3-1
最近よく、夢を見る。
この情景は、いつだったか。
「ほう。これは珍しい」
ある日、大きな木の幹を仰いで師匠が言った。彼が視線を追うと、真っ白な毛を全身に生やした大きな幼虫が、うねうねと枝を這っている。
それを見た少年の頭に真っ先に浮かんだのは、毛虫の王様だった。
純白の毛と、鮮やかな瑠璃色の斑点が美しい毛虫は、虫の癖に変な貫禄があった。図体も大きく、ときおり葉からぼたっと落ちてしまう重量感は、田舎育ちの少年にも新しかった。
もしも自分が少女だったら悲鳴を上げていたんだろうな、と今ならわかる。
「さすがは不帰の森と言うべきか。そら、これは珍天蚕という蛾の幼虫だ。こいつの体内にある絹糸腺という器官は、凄まじい強度の糸となる。一般的に蚕から採る糸は天蚕糸と言って、それはそれで頑丈な糸なのだが、この珍天蚕は別格だ」
師匠は幼い彼にもわかるよう、丁寧に噛み砕いて聞かせる。
少年はこの、師匠の講釈を聴くのがとても好きだった。
「珍天蚕から紡ぐ糸は、この世のいかなる刃を用いようと絶対に切れぬ、という意を込め、『絶糸』と呼ぶ。これは非常に高価なものでな。一尺あれば、ゆうに金塊と交換ができる」
金塊に喩えた師匠の比喩は、このときの少年にはわかりにくいものだった。いまいちピンとこなかったので飴玉をいくつ買えるか訊くと、師匠は笑って「飴の山を築ける」と言った。
飴の山と聞いて、少年は興奮した。当時の彼にとって、甘味は憧れの食べ物だったのだ。朱州に持って行って売ろう、と彼は喜び勇んで師匠の手を引いた。
「残念だが、捕獲された珍天蚕の幼虫は三日しか生きられん。道中で寿命が尽きるだろう」
そう言って師匠は、はしゃぐ少年を宥める。
死んだやつじゃだめ? と問うと、師は是と答えた。
「死んだ珍天蚕から絶糸は取れんそうだ。無論、蛹化してもいかん」
だったら、と続けて少年は言った。
だったらお師匠、今ここで絶糸をとってしまおうよ、と。
「だがな、絶糸を採るには糸師秘伝の技術が――いや。ものは試しか」
最初は難色を示した師匠だったが、途中で思うところがあったのか、撤回した。察するに、「やる前に諦める」ということを、幼い自分に教えたくなかったのだと思う。
「まずは酢水を用意する。私が読んだ書では、一対九の割合とあった」
そうして、てきぱきと糸を採る準備を始めた。博識な師だったので、彼もやり方それ自体は一通り知っていたのだ。
「そして、珍天蚕の腹を浅く縦に裂き、頭部をもぐ。するとだな、絹糸腺が頭に引きずられて出て――こんな。やはり」
師匠の指の先には、もいだ珍天蚕の頭だけがある。腹の方を広げてみると、緑色の管のようなものが切れて残っていた。
師匠は、この緑の管が絹糸腺だと教えてくれた。ただし、絹糸腺を絶糸とするには、白くなくてはいけないらしい。緑色だと、すぐに切れて使いものにならないと言うのだ。
「先の腹を裂く工程で、珍天蚕が悶えていただろう? あの痛みで、珍天蚕の喰った葉が体内で逆流するそうだ。体液が逆流し、絹糸腺に触れると強度が失われる。珍天蚕が痛がらぬよう腹を裂くには、熟練の糸師の技術が必要だ」
師の語る細やかな説明を、少年は理解した。なので単純に、痛がるなら珍天蚕を眠らせてしまえばいい、と小童の発想で思った。
珍天蚕が寝ている間に、手早く腹を裂く。でも、どうやったら寝るんだろう。夜まで待っている時間はないし……だったらここで、珍天蚕を気絶させてしまうのはどうだろう?
