8.女神さまですよ
行け、と言われても。
横分魔法研究所になど行ったことがない。
アポなしで行って、果たして入れてもらえるのだろうか。
かろうじて知っているのは鯉留の名前だが、途季さんの話によると、雷夜に接触していたのはその鯉留だという。資料室の監視映像に残っていたらしい。雷夜は松岡DMCに入社する前、横分魔法研究所で働いていた。そうして鯉留に、執拗に戻ることを促されていた。そうして戻ることを決めた。そういうことではないかと、途季老人は話した。
「でもそれで、どうして秋良くんまで連れてったんでしょうか……」
「決まっとる。価値があるからじゃ」老人は断言した。
「価値?」社長の甥だから誘拐事件で身代金、という発想しか、砂映には出てこない。しかし老人には別の考えがあるらしく、憎たらしい顔で砂映をねめつけて言った。「おぬしにはない価値じゃ」
「はあ」
「おぬし、ナルタケ工業で秋良が魔法陣の暴走を起こしたことについて、どう思った」
「へ?どうって」
「秋良は苦しい説明をしておったじゃろうが」
……苦しい説明。
ああそうだ。あの時秋良は、連結魔法陣の一つを、稼動している状態のままで刻印し直そうと可変化した、と言っていた。連結魔法陣というのは、基本的にすべての魔法陣を同じ状態に保っておかなければバランスを崩して暴走を起こす。一人で複数の魔法陣を可変化してコントロールするのは至難のわざだから、普通はエネルギー源である賢者の石を一度取り外して、稼動を停止させた上で修正作業を行う。連結されている以上、固定化と可変化はすべての魔法陣が同時でなければいけないのは「絶対」だ。それは砂映だって入社して間もない時に教えこまれたし、魔法学校でだって、初歩段階で指導する常識レベルのことのはずだ。
なのにそれを、秋良は知らなかったような言い方をした。
「あの魔法陣が暴走した時、雷夜は魔法陣ではなく、発現した魔法そのものを見て『相殺』を行なったんじゃろ?そしてその後で実際の魔法陣を見た。たとえ暴走したにしても出てくるはずのないパターンが発生していたことに奴は気づいた。一昨日奴は、あの魔法陣と類似の案件をあさっておったようだからな。『ありえない』ことを確認しておったんじゃろう」
「ええと、秋良くんの説明は実際と違うってことですか?」
「咄嗟に無理な言い訳をしたと言っておった。……熱海にさっき聞いたんじゃろ?呪文を媒介とせずに魔法を発現できる『特殊能力者』というのは、『ありえないこと』、つまり学校で習うような『魔法の法則』に反する現象を、起こしてしまえる。そのコントロールに、秋良は失敗した。そのせいで魔法陣の暴走が起こった」
「それって……そんな簡単に『法則外の不具合』を起こしてしまうなんて……その、『特殊能力者』の人って、技師とかやっていけるものなんですか?」
「やってる奴はたくさんいる。だが、コントロールに失敗するとなれば、話は別じゃな。そんな奴は技師として不適格じゃ。あいつにもそう言った」
老人はそっぽを向いた。
「それって……それで秋良くんは会社をやめたってことでは?で、プラス家出で……」
砂映は熱海さんに目を向けながら言い、そして後悔した。
熱海さんは、秋良がそんなミスを犯したこと自体、初耳だったらしい。大きな目をさらに大きく見開いて、まるで自分が傷つけられたような顔をしていた。
「あ、いやでも、わからないです。わからないですけどね。まあ雷夜といるんだろうし、雷夜が何考えてるのか、ってことですよね」
大慌てで砂映は言う。熱海さんにそんな顔をさせてしまうなんていたたまれない。
「ああ、その、途季さん、その……そういう『特殊能力者』の存在って、魔法技師の間では普通に知られてることなんですか?」
「そんなわけあるか。『法則外』じゃぞ?どんな扱いを受けると思っとる。ひた隠しに隠してみんな生きとるんじゃ」
「じゃあ雷夜は、『ありえない』ことに興味を持ったってことでしょうか」
「その可能性は高い」
横分魔法研究所は、最新技術を使った魔法具だけでなく、「研究所」の名前のとおり、さまざまな研究が行なわれていると聞く。オフィスビルとは別に実験棟があり、そこで何が行なわれているのかは、謎に包まれているとかいないとか……
