6.雷夜の失踪
朝一番。開発第三部での砂映の引継ぎは本日入れてあと二日、という九月二十七日木曜日。いつものように砂映が家に帰って仮眠をとり、多少身なりを整えて出勤した直後の午前九時のことである。
「困るんだよねえ」
でっぷりと肥った総務部所属の砂映の同期、呉郎は現れるなりそうのたまった。
大変珍しいことだ、と砂映は思った。総務部のある四階から、開発や技術の部署がある三階に呉郎がやって来るなんてことはめったにない。提出書類の不備などがあれば、呉郎はいつも内線で呼びつける。それなのに自らやって来るなんて。たぷんとした顎を上向けるようにして不遜な顔でこちらを見下ろしているが、その実これは、平身低頭モードなのだろう。
「ああ……おはよ。ええと、何が?」
立つと上から見下ろすことになるので、敢えて座ったまま砂映は訊ねた。見上げる砂映の机の上に、呉郎は折りたたんだ紙を放り投げた。
「辞表」
「へ」
「言っておいてくれないかな。いきなり総務部に出されても受理できないって」
「え?」
「上司認証がいるんだよ。しかも彼、異動の辞令が出ているじゃない。異動前の上司と異動後の上司、両方のハンコを貰わないと」
「ちょ。ちょい待って。辞表って、誰の辞表」
「開いて見ればいいじゃない」
「え?あのさ。他人の辞表、見ていいの」
「いいんじゃないの。内容ほとんどないし」
いいのか?
不信の目で呉郎を見つつも、指でつまむようにして三つ折りの紙を開く。総務部の脇の棚に置かれている、会社の所定用紙だ。書き込まれているのは、名前だけだった。
退職願
一身上の都合により、 月 日 をもって退職いたしたく、お願い申し上げます。
年 月 日
名前:雷夜・F
所属:
松岡デラックス魔法カンパニー
殿
「普通はさあ、上司経由で総務部に話が来て、総務部と面談してから書くわけ。で、上司認証してから、こっちに回ってくるわけ。『一身上の都合』じゃない具体的な退職理由も一応面談で訊いておかなきゃいけないし、説明しないといけないこととかもあるわけ。まあ、いいよ?いきなり会社来なくなる奴だっていないわけじゃないし。だけどこれ」
呉郎はさらにもう一枚紙を放った。今度は折りたたまれてもいなかった。「誓約書」。会社をやめても、この会社で得た情報はよそにもらさない、という内容だ。
「総務部長命令。これがないと困るって。……今までももらえなかったことはあると思うんだけどね。なぜか今回は血相変えてた。しかもハンコだけじゃ駄目。面談の場を設けるから本人連れて来いって」
「ええと、それは俺に言ってるの」
「だって同じ部署じゃない」
「あ、いや、でも。……会社には来てんの?」
「さあ。いるならすぐに連れてきて」
「え、いや、だから」どこかおかしいと思うのにどう言っていいのかわからずに必死でことばを探す砂映に、
「……僕は親切なんだ」
呉郎はそう言うと、なぜか照れたように微笑んで目をそらした。呆気にとられる砂映を尻目に続ける。「一昨日君が座席がないことを気にしていたから、あの後念のため部長に確認したんだよ。『カスタマーサービス室の座席は本当にいらないんですか?』って」
「!それでなんて言ってた」
「いらないって」
「あ、そう……」
「でも、今朝になって言い出したんだ。雷夜を連れてきたら、カスタマーサービス室の座席を用意しようって」
「……え?」
一瞬喜びそうになる。
あれ、でも、それって何だか、おかしくないか?
会社の座席、しかも一部署の島全体が、そんな総務部長の気まぐれで用意されたりされなかったりするものなのか?そんな、個人の雑用のご褒美的なものなのか?
