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9.炎

 タクシーの支払で再び一悶着があったが、経費だから、それに座席はこちらが譲歩したのだから、と押し切られて、砂映はお金を出せなかった。そう言われると、むしろ奥の座席に座ってくれたのは支払をさせないためだったんじゃないか、とすら思われてくる。

「というか正直なことを言うなら、僕個人としても、雷夜の問題は放っておけない。砂映さんが僕に恩を感じる必要なんて、微塵もありません」

 ソフトに見えて、この人結構頑固だな、と砂映は思い始めていた。

 まあ、頑固な人は嫌いではない。

 細くて急な坂道を上ると、見上げるような高さの鉄格子の門がそびえていた。暗い色の緑が道の両脇にうっそうと繁り、その奥に無機質なコンクリートの建物が見える。ふわあ、と砂映が眺めている間に、明水は脇の読み取り機にパスケースをかざした。ピ、と電子音がしたかと思うと、古めかしい門がぎぎぎ、と横移動して開いた。「あ、すぐ閉まっちゃいますから」明水がひょい、と通り抜ける傍から、幅一メートルほどの門はゆっくりとこちらに戻り始めている。砂映も慌てて通り抜け、横分魔法研究所の敷地の土を初めて踏んだ。

 人の会社のことをとやかく言うのは気がひける。しかし……

「辛気臭い建物でしょう?」

 砂映の心を読んだように、明水がいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「まあ、正直言いますと、はあ。まあ、趣があるというか」

「うちは会社設立自体は松岡さんほど昔じゃないんですけどね。母体となった研究所が古かったみたいで」

 話しながら、ツタの絡まる建物の中に入った。

 内装は意外に新しく、小ぎれいなオフィス然としていた。ロビーの脇には商談テーブルが並び、向かい合って話すビジネスマンがちらほらと見える。その中に、突き出るような坊主頭。鯉留がいた。何か察したのかふいに彼は振り返り、砂映ともろに目が合った。

 砂映はびくりと肩を震わせた。

 ちょうど話が終わったところらしかった。相手も社内の人間だったようで、じゃあ、という感じで奥の階段へと去っていく。鯉留はテーブルの上の資料を手早くしまうと立ち上がり、砂映たちの方へずんずんと歩いてきた。砂映は思わず逃げ出したい衝動に駆られ、脇に置いてある観葉植物の裏にでも走り込もうかと思った。が、そうこうしてる間に、鯉留はもう目の前に立っていた。

「おやおやおや。砂映さんがどうしてうちに?どうなさったんですか」

 芝居がかったような大声で言う。「ええと、こんにちは。お世話になっております」砂映がためらいがちに言うと、鯉留は響く声で妙にはきはきと、「いえいえこちらこそ、お世話になっております!」ぐんと大柄の身体を折るようなお辞儀をした。にいと笑った顔が爬虫類のようだ。何もかも知っているような、そんな感じに見える。

「雷夜くんがこちらに来ていると聞いたんですけど、どこにいるかご存知ですか」

 どう出るか決めかねていた砂映のかわりに、明水が横から訊ねた。内心の見えにくいにこやかな顔で、いきなり真向斬りこんだ。

「……え?雷夜ですか。懐かしい名前ですねえ。こちらに来ている?へえ。それでどうして、私が彼がどこにいるのか知っていると思うんですか」

「ただ、ご存知かなと思っただけですよ」穏やかな笑みをたたえたまま、明水は言う。

「砂映さんがそう仰ってるんですか?」

 線のように細めた目を、鯉留は砂映に向けた。「あ、ええとその、なんというか」砂映がしどろもどろしていると、

「鯉留さんはしょっちゅう松岡さんに行ってるから、最近雷夜に会ったんじゃないかと思って」明水がにこやかに言った。

「ははは。そりゃあ松岡さんにはよく行っていますけどね。行ったからといって、そうそう会ったりはしませんよ。それより明水くんの方こそ、いつから砂映さんとお知り合いに?」

「今日初めて会ったんですよ」

「あなたの担当は技術第一部だけのはずですよねえ」

「ええ」

「私の仕事の邪魔をしないでいただきたい」

「それはもちろんです。鯉留さんのお邪魔をしたいなんて、一度たりとも思ったことはありませんよ」

 砂映は会話する二人を交互に見ていた。二人とも笑顔だ。なのに妙に不穏なものが漂っている。

「ではこれで僕たちは失礼します」

 切り上げるように明水は言った。しかし鯉留はそれを許さなかった。

「砂映さんをどちらへ連れて行くんですか?」

「どちらって……砂映さんには応接室でお待ちいただきますよ」

 明水はあっさりと言った。へ?という顔を砂映は向けたが、明水は落ち着いた笑みを崩さない。

「待つって何を待つんですか砂映さんは」

「彼は雷夜くんがうちに来てると思ってるんですよ。だから僕は彼を探さないといけない」

「いるわけないでしょう。部外者は、申請して許可が出ないと実験棟には入れない。元研究員だって同じです」

「僕は実験棟に雷夜くんがいるなんて、一言も言ってません」

「オフィスの中なら砂映さんは同行してもいいわけだから、待たせるということは実験棟だと私は思ったまでですよ。明水くん、あなた私のことを疑ってるんですか?」

「疑うって、何を疑うんです?」

「私が雷夜の所在を知っていると……」

 その時だった。制服を着た事務職らしき女性が、メモを持って鯉留のところに走ってきた。息を切らせ、「お話し中申し訳ありません」と前置きしつつ、三人の前で一気に言った。