少年は、自分も試しにやってみたいと師匠にねだった。師も「何事も経験だ」と頷いて、一匹珍天蚕を採ってくれた。
まず少年は、珍天蚕の横でぱんっと手を叩いてみた。反応はない。次は地震に見立てて、珍天蚕が乗った台をがたがた揺らしてみる。これも無反応。
ならば、と珍天蚕のぎりぎり横に、思い切り飛刀を突き立ててみた。珍天蚕は飛刀などどこ吹く風で、悠々と台の上を這いずり回っている。
この程度では驚いて気絶してくれないらしい。
「……お前はいったい、何がしたいんだ?」
耳元で心配そうな師匠の声がした。
確かに、傍目にはちょっと危ない子だ。
少年は師にもう少し待っていてくれるように言い、うー、と珍天蚕とにらめっこをした。
やっぱり、ものすごい速さで腹を裂かなきゃだめかな。でも師匠より速くやるなんてぜったいに無理だ。なんとかならないかな。
そう思ったとき、腰に帯びていた水筒が少年の眼に入った。
だったら、溺れさせるのはどうだろう? これなら痛くないし、あんまり長く水に沈めたら苦しいだろうから、そこは様子を見て。
さっそく少年は小鍋に水を注ぎ、中に珍天蚕を突っ込んだ。驚いた珍天蚕は、手の中できゅうっと伸縮した。すぐに手を引き抜いて、彼は珍天蚕を台の上に戻した。逆流しちゃったかなぁと思いながらも、師匠と同じ工程で珍天蚕の頭をもいでみる。
結果として、少年の目論見は当たった。
珍天蚕のもいだ頭と一緒に、白い半透明の管がつるりと抜け出たのだ。
やったあ、と喜色満面で頭上を仰ぐと、師匠が呆然とした顔で彼を見つめていた。弟子の予想外の快挙に、師は少なからず動転していたようだった。
なんの反応も返ってこないので、お師匠、お師匠、と何度か呼びかける。すると師匠も我に返り、引き抜いた絹糸腺を酢水に浸すよう指示を出した。
そんなこんなで、半刻後には長さ三尺ほどの立派な絶糸ができあがった。
「素晴らしい。お前はやはり、賢いな」
手放しで褒めてくれる師匠に、誇らしさで胸がいっぱいになる。やっとこれで師匠に恩返しができると、少年は作ったばかりの絶糸を師匠に差し出した。けれど師匠は受け取らず、絶糸を彼の小さな掌に返して言った。
「それはお前の得物だ。お前が持っていなさい」
じゃあ朱州に着いたらお金に変えて、みんなで美味しいものを食べよう。姫には前からずっと欲しがってた、新しい衣服を買ってあげられるかな?
少年が嬉々として話すと、師は「日々の暮らし向きのために金に換えてはいかん」と彼を諭した。なんですぐ変えちゃだめなんだろう、と彼が小首をかしげていると、「お前は少し、欲がなさ過ぎるな」と苦笑いをされた。
師匠の真意はよくわからなかったが、絶糸はもっとすごく困ったときじゃないと使ったらいけないものなんだ、と少年は解釈した。
「ああ、それと。このことは決して翠姫らには言うなよ?」
どこか茶目っ気のある口調で、師匠はさらに念押しした。
あとでみんなに絶糸を見せようと思っていた少年は、内心どきりとして師匠を見上げた。師匠は「全部お見通しだ」と言わんばかりの表情で、少年の頭をぽんぽんと撫でた。
「あいつらが知れば、眼の色変えて絶糸を換金しようとするだろうからな。無為に金の亡者を生み出すような、罪作りなことをしてはいかんぞ?」
少年は師匠の言葉を鵜呑みにした。これを見せると「金のもうじゃ」になるんだ、と絶糸を外から見えないところに大切にしまい込む。
なんというか、良くも悪くも小童だったな、と大人になった彼は思う。
「さて、翠姫らのもとへ帰るか。不帰の森を抜けるぞ」
うん、と大きく頷き返して、少年は師匠のあとに続く。
その大きな背中が、彼の生涯の目標となった。