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7.いじわる老人とへぼ探偵

 地下への階段を下りながら、砂映は考えていた。

 自分が今やらなければいけないことというのは、雷夜を探してくること、なんだろうか。

 烙吾は直接はそうは言わなかった。熱海さんがそう言ったとも言わなかった。薮芽部長も言わなかった。けれどもそれ以外、自分が今日するように促されたことというのが思いつかない。途季さんに会って来るように、というのも、まずは資料室に雷夜がいないか確認して来い、いないならどこに行ったかの手掛かりを途季さんから得て来い、ということなのかもしれない。

 けれどおかしい気もする。

 途季さんは、雷夜は自分の孫だと言っていた。雷夜が噂の「社長の甥」、熱海さんの従弟だとするなら、どうしていなくなったりするのだろう。誘拐とかならば確かにあんな風に心配するのもわかるが、退職願を出して会社に来なくなったのなら、それは本人の意志だ。

 そもそも、どうして雷夜は会社をやめたのだろう。

 一昨日の夜会った時、そんなことは一言も言っていなかった。そんな風には見えなかった。あの時点でやめることは決めていたのだろうか。やめることを決めた会社の仕事について、あんな風に文句をつけたりするものだろうか。いや、魔法に関して常に何か言いたい奴だという可能性も否定できないが。

 しかし自分の一族が創業した会社、自分の伯父が現社長である会社を、どうしてやめたりするのだろう。これまでおよそ二年半、雷夜は仕事を干された状態で在籍していた。実際は資料室に通って好き放題研究をしていたようだから、不満はなかったように思える。たとえば一族への反発だとかそういうものがあったとしたら、もっと早くやめていたのではないだろうか。今まではやめず、いきなりやめることにした。なら、理由は最近できたことになる。最近生まれた理由といえば、カスタマーサービス室への配属以外は考えられない。

 配属への不満だとすれば、待遇か仕事内容かメンバーか、そのあたりだが。

 待遇と言えばまず座席がないことだが、元々雷夜は開発第一部の自分の席には寄り付きもしていなかったわけだから、それは考えにくい。給料云々……は異動によって変わる話は自分だって聞いていないし、社長の親戚がそんな措置を受けるとも思えない。

 そして仕事内容だが……結局薮芽部長にもまた煙に巻かれてしまった。カスタマーサービス部が実際何をどういうスタンスでやっていく部なのか、いまだによくわからない。もしかして、雷夜はそれを知って、そこに反発して退職を決意したのだろうか。それはあり得ないことではない。好きに研究のできた今までの状態が快適すぎて、先日のようによその会社に出かけて行って修理をしたりするのがいやだ、とか。

 あとはメンバー。……例えば俺に不満があるとしたら、一昨日の夜あんな風に親切にあれこれ教えてくれたりはしないだろう。しないだろう……と、思いたい。こっちのレベルに失望していた可能性は十分にあるが、魔法の理論をあれこれ説明している雷夜は、まんざらでもなさそうに見えた。もう一人、秋良については、以前からそこそこつるんでいたような雰囲気があったわけだし……

 そういえば、秋良は今どこにいるのだろう。

 なぜ総務部長がわざわざ自分を名指しして雷夜捜索を頼んだのかわからない。けれどもしも同じカスタマーサービス室だからというのであれば、秋良だって立場は同じはずだ。

 もしかして、秋良は資料室にいるのだろうか。一昨日もいたし、秋良もあそこに入り浸りのようだから、その可能性は高い。

 仲間がいれば、心強い――


 砂映が階段を下り終え、資料室に一歩足を踏み入れた瞬間だった。

 砂映の頭上の灯りがすべて消え、資料室全体が真っ暗になった。と思ったら、次の瞬間、見える限りのすべての電灯が赤くともった。異常な赤い空間が一瞬発生し、すぐさま消えて闇に戻った。かと思ったらまた赤い灯がつき、そしてすぐまた消えた。またついた。消えた。めまぐるしい点滅に、平衡感覚までおかしくなりそうになる。なんだ。何が起こってるんだ。