「実験棟504の雷夜さんから急ぎのお電話が入ってます」

 言い終えると、彼女は走り去った。鯉留は目を見開き、こめかみに筋の浮きそうな表情をしていた。明水と砂映は無言のまま鯉留の顔を見て、それから互いの顔を見合った。しばしの後、鯉留はふいにすっと力を抜くと、「失礼」と言って早足で歩き出した。競うように、明水も歩き出した。砂映もその後ろに慌てて続いた。鯉留は手近な応接室にずかずかと入っていくと、電気を点け、隅に置いてある電話機を手に取った。荒々しくボタンを押し、「ここに回せ」と言っていったんがちゃんと受話器を置く。すぐに呼び出し音が鳴った。鼻息を出し切るように呼吸して、鯉留は受話器を手に取った。

「待たせてすまないね。どうしました」

 砂映は鯉留の脇で耳をそばだてた。相手は雷夜のはずだが、その声は聞こえない。

「聖水?ああ、そんなのはお安い御用ですよ。すぐお持ちします」

 がしゃん。

 受話器を置いた鯉留は、いつの間にか自分の足元にしゃがみこんでいた砂映に気がつくと眉をひそめた。

「明水は?」

「明水さんは実験棟へ。僕はここで待つように、と」

 鯉留は舌打ちをした。明水が雷夜に接触するのは快くないのだろう。が、その一方でそれほど焦る様子もない。

「お構いもせず申し訳ありませんが、そうしてください。というか、待っても無駄ですがね」

 ため息をつくように、鯉留は言った。

「……あの、鯉留さん」

 会議室を去りかける鯉留に、砂映は呼びかける。

「雷夜の他にもう一人、うちの社員来てませんか」

 鯉留は表情を変えずに切れ長の目を砂映に向けた。「さあ」

 砂映は上目づかいで鯉留を観察する。……だめだ。何の感情も読み取れず、嘘をついているのか本当に知らないのかもわからない。

 鯉留が出て行き、扉が音を立てて閉まった。砂映は懐からメモを取り出す。「504」と「8113」。記憶力に自信がないので、すぐに書いておいた。一つは雷夜がいると言っていた、部屋の番号。そしてもう一つは、鯉留が話していた電話の電話機に、表示されていた番号。……独自の内線ルールがあり、たとえば頭に特定の番号が必要で、それは表示されないのだとしたら、それでもうアウトなのだけど……。

 砂映は立ち上がると受話器を持ち上げ、四桁の数字のボタンを押した。呼び出し音が鳴り、番号が「有効」であったことがわかった。かといって、誰かが取るとは限らないし、雷夜が取るとは限らないし……。

「もしもし」

 五回の呼び出し音で、相手が出た。

 比較的高めの、少年めいた、けれど妙に落ち着いた硬質な響きのある、すべての音を明瞭に発音するような、声。 

「雷夜……くん?」

 確信があったにも関わらず、時間稼ぎのように訊ねていた。返事は返ってこなかったが、わずかな息の音が、肯定の意思表示のように聞こえた。

「その」

 砂映の頭の中はぐるぐるだった。訊きたいことが山ほどあったはずだ。いやでも、今はそれを優先するべきではない。いつ切られてしまうかわからないのだ。ちがう、まず一番に伝えるべきことは……

「その。俺は……おまえと一緒に働きたい。俺は、おまえと一緒に働きたいと思ってる」

 我知らず、耳のあたりが熱くなっているような気がした。頭がぼうっとする。受話器からは、相変わらず何の声も返って来ない。けれども通話は繋がっている。切られてはいない。相手はちゃんと、聴いている、はずだ。

「おまえの知識とか、技術とかとはレベルが違うとは思うけれど。でも、あれだ、せっかくカスタマーサービス室に配属になって、まだろくに仕事もしてないんだし、今やめるなんて、ちょっと早すぎるんじゃないかと、そう思うんだ」

 沈黙。雷夜がどんな顔をして、どう思っているのか、まるでわからない。

「まあ、おまえがどうするかはおまえの自由だと思うし。俺がとやかく強制することはできないけど。その……もうちょっと松岡でがんばってみてもいいんじゃないかと、俺は個人的に思うというか……あと、ちょっと話聞いたんだけど、おまえはうちの会社を救うレベルのことしたんだよな。それで、ちゃんと特別報酬とかもらったのかなと。もらってないなら請求していいんじゃないかなと。もっとふんぞり返っていいくらいじゃないかなと。で、その凄いことでうちの会社はもっとおまえを優遇すべきだったと思うんだけど、その一方で、おまえはうちの重要機密を握っている立場ともいえるわけで、うちの会社はちょっとおまえのことを恐れているんだ。……いや、もちろん悪いのはちゃんとしてない会社側だと思う。おまえに非があるわけじゃない。で、とりあえず会社はそのあたりをちゃんとしたいと思ってる。だから一度来てほしいんだ。あの退職願はまだ受理されてない。あんな紙切れ一枚で、会社との縁ってのは切れない。そんな簡単には済まない。ちゃんと話をして、双方納得のいった状態で、自分の意思を通すべきだと思う。だからともかく、今から一緒に帰ろう」

 やはり沈黙。

「それともう一つ……その、秋良が行方不明なんだけど、そのことについて何か知ってることがあったら、教えてほしい」

 沈黙。砂映は待った。受話器の向こうの雷夜の思いも状況も、何もわからない。けれども言うべきことはひととおり言ったつもりだ。辛抱強く、砂映は耳をそばだてる。

 唇か、舌か、喉か。生体のどこかがわずかに動いたような、そんな音があった。

「頼みがある」

 通常と変わらない、淡々とした雷夜の声がした。

「一階オフィスの入り口から入って左手の壁の一番奥に鍵の保管庫がある。そこからB302の鍵を取って持ってきてほしい。オフィス棟から実験棟に移動するルートはいくつかあるが、地下三階の廊下を渡って来て、入り口で内線0751で呼んでくれ。秋良のために必要なことだ」