「へ、ということは、雷夜を連れてくるようにって、総務部長が俺に言ってんの?」
「当たり前だよ。いくら僕でも、総務部の仕事を独断でおまえに押し付けたりなんてしないよ」
「ええと、でも、悪い、よくわからないんだけど」
「僕だってわからないよ」
呉郎はずんぐりした頭を、起き上がりこぼしのだるまのように左右に振った。肩と頭部の境目の、おそらく首が埋もれているあたりをとんとんと叩くと、
「ともかく雷夜を連れてきて」
そう言って、ふわあとあくびをし、たぷんたぷんとあちこち揺らして去って行く。
「ちょ、え?ちょい待って」
「僕は忙しいんだ」
もはや呉郎は振り返らない。
退職願と誓約書、二枚と共に座席に残された砂映は、開発第三部の面々の視線を感じて顔を上げた。全員が、さっと目をそらした。
例外は、熱海さんだった。
彼女は今日も美しく、しかし今日の彼女は微笑まず、潤んだ目で何か言いたげに砂映を見つめている。何だかよくわからないが全身の血がたぎるような感じがして、砂映はぶるぶると肩を震わせた。視界の中で熱海さんだけが大写しになっている。いかん。視界を平常モードに引き戻し、その時になってようやく、砂映はもう一人の例外に気がついた。いつもどおりの苦虫を噛み潰したような表情の、烙吾だ。
「……ちょっといいか」
作業をせずに油を売ったりしていたら怒られること必至だ。一気に脳を冷された気分になって慌てて書類を引き寄せていると、いつの間にか回り込んできた烙吾が砂映の肩を叩いた。呆気にとられる砂映に、烙吾は空いている会議室の一つを指し、来い、と促す。
「え?」
部の面々の視線が、また一斉に向けられている。その中で、ひときわ輝くもの言いたげな熱海さん。いや、だからそんな場合ではなく。
砂映は慌てて烙吾の背中を追いかける。
「仕事の状況は、どんな感じだ」
砂映が扉を閉めると同時に、烙吾は口を開いた。
「あ、ええと」
椅子を引いて烙吾の向かいに腰掛けながら、砂映はざっと説明する。引継ぎ書の作成はあと少し。回答の必要な問い合わせが十件くらいある。作らなくてはいけない見積が五件ほど。開発案件については残り一件が、概要設計を終えたところで今から呪文の細かい調整に入るところ。
「保守案件の細かい注意点について引継ぎ書に入れておきたいんですが、それは今日中に終わらせます、あと……」
「いやもういい」
話を遮る口調で言われ、砂映は目をぱちくりとさせた。
烙吾は苦り切った顔で黙り込んでいる。
「あの……?」
砂映が訊ねると、
「おまえはもう、出て行っていいから」
テーブルを睨みつけるようにして、烙吾は言った。
「え?」
「今ある仕事は全部置いていけ。あとは俺がやる」
「どうして」
「そういう指示があった」
「ど、どこから」
砂映の問いかけに烙吾は目だけを上げ、押し殺したような声で言った。
「熱海だ」
「へ。え?」
「熱海がそう言ってきた。おまえが自由に動けるようにと」
「ちょちょ。ちょっと待ってください。え?烙吾さんと熱海さんって……でででデキてたんですかっ」
「阿呆」
吐き捨てるように烙吾は言うが、砂映には訳がわからない。
なんで今の話で熱海さんが出てくるのか。年齢的にも職制的にも烙吾の方が上である。なのになぜ、熱海さんが指示をして、それに烙吾が従うのか。
うろたえる砂映に、烙吾は顔を上げた。むしろ意外そうな顔をしている。
「おまえ何も知らんのか」
「なにって、なに……」
「熱海が頼んでくるぐらいだから、おまえ自身はてっきり……」
烙吾はじっと見極めるように砂映を見た。「そうかおまえ。ほんとに何も知らないんだな」烙吾の顔に同情の色が浮かんだ。
「……これからおまえに教える人間がいるかわからないからな……」そう言うと、ため息をつき、「管理職なら大抵……役付ならまちがいなく知っている公然の秘密ってやつだ。ただし不用意な口外があったら首が飛ぶ。いいか?肝に銘じておけ。絶対表に出すなよ」鋭い目をして言う。
烙吾の真剣さに、砂映はとりあえずこくこくと頷いた。いまいち頭がついていかない。慢性睡眠不足、それだけが理由とは言い切れない。
「熱海はうちの現社長の娘だ」烙吾は言った。「普段はそんなこと特に意識してないし、彼女は事務職としてよくやってくれている。俺がチーム長になってから……熱海がそうだと知ってからも、こんな風に実際に上から物を言ってきたことなんてこれまで一度もなかった。今回が初めてだ。だからよくわからんが……会社にとって、何か大変な事態が起きているんだろう。その大変な事態の渦中に、おまえはいるってことだ」
熱海さんが社長の娘?
雷夜が社長の甥のはずで、ということは、雷夜と熱海さんは従姉弟同士?