砂映はこわごわと熱海さんに目をやった。熱海さんは、白い顔をしてうつむいていた。
ともかく横分に行って……どうしたらいいんだろう。うちの秋良来てませんか?雷夜くんいますか?と訊いたら、会わせてもらえるのだろうか。門前払いだったらどうしよう。実験棟に勝手に入ったら……怒られるだろうな。いや、怒られるだけではすまないだろう。
あれこれと考えながら砂映は階段を上り、ロビーに出た。人のまばらに行きかうロビーの端のところに、涼雨の姿がある。一人ではなく、誰かと向かい合って話している。やけに笑顔だ。すらりと姿勢のいい男は後ろ姿で、誰かわからない。砂映が見ていると、涼雨も気づいたようで、にこやかな笑顔が「げ」と言わんばかりに一瞬歪んだ。砂映は思い出す。ああそうだ、この前怒らせたんだった。
明らかに涼雨が挙動不審になったので、相手の男は何かと思ったらしい。肩越しにこちらを振り返った。やけに小ざっぱりした感じの、砂映の知らない男だ。涼雨が大慌てで相手に向かって「なんでもない」というようなジェスチャーをしている。こちらから顔をそむけるような、妙な目線の動かし方をしている。……と思ったら、突然ばちっと見て、目を見開いた。相手に小さく頭を下げたかと思うと、砂映に向かって突進してくる。
「ちょっと!」
物凄い形相で走って来たので、砂映は後ずさった。「な、なんでしょうか」
「それ、どうしたの!」
「へ」
「それよ、破けて……やだ、火傷してるの?」
勢いこんで訊ねられ、砂映は一瞬きょとんとした。
……ああ。
いつの間にか忘れていた。シャツがあちこち焦げて破れている。このまま外に出ると……変な目で見られるかもしれない。
「ああ、ちょっと……」
「ちょっとじゃないわよ!」
「うん、ちょっとじゃないか」
「ふざけてる場合じゃないわよ、手当しなきゃ、それにシャツ……」
「うん、このまま出かけたら恥ずかしいところだった。恩に着ます」
怒りが再発しないよう、砂映は丁寧に言ってみた。それはそれで不本意だったらしく、涼雨は複雑な表情になった。が、火傷のおかげで「それどころではない」モードになってくれているらしい。
「その、とりあえず……」
涼雨が焦って何か言いかけたところに、先ほど涼雨が話をしていた男がこちらにやって来た。「どうしたんですか?」とにこやかに訊ねる。
「あ、その……」
涼雨がうろたえている。男は来館カードを首からぶら下げていた。どうやら社外の人間だったらしい。涼雨の顔つきが微妙によそいきに戻る。
「あ、私の同期の、砂映です。こちらは横分魔法研究所の明水さん。その……うちの部署の魔法具を横分さんから買ってて、私は発注担当だから、それで」
妙なあたふた感を漂わせながら涼雨は二人を紹介した。そこそこ堅苦しくない間柄なのか、明水は感じのいい笑顔で「同期の仲がいいんですね、うらやましいな」などと言った。涼雨は動揺で顔を赤くして、「あ、仲良いとかはなく、その」ともごもごしている。
「……涼雨サン。あの、お願いなんだけど、購買で、俺のシャツ買ってきてもらっていい?」
砂映は言った。涼雨の方を見ずに、自分の財布を押し付ける。
「え?」
「今着てるこれと似たようなのでいいから」
砂映の眼は、死んだように見開かれていた。無表情で涼雨に頼む。
「え、うん、いいけど……」
「俺はここで待ってるから。明水さん、明水さんも一緒に待っていただけますか」
「え、はい」
「頼んだよ。涼雨サン」
明らかに様子のおかしい砂映に涼雨は戸惑う様子を見せたが、頼まれてノーとも言えず、ちらちら振り返りながらも走って行った。明水はにこやかな表情を崩さない。
「……」
空洞のような目をして、砂映は立ち尽くしていた。
「あの、よかったらそこの椅子にでもおかけになりますか?」
さすがに変に思えてきたらしく、明水が気を遣って訊ねた。砂映はまるで寝起きのようにまばたきをしながら、今初めて気づいたように明水を見る。
「技師さんはお忙しいですよね。体調お悪くないですか?」
