傍観者
黒田くんは授業開始直後、科学室の後ろの戸を無遠慮にガラリとあけ、のそのそと教室に入ってきた。そしてそのまま、何事もなかったかのように一番後ろの空席に座る彼を、白髪頭の先生が板書していた手をやすめてちらりと一瞥し、興味なさげに短く注意した。
「黒田、遅刻だぞ。時間は守れよ」
「……はい、すいません」
低い声で、案外素直に謝罪の言葉を口にする黒田くんの声が地声なのか、それとも不機嫌な声なのか、わたしは彼と言葉を交わしたことがないから知らない。
先生は、気にする様子もなく再び板書に戻り、淡々と授業は進んだ。
「それじゃ、いまやったところを二人一組で実験してもらう。道具は前に用意しているから、各々で取りに来て開始してくれ」
その言葉をきっかけに、がやがやと教室中が騒めく。
科学教室に整列された六つの長机に座る席順は、特に決まりがない。だから自然と、仲のいい者同士で固まっている。隣に座る柚希と顔を見合わせ、アイコンタクトで頷きあった。
「うちが道具取ってくるから机片づけといてー」
「はーいっ」
道具を取りに行く柚希の言づけに従って、机の上に開かれたノートや教科書、筆記用具をまとめて足元の下棚に片づけていると、さざ波のようなひそひそ声が鼓膜を打った。
「──ピグレットにピノキオのコンビ?」「ここは夢の国かっての」「はぐれ者同士、仲良くやってんねー」
悪意に満ちた押し殺すような笑い声が、次々と聞こえてくる。
視線をやると、黒田くんと細川くんが組んで実験に取り掛かっているのが見えた。
黒田くんは聞こえていないのか無視しているのか、全く気にしていない様子で実験に集中している様子だ。細川くんのほうは、気まずそうに俯き、足元を見つめている。
細川くんが「ピグレット」だなんて呼ばれるようになったのは、入学から二週間が経ちほとんどグループが出来上がった頃、あるイケイケグループの男子のひとりが彼を弄ったのが始まりだった。
「おいー、お前さあ、細川なのに太いってどういうことだよ、ギャグかよー!」
深い意味なんてなかったのかもしれないその言葉と、どのグループにも馴染めず、言い返すことも出来なかった彼の内気な性格が災いした。
他の男子と総合しても身長の低い、ぽっちゃりとした彼。それがまるで例のキャラクターのようだ、と面白がったクラスメイトの誰が言い始めたのかは知らないが、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。
最初のうちは、嗜める声もあった。
「もー、弄るのやめなよー。可哀想じゃん」
同じく目立つグループの橘さん。
呆れた口調で注意する彼女に、言い出しっぺの男の子がムッとした感じで言い返した。
「でもお前だって、思うだろ?」
「…………」
彼女は答えなかった。
やがて、止める者はいなくなった。
同じクラスの空気が悪いのは、あまり居心地のいいものではない。それでも、止めることは出来ずにいた。ここでもわたしは傍観者だった。