表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

5.途季老人の地下資料室

 階段を下りきると、扉がある。

 資料室、と書かれたプレートがドアの上についている。

 中は真っ暗だった。紙とインクのにおいがする。人の存在を感知して灯がつく方式となっていて、一歩入った途端、自分のまわりの空間だけがぱっと明るくなる。

 砂映はここに、入社時の案内でしか来たことがなかった。よく使う専門書は自分で持っているし、部で購入したものもある。過去の案件の書類はここに納める前にコピーを取って五年は部で保管しているし、砂映の部署でそれより古い資料を必要とすることは滅多にない。図書室の開架のような空間を抜けると、移動式の書棚がびっしりと並んだ倉庫のようなフロアに入った。管理上、書籍や書類を持ち出す時は台帳に記入することになっているが、司書のような人間がいるわけではない。受付カウンターのようなものはあったが、常に無人だ。

 それにしても、おそろしく広い。

 音を吸収するカーペット敷きで、自分の足音すらしない。空間はしんと静まり返り、ただ砂映が進むごとに、暗闇が消えて一定範囲の書棚が浮かび上がる。砂映が通り抜けた後の灯は、一応ついたままだ。背中の常に明るいことが、砂映には救いに思えた。ぎっちりと並ぶ書棚を右手に砂映は奥に向かって進んでいたが、つきあたると壁と書棚の間を平行に通り抜けた。すると眼前の灯がつぎつぎにつき、これまでとは違う角度の並びで、奥までずらっとまた書棚が並んでいる。そういったことを何回か繰り返すうちに、どこをどういう方向に進んでいるのか、砂映はわからなくなってきた。うちの会社は何年設立だったろう?と砂映は考える。魔法というものは昔からあるが、今のように工業技術に応用され専門の会社ができたりするようになったのはせいぜい四十年か五十年前のはずだ。業界の中では老舗だとはいえ、それより古い会社であるはずはない。これまでに扱った案件のすべての資料を集めたとしたって、いくらなんでもここまでの量にはならないのではないか。

 試しに砂映は手近な書棚を引き出し、手前の書類を取り出してみる。技術第二部の前身、呪符量産部の二十年前の一件書類。何か取り決めがあるのだろう、客先の仕様書は記号化されていて、読んでも意味がわからない。呪符は単一魔法にしか使えないから、設計書はシンプルに一枚のみだった。検査成績書も一枚。あとは発注書や伝票の控等。書類全体がとても薄い。ともかく砂映は書類を戻す。別に自分は資料を見に来たわけではない。そうではなくて、途季とき老人に会いに来たのだ。資料室には椅子もない。ここにいつもいるのだとしたら、それはたぶん事務所のような別室があるのだろう。そう踏んだのだが、どこに突き当たってもあるのは壁ばかりだ。本人が昨日言っていたように、本当に、向こうがその気にならない限り、こちらからコンタクトをとることはできないのだろうか。

 無意味、ということばがじわじわと頭に広がり出した頃、遠くの方に灯りが見えた。まさかぐるっと回って自分がすでに通った場所に戻って来たというわけではないだろう。自分以外の誰かがいるということだ。砂映は早足で、その灯のともった一角に向かった。

 ぽっかりと照らしだされた空間。

 隙間なく並んだ書棚の横、決してきれいとは思えない灰色のカーペットの上に、あぐらをかいて座りこんでいる人影がある。

 脇に積みあがった、幾冊もの分厚い一件書類。彼は屈みこむようにして書類をめくりつつ、時折片端のノートに一心に何かを書き込んでいる。来年高校受験か?と訊いてやりたくなるその風貌。やはり今日も黒ずくめである。