感じのいい笑みを浮かべたまま、明水は重ねて訊ねた。砂映は明水の顔を凝視したかと思うと、突然だらん、とうなだれるように頭を下げ、そしてばっと顔を上げた。目がらんらんとし、鼻がやや、膨らんでいる。
「明水さん、すみません」
昂ぶりを抑えるような調子で、砂映は口を開いた。
「すみません。僕の挙動不審ぶりに、驚かれているかもしれません。しかもこんな格好で、ひかれても無理もないと思います。はい、まったく仕方のないことだと思います」
「いえ、そんなことは」
「お気遣いなく。明水さん、明水さんは天からの授かりものです。天から舞い降りられた天使です。いえ、神様です」
「だ、大丈夫ですか?」
「いえ、あのですね。今僕には、あるミッションが課せられているんです。それはですね、とても重要なミッションなんですが、正直僕は途方に暮れていました」
「はあ」
「それがですね。明水さん。あなたのおかげで、光明が見えました。明水さん、あの、お願いです。助けると思って、助けてください」
「さ、砂映さん。つっこんだ方がいいんですか?」
「つっこみたかったらつっこんでください。つっこみたくなかったらスルーしてください。僕は明日から明水さんに足を向けて寝られません。明水さんがどの方角にいらっしゃるか、僕はこれから毎日確認して就寝しなくてはなりません」
「ええと、砂映さん、まだ僕は何もしてませんし、するとも限りませんよ?」
「していただきます。あ、もちろんタダでとは言いません。何でも言ってください。僕にできることなら何でもします。魔法事典を引く早さには定評があります。呪文の書き写しもいくらでもやります。プレゼンの原稿の代筆もします。魔力は自信ないですが、倒れるまでは試験発動でもなんでもやります。ええとあと……あ、掃除でもいいです。草むしり。子守もできます。他は……ああ、お金とか。貯金はあまりありませんが、分割払いなら何とか」
勢い込んで言う砂映に、明水は穏やかな笑みを浮かべたまま、「まあまあ」と抑えるように両手を上げた。
「落ち着いてください。あの、ミッションと言うのは会社からの指示によるものではないんですか?」
「そんな感じです」
「なら、あなたがそんな風に個人的になにかを負担するのはおかしいのでは」
穏やかにそう言われて、砂映ははた、と明水の顔を見た。
「……ほんとうだ。ほんとうですね」
「そうですよ」
「いやあ明水さん。黙っていれば僕からお金を巻き上げることだってできたのに、いい人ですね」
「ははは。わかりませんよ。そもそも、何をお願いされるのか教えていただかないことには何とも」
言われて砂映は、明水を改めて、上から下まで見た。年は砂映と同じくらいに見えるが、物腰からいって、少し年上かもしれない。身長は砂映よりやや低いが、姿勢がいいので目線は同じくらい。ストレートの短髪に、小ぎれいなスーツ、あくのない、さわやかさに程よく落ち着きが配合されたような顔つき。何だろう、こういうのを、営業マンの鑑というのだろうか。初対面が十人いたら、九人は確実に、良い印象を抱くだろう。社内での評判まではわからないし、砂映自身がどこまで信頼していいのかはわからないが、そこはもう、賭けるしかない。すべて言うわけにはもちろんいかないが、何もかも隠していては、協力してもらえるものも協力してもらえないだろう。
「そのですね。……ちょっとした、退職に関するトラブルがありまして」
砂映は慎重に切り出した。
「彼らが今、御社にいるのではないか、という状況なんです。とりあえず僕は彼らと話をしたいのですが、御社に知り合いもいなくて、いきなり行っても門前払いを食らうのではないか、と困っていたわけなんですよ」
「あれ、砂映さんって総務部だったんですか?てっきり魔法技師の方かと」
「あ、いや。ええと……技師は技師です。今はまあ、総務部かもしれないですが……総務部内の新部署というか、その」
「あれ、もしかしてカスタマーサービス室ですか?」
「……え?」
ぽかんと口を開けているところに、涼雨が袋を抱えて走ってきた。