「社長の、娘……」
「だからって態度を変えてやるなよ」
「それは、そうですけど……」
熱海さん。素敵な熱海さん。社長の娘。そうか、社長の娘なのか。あふれる気品はそのためか。いつも上品な佇まいなのはそのためか。ええと、それで……それで……なんだろう。
その時、扉がノックされる音が響いた。間を置いて、同じチームの事務職の子が慎重に顔を覗かせる。
「お話し中すみません。砂映さんに高倉ディーゼルさんからお電話で……すごく急ぎと言われて、その」
「俺が出る」
烙吾が立ち上がった。伝えた事務職が目を丸くしている。
「おまえはさっさと行け。資料は机にあるんだろう?勝手に見させてもらう」
「行くって、どこに?」
「知らん」
烙吾はそのまま出て行った。開け放されたままの扉から、みなが忙しく立ち働くいつもの風景が覗く。
砂映は動けなかった。
「行くって、どこに?」
もう一度、一人で呟いた。
オフィスの中では机が島をなし、あちこちで電話が鳴る。みながそれぞれに動き回っている。FAXを配る人、伝票をタイプする人。部長席の前で報告をしている人。
どうして自分は今その中にいなくて、こんな風に、外側から、彼らのことをどこか遠く感じながら眺めているのだろう。
やがて目をそらすと、砂映は扉に背を向けた。座ったままだらんと肩を落として背中を丸め、会議室の奥の窓から覗く、陽の光に輝く街路樹の緑を見やる。
緑は少し揺れている。風に吹かれて揺れている。
空は青い。
「なにやってるんだい砂映くん」
ふいに、声をかけられた。ばたん、と扉の閉まる音。
「内線をもらってね。砂映くんが会議室から出てこないと聞いたんだ」
「へえ。誰にですか」
「お姫様」
「お姫様って誰ですか、って、訊いた方がいいですか」
「訊いた方がいい。君の部署のお姫様だよ」
「……熱海さんですか」
「熱海さんだよ」
「ふうん」
砂映は背中を向けて座ったままだった。やって来たのが上司、自分のこれから所属する部署の長だということはわかっていた。その上司が扉の前にいて、立ったままで話していることもわかっていた。上司が立っているのに自分は座っていて、しかも背中を向けたままこんな風にぞんざいに言葉を返すなんて、到底あってはいけないことだとわかっている。わかってはいるのだが。
「すみません」
「なにがだい」
「すみません。何が何だかわからないし、ここを出てどうしたらいいのかもわかりません」
「おやおやそれは困ったねえ」
わかっていないとおかしいのだろうか。
何もわからず、どう動いたらいいのか見当もつかない自分は、どうしようもないやつなのだろうか。
「動く気力も湧きません。どうしたらいいんでしょう」
「どうしたらいいんだろうねえ」
薮芽の声は愉しそうだった。砂映はだらんと腕を垂らし、彼に背を向けて座ったままでいる。
「昔はねえ、妻と子どものことを思え、と言ったものだよ。でも今は結婚してないのも増えたからねえ。困ったねえ。砂映くん、無職になりたい?」
「……なりたくないです」
「それはよかった。なりたくない気持があるなら、大丈夫だ」
「どう大丈夫なんですか」
「だって解雇されたくないだろう」
「……されたくないです」
「うんうん。よしよし。解雇されたくなかったら、僕の言うことを聞いてもらおう。どうだい?」
「……はい、わかりました」
「素直だなあ。気持ち悪いなあ」
「すみません」
頭がひどく重く感じられてきて、砂映はうつむくように首を下げた。抱えていた仕事を、突然しなくていいと言われて……気が抜けてしまったのかもしれない。溜まっていた疲れが、急に全身に襲い掛かってきたように思える。
「重症だねえ。……よし。いいことを教えてあげよう。私は魔法のことはまるでわからない。しかしある一つの能力については、絶対的な自信があるんだ」
「はあ」
「なんだと思う?」
「……さあ」
「教えてあげよう。この薮芽・S、人を見る目だけは自信がある」
「へえ」
「カスタマーサービス部を立ち上げるにあたって、君のことを推した人間は、誰だと思う?」
「……それが薮芽さん?」
「ぶーっ!はずれえ。ひっかかったねえ。配属が決まるまで君とは会ったことなかっただろう?君のことなんて存在すら知らなかったよ」
薮芽の高らかな声に、砂映はますます肩を落とした。これではいけない。いけないと思うのだが。
「答えはねえ、お姫様。熱海さんだ」
「熱海さんが」
「そう。熱海さんが君をカスタマーサービス部に入れることを提案した」
「なんで」
「信頼できる人だと言ってたよ」
ぴくり、と砂映の肩が小さく揺れた。
けれども頭を重く垂らしたまま、砂映はのろのろ口を開く。
「……ありがたい話ですけど、どうやってその信頼に応えたらいいのかわかりません」
「ははは。そうかもねえ」
「……そもそもカスタマーサービス室って何なんですか」
「ぶ、だよ」
「……カスタマーサービス部って何なんですか」
「なんだと思う?」
「わかりません」
「言ってみればね、闇に紛れて生きるヒーローってやつだ」
「意味がわかりません」
砂映はそのままの姿勢で、けれども何とか顔だけは上げて、すうっと大きく息を吐いてみた。吐き切って、吸い込む。
「ここは会社ですよね」
「そうだね」
「そして薮芽さんは僕の上司ですよね」
「うん」
「駄目社員で申し訳ありませんが……何か、指示をいただけないでしょうか」
陽の光に満ちた外の景色を眺めながら、砂映は言った。
「そうだねえ」もったいぶるように薮芽はいったん言葉を切ると、
「とりあえず、資料室に行って途季さんに会って来るといい」
そう言って、ヒゲを撫でつけながら微笑んだ。