳴る。さすがに凱夏も限界だった。
「この件についてそれ以上べらべら喋るなら、俺が許さねぇぞ?」
物事には言っていい道理と、悪い道理がある。
言外の本気を滲ませて告げた凱夏に、翠姫はようやく舌を止めた。
「……悪かった。言い過ぎたよ」
このときばかりは翠姫も反省を示し、謝罪を口に乗せる。
堯国は東西南北の四公と、彼らを御す皇帝と礎とする国家だ。すべてがこれを軸として回り、欠ければ国政が揺らぐのは必至。下手をすれば、国家分裂の危機を招きかねない。
ゆえに今、凱夏に足りないのは時間だった。改革をするならば、幾ばくかの刻が必要だ。せめて十年。黎峯が成長し、諸公を見返す実力を備えるまでの、十年が欲しい。
しかし天は、公主に猶予を与えなかった。
今まさに、黎峯は闇に葬られようとしている。
天命を繰る女神に。『頸飾り』を通じて黎峯を指名した、残酷な王母に。
凱夏は一度、両の眼を閉じた。澱のような憂いを、吐息とともに吐き出す。よどんだ室の空気を入れ替えるように。
この問題は後回しだ。
まずは、目下の課題を解決する方が先決。
凱夏は頭を振ると、先ほどから黙りこくったままの黎峯に歩み寄った。
「すまん、黎峯。翠姫も国の行く末を憂いての発言だ。一つここは大目に見てやって――」
「貴様もか……貴様も、妾に死ねと言うか……」
くぐもった声で、黎峯はぼそぼそと呟く。
「お、おい。黎峯? 大丈夫か?」
黎峯のただならぬ気配に驚き、凱夏は呼びかける。だが黎峯は下を向いたまま、凱夏に応じる気配はない。幽鬼のように髪を前に垂らしていたせいで、表情が見えなかったことが災いした。
突如、黎峯は顔を上げると、その白面に激情を走らせて叫んだ。
「妾は……妾は何もしておらぬ! 天が勝手に、妾を『黎宝珠』の主に選んだのじゃ! わ、妾は帝になぞ、ちっともなりとうなかった! 父上がお亡くなりになれば、あ、兄上がなるものとばかり思うていた! だのにっ!」
舌をもつれさせながら、黎峯は絶叫した。髪を振り乱し、体裁も繕わず。今まで溜めに溜めた、鬱憤を晴らすかのように。
「兄上が死ねと妾に言う! まわりの重臣も、侍女も、皆が毎朝毎夜、妾と顔を合わせるたびに死ねと言う! 毒杯を仰げと差し出す! 何故じゃ! 何ゆえ妾なのじゃ! 妾がいったい、何をした⁉ 生きるだけで罪なのかっ⁉」
――妾は何も、していないのに!
それこそが黎峯の本音だったのだろう。凱夏はそう思った。
この国には、ほかに数多の龍がいるのに。もっと相応しい者が別にいるのに、何故自分が選ばれるのか。何故自分だけに、災難が降りかかるのか。
――妾は何も、悪いことをしていないのに!
そんな黎峯の気持ちを、凱夏は推して知る。それだけに、今はどんな慰めを口にしたところで、姫には逆効果となると思った。
ほかならぬ黎峯が、他者のあらゆる同情を拒絶していた。
――お前に妾の何がわかる! 同じ目に遭ったこともない、お前に何が!
悲痛な黎峯の訴えをすり抜けて、
「別に。何もしてないだろ」
恐ろしくさっぱりと、翠姫が告げた。
にべもない発言に、再び場の空気が凍る。
凱夏は声も出なかった。渦中の黎峯でさえ呆気にとられる中、ただ翠姫だけが、不気味な静観を貫いていた。
何もしていないさ、と翠姫は言い。
ただ、と続けた。
「ただ、天命が下っちまった。それだけのことさ。悪いけどアタシからすりゃあ、黎公主、アンタの境遇がよっぽど羨ましいね。それはアタシの我が儘だと、頭ではわかっちゃいるんだけども……。でも、この糞みたいな生き地獄から、アンタはなんの未練もなくおさらばできるんだ。死ねないアタシと違って」
女神の遊戯から、逃れられるのだから。
だから、やっぱり。
「やっぱりアタシは……それが、羨ましい」
儚げに。そして弱弱しく、長い睫を伏せて翠姫は告白する。
彼女の事情をよく知る凱夏は、そこに込められた意味と感情を汲み取った。
自嘲だ。どうしようもなく無念で、業腹で、ひたすらに哀しい。いっそ死んでしまいたいのに、それすら先に逝った者たちのために実行できない。これは翠姫の、気がふれんばかりの葛藤を交えた自嘲なのだ、と。
しかしそれは、激昂していた黎峯には伝わらなかった。
「妾の気も知らんで、羨ましいじゃと? ようぬかしおるわ……」
黎峯はただ、額面通りに彼女の言葉を受け止めていた。握り締めた姫の白い拳が、怒りでぶるぶると震えている。危険な兆候だった。
その様子を凱夏が案じ、声をかけようとしたところで──ふと、黎峯は奇妙な冷静さを取り戻した。
冷静さ? いいや、違う。
黎峯は極めて冷静を装い、我を失ったのだ。
凱夏は直後に、それを思い知ることとなる。
ひくりと口端を持ち上げると、黎峯はどこか虚ろな視線を翠姫に定めた。暗い狂気が閃く、背筋が凍るような微笑を唇に刻む。
「ああ、思い出したぞ、『東翠』。青龍の血を継ぐ姫よ。確かうぬは……そうじゃ、下賎な人の男と通じて、青州を追われたのであったなぁ? どこぞの森に逃げたとか。ほどなく、父御の兵に捕まったようじゃが」
「ばッ、黎峯――」
血相変えて凱夏が止めようにも、一足遅かった。
黎峯はこの上なく歪に、高らかに嗤い、告げた。