「……ありがと」砂映は押し付けられた袋を受けとり、財布を尻のポケットに突っ込む。
「あの、涼雨さん。こちらの方に、カスタマーサービス室の話したの?」
「え?」
「あ、いや。こちらの方が、カスタマーサービス室のことご存知だと」
「私そんな、社内のことをぺらぺら喋ったりしないわよ」
きつい口調で言ってから、涼雨は「あ」と口を押さえ、明水に対して取り繕うような笑みを向けた。それからまた砂映に視線を戻し、
「私は言ってないけど、でももし言ったとしたって別に問題あることでもないでしょう?」
輪郭のくっきりした目に、静かに怒りを宿して言う。
「あの、涼雨さん。俺は別に訊いただけですよ」
「非難のニュアンスで訊いたわよね」
「いや、本当に訊いただけで」
「考えもなしに立場もわきまえず、ぺらぺら情報まき散らしてると思ってるんでしょう?」
「そんなことは」
「……人のこと信用できないから、配属のことも教えてくれなかったんでしょう?」
淡々と、涼雨は言い重ねる。
やばい。いつの間にか話題が前回の怒りの元となった件になっている。
「あのね涼雨さん……」
焦る砂映に対して、しかし涼雨は思ったよりは冷静だった。
「お見苦しいところをお見せして、失礼しました、明水さん」
よそいきの顔を作って明水に向き直ると、涼雨は深々と頭を下げた。笑みを浮かべて二人を眺めていた明水は、「こういうやりとりを見るのは楽しいですよ」とブラックなコメントを発し、そうしてのほほんとした笑顔のまま、砂映に向かって言った。
「砂映さん、僕がカスタマーサービス室のことを知ったのは、別の人から聞いたんですよ。雷夜くんって……同じ配属なら、ご存知ですよね。元気にやってますか?彼」
砂映はさきほどよりさらに大きく口を開け、ぽかんとした。何度か口をぱくぱくさせて何か言いかけ、それから抱えた袋にはたと目を落とし、
「あ、ちょっと着替えて来るんで。すんません。その、涼雨さん、一生のお願いですから、僕が戻ってくるまで明水さんをここにいさせといてください。ええ、もう、涼雨さんは女神さまですよ。救いの女神さまです。毎日拝んでもいいですよ。ともかく、ちょっとお願いします。明水さん、頼みます、死んでもここにいてください」
うつろな顔でそうまくしたてると、そのままトイレに走って行った。
ありがたいことに、明水さんはこれから横分に戻るということだった。他の会社に回る予定はないらしい。
「社有車を、今日は後輩にとられてしまったんで」
どうしても外せない用事があった松岡DMCにだけ来たのだと言う。ありがとう社有車を使った後輩君、と砂映は心の中で呟きつつ、タクシーを呼んだ。お客様会社の方より先には乗れない、と言う明水とタクシーの座席に関して一悶着あったが、結局は砂映の説得に折れる形で明水が奥に座った。車が発進し、砂映はしばらく呆けたように、ただ車に揺られていた。
「さっきの話ですけど……正直なところ、ちょっと僕には信じられませんね」
明水が静かに口を開いた。砂映はシャツを着替えた後、涼雨を丁重にオフィスに帰らせ、いくつかのことは伏せたりぼかしたりしつつも、ほとんどの事情を明水に説明したのだった。明水はあまり口を挟まずに、表情豊かな目の光をゆらめかせてそれらの話を聞いていた。今、流れる車窓の景色を背に、明水はその目をじっと砂映に向け、やがてすっと前方にそらした。
「僕が雷夜くんから異動の話を聞いたのは、本当に最近のことです。確かそう……先週の金曜だったかな。一緒に飲みに行ったんです。月曜に辞令が出ると言っていた。新しい部署で、どんな感じで仕事していくことになるのかまださっぱりわからないけれど、と言って」
砂映は空中を見据えるようにして顔をしかめた。雷夜が誰かと飲みに行ったりする。元バイト先の上司と飲みに行き、自分の話をしたりする。バー?居酒屋?何だかうまく想像ができない。
「……ああ、飲みと行っても、家族連れもいるような餃子屋ですよ。彼はお酒が好きではないんで、飲んだのは僕だけです」