 人の気配に気がついて、雷夜は顔を上げた。無言のまま、大きな目でじっとしばらく砂映を見る。数秒後、「あ」と小さく声を上げた。

「……昨日の人か」

「遅いだろ」

 思わず砂映はつっこんだ。少年の表情に変化はない。しばらく目が合った状態が続いたので、砂映は小さく咳払いして言った。

「あ、ええと、とりあえず、昨日はお疲れ」

「別に疲れてない」

 資料に再び目を落としながら、少年はどうでもよさそうに言う。反抗期みたいな切り返ししやがって、と砂映は思いつつ、自分は大人なんだと自分に言い聞かせる。

「あのさ雷夜くん、君はよくここに来るんだよね」

 雷夜は顔を上げずに資料をぺらりとめくりながら「ああ」と答える。

 先輩に向かってその態度は何ですか、と言いたい。言いたいが、そんないやな先輩にはなりたくない。

「そのさ、途季さんって知ってますか」

 雷夜は膝の上のノートに何やら呪文の断片らしきものをメモっている。砂映の問いには答えない。

「知らん?知らんってこと?」

 やはり無言だった。なんですか、これから同じ部署になるという先輩に向かって、無視ですか。

「このガキ」

 思わず砂映が吐き捨てると、雷夜はぱっと顔を上げた。砂映の方が、その反応に逆にうろたえる。

「あ、いやその」

「すいません、聞いてませんでした」

 黒々とした目をまっすぐに向けて、真顔で雷夜は言った。

(ちょっとは悪びれろ)

 やはり彼の指導員は、充分すぎるほどかわいそうな人だ。

 そう思いつつ、砂映は口の端に笑みを乗せて小さな子供に訊ねるように質問した。「途、季、さ、ん。知ってる?」

 雷夜は表情を変えずに、じっと砂映の顔を見ていた。はいかいいえかもまったくそこからは読み取れない。

「知ってる。知らない。どっちかな?」

 満面の笑みを作り、やけくそで砂映は問う。

 雷夜はつまらなさそうにまた資料に目を戻した。左手で持ったペン――どうやら雷夜は左利きらしい――をぺこぺこ振って、自分の右手を叩いている。「『樹氷じゅひょう』、『空蝉うつせみ』、『つきうさぎ』……」魔法の名前をいくつか呟き、考え込むように目をぐるっと動かして、それから唐突に、

「ああ、じいさんのこと」と呟いた。

「そうだ。じいさんのことだ」

 自分の部署の座席に寄り付かない雷夜は、おそらく就業時間の大半をここで過ごしていたのだろう。昨日会った老人は、雷夜の能力に信頼を寄せているようだった。あの老人が途季さんなのだとすれば……雷夜は途季老人のお気に入りであるに違いない。

「そのじいさんに用事があるんだ。雷夜くん、その、呼んだりはしてもらえんかな」

 前のめり気味に砂映は頼んだ。

 雷夜はまた手元に目を落とすと、ふいに一枚ノートのページをめくり、そのページにペンを走らせた。なんと贅沢な、会社の備品としては置いていない高級品、中の紙がすべて魔法用紙のノートである。さらさらと図形が描かれ、その中に呪文が書き込まれていく。「すごくきれいな魔法陣を書くらしい」という涼雨のことばを砂映は思い出した。確かに妙にすっきりと整っていて美しい。魔法文字など、テキストのお手本のようだ。

 魔法陣を書いたページを、雷夜は破り取った。

(発動する気か?)

 砂映はやや後ずさる。 

 効力を光に変換して確認するテスト稼動の場合は、専用の呪文を追記するものだ。魔法技師が社内で魔力を使う場合というのは、八割そのテスト稼動である。しかし砂映が見たところ、その専用の呪文が配置されるべき箇所に、その文言はなかった。据付時の陣の形成や昨日のような修正・調整の場合には「技師が自身の魔力を魔法陣に流す」こともするが、工場での本番稼動や一般の電化製品では通常賢者の石を用いる。人間の魔力では、魔法陣を用いたところでそう大したことはできないものだ。そう、「普通」はそうなのだが……魔力には個人差がある。雷夜が「普通」かどうかは疑わしい。そして今書かれた魔法陣がどのような作用を発現するものなのか……砂映は呪文の内容を読み取るのが苦手だった。この単語がここにあってこの並びで、ああだからこの意味に……と部分ごとに考えないとわからない。ぱっと見た限り、どうも闇にまつわる魔法のようであるが。