 点滅の中で、一瞬前まではなかった影がふいに砂映の正面に浮かび上がる。ひどく小柄な人間。

「しょぼい」

 光の点滅の中から、しわがれた声が響く。

「しょぼい、魔力、じゃなあっ」

 老人の視線は、砂映の足元に向いていた。その時になって、砂映ははじめて自分の足元の模様に気がつく。いや、単なる模様ではない。砂映は直径一メートルほどの、魔法陣の上に立っていた。

「その魔法陣、発動してみい」

 老人は言った。

 何の魔法なのか。何の説明もないのか。どうしてそうしなければいけないのか。

 質問が喉から出かかったその瞬間、肩に痛みが走った。

「あちっ」

 見ると老人が、一昨日の雷夜のように手にした紙――おそらく魔法陣――を、砂映に向けている。普通であれば呪文の詠唱が必要なはずだが、ここを何らかの結界空間にすることで省略可能にしたのかもしれない。熱光線を指定した方向に発する――まあそれ自体は、ちょっと魔法をかじったものなら誰でもできることではある。人に向けてやっていいことではないが。

 赤い光の点滅はいつしか収まり、灯は通常のものになっていた。しかしそれに気づくと同時に、砂映は自分が円筒形の檻の中にいつの間にか囚われていることにも気がついた。砂映が今立っている魔法陣、その円周上から天井に向かって青い縦向きの光線が、格子よろしく並んでいる。こちらの光線は熱ではなく、冷気を発していた。手をかざすと、氷に手を近づけた時のようにひんやりする。だが実際にそこに手を入れた場合、「冷たい」だけで済むかどうかは疑問だ。曲がりなりにも魔法技師である砂映は、魔法の威力というものを知っている。悪意を持って術を構築すれば……相当に危険なものだって、作ることは可能だ。

「早く発動せんか」

「そ、その……この魔法陣を発動したら、何が起こるのでしょうか」

「見てもわからんたわけなら、試しに発動すればいいじゃろ」

「でもほら、上に立って発動すると危険な場合も多々ありますし」

「気にするな」

「いえその、すみませんが気にします」

「しょうもない。……どいつもこいつもしょうもない」

「ど、どいつもこいつもって、他に誰のことですか」

「カスタマーサービス全員じゃい。まったく名前どおりのカスじゃった」

「え、雷夜……くんもですか?」

「雷夜が一番のカスじゃっ」

 老人は噛みつくように言うと、手にしている魔法陣を再び砂映に向けた。

「いっ」

 熱光線が、今度は砂映の左腕をかする。シャツが焦げ、小さな穴が開いている。大した威力ではないけれど……火傷の痕が出来ている。痛いものは痛い。

「その……雷夜くんは、途季さんのお孫さんなんですよね?」

「誰が言うたんじゃそんなこと」

「え。一昨日途季さんが仰ってましたけど」

「阿呆かっ。そんなことは言うとらん。あの男がわしの孫なんて、そんなわけあるか」

「本当に違うんですか?」

「ちゃうわい」

 ぼそっと吐き捨てながら、再び老人は熱光線を放った。砂映の左腕にまた火傷が増える。

 ひりひりする痛みに顔をしかめながら、砂映は一昨日雷夜に接していた老人の、にこにこ顔を思い出す。老人はたぶん今……裏切られて傷ついているのだ。そうしてなんというか、現在のこの自分の状況は――つまるところ八つ当たりか。

「途季さん、先ほど私は薮芽部長から、途季さんのところに行くようにと指示を受けました」

「ほお。あいつもおかしなやつじゃな」

 熱光線が右腕をかすめる。痛い。痛いが、当たった瞬間を過ぎれば、さほどのものでもない。ない、と思い込んで、肩の力を抜く。死ぬようなものではないのだ。そう自分に言い聞かせ、身体が恐怖でこわばらないようにする。

「今朝、雷夜くんが退職したと聞きました。総務部長が僕に彼を連れてくるように言っていたとも聞きました。他の仕事を全部放り出させてでも僕が自由に動けるようにしてほしいと……そう、あなたの綺麗なお孫さんが仰っていたそうです。あなたの知っていることを教えてください」

