2-4
――まずいな、こっちに前線が迫ってやがる。
退避すべく凱夏が足もとを見たとき、急に風向きが変化した。
不帰の森は季節がら、頻繁に風向きが変わる。山脈の位置関係で西と東、双方の風の通り道となるのだ。
しかも、強風だ。
枝を握った腕に力を込め、凱夏は身体を支える。
風に乗り、いっそう明確となった煙が凱夏を打った。ぶわ、と焦げ臭い熱風が顔面に吹きつける。炭化した木の葉が肩をかすめ、後ろに吹き飛んでゆく。見開いた双眸からは、哀しみからではない生理的な涙がこぼれ落ちた。
向かい風だ。
炎の側からすれば、追い風。
青州から朱州へ、凱夏の目指す地へと抜ける突風である。
「畜っ生!」
悪態をつきながら、凱夏は猛然と木を下った。途中で枝を伝うのももどかしくなり、着地にはやや高い位置から手を離す。ばきばきと枝をへし折りながら、凱夏は地上を目指した。
木の枝である程度失速している。着地は普通に足からいく。
ずん、と鈍い衝撃が足裏から背骨まで駆け抜けた。
(大丈夫だ、骨は折れてない)
凱夏が顔を上げると、眼前には身をのけぞらせた明星がいた。驚かせてしまったらしい。
血相変えて木登りを始めた師匠が、いきなり空から降ってきたのだ。誰でも驚くだろう。
しかし、ここで悠長に説明をしている暇は凱夏にはなかった。
「ここを発つ! 急げ!」
結論だけ告げて、凱夏は引っかけておいたずぶ濡れの外衣を羽織った。明星もだらだらと雫の垂れる襤褸を着、凱夏のあとに続く。まだ乾かしていなかったのは不幸中の幸いだ。
凱夏は洗濯したばかりの外套を広げると、その上に小鍋や衣類を並べた。それらをくるりと絨毯を丸める要領で筒状にまとめ、明星に背負わせる。
左肩から斜めがけに回して、腹で筒の両端を結べば完成だ。ちょっとした背嚢である。
次いで、
「黎峯! そっちへ行くぞ!」
言いながらすでに泉に踏み入っていた凱夏は、
「ぷぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――っ‼」
愉快な黎峯の悲鳴によって迎えられた。
つまりはそれだけ驚いたということなので、凱夏も一応信頼されていたのだろう。約束を破ったことは申し訳ないが、命には代えられない。
「すまん、状況が変わった!」
じゃばじゃばと水をかき分けて、凱夏は棒立ちの姫に近づいた。
一応断っておくと、黎峯は別に素っ裸ではなかった。明星に持たせた予備の外套を、きちんと羽織っていた。だが、裏を返せばそれだけでもあった。
彼女が着ていた長裙は今、その手を離れて水面に浮いている。中身があられもない姿であることは、色に疎い凱夏でも想像がついた。
「がっ、ががががっ、が、がいっ、きさ……っ!」
呂律が回っていない。外套を胸にかき寄せ、耳まで赤くして立ち尽くす黎峯。
重ね重ね面目ないが、いかんせん状況が状況だ。
「すまん! 本当にすまん! あとでいくらでも謝るから、今は沈んでくれ!」
「は? し、沈むとはどういう――っぷごぁ!」
黎峯の問いかけは半ばで、むなしく水中に消えた。
凱夏が黎峯の肩を掴み、外套ごと泉の中に突っ込んだからだ。
別に殺戮に目覚めたわけではないので、姫が頭まで水に浸かったことを確認すると、凱夏はすぐに黎峯を引き上げた。見ての通り、耐火対策である。
げほげほと黎峯が咳き込んでいるうちに、凱夏は濡れた外套で頭から姫を包み直した。
「なっ――けほっ、けはっ……貴様、何をするっ⁉」
「西へ逃げる!」
言い切り、凱夏は黎峯を両手にかかえて泉を飛び出した。
早朝の森歩きで、姫の体力の低さは承知している。あれでは間に合わない。
逆に明星は、痩せてはいるが足腰は強い。思いのほか持久力もある。ならば、凱夏が黎峯をかかえて走るのが道理だ。
「西へ向かうことは知いておる! 何ゆえ、かような無礼を働いたか問うておるのじゃ!」
耳元で黎峯が怒鳴り返した。
言葉遣いが完全に戻っていたが、指摘してやる余裕も今はない。
「周りをよく見ろ! 奴ら森に火をかけやがった!」
「なにっ⁉」
凱夏の腕の中で、黎峯は顔面を引き攣らせた。
この頃にはもう、炎を孕んだ濃厚な煙が漂い始めている。森の景色もうっすらと白く霞み、どこか騒々しい。鹿や兎などの獣が、凱夏の脇をせわしなく走り抜けて行った。
──おかしい、変だ。
浅く息を切らしつつ、凱夏は考えた。
これほど直前になるまで、何故、誰も事態に気づかなかったのか。この森は方向感覚を狂わす以外にも、何か害があるのだろうか。まさか、すべてが偶然の産物ではあるまい。
(くそッ!)