明水が冗談めかして言った。……ああ。砂映は想像を修正する。なんだ、単に中学生がなんちゃってサラリーマンしているような絵が浮かんだ違和感だったのだろうか。餃子屋だと、若く見えるお父さんと息子みたいな図になるが。というか、傍から見たら完全にそんな感じだっただろう。父と少年の男同士の話。いやまあとりあえず、ビジュアル的な想像は脇に置こう。
「異動に関して、前向きな様子でした?」
「そうですね。あんまりそういう感情を出さない子ではあるけど……ちょっと期待しているように見えましたよ。あんまり僕も詳しいことは聞いていないけど、以前の部署では、チームで仕事するようなことがほとんどなかったんですよね?」
「あ、ええと……」自分がミスをした(ことにされた)件は話していなかったらしい。まあ雷夜が、そういう話を自分からぺらぺらするとも思えないが。「そうですね。はい、あんまり集団で仕事したりは、なかったかもしれないです」
「……雷夜くんは、優秀ですよね。うちの会社も彼に正式に社員になってほしいということで、かなり引き留めたんですよ」明水は言った。「でもまあ、縛りつけて働かせるわけにもいかないし。説得は失敗して、最後には僕も笑顔で送り出しましたけど」
「そんなにうちを希望してたんですか?一体なんで……」
決まった時間や慣れた場所、定まった人間関係……雷夜のような研究者タイプは、自分が興味のある物事以外の「余計なこと」は、極力変化がないことを望むような感じがするのだ。もちろん仕事は趣味ではないから、給与体系やら雇用形態やら、そういったメリットデメリットを考えて別の会社を希望したというのもありえるとは思うが……横分魔法研究所は「成果主義」の個人評価制度でほぼ給与が決まり、社内での給与格差が激しいと聞いたことがある。雷夜のような「優秀」な社員なら、横分で働く方が遥かに高い給料をもらえるような気がするのに。
砂映が訊ねると、明水はややさみしげに微笑んだ。
「雷夜はたぶん……悩んでいたんでしょう。うちの会社の研究職は、みんな一人一つずつ研究室を持っている、ちょっとした個人経営みたいなところがありましてね。研究内容によってはプロジェクトチームが組まれることもありますが、その場合は下請け会社からメンバーを集めることがほとんどで、うちの研究職がほぼ間違いなく『リーダー』となります。
研究職には社内の人間……営業職がアシスタントとしてつくんですけど、営業職の一年目でまずはじめに与えられるのが、例外なくこの仕事なんです。営業マンの研修みたいな意味合いもあって。要はいかに研究者の気持を理解して至れり尽くせりサポートできるか、その技術を、社内の人間で学ばせてもらうような感じです。つまりうちの会社の研究職というのは……一人でいるか人の上に立つかのどちらかで、気を遣われ大切に扱われ、意見は常に尊重される。もちろんそれで成果が出なければ、その結果はすべて本人に返るわけですけど。……そんな立場に、雷夜くんは十二歳の頃からいたんです」
「じゅ、十二歳……?」……って、小六か中一ではないか。それは法律的に大丈夫なのか。そんな小さい頃から、何故?と思ったが、話の腰を折るわけにもいかない。とりあえず砂映は続きを待つ。
「僕は入社二年目の時に、彼のアシスタントになりました。……僕は研究職として入社したんですが、結果が出せなかったので営業に職種変更したところで……その時雷夜は十四歳でした。それから七年くらい……通常の社外への営業の仕事もしつつ、僕は彼の担当も続けていました。アシスタントは一人とは限らないので僕以外の営業も何度かついたりして、ほとんど関わらなかったプロジェクトなんかもありましたけどね。
彼は中学校、高校、と籍はあったはずだけど、たぶん最低限しか出席してなかったんじゃないかな。同年代の友達がいるという話も、聞いたことがなかった。大学はうちと提携しているところに入ったから、研究室で研究していれば単位の心配はなかっただろうし、おそらく入学式と卒業式くらいしか行ってないでしょうね。僕が彼の担当をはずれたのは、あれはたしか彼が大学三年生の時だったと思いますが、彼のアシスタントは入社したての新人営業職数人となりました。厳密には雷夜の方が年下ではあるんですけど、そのアシスタントたちは、つまり雷夜と同世代だったわけです。担当ははずれても、雷夜と僕はたまに時々飲み……いえ、さっきも言いましたけど、飲むのは僕だけです……に行って話をしていたんですけどね。年の近い人間と接することが増えて、いろいろと思うことがあったようです。『自分はどこかおかしいのではないか』というようなことを、たまに口にしていました。そうして卒業を機に別の会社に就職する、ということを、突然言い出した」