「ちょ、待て。どういう……」突然の一方的な指示に、砂映は面食らった。何がどうなってるんだ。秋良は一緒にいるのか、いないのか。

 質問が頭の中にあふれたが、それよりも、まずは今の内容を確保しなくてはと思い直す。

「悪い、ちょっと待て。メモするからもう一回」砂映は急いで受話器を肩に挟み込み、メモ帳にペンを走らせた。「鍵が、左手の壁?で鍵はええとB……」

「302」

「で、地下三階。内線番号が」

「0751」

「わかった。B302。地下三階の入り口で内線0751。その……秋良は今、一緒にいるわけではないのか?」

「ない」

 ない……

「でも、ええと、その建物にはいるのか?」

「いる」

 一文字でも間違えると正常に機能しない、魔法陣と問答しているような気分になる。まあ、雷夜なので仕方ない。とりあえず、秋良もいるのなら、よかった。

 電話を切る前に、他に確認しておくことはないだろうか。訊きたいことは山ほどあるが、絶対今訊いておかないと困ることは……

「あ……ええと、あ、鍵って、俺みたいな部外者に渡してもらえるのかな。おまえの指示って言ったらいいのかな」

「こっそり取る以外ないだろう」

 ええ?

「いやちょっと待て。それって泥棒……」

 受話器の向こうで、くぐもったノックの音が響いた。

 ――雷夜、ここにいるのか?

 わずかに聞こえたのは、明水らしき声だった。

 そうしてその瞬間、断りもなく通話は切られた。

「……え?」

 自分の手に残ったメモを、砂映はもう一度見直す。

「ええと?」

 よそ様の会社で、皆さまが働いてらっしゃる日中に、オフィス内の保管庫から鍵泥棒。

 そんなことに挑戦したら、確実に手が後ろに回る。

 砂映は先ほどの内線番号を必死の勢いでもう一度押した。

 呼び出し音が鳴り響く。

 けれどもいつまで経っても、もう誰も、電話に出てはくれなかった。


 とりあえず、砂映は走ることにした。

 息せき切って有無を言わさず頼まれると、人は断りにくいのではないだろうか。そんな思いつきにすがることにした。ついでなので地下三階の下見をすることにした。ロビーの奥に階段を発見し、駆け下りた。薄暗い廊下の左手は壁、右手に会議室か何かの部屋が並んでいる。人の気配はまったくなく、あたりはしんと静まり返っていた。砂映は突き当たりまで走り、コーナーを曲がった。まっすぐ先にねずみ色の扉がある。あれが実験棟への扉だろうか。扉の傍に、数字ボタンの並んだ装置がついている。ふむふむ、と足踏みしながら確認して、また走り出す。角を曲がって無機質な廊下を突き進むと、下りてきたのとは別の階段があった。そこを駆け上がる。上り階段三階分は、寝不足運動不足の身体に堪えた。抑えようとしても抑えられないほどに息が上がってきた。よし、この勢いで突っ込んでやる。

 行き来する人たちに何度もぶつかりそうになりながら、砂映はぜえぜえと走った。オフィスに入るには社員証を読取装置にかざさなくてはいけないようだったが、ちょうど入ろうとしている人がいた。「あ、すんません」砂映が続いて入ろうとすると、その人は親切に扉を押さえてくれていた。その人の後について、よろよろと人々が働く空間に入り込む。等間隔で机の島が並び、スーツや制服を着た人たちが着席して資料やら伝票やらに向かっている。時折電話やFAXの電子音が鳴りはするが、松岡に比べてえらく静かだと砂映は思った。話し声はないわけではないが、トーンがおとなしい。電話で話している一人は、口元を手で覆うようにしている。扉が開いて誰かが入ってきたからといって、顔を上げてこちらを見るような人もいない。机の上に目を落とし、淡々と仕事をこなしているように見える。こんなところに鯉留がいたら、声の響き一つとっても、目立って仕方ないのではなかろうか。明水さんなら、それなりにうまく溶け込んだりしそうだけれど。

 誰もこちらに関心を持っていないようなので、確かに雷夜の言う通り「こっそり取る」ことができそうな気もした。件の保管庫もすぐにどれかわかった。しかし、もしも誰かに訊ねられたら、「他社の保管庫の鍵を無断拝借」の非常識を、どう言い訳していいのかわからない。やはり当初の予定通り、誰かに頼むことにしよう。そう思ってフロアを見渡す。ちょうどよく、島の末席、つまり部長席側と反対の、こちらに近い方に、先ほど鯉留に雷夜からの電話があったことを告げに来た事務職の女性を発見できた。

 まだ荒い息を残しながら、砂映は彼女の席に近づいた。すぐ横に立っても、彼女は顔も上げない。時折電卓を叩きながら、書類に数字を書き込んでいる。中断すると厄介な作業なのかもしれない。砂映はしばらく彼女の席の脇に立ち続けて、待った。彼女のまわりの人たちも、特に砂映に注意を向ける様子がない。

「すんません。その」

 数字を書く手が紙の下まで達し、彼女が軽く息を吐き出しながらページをめくろうとした瞬間に、砂映はようやく声をかけた。彼女はおかっぱ頭を揺らし、やや不機嫌そうな顔をして、砂映を見上げた。

「なんでしょうか?」

 言いながら、億劫そうではあるものの、立ち上がる。

「その……鯉留さんに、急ぎで鍵を取ってくるように頼まれたんです。あ、私は松岡デラックス魔法カンパニーの砂映・Kと言います。ちょっと急いでまして。鍵はそこにあると思うのですが、勝手にとってもいいものでしょうか」