「知ってること?わしの知識はこの書庫の資料の数より膨大じゃ」

 老人はひどく愉しそうな顔をして、手にした魔法陣を砂映に向けた。続けざまに発せられた光線が、腕と肩、さらに脇腹をかすめる。

「雷夜くんはどうしていきなりやめたんでしょうか」

「さあこっちが訊きたいところじゃなあ」

「一昨日、何か話してませんでしたか」

「はてなあ」

「どうして今になってやめたんでしょう」

「はて」

「秋良くんが今どこにいるかはご存知ですか」

「さあなあ」

「カスタマーサービス室というのは何なんですか?」

「知らんなあ」 

 一言答えるたびに、老人は無邪気な子どものように光線を放つ。まともに会話をする気がないのだ。このままでは、埒が明かない。砂映はすっとその場にしゃがみこんだ。ええいもういい。魔法陣を発動しろと老人は言ったのだ。あいかわらず知らない単語だらけで、どういう内容の魔法陣かは読みきれない。発動……するかわからないし、発動したらどうなるのかもわからない。が、やってやろうではないか。

 砂映は前屈みになって魔法陣に手をつくと、まずは大きく息を吸った。そうして少しずつ息を吐く、その呼吸とともに手に意識を集中させる。手の平がじわりと熱を帯び、水が流れていくように、魔法陣を描いた線が徐々に光を放ち始める。

 やがてその光の描く魔法陣の線から、赤く揺らめくものが立ち上り始めた。一昨日の魔法陣と違って、魔力を無理やり吸い込まれる気配はない。が、

「うわちあああああっ」

 砂映の魔力では到底発現できないはずの、巨大な火柱が突如砂映を包み込んだ。反射的に立ち退いた砂映は青い光の格子に肩から突っ込む。刺さるほどの冷たさ――いや実際に刃物で突き刺されたような強烈な痛みが、脳天やら頬やら肩やら腿やらを次々に貫く。そのままもんどりうってカーペット敷の床に身を転がし、砂映は意識を失った。


「おぬしには、牙というものがないんか」

 老人の声がした。

「社会人になってから……牙を剥くとろくなことにならないんですよ」

 床に伸びて目を閉じたまま、砂映は答える。

「それはおぬしが馬鹿で無能だからではないのか?」

「……そうかもしれないですね」

 腕や肩がひりひりする。身体全体が、重たい物体のように感じられる。どこも一ミリたりとも動かしたくない。動くという気もしない。

「雷夜もどこか、おまえさんに似とるのかなあ」

 老人が言った。「憎しみとか、敵意とか、そういうものをまったく表に出しよらん。何を考えとるのかわからんかった」

 すっとまた、砂映の意識が遠ざかった。背中のカーペットが、ほんのりとぬくもりを含んでいるように感じられた。


 焦点の合わない視界で、はじめそれは、秋良かと思った。目の辺りがそっくりだ。けれども秋良にしては妙に輪郭がくっきりとしていて睫毛も長く、洗練された印象だと気づいた。鼻や口は全然違う。小造りで、上品で、整っていて……ああ、どこをとってもひどく綺麗だ。

「熱海……さん?」

 呻くように、砂映は訊ねた。

「ごめんね」

 優しく微笑むようにして、熱海さんは言った。そうだ、どうして気づかなかったのだろう。秋良と熱海さんは、とても似ている。「社長の甥」は、さっき老人が言ったように、本当に雷夜ではなくて……

「秋良……くんって、熱海さんの従弟?」そう訊ねると、砂映の傍らに両膝をついた熱海さんは、潤んだ目で微笑んだままこくん、と頷いた。

「そっか……」

 熱海さんの前で、いつまでもみっともなく横たわっているのは気がひけた。床に着いた肘に力を入れると、火傷の箇所がひりひりと痛んだ。けれどそのまま身体を起こし、何とか座る体勢にまで持ち込む。そういえば、火傷は痛むのだが、それはすべて老人の熱光線にやられたものだった。炎に包まれたのだから広範囲の服や皮膚が焼けていてもおかしくないのに、そういった痕はどこにもない。青い光の格子によって痛みを感じた箇所――頭のてっぺんや頬や首筋、太腿なども触ってみたが、そこには何の変哲もない、通常どおりの感触しかなかった。

