3-2
ある一線を境に、漆黒の森が続いている。
もともと不帰の森は黒に近い暗緑色だったのだが、これは別だ。
黒い荒野と呼べるかもしれない。墨色の大地には、真っ黒に炭化した木々が無数に乱立していた。よく見ると、木々は同じ方向へぐにゃりと樹枝を曲げている。この不気味な眺めは、熱で歪曲した木が凝固することによって作られるものだ。このことからも、昨日の火災の激しさが知れた。
木上から焼跡を確認した凱夏は、ことさら意識して深呼吸を繰り返した。思ったよりも淡い臭いに、忌々しく眉を寄せる。
やはり、鼻がだいぶ莫迦になっている。
五感の不調を痛感しながら、凱夏は再び眼下の黒土を眺めた。
火災はその後、森を流れる川によって分断され、事なきを得た。日暮れに風向きが変わり、夜には雨が降ったことも幸いした。一部で火が燻っているため油断はできないが、まずは一安心である。この不帰の森は元来、火事の起こりにくい土地なのだ。
そもそも森林火災の発生には、いくつか条件がある。植物から水分を奪い、可燃性燃料へと変える「乾燥」、落雷や熱風などの「熱源」、被害を拡大させる「強風」がそれにあたる。
このうち強風だけは当てはまるものの、不帰の森はそれ以外とは無縁だ。この一帯は湿り気を帯びている上、火元となる落雷や熱風もそう頻繁には起こらない。
(なのにここまで燃え広がるってことは、どう考えても人為的なもんだよな)
いや人よりも、むしろ龍為的なものか。
早朝からあれこれ考えていた凱夏は、ふうと息を吐くと身を翻した。今しがた登ったばかりの木を、するすると猿よろしく下りる。
まったく、とんでもない目に遭ったものだ。長く放置されているとは言え、恐れ多くも主上の天領に大火災。黎峯を追う敵も、形振り構っていられなくなったと見える。
「よう、凱夏。おはようさん。向こうはどうだった?」
凱夏が地面に降り立つと、待ち構えていたように翠姫が声をかけてきた。
昨日と同様、大刀担いで盗賊の頭領のような出で立ちだ。これでも黙って着飾れば、後宮の美女もかくやという器量なのだが。勿体ない。
「ああ、なんとか収まったみたいだ。ところで翠姫、姫と明星は?」
凱夏が後方に視線を送ると、翠姫は大仰に肩をすくめてみせた。
「ちょいと眼ぇ離しただけでこれだ。過保護め。姫も童も、今は夢の中だよ」
口を尖らせつつも、翠姫は律儀に答えた。
このように軽口を叩き合うのも久しぶりだ。師匠が亡くなって以来だろう。
凱夏は昔と変わらず、美しい翠姫を見て言った。
「こんなとこで、またお前に会えるとは思わなかった。助かったよ、翠姫。恩に着る」
「高いぞお? アタシの恩は。覚悟しな」
ふふん、と鼻を鳴らして翠姫は返す。本当に変わっていない。
「相変わらず怖ぇな、お前は。こうして顔合わせて話すのも、何年ぶりだ?」
「さあ、五十年ぶりくらいじゃないかい?」
「いや、それはねぇだろ」
突っ込みを入れてから、凱夏はふと唇を閉ざした。自然と眼が爪先に落ちる。かける言葉を思いあぐねてから、凱夏は躊躇いがちに口を開いた。
「……まだ」
「あん?」
「まだ、この森にいるとは思わなかった」
偽りなき、凱夏の正直な感想だった。
まさか翠姫が、いまだに不帰の森で暮らしているとは夢にも思わなかった。翠姫にとってこの森は、つらい記憶が残る場所だと凱夏は知っている。
「あー、やだやだ。辛気臭いったらないね」
だが予想に反して、返ってきたのは明るい声だった。
凱夏が面を上げると、翠姫は大刀を回転して苦笑いを浮かべている。
「まあ、確かにつらいっちゃ、つらいけどさ。でも、楽しかった思い出もたくさんあるんだ、この森には。思えばここに隠れ住んでたときが、アタシにとって一番幸せな時期だった」
からりとした笑顔で翠姫は答える。
凱夏はそこに、彼女の強さを見た気がした。そして同時に思う。もしも自分が翠姫の立場となったとき、彼女と同じ表情ができるだろうかと。
逡巡し続ける凱夏に、翠姫はにやりと口角を上げた。大刀を振り上げ、軽やかな動作で切っ先を凱夏の咽喉もとに据える。
「女はすでに、その時点で強いんだ。憶えときな」
「……心に留めておく」
金言だ。諸手を挙げて降参する。
話が一段落したところで、凱夏はちょうど気になっていた事柄を翠姫に訊ねた。
「そうだ翠姫、一つ確認させてくれ。この森、なんだかやたら鼻が利かねぇよな?」
くんくんと森の大気を嗅ぎ、凱夏は問う。
今は焦げ臭いにおいも感じ取れるが、昨日はそれこそ直前になるまで、誰も気づかなかった。皆、明らかに嗅覚が狂っている。
問いを耳にすると、翠姫は心底呆れた顔で凱夏を見返した。
「アンタって男は……そんなことも知らずに不帰の森へ入ったのかい?」