 雷夜は床に広げて手をかざすことはせず、破った紙を無造作に手に持ったまま小さく呪文を唱えた。紙がほのかにエネルギーを帯びて輝き出す。

 次の瞬間、天井の灯がすべて消えた。一拍置いて、雷夜と砂映の真上の数本だけが、ぽ、ぽ、ぽ、と点灯した。

「な、なにしたん?」

「電気を消した」

 どうやら即席で、そこらすべての灯の制御魔法を「可変化」してコントロールする魔法陣を作ったと、そういうことらしい。

「な、なにゆえ」

「じいさんに会いたいんだろう」

「うん」

「魔法制御で光量が増幅されているといえ、消費電力はゼロじゃない。賢者の石だって限られた資源だ」

「な、なんの話?」

「もったいないだろう」

「それはそうだけど、それは途季さんと関係のある話ですか」

「老人というのはもったいないのが嫌いなんだ」

「そうかもしれんけど。あ、ということはこれはお出迎えの準備みたいなものですか」

「なんでじいさんに出迎えの準備なんているんだ」

「え?いやその。……どういうこと?」

「質問が多いな」

 雷夜はそのまままた手元の資料に目を戻した。

 砂映は呆然と立っていた。呆然と雷夜を見下ろし、まばたきを繰り返していた。……首が痛い。こきこきと頭を左右に揺らし、手を首の後ろにやっていると、

「肉まんがふかせた」

 足元で突然声がした。

 見ると目の前に、昨日書類を持ってきた、例の小さな老人が立っている。

「ああっ」

 思わず砂映は大声を出した。

「なんじゃやかましい」

「あ、あ、あの、あー、あ、昨日はありがとうございます」

「はあ?」

「あの、すんません、あなたは途季会長でいらっしゃいますか」

「ならなんじゃ」

「その」

 突然現れたので、頭の整理が出来ていない。

「その。……」

「しょぼい魔力には肉まんはやらん」

「ええと、肉まんはいいのですが」

「泣きそうな顔をしたってやらん」

「ええと、ですから肉まんはよくて」

 老人はひどく不快そうに砂映を一瞥した。それから雷夜に目を向けると、途端に表情をほころばせ、「さあさあ」と目を細めて促す。雷夜は面倒臭そうな顔をしながら、膝に置いていたノートを脇の積んだ書類の上に載せて立ち上がった。小さな老人はにこにこと雷夜の背中を押す。

「す、すみません。途季さん。その、カスタマーサービス室のことを、ちょっと教えていただきたいというか、その、待遇について力を貸していただきたいというかっ」

 焦って言い募る砂映の顔に、ぱしん、と紙屑がぶちあたり、そのまま落ちてころころと床を転がった。

「……」

 単に投げつけただけのものではなかった。

 風の魔法で加速がつけられていた。

 放った老人は皺の奥の目を細め、にやにやと笑いながら言った。

「その魔法、発動してみ」

 砂映は黙って、くしゃくしゃに丸められた紙を拾い上げた。B5サイズの紙に、三つの円を連結した魔法陣が描かれている。やけに癖のある文字だ。一区画の中に入れるには長すぎる呪文がそれぞれの図形の中に収まっており、全体がやけに黒々としている。

「……なんでしょうかこれは」

「見てわからんのか」

 老人は呆れた目を砂映に向けた。「いいから発動してみ」

 テスト稼動用の呪文は……書かれていない。火系統らしき呪文が主体になっている。水系、土系で調整されているけれど、見たこともない単語がたくさん入っている。これはどういう……

「早くせい」老人は言った。

 こんなところで発動させて本当に危険のないものなのか、砂映にはわからない。

 まあでも、自分程度の魔力では、そもそも物や人に多大な影響を与えるような現象を発現させることはできない。魔法陣に組み込まれた術に対して、供給する魔力が必要量に達していない場合――それはたとえば、工場設置の魔法陣に嵌め込まれた賢者の石の寿命が尽きた時なども同様なのだが――そういった時は、単に「術が発現しない」という状態になる。魔法陣のどこかにねじれやつまりが発生していて魔力が全体に行きわたらない、というような状態は危険だが、単純にエネルギーが足りていないなら、それは単に「うまく発動されない」だけで、暴発等の危険は普通はない。

 ふう、と砂映は息を吐いた。

 雷夜のように手に持ったまま発動しようとすると、魔力を魔法陣の設定どおりにうまく行き渡らせるのに、呪文の詠唱が必要になる。そんな器用なことは砂映にはできない。砂映はカーペットの床に膝をつき、くしゃくしゃに丸められていた紙の皺をできるだけ丁寧に伸ばした。たぶん術は発動しない。でも、種類によっては低エネルギーモードで何かが発生することもある。

 砂映は紙の上に手をかざした。呪文は詠唱しないが、無意識に低い唸り声が口から洩れる。魔法陣に記された図形の線と呪文が、光を帯びて浮き上がってくる。

「う……う、え?」

 手の平に集中していた意識が、異変に感づいてぶつん、と途切れる。集中が切れた場合、砂映の微々たる魔力の放出はあっさり止まる、のが通常だ。

 けれども止まらなかった。

 感じたことのない吸引力が魔法陣から発生している。目に見えるものではない。けれどたとえば水中で排水口に手をかざした時のような、強烈な吸い込む力が確かにある。砂映の手の平から放出される魔力が勢いを増した。手の平に感じられる特有の「熱」のようなものが普通ではない。