「祖父から説明してもらおうと思ってたのだけど、まさかこんな」

 熱海さんはもう一度「ごめんなさい」と言った。砂映のシャツには丸い焦げ跡がいくつもつき、破れた箇所からは赤く腫れた皮膚が覗いている。

 熱海さんは、そっと手を伸ばした。戸惑う砂映に小さく微笑みかけると、傷痕にゆるく触れる。ひんやりとした心地よさが患部に広がった。

「……熱海さん?」

 その手には、魔法陣が握られているわけでも呪符があるわけでもなかった。何も持っていない。それなのに、何かが発せられている。

「ごめんね。治せるわけじゃないの。でも、少しましでしょう?」

「そうですけど。その」

「そういうことなの。うちの会社のそもそもは、世間一般でほとんど認知されてない、呪文を媒介としない魔法について研究してた団体が元なの。体質というか、持って生まれたものというか……うちの一族はそういう能力を持つ者が生まれやすかったから、だから」

「じゃあ社長とか、途季さんも」

「父にはそういう能力はないわ。この会社を創業した、祖父の兄も能力はなかった。祖父はそう、特殊な力を持っていた。それで昔、いろいろな人に利用されたり、裏切られたりしたみたいで……。この資料室にはね、古くからの文献も含めてうちの研究のすべてがあるの。祖父はそのセキュリティを一手に担ってる。いろいろな仕掛けを施しているから、一般の社員は古い文献の棚には辿り着くこともできない。誰が来てどの資料を見たかも、祖父はすべてを把握してる。錯覚系の術を駆使して、暇な時は来た人をからかったりもして……」

 熱海さんの手からは、冷気のようなものが放たれている。それなのに、それが熱海さんの手だということで、砂映は手をかざされているその箇所が火照るように感じていた。明らかに、火傷のせいではない。ふわりといい香りがする。ひどく近い場所から自分のことを見上げている顔にも、すぐそこにある華奢な肩にも、その下にあるふくらみにも、きゅっと揃えられた膝にも……心拍数が上がるのを感じる。砂映は目をそらし、天井を仰いだ。

「雷夜くんのことは、実際気に入ってた……んですよね。途季さん」

「うん、もう一人の孫だ、なんて言って」

「じゃあ、急にやめられてしまったから、やっぱり相当ショックだったってことでしょうか」

「うん……でも、ただやめただけならそうでもなかったかもしれない」

「え」

 思わず熱海さんの顔に目を戻す。間近で目が合って、砂映は思わず耳が赤くなるのを感じ、慌ててそらした。

「雷夜さんのことをどう思う?」

「どうって」

「……彼が新人の時に赤沢重機の案件で『設計ミスをした』っていう話は知ってる?」

「ああ……特殊仕様が必要なのを指導員が伝えてなかったとかいう。それで雷夜が仕事干されるようになったって……」

「その話には続きがあるの。資料室に入り浸るようになった雷夜さんが何をしていたのかというと……赤沢重機のこれまでの案件の書類、片っ端から調べてたんだって。修理案件や定期点検の報告書から製作年次を辿ったりして……一番初めに赤沢さんに魔法陣の組み込みを提案した時の書類、その時の膨大な量の設計書を見つけ出してからは、朝から晩まで座りこんでひたすら読み込んでたって。その頃に祖父が興味を持って話しかけたらしいんだけど。雷夜さんいわく、『特殊仕様』を組み込んでいなかったせいで他の魔法陣に不具合を起こさせたのはわかるけど、そもそもあの特殊仕様が必要になること自体がおかしいんじゃないかって」

「……負けず嫌いそうだもんな」

「祖父はまあ……久々にマニアックな話のできる相手が見つかって嬉しかったみたい。技術論を戦わせたり、資料読むの手伝ったりしてたらしいの。まあ、こんなことを私が言うのは何だけれど、不必要な仕様が既納品に組み込まれてしまってたら、後続案件でも組み込まないとしょうがなくなる、っていうことは……あるじゃない?はじめにその仕様が組み込まれたのも、まあ作った誰かさんがそれは必要と思い込んでたとか、そういうちょっとしたミスとかが原因だったりして」