「それってつまり……」
「いくつかの会社を受けたらしいけど、かなり苦戦したようですよ。純粋に知識や技術を問われる研究職ならまだしも、彼が入社を希望したのは言ってみれば『チームプレイ』を重視する社風の会社ばかりでしたからね。そんな会社での面接となると……まあ、接したことがあるなら、砂映さんにもわかると思いますけど」
それはもう。
と砂映は頷きつつ、内心、僅かながら動揺に襲われてもいた。
そんな風に敢えて馴染んだ場所を離れて、人と関わって自分を変えようと新しい世界に飛び込んだというのに、雷夜は結局は受け入れられず、一人で資料室に通い、一人で調べ物や研究を続けていた。自分が特別扱いされないような「チームプレイ」が、新しい部署ではできるかもしれないと……彼は思っていたのだろう。思っていて……けれども彼は、それは結局無理なのだと、失望したのかもしれない。雷夜は秋良を連れて行った。ということは、失望されたのは、他の誰でもなく、
(俺か……?)
砂映の動揺をよそに、明水はあいかわらず、「僕にはやっぱり信じられませんね」と繰り返していた。悩んだ末にあれほどの決意で入った会社だ。しかも願っていたのとは違う状態で丸二年以上も我慢して、ようやく新しい部署への配属が決まったのに突然辞めて横分に戻るなんて、タイミング的にもありえない。なにか事情があるのではないか。
「ところで砂映さん、雷夜に接触していたのは、鯉留なんですよね」
「そうらしいです」
明水は眉をひそめていた。砂映の視線に気がつくと、繕うように笑みを浮かべた。
「ああ、まあ当然と言えば当然ですけどね。松岡DMCの担当は、基本的に鯉留ですし」
「基本的にはって……何人かいるわけじゃなくて、鯉留さん一人が担当なんですか?あれ、でもじゃあ、明水さんは」
「ああ、技術第一部は、その……こういう話はなんですけど、ちょっとしたクレームがあって、他社に乗り換える話をされてしまって……担当者を変えるから取引を続けてほしい、とお願いして、何とか契約を継続してもらったんです。それで急遽担当になったのが僕というわけで」
「クレームですか」
「あ、まあ……担当を変えただけで継続してもらえたので、ありがたい話ですよ。すみません、生々しい話をして」
「いえ。……ちなみに、そのクレームってどういうクレームですか」
明水は少し考え込むように口を閉ざした。あれ、まずかったのかなあ、と思った砂映は、慌てて茶化した。「あ、すんません。なんか鯉留さんって少し怖い印象で……ちょっと弱味を知りたいなあ、なんて思ったりしたもんで」
「怖い印象、というのは正しい感じ取り方ですよ」明水は生真面目な表情のまま、呟くように言った。「自社の人間の悪口を言うようで何ですが……彼は手段を選ばないところがあるので」
迷う表情をしている明水が口を開くのを、砂映は車に揺られながら待った。
「クレームというのは」やがて明水は言った。
「御社の『賢者の石』の秘密に関することを嗅ぎまわったから、という理由です」
賢者の石を製造・販売している会社は、現在いくつかある。そうしてその製法はどの会社も企業秘密としている。松岡が納入した魔法陣には基本的に松岡の石を組み込むし、石の寿命が来れば大抵は同じ会社製の石と交換する。魔法関連企業において、自社製の石があるかないかで収益の安定性は大きく変わるし、もし石を製造できる会社が今後一社でも増えれば、それだけで業界の構図は一気に変わる可能性がある。それくらいの重要機密で……砂映はもとより、賢者の石の販売を取り扱う技術第一部所属の涼雨だって、その製法についてはまったく知らないはずだ。このことに関して、会社はとても神経質だと聞く。