 砂映がそう言い終えるか終えないかのタイミングで、彼女は椅子と机の間から出ると、後ずさって避けた砂映に一瞥もくれずに鍵の保管庫に向かった。その手には、オフィスに入る人が読取にかざしていた社員証らしきものが握られている。彼女はずんずん歩いていくと、保管庫の横の壁にある読取装置に社員証をかざした。どうやらそれがないと開けられないらしい。やはり「こっそり」は無理だったじゃないか、と砂映は内心雷夜に悪態をつく。いやまあ雷夜なら、その場で解除する魔法を構築して開けるくらいのことをしてしまいそうでもあるが。

「どこの鍵ですか」

「あ、ええと、B302、B302です」

 片手のメモに念のため目を走らせながら、砂映は慌てて言った。彼女は迷いない手つきで該当の鍵を掴むと、砂映の手に押し付けた。「返す時は、私に返しに来てください。私が不在の場合は、他の人に預けて伝言ください」

「あ、その、お名前を教えてもらってもいいですか」

べにといいます。紅・Aです」

「わかりました。どうもありがとうございます」

 ぺこりとお辞儀をすると、砂映は出口に早足で向かった。扉の前でもう一度振り返ってお辞儀したが、紅はもう、こちらを見てもいない。しかしどういう場所の鍵かよくわからないが、こんなに簡単でよかったのだろうか。セキュリティ的に問題ではないのだろうか。紅さんに後で迷惑がかからないといいが、と砂映は思った。まあとりあえず、今は一刻も早く地下三階に行くことだ。


 先ほど下見をした地下三階の扉の前に行き、メモを片手に内線番号を押そうとした瞬間、がたん!と勢いよく扉が開いた。「うおう」前にいた砂映に、金属製の扉は容赦なくぶち当たってきた。

「遅い」

 尻餅をついた砂映を見下ろして、黒ずくめの「少年」は短く言った。え、ちょっと、なにそれ。謝るとか、せめて驚くとか、そういうのはないのか。いやその前に、今日散々、「どこにいるのか」「何をしているのか」「何を考えているのか」と思っていた「雷夜」、その本人があっけなく目の前にいるけれど、自分は何をどう思ったらいいのか。

「え、俺まだボタン押してなかったのに、なんで」

「そっちから入る場合は誰かに開錠してもらう必要があるが、こちらから開ける分には問題ない」

「俺が来たのわかったんだ」

「音がした」

「あ、その……ええと、何から訊いたらいいもんか、その」

「明水に会った。明水の読みはほぼ当たりだ」

「へ?」

「問題は、秋良がどこにいるかだ」

 そういうと、雷夜はさっさと歩き出した。砂映も慌てて立ち上がり、扉をくぐって後を追う。

「どういうこと?その……秋良とおまえは一緒にここに来たんじゃないのか?」

「一緒に来た。鯉留に言って、うまいこと『検査』もできた。ただ、鯉留にばれた。俺の責任だ」

 少年めいたその顔は真剣だ。大きな黒い目は、突き通すようにまっすぐ前を向いている。

「『検査』ってなんだ。何がばれたんだ?」

「俺も迂闊だった。鯉留は契約書にサインするまで秋良を誰にも会わせない気だ」

「だから何がばれて、なんで」

「話すと長い」

 あんまりな返しに砂映は鼻白む。ひっそりと静まり返った薄暗い廊下は、どこまでも続いているように見える。

「……三年前ミモフタ魔法化学が倒産した。賢者の石の生産と販売を中止した結果だ。副社長が亡くなったのはその半年前だった」

 ちろりと砂映を一瞥すると、雷夜は唐突に話し出した。さっきの質問の答えなのかまったく別の話かわからないが、とりあえず砂映は相づちを打つ。

「賢者の石の生成は『法則外』の魔法によるものではないかという仮説を、明水も鯉留も立てていた。『法則外』の存在がここまで世間に隠ぺいされるのも、そしてそれがかなり成功しているのも、賢者の石の成り立ちを隠す意図が働いているためではないかと」

「ええと、つまり、その『石を作れる法則外』の人がいなくなったら、もう製造できないってこと?」

「そうだ。だから鯉留は、俺に賢者の石を作れと言っている」

「『だから』?」

「……俺がここでしてた研究の内容は聞いたか?」

 だんだんと、雷夜の歩く速度が落ちていることに砂映は気がついていた。とりあえず砂映もその歩みに合わせる。「いや、聞いてない」

「『法則外』の魔法を、法則下の科学的な魔法で再現する、ということを長い間やっていた。たとえば魔法陣なしで火を出せる者がいたとしたら、その火の成分や働いている魔力の構成を分解して、同じ性質の火を発現する魔法陣を構築する」

「それはすごいな」ナルタケ工業で、魔法陣は一切見ずに「現象」から逆魔法陣を構築してみせた雷夜を思い出す。魔法陣を読んでどんな魔法が出るかわかる魔法技師はたくさんいると思うが、よほど単純なものでない限り、その逆のことはなかなかできるものではない。まあ砂映の場合、「魔法陣を見てどんな魔法が出るか判断」するのでさえ危うかったりするのだが。

「それで何人か死んだ」

「へ?」

 どこにどう話が飛んだのか。砂映はとっさにわからなかった。何の話になったんだ。

「縄でぶら下がったのもいれば、自分の火で自分を燃やしたのもいる」

「ちょ、ちょい待って。何、自殺の話?」

「『彼らにしかできない仕事』を、俺が『誰でもできる仕事』に変えてしまったから。彼らは『存在意義』を奪われたと感じたのだと、聞いた。でも悪いが、俺にはよくわからなかった。できることはもっと他にたくさんあるのに」

「そ……」

「秋良は悩んでいた。自分の魔法の内容を解明して自分で把握できれば、コントロールはしやすい。俺も自分が構築した検査魔法陣の内容をすべて覚えてはいなかったから……ここに来れば手っ取り早いと思った。松岡の社員のままではここに入れてもらえないだろうから、とりあえず形だけ辞めたことにしようということになった。秋良はすぐ松岡に帰るつもりだった」

 ……「秋良は」って。おまえは?

