6 MA☆鯛
「う、うおおお……頭痛てぇ…………」
翌朝、おれ、悶絶する。
目を開けようとして、めやにのせいでまぶたがなかなか開かないという事態に陥る。おれ、知ってる。第二次大戦後の日本で粗悪なアルコールが出回って、そいつを飲み過ぎると目やにでまぶたがくっつくんだよな。
え、昨日の酒ってヤバイやつ……?
「つか、二日酔いじゃあ会社行けねーじゃん! 何時だ今!?」
時計を探す。あれ、テレビの横に置いてあるデジタルの時計がない……っていうかテレビがない……っていうか、
「どこだ、ここは」
おれの膝の上にどこの馬の骨ともしれぬオッサンの足が載っている。
テーブルには食い散らかした皿。
開かれた窓の外、しらしらと空け始める空が見える。
「あー、そうかそうか……フゥム村の釣り大会の、打ち上げに参加してたんだよな」
でもってランディーだけでなくオッサンたちとも飲みまくって、そのままぶっ倒れるように寝て、二日酔いで……、
「じゃねえよ!? なんだよ、これ、夢じゃ、夢じゃなかったのかよ……!?」
おれ、パニクる。
心臓が変なふうにどくんどくんいってる。お、落ち着け。まずは己の置かれている状況を考えよう。
漁村のフゥム村。おれが持っているのはライフジャケットに釣り竿にタックルケース。今の時間は夜明け寸前。
「夜明け前!? そうだ――」
ハッ、として顔を上げる。
「――釣りしよ」
やっぱ魚が活性化する早朝の時間を逃すワケにはいかないよな!
村はひっそりとしていて死んでいるようにすら感じられた。
湿気た空気はひんやりと、二日酔いの身体に心地よい。
昨日、アジを釣った桟橋へと歩いていく。
おれ、考えたよ。
たぶん――おれは、異世界にやってきた。
釣りの帰りに、冷凍マグロの奇襲を受けて。
どんな因果かはわからないけど、意識ははっきりしているし、これが夢の中と片づけるにはリアリティがありすぎる。
や、アホほど釣れる海とか、食べると若返るアジとかはリアリティないんだけどな? それ以外の部分だ。二日酔いの頭痛も本物だし、踏みしめる桟橋の感触も生々しい。
事故で植物状態になったおれが見ている夢だ、となったらかなり寂しい気がするが、どうも違うように感じられる。あのな、整合性というか、ちぐはぐなところがないんだ。
あとおれは、夢か夢じゃないか、自分なりに判断できる基準がある。
全力疾走するんだ。
それで、水中を走ってるような感じになれば夢。こればっかりは子どものころから外れたことがない。
ついさっき走ったらふつうに走れた。走ったあとちょっと吐きそうになったけど。
ともかく――夢じゃ、ない。
「どうしよ」
この世界……日本じゃない。だけど日本語が通じる。書いてる字が日本語によく似ていた。でもちょっと違う。あと住人は日本人顔じゃないんだよな。それに緑や青の髪の人もいる。ファンタジーかよ、ははは。ファンタジーて。はははは。笑えねえ。
文化の程度も違う。テレビはない。ケータイもない。ビルもなければ車もない。
ただ……魔法が、ある。
昨日の集会場にはランプもなにも明かりがなかったはずだけど明るかった。
それが魔法、らしい。
あと調理場がやたら汚かったろ。でも皿に抗菌の魔法がかかってるから食中毒にならないらしい。
酔っ払ったときに聞いたもんで「ははは、魔法ね~。わかるわかる。魔法便利だよね~」とおれはランディーの言葉をテキトーに流してたけども。
魔法て。
魔法が発達してるから電気を利用した科学技術が発展していない、というのは説得力がある仮説だった。
だが、とにもかくにも。
「……おれにできることは?」
立ち止まる。
焦がれたような空が、東の稜線に現れる。日が出るまであと15分というところ。
「釣りだよな」
目の前は海。豊穣の海。
とりあえず釣ろう。釣るチャンスがあるのに釣らないでなんていられない。
昨晩、ランディーも教えてくれたんだ。
――この大陸では釣りができるヤツが偉い。ハヤトよ、お前がその気ならすぐにも爵位をもらうことができるぞ。
釣りができるヤツが偉いとか。デュフフフ、弊社の釣りゲーの話ですかな? おっと違いましたな。弊社のゲームは「釣りができるヤツ」ではなく「課金できるヤツが偉い」でしたな。……札束で殴り合う釣りゲームとかなんなの?
じゃなかった。仕事のことを考えていると違う意味で吐き気が込み上げてくる。忘れよう。
異世界に来ることができるなら、元の世界にも帰れるんじゃね?
釣りをやって偉くなる。
偉くなって元の世界に帰る手段を探す。
これだ。当面の目標はこれ。
面倒なトラブルに目をつぶってとにかく釣りをしたいだけだろ? というツッコミは認めない。
「ぃよっし! やるぜ~」
おれはルアーを装着してキャストする。
海面に落ちたルアーはひらりひらりと小魚の動きをしている。リールを巻いて手前に引き寄せる。
「……ん?」
違和感。
昨日と違う……なんだ?