「ちょっ。えっ」

 身体の中のエネルギーが、ずるずるずる、と手から無理やり引きずり出されるような感触だった。吐き気に似た強烈な眩暈がする。頭のあちこちに痛みが閃き、わんわんと耳鳴りがする。反射的に手を魔法陣から離そうとする。けれども身体の自由が効かない。手の平は、痺れたように開かれたまま、ぐうにして魔力放出をさえぎることもできない。

 魔法陣の光は強さを増す。ゆら、と炎に似たものが立ち上りかけ、砂映は霞む視界で目をこらす。ちょっと待て。自分の魔力でそんなものが発現するわけはない。もしも発現したとしたら、そんなもの……きちんと据付設置した魔法陣でもないのに、ちゃんと制御できる自信はない。

 ぐぐぐ、と砂映は奥歯を噛みしめた。

 やばい、本当に吐きそうだ。

 痺れたような手の平の、魔力放出している部分だけが熱く、指先は冷気に突っ込んでいるかのようにひんやりする。視界がもやがかってきた。かざした両手の腕が、ぶるぶると震えだしたかと思うと、突如ぶちん、と何かが切れたように解放された。何か発生しかけていたものが、それで瞬時に消え失せて、砂映は後ろにひっくり返った。

「あほか」老人が言った。「しょぼいと思ったが、これほどとはの」

 老人は砂映に背中を向けると、雷夜に向かって「いかん、肉まんが冷める!」と大声を出した。雷夜も老人に続いて歩き出したが、ちろりと砂映の方を振り返ると、手に持ったままだった魔法陣をふいと持ち上げて天井に向けた。

 空間を走るように、次々と灯がついた。さきほど消した灯だろうか。雷夜が例のリモコンでつけたらしい。

「雷夜は優しいなあ。さすがわしの孫じゃ」

 老人のことばが、ひっくり返ったままの砂映の耳を打った。


 肉まんの、蒸した水蒸気のにおいがした。

 ぼんやりとした視界の中、何かを抱えて心配そうにこちらを覗いているその顔は、……熱海さん?

「あの……大丈夫ですか?」

 熱海さんではなかった。

 さほど低くはないが、男の声だ。

 砂映は目を凝らした。徐々に視界の鮮明さが戻ってくる。身体を起こし、改めて相手を見る。身を屈めて立っているのは、秋良だった。

 砂映はむくっと上半身を起こした。一瞬めまいがしたが、すぐに消えた。まばたきをしながら、まわりを見渡す。それから秋良に視線を戻す。

「そうか……秋良くん、そういうことか」

「え?」

「秋良くんもよくここにいらっさると?」

「え、ええまあ……」

 秋良も、きっと途季老人のお気に入りなのだろう。

 そんな雷夜と秋良が配属されたカスタマーサービス室。座席なんていらない。なんせ元から彼らの居場所はこの資料室なのだから。

 でもじゃあ、なぜ自分はそこに入れられたのか。

「あの、そんな泣きそうな顔しないでください。肉まん、砂映さんにもあげますから」

 秋良は言って、抱えていた白い包みをがさがさと覗いた。

 断じて途季老人のふかした肉まんなんぞほしくない。そう砂映は言いたかったが、気がつくと腹がえぐられるように減っていた。混雑する昼休みを避けてコンビニに行こうと思っていたのだ。遠くの時計が一時半を指している。

「あの、ちょっと待っててください」

 二人分には足りないと判断したらしい、秋良は来た道を取って返し、小走りで去って行った。向こうに彼らの「居場所」があるらしい。……が、今砂映が行ったところでどうせ途季老人はこちらの話など聞いてはくれないだろう。

 しばらくすると、息を切らすようにして秋良が戻って来た。

「自動販売機のコーナーにベンチがあるんです。僕はそこで食べようと思ってて」

 座りこんだ砂映の前で、秋良は横の空間をにらむように言った。その肩に、こわばった緊張が見て取れる。人と接するのに慣れていないんだなあ。砂映はそんな風に思った。けれどそれでも懸命に、自分を気遣ってくれている。

「うん……ここでクサっててはいかんよなあ」

「え?」

「うん、いかんいかん」

 ぐっと手をつくと、力を込めて立ち上がる。

 自動販売機のコーナーで、砂映は秋良に烏龍茶をおごった。まだぬくもりの残る肉まんを包みから取り出し、秋良は砂映に渡した。誰がふかそうが肉まんに罪はない。そして誰がふかしたかに関係なく、肉まんは充分すぎるほど美味かった。