 いつの間にか、雷夜は足を止めていた。砂映も立ち止まった。人形のようにつるんとした顔で、雷夜の表情は相変わらず読みにくい。目をそらすようにそっぽを向いている。

「鯉留は俺に、秋良の魔法の『再現』をさせる気だ。秋良の魔法はまだ、本人がきちんと形にして発動したことのないものがほとんどで、複雑でなにかの断片のようなものばかりの、見たことのないパターンだ。検査魔法陣の結果を見ても、まだよくわからない。秋良の『存在意義』が、自分でも知らなかったようなそんなところにあるとは思えない。思えないが、俺にはよくわからないから」

「ええと、まあそれは、秋良にしかわからないと思うけど……」話に必死でついて行きながら、砂映は敢えて間延びした調子で言った。

「つまりその……秋良の『法則外』の魔法が、賢者の石を作るものだってこと?」

 思い切って、砂映は一歩進行方向に踏み出してみた。雷夜はつられるように足を出すと、何事もなかったように、半歩先を行く早足で歩き始めた。

「仮説の上の仮説だ。でも鯉留はそう信じてる。万が一そうでなくても何か価値のあるものが出るだろうと見てる。秋良が松岡一族の人間だと知っていた」

 灰色の廊下はやっと突き当たりに来た。角を曲がると、頭にBをつけた大きな三桁の数字の書かれた緑色の扉がずらりと並んでいた。

「B302には何があるんだ?そこに秋良がいるってこと?」

 鍵をちゃりんと言わせながら砂映は訊ねた。

「いや」雷夜は短く答えた。B302号室はすぐにあった。砂映は鍵を渡そうとしたが、雷夜は砂映が開けるのが当然とばかり腕を組んでいる。仕方なく、砂映は前屈みになってレトロな鍵穴に鍵を差し込んだ。がちゃり、と開錠の手応えがあった。


 中は、物置部屋のようだった。奥行きは十メートルくらいはありそうで、扉から入って手前のスペースは空いている。奥の壁はスチール製の棚が置かれて天井まで達しており、その前には段ボールが山積みになっている。バスケットボールや縄跳びの縄、薄汚れた軍手やホワイトボード、ちりとりなどが、ごたごたと寄せるように床に置かれている。その脇には、ストーブと灯油缶が並んでいる。

 雷夜は迷いのない足どりで歩を進めると、器用に段ボールとストーブの間を抜け、奥の棚に手を伸ばした。背表紙に魔法文字の書かれたファイルの一つを手に取り、ぱらぱらとめくる。

「それを見に来たのか?」

 立ったまま読み始めた雷夜に砂映が訊ねると、

「ああ、違った」と答えて、雷夜はすぐさま棚にそれを戻した。奥から出てくると、砂映の顔を見て、並んだ灯油缶を指さした。

「え、あれを持って行くってこと?」

「そうだ」

 砂映は物を踏まないように足場に気をつけながら、灯油缶のところまで行き、手前の一つをぐっと持ち上げた。満タンではないらしく、思ったよりは軽い。片手に提げて戻ってくると、雷夜はくるりと背を向けて、先に部屋を出た。……まあこちらの方が図体もでかいし、いいのだが。いいのだが……。

「何に使うんだ?これ」

 灯油缶をいったん廊下に置き、鍵を閉めながら砂映は訊ねた。

「ああ、ちょっと」

 雷夜はまともに答える気がないらしい。見ると、いつの間にか手に、魔法用紙とペンを持っている。さらさらと、魔法陣に文字が書き込まれていく。砂映は目を凝らすが、何だかあまり見たことのない形式で、どうもよくわからない。

「何を書いてるんだ?」

「ああ、ちょっと」

「これからどうするんだ?これをどこに持って行くんだ?」

「持って行くのは五階だ。そこで鯉留と話をする」

「え」

「聖水を頼んだ。『ここにいろ』とメモを置いておいたから、待ってるはずだ」

 そこに砂映も行くのはまずい。部外者である砂映は、「実験棟に入ってはいけない人間」なのだ。見つかったら、どうなるのか。

「それは……俺は行かん方がいい感じだよね」

「そうか?」

「いや、だって、許可がないとこの実験棟には入ったらいけないって言ってたし」

「俺の許可があるからいいんじゃないのか」

「え?そうなの?申請がどうのって言ってたけど」

「そんなものは後でどうとでもなるだろう」

「いや……」

 事前申請の重要性について、新人研修で教わらなかったのだろうか。説明してやりたい気もした。が、今はそういう事態ではない。そういう事態ではなくて……

「その……もしかして秋良は、閉じ込められているとか、そういうことなのか?」

「おそらく」

「それって犯罪じゃないのかな」

「かもな」

「警察に連絡するのがいいんでないかな」

 ちろりとこちらを見た雷夜の目に、馬鹿にしたような色が浮かんだ。

「鯉留がしらばっくれて終わりだろう。あやふやな情報で、しかもいなくなってたった二日で、警察がここに来るかさえ怪しい」

 ああそうか。熱海さんとも、そういえば似たようなやりとりをしたのだった。捜索願が出ているわけでもないし、そもそも「法則外」であることや石のこと、なんかが万が一騒ぎに乗じてマスコミにでも知れたら、それこそよろしくない。……けど、そこまで冷やかな目をして見なくてもいいのではなかろうか。

