放課後の密事
わたしたちは、昼間の教室で言葉を交わさない。
それは、どちらかが取り決めたわけではないけれど、いわゆる暗黙の了解に近いものだ。
昼間の黒田くんは、いつ見ても必ずといっていいほど本を読んでいて、わたしは柚希とガールズトークをして笑ったり、愚痴を言い合ったり、というお互いに交わることのない学校生活を送っている。
六限目の授業が終わり、ホームルームが終わった後。「今日は何するか」なんて会話を交わしながら、次々と教室から出ていくクラスメイトに紛れてわたしは空き教室へ向かった。
数分遅れて、前の戸が音を立てて開かれ今度は黒田くんが入ってきた。空き教室へ着くタイミングはわたしが早い日もあれば、黒田くんが早い日もあったりと様々だ。
あの日以来、わたしたちは放課後になるとここに集まって作業を進めていた。体育祭まで、あと三日を切っている。
作業は順調に進んでいて、色塗り作業も残すところ四分の一程度だ。これがもし柚希とのペアだったら、おしゃべりに花を咲かせすぎて今頃、夏休み最終日みたいに慌てていたに違いない。
初日の失敗以来、わたしたちは帰りが夜遅くなり過ぎないよう、日が沈む前の十八時に携帯のアラームをかけて作業を切り上げるようにしている。そうすることで、彼に気を遣わせないようにしたつもりだけど、一度ついた嘘は貫き通す主義なのか彼は毎日わたしの家の手前まで着いてきた。
あの日の嘘について、理由を問いただすような無粋な真似はしないことに決めたから遠回りしてまで送り届けなくていい、とは未だ言い出せずにいる。
「ぎりぎり間に合いそうだね!」
「そうだね、里中さんがサボらず手を動かしてくれたらね」
作業の進行具合が良好なことに余裕が生まれ、手よりも口を動かすわたしに、黒田くんは顔もあげず淡々とした口調で答えた。
相変わらず、あまり喜怒哀楽は読めないけれど時々こうして毒を吐いてくるくらいにわたしたちの関係は変化していた。これが進歩なのか、退歩なのかはわからないけれど。
「ね、そこの青取って」
わたしはそう言って彼の左足近くに横たわっている青の塗料を指差す。黒田くんはチラリとこちらを一瞥すると、いったん腕を止めてシャンプーの詰め替えパックのようなものに入った青のフラッグカラーを手に取り、「ん」とこちらへ腕を突き出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ねえ、今日は何の本読んでたの?」
「……ハリー・ポッター」
「あ! それなら知ってる! 魔法学校のお話だよね、石とか、巨大蛇とか」
初めて知っている本の名前が出てきて、嬉々として語るわたしに何故か黒田くんが苦笑にちかい笑みを浮かべた。
「何よ、その顔」
「別に」
黒田くんが苦笑いを引っ込めて、真面目な顔を作る。
「ところで青の塗料がいっこうに使われないのはどういうこと? まさか使わないものを俺の作業を邪魔するためだけに取らせたの?」
チクチク攻撃してくる皮肉に、わたしは肩をすくめて手を動かした。
空になった塗料皿にパックを押しつぶすと、空気の抜ける音がした。そのまま力をこめると、今度は紺碧色が流れ落ちる。皿が満たされたところで筆をとり、黒で縁どった内側を丁寧に塗っていった。
布を彩っていく鮮やかな青を見ながら、ふと、これが完成したらもう話すこともなくなるのだろうか、なんてことを考えた。
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アラームが鳴った。スカートのポケットから携帯を取り出して、目覚まし機能をオフにする。
何も言わずとも、黒田くんが筆や塗料皿を洗いに行って、そのうちにわたしは旗や塗料なんかを片付ける。見事な連携プレーだ。
片づけも終わり、さて帰るかという空気の中で「あっ」とわたしが声を上げると、背中を向けて立っていた彼が首だけをひねって振り向いた。言葉は発さないけれど、どうしたのといいたげな顔を浮かべている。
「机の中に宿題忘れた……」
はあ、と小さな溜息が聞こえてきたような気がしたけれど、空耳だと思っておこう。
空き教室を出て、廊下を渡り、一年五組とプレートの掲げられた教室へ舞い戻った。
一瞬、教室へ踏み込む足が泊まったのは、もう誰もいないと思っていた室内に、まだ人が残っていたから。
相手も、どうやら同じことを思ったみたいでぎくりと身を固めてお互いに見つめあう。
細川君だった。どうやら捜し物をしていたみたいで、机の中に片手を突っこんだまま首だけをこちらへ回して目を見開いていた。一体こんな時間まで何をしていたんだろうと思うけれど、そんなことを訊くような仲でもない。
束の間の沈黙。先に目を逸らしたのは、わたしだった。
視線をはずした一瞬のすきに、あたかも気にしてませんといった顔を装って教室へと入る。
細川君のほうも、たったいま魔法が解けて石から生身に戻ったかのように動きを取り戻し、大慌てで何かをポケットに突っ込むと、ガタガタっと何度も机にぶつかりながら走り去っていった。その取り乱しように肩をすくめて後方に立つ黒田くんを見遣ると、彼は微かに目を細めて、さっきまで細川君がいた場所を見つめていた。相変わらず、何を考えているのかわからない表情で。
視線をもとに戻し、さっさと本来の目的を遂行する。しゃがみこんで、机の中を覗くと目当てのプリントは一番上に畳んでおかれていた。迷わずそれを抜き取り、鞄にいれて彼と向き合った。
「帰ろっか」
そう声をかけると、黒田くんは一度だけ頷いて真っすぐ廊下へ出て行った。その背中を、小走りで追いかける。下駄箱で靴を履き替えて外に出ると、外はどんよりとぶ厚い雲に覆われていた。