「え、じゃあ砂映さんは、会社に入るまでまったく魔法構築に関わったことなかったんですか?」

「ん」

「それでどうやって?どうやって今まで」

「ええとだから、入ってから教えてもらって。いろんな人に教えてもらって。いろんな人捕まえて無理矢理教わって。わからんかったらともかく訊いて。今でもわからんことあったらそうしてて」

「ああ、それで……!あ、いえ」

「それでそんなにいろいろしょぼくていろいろ足りてない感じが」

「そ、そこまで言ってませんよ」

 話すうちに秋良の緊張がほぐれてきたのが、砂映には嬉しかった。

「秋良くんはいつから魔法学んでんの?」

「あ、ええと……その、だいぶ昔です」

「昔?え、もしかして子どもの頃から?」

「ハイ」

「おお、そうなんだ。すごいなあ。魔法塾に通ってたとか」

「それは……はい。その……でも、小さい頃から習ってたんですけど、逆に頑張ったのは子どもの頃だけっていうか。私立の中学受験して、そこの魔法学科コースで大学までエスカレーターで、その……すごい子もたくさんいたんですけど、僕はあんまりで、あんまりでも、卒業できてしまう感じだったので、その」

「そっかあ。逆にそういうとこにいると、凄い人がいすぎて大変そうだなあ」

「特待クラスの子が僕たちに講義をする、なんてこともあったんですけど、何言ってるかさっぱりわからないんですよ」

「ハハハ。雷夜はもしかしてそんな感じだったのかなあ」

「いえ、雷夜さんは、学校で魔法を学んだことはないって言ってましたけど……」

「そんな馬鹿な。うちの会社はほぼ魔法学部出身でしょ。いや俺みたいなのもいるけど。だいたい、じゃあどこで」

「大学は魔法学部らしいですけど、そこで学んだわけではないって」

「それはつまり、俺様は元が凄いから、誰かに教わるようなことは何一つなかったぜっという……そういうこと?」

 雷夜くんはほんとすごいなあ、何様かなあ、ハハハハ、と砂映が乾いた笑い声を上げていると、秋良がうろたえたように砂映の後ろを指さした。

 んあ?とそっくり返るようにして、ベンチに座ったまま砂映は振り向く。そこに立っているのは、黒ずくめ中学生男子、もとい話題の雷夜・F。

「あ。あ……あ、雷夜くん。や、やっほー」

 雷夜は砂映を一瞥すると、無言で自動販売機に向かった。何の感情も読み取れない真っ黒い目の無表情、それが砂映には怖い。

「雷夜くんは凄いなあ、と今言ってたんだよ、うん」

 一応嘘ではない。

「あ、雷夜くんも肉まん食べる?あ、違うか。もう食べたよね」

「……」

 砂映たちには背を向けて、自動販売機の前で雷夜はじっと立ち尽くしている。飲み物のボタンを押すこともせず、というか硬貨すら入れず、微動だにしない。どうしよう。実は傷ついているのだろうか。砂映は気まずく考える。悪口というほどの悪口ではないと思うが、好意的に話していたとは言い難い。些細なことかもしれないが、これから同じ部署だというのに、こういうのは、よろしくないのではなかろうか。

「あ、えっと……雷夜くん、その……」

 かたまったように動かない雷夜に、砂映は再び呼びかけてみる。秋良は脇で固唾を飲むように、雷夜と砂映を見比べていた。

 雷夜は振り向きもしなかったが、かなりの間を置いて、ふいに言った。

「コーヒー百二十円」

「へ」

「コーヒーは百二十円なんだな」

「……ああ、うん」

「お茶は百円」

「うん。……うん?」

 そのまま雷夜は口をつぐんだ。

 砂映たちには背中を向けたままなので、その表情はわからない。

「雷夜くん。その……どったの?」

「……」

「雷夜くん」

「……お茶なら買える。コーヒーは買えない。でも俺はコーヒーが飲みたくてここに来た」

「雷夜くん、ええと」

「選択肢は二つある。一.お茶を買う 二.何も買わないで戻る。そして選択肢二はさらに二つに分岐される。a.コーヒーは諦める b.お金を取り、再びここに戻る。

 この第二の選択は、コーヒーを飲みたいと言う欲求と、往復するのは面倒くさいという気持と、どちらを優先するかの問題になる。だが二の分岐を考える前に、まず第一の選択をしなくてはいけない。お茶を買って戻り再びここに来てコーヒーを買うという選択肢はない。よって一を選べばその時点でこの問題は終了する。結果から見た選択肢設定をした方がこの場合シンプルかもしれない。一.お茶を買う 二.コーヒーを買う 三.何も買わない それぞれにメリットとデメリットがある。それぞれを数値化して検討する必要がある。その場合、俺がどれほどコーヒーを飲みたいかということをまず考えなくてはいけない」