「じゃあどうするんだよ。……というか、契約書にサインして、出してもらって逃げたらいいんじゃないのか?そんな監禁されて書かされたサインなんて無効だろ。無視したら」

「サインしてもここからは出られない」

「へ」

「サインしなくてもここから出られない」

「どういうこと」

「サインしたら、プロジェクトに参加するのでしばらく帰れない旨の通知を家族や知人に送ることができる。サインしなかったら、外部への連絡は一切できない。そういう選択肢だ」

 なんだそれは。

「その……横分はいつもそんなことやってんの?『法則外』をさらって監禁して、無理矢理研究に協力させたりしてんの?」

 さっき、明水さんは「法則外」の人を優遇する体制になってる、というようなことを言っていなかっただろうか。こんなのは、あまりにもひどい。人権無視もいいところだ。

「……『法則外』だからというわけではない。それに監禁ではなくて軟禁だ。必要があればさらってでも連れてきて協力を要請することはある。でも相応の報酬はもらえるし、プロジェクトが終わればその後の身の振り方は自由だ」

「でも、本人の意思ってものがあるだろ」

「そうだな。俺は考えなかったが、普通はある」

「……『俺は』って、おまえさらわれてここに来たのか?」

「昔。でもその後は自由だと言われた。家に帰れるようになったし、それに転職もできた」

 ……なんじゃそりゃ……。

「秋良は何て言ってたんだ?」

「わからない」

「そうなの?」

「だから俺が迂闊だった。検査魔法陣の上に秋良を置いて、その結果を解析魔法陣にかけている間に、秋良は連れていかれてしまった。鯉留に訊いても別室にいるの一点張りだ」

「じゃあさ、俺はその秋良がいる場所を探したらいいかな」

「ここは松岡の地下資料室並に、空間を誤認識させる魔法がかけられている。おまえには無理だ」

「でも、じゃあ」

「部屋の鍵に、その部屋に至る誤認識を解除する設定が組み込まれている。その鍵は鯉留が持っている。俺が話をするから、おまえが鍵を受け取れ」

「……わかってもらえそうなんか?」

「鯉留はああ見えて小心者だ。何とかなる」

 そうは思えないけどなあ……。

 ともかく雷夜が歩き出したので、砂映も灯油缶を持ち上げて従った。中の灯油がとぷとぷ揺れる。それなりに重い。

「何に使うんだよ、この灯油」

「さあな」

「『さあな』って……人に持たせておいてそれ」

「使うかどうかわからない」

「いやだから、そういう人の気力を挫くようなことを……」

 えっちらおっちら階段を上る。雷夜は澄ました顔をして、交代を申し出るような気配はまるでない。

「そのう、それでさ」

 何とか五階に到着し、砂映は一度灯油缶を置いた。ふへえ、と身体を折って息を吐きながら、口を開く。

「おまえは今、松岡に戻る気でいるんだよな?」

 砂映の横で足を止めた雷夜は、表情の読みがたい顔でちろりと砂映に目を向けて、考えを秘めるようにすっとそらした。

「そうでないなら、俺はおまえに協力できない。秋良を探して連れ戻すことも大事だけど、おまえも連れ帰らないと意味がないんだ。例えばおまえが、秋良を諦めさせる交換条件にここに残るとかそういうことを言うなら、作戦を考えて出直すことにする」

 膝に手をつきながら、砂映は横からにらむ勢いで雷夜に告げた。雷夜は涼しい顔のまま、

「……別におまえの協力が必要だとは思ってない」

 砂映の方など見ずに言う。

「な、おまえ、なんちゅう……」

「まあでも、戻りたい、と思ってはいる」

 遠くを見るような目をして、雷夜は言った。そのまますたすたと歩き出す。

「『思ってはいる』って、ずいぶん歯切れ悪くないか、何考えて……」

 砂映は慌てて灯油缶の持ち手を掴み、ふぬ、と持ち上げて追いかける。歩き出した廊下の、手前から四つめの扉の前で、雷夜は足を止め振り向いた。

「砂映」

「んあ?」

「いやなんでもない」

 え、こんな時に言いかけてやめるとか勘弁してほしいんだけど。

 と砂映は言いたかったが、口を開く前に雷夜はその扉を開けた。リノリウムの床の奥行きのある部屋で、学校の理科室を思い出させる。奥は大小の戸棚や机、椅子、丸めた書類や段ボールなどがごたごたと並び、物置のようだ。すっきりとした手前には実験テーブルが一つ置かれ、テーブル上には、紙切れと、ペットボトル入りの聖水が一つ。そしてテーブルの六つの丸椅子の一つに、どこか所在無げに両脚を広げて前屈みに腰掛けた、鯉留の姿があった。

「おや、やっといらっしゃいましたか」

 ぬうっと顔を上げて、鯉留は言った。疲れたような顔をしている。

「なんとまあ砂映さん。部外者は立入禁止と申し上げたのに、なぜここにいらっしゃるんですか。重要顧客会社の方だからと言って、そのようなふるまいをされてはこちらもただで済ますわけにはいかないんですけどね」

「俺の客だから」

 雷夜が短く言う。鯉留は切り口のような目を細めて、顔を歪ませるように笑う。「変わりませんねあなたは。けれどそのように仰るということは、少なくとも雇用契約書にサインはしてくださったんですよね?」

「いやしてない」

 雷夜の無言の指図に従い、砂映は灯油缶を抱えて部屋の奥まで行った。目の高さの戸棚にビーカーやフラスコが並んでおり、本当に理科準備室みたいだなと思った。いろいろな物があるが、灯油ストーブがあるわけでもないし、一体なぜここに灯油を持ってくる必要があったのかは、見当もつかない。椅子の脇に灯油缶を置くと、雷夜は扉の方を指さした。出てけ、ということかもしれなかったが、砂映は扉の横まで行って、断固ここにいるぞという意思表明をするように腕を組んで壁にもたれた。雷夜の視線はそれを確認していたが、それ以上指図するそぶりはなかった。むしろ痛いのは、おそろしく不愉快そうに砂映を上から下まで舐めまわす、鯉留の視線だった。