「ん。まあ、それは技術者としてはほんとうにすんません、としか言えませんが」

「仕様が一つ多く組み込まれていたとして、そのせいで後続案件の工数がちょっと増えてしまったり、ということはあるかもしれないけれど……そこまで大きな害とはいえないし、企業としては減らす努力は必要かもしれないけれど許容範囲だと思う。ほら、有名な魔法技師の言葉だ、って、よく烙吾さんが引用する」

「『限られた時間の中でベターは出せても常にベストは出ない。だが常にベストを尽くせ』と」

「そう。だから祖父も、雷夜さんのこだわりを若さゆえの完璧主義だ、なんて思って、単に面白がってたらしいの。でも雷夜さんがそれで引っ張り出してしまったものは、そんな他愛無いレベルのものではなかった」

「それって」

「赤沢重機さんの社内に、魔法に関する知識を持つ人は当時いなかったんだと思う。三十年くらい前だし……今よりももっと、魔法という技術は未知のものだった。それでもうちの会社を信頼して、システム一式納入の提案に乗ってくれたんだと思うのに……そこには、不必要な呪文がほとんどすべての魔法陣に組み込んであった。魔力消費量を増やして『石』の劣化を早める以外何の意味もない一文や、小さな不具合を誘発する文言、エネルギー効率を悪くする組み合わせ。過失で起こるレベルではないことは、一目瞭然だった。初めがそれだから、だからそれに対応する妙な『特殊仕様』が必要だったの」

「そ、それ、わかってどうしたんですか」

「雷夜さんは、それを見つけて祖父に伝えた。祖父はほら、あんな性格だから……『マスコミに言おう』なんてふざけて焚き付けたらしいけど、でも雷夜さんはとりあわなかった」

 まあ、普通自分の会社の不祥事を発見していきなりマスコミに垂れ込んだりはしないだろう。というか……会長?

「雷夜さんはただ、『直したい』と主張した。ごちゃごちゃと余計なものがついた魔法陣を放っておきたくない、と」

 熱海はそこで少し言葉を切り、砂映の様子を覗うようにじっと見つめた。砂映がそれに気づいて戸惑っていると、熱海は再び話し始めた。

「でも、すべての初期案件とその後続案件から『余計なもの』を取り除こうと思ったら、本当に大ごとよね」

「そりゃあ、考えただけでめまいがしそうな作業すね」

 取り除きたい仕様があったとする。その場合、呪文の該当箇所を削除すれば済むかといったら、そういう問題ではない。複数の単語で呪文の一文ができていて、その文のかたまりで「鳳凰ほうおう」「火鼠ひねずみ」といった一つの術ができていて、それをいくつかを組み合わせて一つの術式ができていて、さらにその術式をいくつか組み合わせて「統合魔法陣」は作られている。その統合魔法陣は連結されて「連結魔法陣一式」となり、さらに連結されていないその「場」の魔法陣が相互に影響しあうことで効果を高めているのが「システム一式納入」だ。それぞれの段階で、組み合わせの際には値や文字を調整している。一つの文言が抜けたら、それはすべてに影響するのだ。あっちを抜いてこっちを抜いて、その上ですべてが丸く収まるように調整するのは……難問だ。難問だし、それに実際の作業として、工場すべての魔法陣を解体して再形成するのは……一体どれだけの工数がかかるか、正直見当がつかない。

「作業をするには工場稼働を一定の期間止めてもらう必要がある。でも、三十年前うちが悪意あるシステム構築をしてました、その後もずっとそれに合わせて不要な仕様を加えていました、なんて……」

「確かにそれは言いにくい」

「会社の信用問題ももちろんあるし、こんなの卑怯な言い訳かもしれないけれど、もしもマスコミに取り上げられて世間に話が広がったら、うちの会社だけでなく、『魔法技術』そのものについて疑いを持たれる風潮になってしまうかもしれない。そうしたら、業界全体が危うくなる」