「魚がいない?」
昨日、アホほどいた魚が今はなりを潜めている。
なんだろう。全然いないわけじゃないんだけど、あの魚影の濃さはない。あと食い気もないっぽい。
目を凝らしてもちらりとしか魚影が見えない。底のほうにいるけど……。
「釣りですか、ハヤトさん」
村人が数人やってきた。おれが釣りをするのを見たいらしい。
魚影が少なく、食い気もない……となると小型のルアーにしてみるかな。
これでアピールして食い気を誘ってみよう。
「来いよ~……」
水深は深くても8メートルくらい。手前は3メートルといったところ。
海底は砂地だ。白っぽく見える。
その中でも黒いエリアがある。これは根――岩礁だ。
魚は根に居着く。岩礁が小魚を育て、それを捕食する大きな魚を呼び寄せる。
おれはねちっこく根を攻めた。
キャストしては根のあたりまでルアーを落とし、派手にしゃくってアピールする。
手応えはない。
よし、ルアーを変えてみよう。なるべく派手な色だ。自然界には絶対いねぇよなこれ、っていうレインボーカラー。
「おっ」
クンッ、と引かれる感触。
来た……。
来たぁぁぁぁぁああああああああああ!!
即座にロッドを立てる。この「合わせ」が重要だ。合わせることで魚の口に釣り針を食い込ませるのだから。
特にルアー。ルアーは無機物だ。魚は、ルアーを口にした瞬間「違和感」を覚えるのでペッと吐き出すことがほとんど。だから余計に「合わせ」が重要となる。
「お、おおっ、おおおおおお!?」
釣り針の食い込んだ感触。
その直後、めっちゃ引く。ぐん、ぐん、ぐんっ、とリズムに乗って突っ込むような引き。
「すっげ、ぇ、な……なんだこいつ」
頭に血が上る。二日酔いの頭痛が消え去る。左手で巻くリールの感触、右手でこらえるロッドの感触、そして道糸の向こうにいる魚――おれの意識はこれだけに収束される。
とんでもない引きだ。だけど、こっちだって負ける気はない。引いてるときには無理に巻かない。緩んだ瞬間に巻き取る。この繰り返しだ。
なんだなんだなんだ? なんの魚が釣れたんだ? 興奮とわくわくがおれの心を支配する。
そして――魚影が海面に現れる。
「えっ……?」
目を、疑った。
真鯛だ。
真鯛であることは構わない。
でも……こんなに引きまくったのに15センチ程度だ。
どんな魚であれ30センチを割ることはあり得ないと思ったのに。
「どっしゃあああ!」
おれ、無理矢理ぶっこ抜いた。ちっちゃい真鯛相手に大人げないとか言わない。めっちゃ引いたんだよ。焦ったんだよ。
真鯛が桟橋の上に載って、びちびちと跳ねる。
「……うわ…………キレイだ」
サイズが小さいからだろうか。信じられないくらい美しい真鯛だった。赤とオレンジの中間くらいの色。そこにピンクを混ぜたような感じか。
瞳は宝玉を埋め込んだようであり、持ち上げたおれの手の上でびちびちと跳ねるその肉体は、全身がバネかと思えるほどに引き締まっている。
それに、なんだろう……その魚体は金色の光をまとっているかに見えたんだ。
朝日が、差し込んできた。
太陽を浴びた真鯛は、陽光を反射してピンクゴールドのような輝きを見せた。
でも、15センチの真鯛だ。食べるには及ばない。
おれはがっつりと口に針がかりしているルアーを外してやる。屈んで腕を伸ばし、真鯛を海面につけてやる。
「また会おうな」
そう、声をかけて。
「え!? は、ハヤトさん!?」
「ちょちょちょちょちょっと、なにやってるんですか!?」
あわてる村人たち。
そりゃリリースでしょうよ。こんなちっちゃい子を食べたらあかんですよ。真鯛のちっちゃいのは「チャリコ」って呼ばれてて、基本はリリース対象だ。
千葉に鯛の浦っていう場所があってそこの真鯛は天然記念物に指定されてるんだ。もしもそこで釣ろうものならどんなサイズでも絶対リリースだぜ。
真鯛は元気に泳いでいったと思うと、ちらりとこちらを振り返った。海中からおれを見上げている。
お? なんか……言いたげにすら見えるぞ。
元気でな。できればでかくなってまたおれに釣られてくれ。
真鯛は去っていった。
「い、いや、ハヤトさん、今のって……」
「真鯛だよ。小さかったけど」
「魔鯛ですよ!?」
「わかってるって」
「いやいやわかってないですよ、魔鯛ですからね!?」
「わかってるよ? 真鯛だろ?」
なんでこの人はマダイマダイと連呼するんだろうか。おれにだってマダイとハナダイの違いくらいわかるぞ。エラと尾びれの縁が黒いのがマダイ、赤いのがハナダイだ。味はたいして変わらん。無駄知識だ。
なんかよくわからんが、村人たちは唖然としていた。
本日3本目の更新です。
マダイは一般的なルアーでも食ってくるみたいですが、船釣りだと鯛ラバが有名ですね。あんなもんなんで食うの? って思うくらいの形ですが……。