「サインしてない?どういうつもりです」砂映から雷夜に目を戻し、鯉留が言う。

「俺も秋良も、横分に転職するのはやめにした」

「はい?今さら何を仰ってるんですか。そんなわがままがまかり通ると、本気で思ってるんですか雷夜」

「思ってる」

 雷夜は物置スペースに歩いていくと、脇の資料棚からファイルを一つ取り出して、片手に持ち、ぱらぱらとめくった。

「言っておきますが雷夜、その資料は横分のものです。社員でない、社員になるつもりのないあなたに、見る権利はない」

「そうだろうな」

 そっけなく答えながらも、雷夜は資料をめくる手を止めない。目はその文字を追い続けている。

「気にしない。そうですか。警察を呼んだり裁判に訴えるような面倒な真似を、こちらは決してしないだろう。暴力に訴えるということも、あなたを損なう危険性を考えるとするはずがない。とするとあなたは何をやっても自由だと、そう思ってらっしゃるんですね。何のしがらみもなければ、どう思われても構わなければ、何をやってもいい。精神が強ければこんなにも人は自由だ。素晴らしい。でもあなたはそれでいいとして、秋良はどうなんでしょう。あなたは秋良のことはどうでもいいと、そういうことですか?」

「そうでもない」

 顔も上げずに、雷夜は答える。

「『そうでもない』とは?秋良がどこにいるか、あなたはご存知ないのでしょう?たとえ見つけ出せたとしても、鍵がなければどうしようもない。魔法制御ならあなたは何とかするかもしれないが、物理的な障壁に対してあなたは無力だ。やりたいことがあるのなら、他人に何か要求するのなら、それなりの礼儀や態度というものは必要なのですよ雷夜」

「そうかもな」

 言うと雷夜は、手にしていたファイルをぱたんと閉じた。さして急ぐ様子もなく、棚の元の場所に返す。こちらに向き直り、見守る鯉留に一度まっすぐに目を向けたかと思うと、すっと膝を折り、床に両手をついた。

「何の真似ですか雷夜。土下座でもするつもり……」

 その瞬間だった。

 床のリノリウムに魔法陣が浮かびあがった。雷夜が手をついた場所、そこから次々に光が流れ、三つ、四つ、五つ……最終的に六つの魔法陣が次々に光を放って発動した。魔法陣の上に床と同じシートを敷いて隠していたらしい。しかし一体どういう魔法なのか。今のところ何も起きている気配がない。

 雷夜は立ち上がった。ひどく愉しそうな顔をしている。ポケットから取り出したのは、マッチだった。しゅ、と擦って手を放す。端の魔法陣の上に落ちたそれは、床に触れた瞬間ぼおっと火の勢いを増し、床の魔法陣の上をまたたくまに走り抜けた。狂気のような笑みを浮かべて、雷夜は足元の炎が描く半円を眺める。かと思うと、おもむろに体をひねって傍らに置いてあった灯油缶の上に屈みこんだ。

「やめ……っ」

 砂映は思わず駆け寄ろうとした。しかし魔法陣のところに見えない障壁のようなものがあり、弾き返された。尻餅をついた砂映の前で雷夜は灯油缶を傾け、床の上にだばだばとぶちまけた。炎はすぐさま飛びついて、ますますその勢いを増す。目の前の炎の熱気に、砂映は顔が焼けるような熱さを感じた。目がしょぼしょぼする。炎と雷夜の近さは、砂映の比ではない。もはや炎の中にいるといってもいい状態の雷夜が、なぜ平気そうなのか。なぜ、涼しげにさえ見えるいつもどおりの顔をして、平然としているのか。砂映にはわからない。

「今は、これ以上炎が広がらないよう魔法陣で制御している」

 揺らめく炎に下から照らし出されながら、今にも笑い出しそうな声で雷夜が言った。

「秋良のいる部屋の鍵を砂映に渡せ。そうすれば、ここだけに留める。もし渡さないなら、炎を解放する。そうすればこの実験棟は丸焼けだ。中にいる人間は全員避難させざるをえない。秋良も含めてな。……秋良を殺す気はないんだろう?どちらの被害が少ないか、考えた方がいい」

「あ……あなたという人は……」鯉留はぎりぎりと歯を軋ませた。今となっては単なる口実のためだったとしか思われない、雷夜が頼んだ聖水のペットボトルに手を伸ばし、潰す勢いで握りしめる。蓋が飛んだ。鯉留はそれを力いっぱい投げつけた。

 障壁に弾き返されるかと思ったのに、そうはならなかった。ペットボトルはとっさに顔を手で覆った雷夜の手首に当たり、水をまき散らしながらごとんと床に落下した。口から液体が流れ出し、床の上に聖水が溜まる。安物のペットボトル入りの聖水は、ほぼ普通の水と同じようなものだ。しかし何も変化がない。火はあいかわらず何の影響も受けずに燃えており、水は蒸発する気配もない。

「は。ははははは!」それを見て、鯉留は笑い出した。

「そういうこと。錯覚系の魔法というわけですか。なかなか面白い、手の込んだ術があるものですね。こちらに伝わるこの熱気、この煙、このにおい、音、まるで本物のようです。危うくだまされるところでしたよ。しかしどうします?奇しくもあなたが頼んだ聖水で嘘がばれましたね。そういうものですよ。さあ、馬鹿げたことはやめて、契約書にサインをすれば、秋良の件については譲歩してもいいですよ。どうですか?」