 整った眉をひそめるように熱海さんは言った。砂映は神妙に聞いていた。

「それではじめは、『改造』として提案したの。使用エネルギーの削減ができて効率化になる、という資料を作って。こちらが悪かった部分を直すのに、騙してお金までもらうのはどうかとも思うけれど……でもそれなら堂々と作業できる。そういう話に会議で決まった。でも」

「……赤沢重機の業績が、よろしくなかったら……」

「そう。そんな大がかりな設備投資にお金をかける余裕なんてない。うちはあくまでも『改造の提案』という名目だから、あまりにも安い値段を提示するわけにもいかない。社長と部長数人で商談に行ったけど、結局だめだった。それで打つ手なしってことで、これまでどおり放置して、追加があったら特殊仕様を入れ続けるしかないということで役員会議でまとまってしまった。……私も後から聞いたのだけど」

 ああ、そうだよな、と砂映は少し胸を撫で下ろした。

 話を聞いていて、熱海さんは役員会議に常に出て主導権を握ってるのかと思えてきていた。しかしよく考えたら、彼女は普段は事務職として働いていて、そんなしょっちゅう長時間、席をはずしたりはしていなかったはずだ。

 でも、それなのに自分のことみたいに話すのは、そこに責任を感じているからなのだろうか。社長の娘だから、責任を感じたりするのだろうか。

 こんな、見る者をこんなにも幸せにしてくれるほど綺麗な女の人が、そんなこと考えなくたっていいのに。

 砂映が考え込む表情をしていると、熱海さんが不安げに下から覗きこんできた。砂映はどぎまぎし、唇を引き結んで横を向く。熱海さんの手は、話しながらもずっと触れるか触れないかの距離で砂映の患部に添えられていた。右肩、右腕、左腕、右脇腹。時折すっと空気の上をすべるように手を移動させ、別の火傷に冷気を当ててくれる。冷気が当たると心地よい。

「……結構悩んでたの、私」

「うん」

「そうしたらね。雷夜さんが、『細切れの作業でできるようにすれば、夜中に忍び込んで何とかできるかもしれない』って言ってくれたの。ううん、実際には、そんなことさせるわけにはいかないから、やめてって言ったよ。でも、事態の改善のためにそこまで考えてくれてるのは……嬉しかった」

「はあ」

「結局はね、元赤沢重機の社員で……赤沢重機の人事部にいた人がいるからその人に相談しようということになって。それが薮芽さんなんだけど」

「薮芽さん……」

 思いもよらないところで名前が出てきた。そうか、薮芽さんは中途採用でうちに入って来たのか。道理で、こういっては何だが……社内でどこか浮いているような感じがする。いや、それだけが理由というわけでもないかもしれないが。しかしどういう事情でうちに来て、「首切り役人」なんて言われるような仕事をするようになったのだろう。それはそれで気になるところではある。

「赤沢重機の売上が落ちているなら、むしろ長めの電力休暇でもとってもらって、その期間に実験場として工場を貸してほしいと持ち掛けてみよう、って薮芽さんが言って。あっという間に赤沢重機の社内に根回しして、双方のメリットと保障内容を提示して契約書を取り結んでくれて。そうはいっても夏休みの電力休暇を十日から十五日に延長してもらっただけではあったんだけど、あとは雷夜さんが……話が決まってから半年の間にすべての魔法陣を再構築した設計書を書いて、作業計画を立てて、何とかその日数で全部完了させてくれた。……秋良も多少手伝ったりしていたけれど」

「それが……去年?」

「うん、去年の夏」

 去年の夏、そんなことが起こっていたなんて。

 砂映は社内事情に疎いが、そういう問題ではない。

 裏でそんなことが起こっていたなんて、一般社員のほとんどは知らないだろう。みんな、「雷夜は仕事を干されている」と思っていたのだから。

「すごいと思った」

「へ」

「私は、すごいと思った。すごいと思ったし、うちの会社に、そういうことをしてくれる人たちがいるのが、とても大事だと思った」

「うん」

 熱海さんはずいぶん雷夜を買っているらしい。

 ほんのり、砂映の中に複雑な気持が生まれる。仕方のないことだとわかってはいるが。

「父と話したの。父も同じ意見だった。それで『問題解決室』という部署を作ろう、って話になったのよ。はじめは、雷夜さんと秋良と薮芽さんで考えていた。今の部署に在籍したままでひそかに存在させようって、はじめはそういう話だったの。でももう一人くらいいた方がいいってことになって、いろいろ考えて砂映さんがいいかな、と思って、話したら父も賛成で。でもそうしたら今の部署に在籍したままでは難しいだろうってことで……今みたいに辞令を出して新規部署にする形になった」