「それは……それでよく、『技術第一部の担当を外す』だけで済みましたね……」
「すべての担当からはずすよりも、利害関係を残す方が動きを封じるのに有効だという判断だったのかもしれませんね」
明水はひどく深刻そうな顔をして、また考えこんでいる。砂映も考えてみる。鯉留さんは「賢者の石」を横分で製造したい、と考えている?それは雷夜に接触してきたことに関係あるのか?雷夜なら、何だか何でもできてしまいそうな感じは確かにある。石の開発の研究をしてもらいたくて、鯉留は雷夜を口説いたのだろうか。
「……一緒にいなくなった秋良さんという方も、魔法技師なんですよね」明水がふいに口を開いて言った。
「え?あ、はい」
「……何か『魔法の法則』を無視したことができるといった、そういうことはなかったですか?」
「ふえ?」
その部分は伏せて話していた。伏せていたし、それにそういう人の存在は、そもそも一般に認知されていないはずではないのだろうか。なんで明水さんは知っているのか。
「あ、ええと……僕は知りませんけど……」
目を泳がせながら砂映は言った。すべてを見透かしているような、明水の視線が少し怖い。そう思っていると、明水の表情がふっと緩んだ。
「失礼しました。普通は隠しますよね。軽々しく口にしていいことじゃない」
「いえそんな……こちらこそすみません」
自分の返答の仕方は、そのまま秋良についての肯定になってしまう、とも思ったが、どうしても、隠せる気がしなかった。しなかったし、……しなくても、大丈夫なように、思えてしまってもいた。明水はすっと窓の外に視線を移し、話す。
「うちの会社は元々、『法則外』……彼らのことをそんな風に呼んでいるのですが……の人たちの能力を生かして利益を上げようという、そういう施設だったらしいです。あ、利用というより、『法則外』の人というのは普通の人の一段上にいる方たちだ、という考えで……今の『研究職』の立場にあたるのが元々は『法則外』の方たちだったわけで、だからそういう上下関係みたいなものが、今も根っこに残っているんです。実際今も、『研究職』には『法則外』の方が多い。うちの会社では、特に隠したりもしていません。『法則外』の存在は当たり前にみんな知ってるし、それはむしろ強みとして扱われている。まあ、社外の人は信じなかったり胡散臭がったりするので、あんまり外では言わないですが」
「……雷夜もその、『法則外』なんですか?」
雷夜の魔法に関する能力は、桁違いだと砂映は思う。しかし明水はあっさりと首を横に振った。
「雷夜には、『法則外』の能力はありませんよ。『天才』だとは思いますけど。……彼の作り出す魔法はすべて科学的な法則に則っている。おそろしく高度ではありますが、すべて理論で説明できる現象です。同じやり方をすれば、誰でも術を再現できます」
違うのか。少しがっかりしている自分に砂映は気づく。
生まれつきの才能の差、なのは同様なのに、その技術が「誰でも勉強すれば身に着けることができる」科学的なものだというだけで、悪いのは努力不足の自分だという気持にさせられる。雷夜が『法則外』だというなら、自分はそうではないのだから仕方ない、と思えるのに。
「……ただ、雷夜自身は『法則外』ではないのですが、彼は『法則外』の現象にとても興味を持っているので……」
明水はそこまで口にして、再び考えこむ表情になった。
「秋良を実験材料に、とか……?」続きそうな仮説を砂映は言ってみた。別にそれほどひどいものをイメージしていたわけではない。でも、「実験材料」ということばは、発してみるとえらく非人道的な響きがした。「まさかね」自分のことばにうろたえて、砂映はとりあえず否定する。明水は静かな目をしていて、砂映のことばを否定も肯定もしなかった。
「とりあえずは、雷夜とその、秋良くんを探して、話をしなくてはいけませんね」
気を取り直すように、明水は言った。
よろしくお願いします、と、砂映は深々と頭を下げた。車が揺れを増していた。舗装の悪い道に入ったらしかった。