疑念は尽きなかったが、今はそれどころではない。
考える贅沢は後回しだ。
まずは、生き残らねば。
追い風となった所為か、予想以上に火の回りは速かった。
暖炉の炎のような熱気が、今も凱夏の背中を容赦なく炙っている。
不安に駆られたのか、抱えた黎峯が金切り声で叫んだ。
「炎が迫っておるなら、何ゆえあの泉に留まらんのじゃ!」
「規模が違う! あんなちっぽけな泉じゃ、すぐ干上がる‼」
凱夏は怒鳴り返すと、直後固く口を閉ざした。両手に姫を抱えての疾走で、咳き込みそうになったからだ。
口呼吸は、鼻より渇きが早い。それだけ早く体力も消耗する。
凱夏は無言で、後ろの明星を気にかけながら、不帰の森をひた走った。同時に頭の中では、先ほど見た不帰の森の地形を思い描く。
(このまま西へ行けば――)
大きな川がある。先ほど木に登って、確認した。
真横を走る獣も同じ方角を目指しているので、間違っていないはずだ。
あの川幅であれば、この規模の火災でもくい止められるだろう。止められなかった場合も、凱夏が逃げる時間くらいは稼いでくれる。
走る。
走る。
走り続ける。
どれくらい、そうしていただろう。
長く感じられたが、実際はそれほどでもないはずだ。
ようやく凱夏の耳が、さわさわと流れる水のせせらぎをとらえた。
速度を上げてさらに駆けると、周囲の木々がふつりと途絶える。
突如、凱夏は光の中に飛び出した。
まぶしさに思わず眼を閉じる。
直後に瞼を上げると、背後の喧騒が嘘のように穏やかな川面があった。
「っぶは!」
詰めていた息を吐き出す。
咽喉の奥がひりひり痛む。
外の空気がやたらと美味い。
風向きか、あるいは地形の問題だろうか。
どうやら川の周囲の空気は澄んでいるようだ。
しかし、それも時間の問題だろう。そろそろ水に濡らした布で、口を覆う必要がある。移動もこれ以上煙を吸わぬよう、低い体勢で動くべきだろう。
「明星!」
明星はどうした。ちゃんとついてきているか。
肩越しに振り返ろうとして、半ばで凱夏はその動作を中断した。
つ、と背筋を走る悪寒。
その正体を考える前に、凱夏は黎峯を宙に放り投げていた。
「きゃあっ⁉」
「うひゃッ⁉」
悲鳴を上げる黎峯と、それにかち合った明星の仰天する声が重なる。たまげながらも黎峯を受け止めようとした明星は支え切れず、姫ともども草叢にどさりと倒れ込んだ。
──よし、こっちはこれでいい。
騒動を眼の端で捉え、凱夏は大きく身を捻った。
銀の軌跡。鋭利な刃が尾を引き、凱夏の腹をかすめて後ろへ抜ける。
視線を巡らした先には、黒い装束を纏った見知らぬ男たちがいた。皆、軽装である。機動性を重視したのか、甲冑の類は身に着けていない。
敵の数は五人。
いや金の瞳──龍だ。
訂正。正しくは、五名。
剣士と思しき一名を除き、皆が短槍を手にしていた。持ち手は右。森林戦には向かない長柄武器を、全員が短槍に切り替えて所持している。ということは、十中八九長柄が得意な青州龍だろう。あそこは槍の大家だ。敵の外齢は、二十代前半から三十代後半。実齢は不明。龍の齢は外見に左右されないため、これは参考程度にしかならない──。
刹那における凱夏の所感は、このようなものだった。
検分を終えると、凱夏は自分から敵との間合いを詰めた。
最初に凱夏が避けた短槍が、がつりと背木に突き刺さる音が鳴る。
それが耳に届くころには、凱夏はすでに攻勢へと転じていた。
変り身の速さに驚いたのだろう。
敵方で、わずかだが戸惑いの波が広がった。
(よし。推して行く)
機を逃さず、凱夏は手近な刺客に肉薄した。