「その……」勇気を出して、砂映は熱海を見つめた。自分なりに二枚目の表情というものを意識する。「どうして俺を?」

 熱海は小さく首を傾げるように砂映を見つめ返した。砂映は真剣な顔をとりあえず維持し続ける。

「……砂映さんは潤滑油、かな」熱海さんは言った。

「潤滑油?」

 雷夜さんは「すごい」で、自分は潤滑油?

 問い返す砂映に、熱海は軽く吹き出すように微笑みかけると、

「ふふ。こんな話長くて面倒くさい女は嫌われるね」

 軽やかに視線をはずして言った。そんなことは、と砂映が言いかけるのをいたずらっぽい笑顔で横目で見ると、熱海はふっと表情を曇らせた。砂映ははっとする。

 そうだそもそも、どうして今こんなところにいて、こんな話をすることになったのか。

 今朝、どうして熱海さんはあんなに暗い表情で、柄にもなく烙吾に上から指示を出すようなことをしたのか。

「私はね、雷夜さんは信頼できる人だ、と思ってたの」

「うん」

「でも、わからなくなった。どうしていいのかわからない。砂映くんは何か解決の糸口を見つけられるかもしれないって、そう思って……」

 熱海さんのすがるような潤む目に、砂映は胸が熱くなる。けれどもその熱くたぎる胸が、一方でひどく痛んでいることにも、気づかないわけにはいかない。

「それは、つまり、雷夜くんがいきなりやめてしまったことについて……?」

 それが、そんなにもショックだったんですか?

 熱海さんは、まっすぐに砂映に目を向けた。砂映はさらなる痛みがくることを、覚悟した。けれども熱海さんは言った。

「そのことはいいの」

「へ?」

「そんな風に言ったら変かもしれないけれど。……雷夜さんがうちにいてくれたら、すごくありがたいと思うよ。でも、彼はなんというか、専門に特化した人だから……ほら、うちは技術職と営業職が分かれてないでしょう?雷夜さんみたいな人は、技術だけに集中できる職場の方が力を発揮できるんじゃないかと思うし、どちらかというと、研究職とかが向いてるんじゃないかな。だから、この会社をいきなり去ったとしても、それは本人のキャリアの問題だし、それを妨害する権利まではないと思う。もちろん、秘密保持契約を結ばなきゃ、とか、そういう総務部長の心配はわかるけど」

「じゃあどうして」

 熱海さんは、すっと顔をそむけてうつむくと、一瞬だけ、泣きそうな顔をした。それから顔を上げて言った。

「秋良がいなくなったの。昨日の朝、雷夜さんが秋良を連れて行って。それっきり。秋良はうちに帰って来ない」


 へ?

 とぼけた声を上げそうになり、砂映は何とかそれを抑えた。

 なんだ、どういうことだそれ。

 子どもじゃないんだぞ。というかむしろ雷夜の方が見た目子どもみたいなのに。いやまあそれはいいとして。……家出?誘拐事件?社長の甥なら、身代金要求とか、そういうのもあり得て、だから誘拐事件?でも、それを雷夜が?雷夜が犯人で?秋良の意思は?

