56 汽水域でポッピング
おれが取り出したルアーの形状は……なんていうかな、鯉のぼりを短くしたようなもの。
サイズはおれの親指くらいだ。
「ほいっと」
おれのシーバスロッドだと軽すぎるルアーだが、風向きを考えて追い風に乗せると結構な距離を飛んだ。50メートル近い。
おれに背中を向けていたゼッポはキャストに気づいていない。
ちゃぽん。
と海面に波紋を広げ、そのルアーはぷっかりと浮いた。
そう、こいつは「浮く」のだ。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょ〜」
ぴょこん、ぴょこんぴょこんと水面を跳ねさせて手前に巻いてくる。
イメージするのは昆虫だ。昆虫が海に落ちて、ぴょこぴょこもがいている——。
この、水面を跳ねる姿からこのルアーを「ポッパー」と呼ぶ。
「む?」
かなり手前まで巻いたところでおれは気がついた。
ゆらりと白っぽい魚影が見えた——そこそこデカイぞ?
「むう……」
「アタリはなしか?」
ポッパーを回収したところでランディーが聞いてくる。
「うん。でも魚はいるな」
「ほう……なんだろうな。こういう港にいるのは、ハゼ、ウミタナゴ、イワシ……」
「サイズがもっと大きいから違うと思う——よっ、と」
おれはもう一度キャストした。ちゃぽん——と海に落ちる。
よし巻くかと思った瞬間だった。
「!?」
水中から魚の口ががぼりと浮き上がってきて瞬時にルアーを呑み込んだのだ。
「てめえかよっ!!」
おれは即座にロッドを引いて合わせた。竿先から伝わるガツンという手応え——かかった!
ジィィィとリールから糸がどんどん吐き出されていく。
このパワー。
さっきの白い魚影。
おれはすでに、そいつが何者か予測できていた。
「ご主人様!? 釣れたんですか!?」
「かかっただけ! 釣れてねーよ! こっからだ!!」
ロッドを持つ手に汗がじわりと染み出す。
かぁっと熱くなった頭。
心臓が信じられないくらい跳ねる。
ばしゃあっ。
水面にその魚は跳ねた。「エラ洗い」というヤツである。この瞬間、針が外れることがあるからおれはひやりとする。
だけれど見えた。
がっちりと針は、ヤツの口に掛かっている。
水面に出た姿を見ておれは確信した。
汽水域に多く生息し、川をさかのぼること、ときに何十キロと進む。
小魚と見れば食いついてくる闘争心あふれる海のギャング。
そのとてつもないパワーから、釣り人を魅了して止まない——。
「ぜってぇ上げてやるからな……シーバスさんよお!」
おれのロッドの対象魚にして、ルアーフィッシングの王道中の王道、シーバスだ。
和名はスズキであり、セイゴ、フッコと体長に応じて名前の変わる成長魚でもある。
湖や川でのバスフィッシングは「ブラックバス」を釣るから「バス」なのだが、「海釣りで似たような釣りをやる対象魚だから」という理由で「シーバス」という名前をつけられてしまった魚でもある。まあ、ヨーロッパスズキが「シーバス」と言うからそこから持ってきたらしく、あながち大きな間違いでもないようだけど。
「引く、引く、引くなぁ……!」
まさにシーバスのために調整されたロッドがぐんぐんしなる。
これだよこれ、これが釣りたかったんだよ——とでも言いたげなほどに。
ザバァッ。
水面に銀色のヒレが現れた瞬間、シーバスはぐるりと身体をひねった。
水しぶきが立つ。
そこそこ大きい——60センチはある。
「な、なな、なんだよあれ!! あんなデカイ魚見たことねぇ!」
ゼッポの声が聞こえてくるが、構っている余裕はない。
気を緩めず、ロッドの傾きを調整しながら糸が緩まないようにする——だがあまりに糸を張りすぎると糸切れを起こす。
絶妙の張りを保つために、ロッド、道糸、リールの3つが威力を発揮する。
道具の力と、人間の腕、これらをもってファイトを完璧に楽しめるのがシーバスフィッシングだ。
「今さらながらハヤトさんの釣りはすごいな……迫力がある」
「あ、ああっ! お魚が近づいてますぅ!」
「すごいなあ! 私も釣り竿を出すべきだった!」
来い、来い、来いっ……針から外れてくれるなよ……!