「急なことで、詳しく調べる時間がなくてな。てっきり、方向感覚が狂う程度のもんかと」
「有名な話じゃないからねえ。秘密ってわけでもないんだけど。でも、慎重派のアンタがそこまで追い込まれるとはね。ま、朝廷を敵に回したとなりゃあ、無理もないか」
翠姫は突きつけていた大刀の構えを解くと、それを肩に担ぎ直した。
「ああ、そうさ。この森は五感を狂わせるんだよ。何も鼻だけに限ったことじゃない。ちょいと気を抜くと、物の見え方や聞こえ方、ときには味覚まで変わっちまうんだ。気をつけな」
「くそ、やっぱりな。道理で気づかねぇわけだよ。肝に銘じておく――ん?」
「どうした、敵かい?」
ふと頸をかしげた凱夏に、翠姫が険しい声で訊ねる。凱夏は片手を上げて翠姫を制すと、笑って背後の草叢に声を投げた。
凱夏とて頭に師を冠する以上、二度も同じ手を喰うわけにはいかない。
「明星、そこにいるんだろ? 遠慮しないで出てこい」
言うと、ばつの悪そうな顔をした明星が草叢から頭を出した。翠姫はまるで気がつかなかったらしく、眼を丸くして縮こまる明星を見つめた。
「驚いた! この距離でアタシに気配を悟らせないなんて、たいした童じゃないか!」
「だろ? 俺も気ぃ抜くと見過ごしそうになるからな」
翠姫の賞賛に凱夏が口を添えると、明星は恥ずかしげに一度俯き、思い直したようにぱっと顔を上げて笑った。翠姫はそれを見、いとおしげに金の瞳を細める。
翠姫は純血の、それも由緒ある血統の姫なのだが、見ての通り気さくな性格だ。聞けば実家が相当厳しかったらしく、「その反動だ」と翠姫は笑っていたが、凱夏は彼女の血筋に囚われない考え方を好ましく思っていた。
それに、翠姫に好感を抱く理由はもう一つ。
彼女は昔から、龍人を問わず大の小童好きなのだ。
「ほーら。こっちにおいで、明星。あは、やっぱり小童は可愛いねえ。いつの間にこんな可愛い子こさえたんだい、凱夏?」
「俺の子じゃねぇって。齢考えろ齢を。人間の」
「齢はいくつになったんだい、明星?」
凱夏を完全無視し、翠姫は明星に訊ねる。「とお!」と元気良く答える明星に眼尻を下げると、翠姫は細い指でわしゃわしゃと明星の頭を撫でた。
「そうかいそうかい。ふふふ。こりゃ行く末は稀代の兇手だねえ! 将来が楽しみだ!」
「きょうす? おら、大きぐなっだら『きょうす』になれっが?」
「待てこら早まるな。兇手ってのは殺し屋のことだぞ、明星! それに翠姫! お前も変な道へ明星を勧誘すんな!」
笑えない冗談なので、すかさず両名には釘を刺す。素直な明星が神妙に聞き入る一方、翠姫はまるで凱夏に頓着せず、けたけたと腹を抱えて笑った。
妙に浮かれたこの言動。察するにこの女、朝っぱらから大酒かっ喰らっている可能性大である。
その証拠に、翠姫は明星を引き寄せると手にした大刀を掲げ、
「そうだ明星、大刀をご覧。これは『獅青の槍』と言ってねえ、青州東嶽公が振るう、伝説のお宝なんだよぉ?」
などと、凄まじい戯言をのたまった。
「なに笑顔で巨大な嘘ついてんだ、お前は!」
凱夏は大音量で翠姫の法螺を訂正し、明星を引っぺがした。放って置いたらどんな嘘八百を吹き込まれるか、知れたものではない。
「大体、お前のそれは、槍じゃねぇだろ! 明星、ああいう長くて幅広の片刃がくっついたやつは、大刀って言うんだ。槍はもっと小ぶりで、両刃の先端が尖ったものを指す」
「一概にそうも言えないよ? 対騎兵用に、刀身に鉤のついた槍だってあるじゃないか」
「いきなり例外から教えんなっつってんだ、俺は!」
相手が昔馴染となると、凱夏の口調も多少荒くなる。
翠姫が「相変わらず小姑みたいに煩いねえ。そんなんだから独身なんだよ」とぼやく合間を縫って、明星が凱夏に訊ねた。
「お師匠、『すせいのやり』って、なんだべ?」
「うん? ああ、『獅青の槍』ってのは、東嶽公――この青州を司る龍をそう呼ぶんだが、その東嶽が遣う武器の名称だ。とは言え、東嶽公はちょっと前に亡くなったばっかなんだけどな」
かたわらの翠姫を気にかけつつ、凱夏は問いに答える。翠姫は特に意に介した風もなく、華やかな笑顔で明星に語りかけた。
「しかもねえ、明星。『獅青の槍』ってのは、そんじょそこらにある武器とは一味違うんだよ。『獅青の槍』の主になると、神秘の能力を遣えるようになるんだ。対峙した者に、そいつが最も望んでいる夢を魅せるんだよ」
「ゆめ?」
小首をかしげて訊く明星に、翠姫は頷く。
「ああ。それも、ただの夢じゃあない。技にかかっちまった奴にとって一番都合のいい、実に甘美な夢を魅せられる。なんでも思うがままさ。まあ全部が全部、技にかかった奴の頭ン中だけで起こる出来事に過ぎないんだけどさ」
そう言って翠姫は眼を閉じると、まるで歌うように話し始めた。