 雷夜は答えない。炎の中で、突っ立っている。

「さあ、いい加減、子どもじみたわがままはやめなさい。取引というものは、まったく負担を負わずに成立させることはできないのですよ。秋良の魔法の検査結果がほしい。秋良はこれまでどおり松岡で働く。石の秘密はこれまでどおり。あなたも松岡に帰る。そんな虫のいい話がありますか?こちらとて、こうなったらすべてとは言いません。不本意ではあるが、秋良のことは諦めてもいい。そのかわりあなたはここに留まり、賢者の石の研究をする。いいじゃないですか。何も松岡の製法を盗めと言っているのではないのですから。他にも賢者の石を販売している企業はある。別に裏切りじゃありません。あなたはあなたの方法で、賢者の石を作り出せばいい。あらゆる魔法研究者の夢ですよ、これは。賢者の石が誰にでも作り出せるものになれば、きっと世界は変わります。あなたの名前は歴史に残るかもしれない。あなたにとっても決して悪い話ではない。どうです?」

 燃えさかり踊り狂う幻の火の中で、雷夜はしんと立っていた。ぽかんとして、まさしく子どものようだった。

「だいたい私は納得がいかなかったんです。あなたが横分を出て松岡に移ったこと。そんなことはすべきでなかったと、まちがいであったと、この期に及んでわかっていないあなたが私は口惜しい。あるべきものがあるべきところに帰るだけ。この取引は、むしろ存在しないに等しい。あなたがうちに残るのは必然だ。明水が何を言ったのか知らないが、あなたの能力が最も発揮できるのはここだ。あなたはここにいるべきです。わかりませんか?閉じ込めて、強制した方がいいですか?自分のことはわからないものですからね。私がすべて、あなたにとっていいように、すべて整えて差し上げますよ」

 嬉々として鯉留は語る。

 砂映は口を挟みたくなった。

 挟みたくなった。けれどもできなかった。

 鯉留は自分の利益だけを考えているのではない。雷夜のことも、思って言っている。そう、感じられる。

 松岡デラックス魔法カンパニーに入って、雷夜が不遇の時を過ごしたのは事実だ。

 自分が実際、雷夜にやりにくさを感じたりすることも事実だ。

 松岡に戻って、これからはすべてうまくいくなんて保証はどこにもない。

 そんな責任を、砂映は負えない。

「……鍵を」

 放心したような顔をして、雷夜が口を開いた。

「秋良のいる部屋の鍵、今持っているか」

「ええ、持っていますよ。ほら」

 鯉留は勝ち誇った顔で、懐から鍵を出して振ってみせた。

「さっき言った取引。……秋良は返す。それは守ってもらえるんだな?」

「もちろんですよ。私は嘘はつきません」

「じゃあ、その鍵を砂映に渡してくれ」

 泣きつかれた子どものような顔をして、雷夜は言った。

「おやおや。あなたこそ、約束は守るんでしょうね?」鯉留は愉しげだ。砂映は動けずにいた。口を開くことができない。

「出口はそっちにある。閉じ込めようと思えば閉じ込められる。そうだろう?」

 雷夜が言った。

「まあ、それもそうですね」

 そう言うと、鯉留はテーブルの上にじゃら、と鍵を置いた。雷夜は砂映に目で促した。

 砂映は立ち上がり、鯉留が手放した鍵を掴んだ。求めていた鍵を、手に入れた。手に入れたが、けれども。

「その、雷夜、おまえ……」

「余計なことを言わないでいただきたいですね砂映さん。あなたの勝手なふるまいは本来看過できるものではない。けれども雷夜に免じて、放免にしてもいい。そのぐらい、私は今気分がいいんだ。邪魔はしないでもらいたい」

「雷夜おまえ、それでいいのか?」

「さっさと出て行ってもらいたいですね砂映さん。私の気が変わらないうちに、秋良を連れてとっとと帰ったらいい。本来の形に戻るだけだ。雷夜はもともと横分の人間です。秋良が協力すれば相当研究の助けにはなったと思うが……」

「社長の甥を、いつまでも軟禁なんてできるはずがない」砂映が言った。

「そんな無茶なこと、できるわけがない。ここにいることがはっきりとわかれば、松岡の人間にだっていくらでもできることがある。それだけのことを、秋良のためならするだろう」

「ええ、そうですね。あなたのためには誰もそんなことしないでしょうけど」

 鯉留の茶々を、砂映は無視する。

「雷夜。おまえのためだって、おまえの意思さえはっきりしてるなら、俺は松岡の他の人間を説得して連れてくる。何としてでも入り込む。俺だと、俺一人だと、空間誤認の魔法だのなんだの、無理かもしれないけど、松岡にだってそれなりにできる人間はいるんだ。説得なら、俺はする。だから、おまえの意思を聞かせてくれないか」

 雷夜は一瞬澄んだ目を、砂映に向けた。

 それから傍らに置いてあった灯油缶をひっつかみ、残っていた灯油を突然頭からかぶった。すっとポケットに手を入れてマッチを取り出し、あっという間に火を点けた。ぶわ、と一気に炎は雷夜を覆い尽くした。性懲りもなく駆け寄ろうとした砂映は、途方もない力に弾き飛ばされ、ドアの外にもんどり打って転がった。

 腹の底から絞り出すような、鯉留の絶叫が響いた。

 はじめに魔法陣に落としたマッチによる本物の火は、実際には魔法の効力で瞬時に消され、幻の炎が巧妙に取って代っていたのだろう。魔法陣は、発動さえしてしまえばあとは流れに従って稼働を続ける。術の継続のためのエネルギーの供給は、魔法陣にじかに触れていなくても可能ではある。けれども、それなりに集中する必要はある。

 雷夜は灯油をかぶり、自らに火をつけた。自身を火で焼かれながら魔法を行使できる人間などおそらくいない。火を魔法で消すことも幻の火を出すことも不可能なはずで、だから雷夜を包む炎は、本物でしかありえない。

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