「え?連れて行ったって……」

「昨日の早朝、雷夜さんが迎えに来たの。私も父も起きていた。あ、秋良は子どもの頃からうちで暮らしてて……」

「迎え?その、別に無理やり連れてったわけじゃないんですよね」

「うん。呼び鈴が鳴って、まず家政婦さんが出て……。秋良は彼女に呼ばれる前に出て行ったわ。今思えば、少し元気がないようにも思ったけれど」

「あ、昨日の早朝って……な、何時頃」

「五時半……を少し過ぎたくらいだった」

「あの、会社から熱海さんの家までって時間はどのくらい」

「三十分程度かな」

 それはつまり……こちらの残業に朝までつきあったあの足で、雷夜はそのまま秋良を迎えに行ったと、そういうことなのか。

「その、迎えに来るってのはしょっちゅうあったの?」

「ううん、どうせ会社で会うんだし……これまでそんなことなかったんだけど。その、カスタマーサービス室のことで何か二人で相談でもあるのかな、とその時は思って」

「ええと……あれ?昨日雷夜と秋良くんは会社にいなかったってこと?」

「祖父は見なかったって言ってた。今、資料室の監視システムを確認してる」

「その……雷夜の退職願が置かれてたのは今朝だよね?」

「それが、昨日の朝らしいの。総務部長が昨日は終日出張で……部長机の上に裏向きに二枚重ねで置いてあって、他の人も確認しなかったみたいで」

「二枚重ね?」

「うん。……退職願は雷夜さんだけじゃなくて。……秋良の退職願も一緒に置いてあったの。ハンコも押してあったけど、両方とも雷夜くんの字だった。封筒にも入れずに、そのままで置いてたみたい」

 ……はあ?

 頭が混乱してきた。

「どういうこと」思わず砂映は言った。

「わからない」熱海さんは微笑むことなく答える。

「その……つまり昨日、秋良くんは家に帰って来なかった」

「うん」

「雷夜の方は?あいつって一人暮らし?」

「ううん、昨日の夜おうちに電話したら妹さんが出られて。でも、前の日から帰って来てない、って仰ってて。帰って来ないのはよくあることらしいの。しっかりした感じの子で……帰って来たらすぐに連絡させます、って言ってくれたのだけど」

「その……雷夜と無関係に秋良くんが何か事件に巻き込まれたとか、そういうことはないんかな。警察には言ったん?」

「……まだ一日だし、あまり大ごとにはしたくなくて」

「あ、それはそうか」

 確かに、成人男性が一日帰ってこないくらいで警察に言うのはちょっとどうかという感じもする。松岡デラックス魔法カンパニーは大手企業ではないが、業界の中では老舗でそれなりに知名度もある会社だ。下手な形でマスコミに漏れると、妙な取り上げ方をされる可能性だってある。

「秋良単独で事件に巻き込まれた可能性もないわけじゃない。でも、じゃあどうして退職願が出されてたのか、どうして雷夜さんも行方不明なのかの説明がつかない気がして」

「確かに……。あ、あの二人、普段はいつも資料室にいるの?他にも居場所あるんだったら、もしかしてそこに隠れてるとか。じゃなかったら、社内じゃなくても、行きそうな場所って探したん?なんかこう、二人で仕事へのやる気を失って、どっかの公園にいるとか……川べりとか……」

 頭が整理できないまま闇雲に喋っていると、ふいに背後に気配を感じた。身体を捩じるようにして振り向くと、そこには途季老人が立っていた。座った砂映よりは、さすがにその背は高い。

「このへぼ探偵が」老人は言った。「さっきから聞いておれば、ろくなことを言いよらん」

 だ、だって探偵じゃないし。という反論が砂映から出かかったが、ろくなことを言っていないのは事実なので何だか憚られた。老人はとことこと歩いてくると、冷気を発し続けていた熱海さんを無理に立ち上がらせて退かせた。かわって皺くちゃの老人が、砂映に向き合う。

「あの、この火傷、結構痛いのですが」控えめに砂映は言ってみた。

「そのおかげで熱海にいいことしてもらったんじゃろ。むしろ感謝せい」

 老人には、悪びれる様子は微塵もない。「いいこと」というと何だか語弊がある気もするが、確かにそれも否定できないので、砂映は黙る。熱海さんは困ったように脇に退いて、その場に立っていた。老人は両手を伸ばすと、突然砂映の頬を、両方から挟むようにばん、と叩いた。

 痛みよりも驚きで砂映が目を見開いていると、老人は砂映の顔を押しつぶすようにしながら睨みつけて言った。「おぬし、腑抜けている場合ではない。今から横分に行って来い」

「よこわけ?」

「横分魔法研究所じゃ。雷夜はおそらくそこにいる、そうしてたぶん、秋良もな」

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