ついにシーバスとの距離が30メートルを切ろうというときだった。
もう魚影は水面近くて、かなりへばってきている。このまま行けば勝てる——おれはそう確信していたんだ。
水しぶきが、立った。
なにか——銀色のなにかが投げ込まれたのだ。
シーバスのすぐそばに。
その直後、
「!?」
おれの手にかかってくる、あり得ない力。
シーバスの動きでは考えられない横への移動。
水面に赤いものが広がる。
「ッ!」
腹を横にしたシーバスが水面に上がる。
その身体には深々と銀の針が刺さっている。
碇のような形をしているダブルフックの針。これが10本。円を描いてぶらぶらしているのだ。
横取り——いや、それよりもなによりも——。
おれの思考が空転する。
突然のことにどうしていいのかわからない。
「あ」
ロッドにかかっていた力が不意に抜けた。
針が外れたのだ。
おれは呆然とそちらを見る。
シーバスが引き寄せられるほうへ。
おれから10メートル離れたところでシーバスを引き寄せている男がいた——5人の騎士を引き連れた、釣り人が。
「おお、これはいいサイズのシーバスですな」
「さすがはライヒ様!」
「はははは。私の手に掛かればたやすいものだ」
「——ちょっと待て!」
声を上げたのはランディーだった。
釣った男へと向かっていく。
男はさらさらの、緑がかった前髪をいじっている。魚は騎士のひとりが針から外していた。
いけ好かない感じのイケメンではあった。
「横取りではないか!? なにを平気な顔で喜んでいる!」
「なんだ貴様は」
「私が誰かなど関係ない! そのシーバスを釣ったのはハヤトだ! 返してもらおう!」
すると男を中心に、騎士たちが笑い声を上げる。
「なにがおかしい!」
「魚を釣るというのは魚を陸に揚げることだ。その男が陸に揚げたものを私が奪ったのならば、返すこともやぶさかではない。だが海の中にいた魚だぞ?」
「明らかに横取りしていたではないか!」
「世界中どこを見ても釣りの公式ルールとして『陸に揚げた者が釣った者とする』とある。横取りとは無礼だぞ!」
騎士が威嚇するように大声を上げると、腰の剣に手をかける。
それでもなお抗議しようとするランディーの横から、リィンが身体を割り込ませる。
「……ランディーさん、彼らはアガー君主国です」
「! だ、だからと言って——」
「ランディー」
そこへおれが、彼女の肩に手を載せた。
「……これはおれの問題だから」
おれは、ライヒと呼ばれていた男へと向き直る。
「なんだね? 君もまた、自分が釣った魚だと主張するのか?」
「あのさ、聞きたいことがあるんだけど。それギャング針だろ?」
「……そうだが」
おれの発言内容が意外だったのか、ライヒは眉をひそめる。
「どうしてそんな針を使うんだ?」
「どうして、だって? アッハハハハ! 簡単なことじゃないか。釣れるからだよ。魚の活性が高かろうが低かろうが釣れる。こんなにすばらしい仕掛けはない!」
そうか。
知ってて使っているのか……。
「ギャング針」についてはおれも知ってる。でも最近使っている人間はほとんどいない。というより「禁止」にしている釣り公園もあるくらいだ。
この針を使ったギャング釣りというのは、大量の針を投下して魚のいるところを通す釣りだ。ずるずる底を引いてカレイを引っかけたりする。
魚が反応するとかそういうのは関係ない。引っかけて、ぶっこ抜くのだ。
ではなぜこれが禁止されているのかと言えば——。
「……魚が、暴れるだろ。身体に傷をつける。無用に苦しませることになる。ちゃんとかからず傷だけつけることだって多い。ギャング針は海に優しくない」
ふつうの釣りならば釣りに失敗してバラしても、口の部分に傷がつくだけだ。流血量も極小だ。
だけどギャング針は否応なしに魚を傷つける。傷ついた魚は弱り、死に至ることだってある。
「ぷっ、くくくくく」
ライヒが噴き出すと、騎士たちもまた爆笑した。
「う、う、海に優しくない! ヒー! 笑わせてくれる! ——ビグサーク王国の名誉国民とか聞いていたから、どれほどの釣り人かと思えばたいしたことはなかったな」
「——なっ!?」
「行くぞ。こんな魚、要らんわ。くれてやる」
シーバスを放り投げると、ライヒはこちらに背を向けて歩き出した。
「ぐっ」
「ランディーさん」
食ってかかろうとしたランディーを、リィンが止める。
弱ったシーバスが、その銀色の身体を血と泥で汚して、こちらを見上げていた。
今ではギャング針なんて、だいぶお年をめした方しか使わない印象ですね。
次回はこのアガーという国の話です。