「ちょっと待て雷夜くん!」

 砂映が大声を出すと、初めて雷夜は振り向いた。

「ええとつまり、百円しか持ってないけどコーヒーが飲みたいんだな?」

 砂映が訊ねると、雷夜は表情を変えずにこくん、と頷く。

 百円硬貨一枚だけを握りしめてやって来たなんて、まるで子どものおつかいだな。しかもお金が足りないとか。なおかつ素直に他人に頼ったりもできないとか。正直、ちょっと微笑ましいじゃないか。

「うん。よし」

 砂映は立ち上がると、自動販売機の中に硬貨を入れた。

「先輩がおごって進ぜよう。どのコーヒーがいいん?」

 訊ねると、雷夜は顔をしかめた。「いや。おごらなくていい」

「なんだよ。遠慮しなくていいよ」笑いながら砂映が言うと、

「やたらとおごりたがる奴にろくなのはいない」

 ぼそりと言い放ち、雷夜はブラック無糖を躊躇せず押した。

 呆気にとられる砂映の前で、雷夜はかがんで缶を取り出すと、先ほどまで砂映が座っていたベンチに押し付けるように百円硬貨を置き、

「二十円は今度返す」

 振り向きもせずにそう言って、すたすたと歩き去った。

    

 自動販売機コーナーを一歩出たところで、雷夜は異変に気付いた。廊下の先に資料室の扉がある。扉は閉まっているけれど、灯りが漏れている。先ほど出る時に、すべて消したはずだ。老人か?いや、途季老人が入り口付近の電気を点ける可能性は低い。……他の誰かがいる、ということだ。別に社内の誰かが来ることはあるし、閲覧者がいれば灯りがついているのは当然だが、けれど……それにしては静かすぎる。自然に動く、人の気配というものが、感じられない。

「おひさしぶりですねえ」

 扉を押して中に入ると、脇から湿った声がした。首を傾けるようにして、雷夜はそちらに目を向ける。開架の本棚を背に、爬虫類を思わせる、坊主頭の長身の男が立っている。

「……どうも」雷夜は短く答えた。

「お元気そうでなによりですよ」

 男のさらなる挨拶には、雷夜は何も返さなかった。男はにいと笑うと、「いや、それにしてもねえ」棚にもたれ、長い脚を投げ出すようにしながら言う。

「雷夜、あなたはなにをやってるんですか」

 無言のまま面倒くさそうに目を細めた雷夜に、男――鯉留はなおも言う。

「聞きましたよ。入りたてで失態を犯して以来仕事を干されているとか。ねえ、何をやってるんですか。時間は無限にあるわけではありませんよ。あなたは自分の人生をなんだと思ってるんですか」

 雷夜はまばたきをした。何か言おうとするように口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。大きな黒い目を鯉留の坊主頭に向けただけだった。そのまま脇を通り過ぎようと雷夜が踏み出すと同時に、頭上の灯りがいくつか点く。

 その時、鯉留がひら、と何気なく右手を振った。と同時に、今点いたばかりの灯が消えた。

「!」

 雷夜はぱっと振り向いて鯉留を見た。鯉留の手には魔法陣も何も握られていない。手に何かが書かれている、ということもない。呪文の詠唱だって聞こえなかった。それなのに、灯りが消えた。

「何をした?」

 目を大きく見開いて食いつくように訊ねた雷夜に、鯉留は微笑んだ。「新しい技術ですよ。あなたの大好きな」

 雷夜は鯉留に突進すると、先ほど鯉留が振った右手を両手で掴んで持ち上げた。遠慮を知らない子どものしぐさでその手の指をこじ開ける。人差し指と中指のくっつきを引き離すと、挟まれていた米粒大のものが、ぽろりと一つこぼれ落ちた。

「おやおや。小さいので、どこに行ったのかわかりませんね」

 なすがままで笑っていた鯉留が愉しそうに言うのを無視して、雷夜は身を屈めた。灰色のカーペット敷きの床から、今落ちたものを迷いなくつまんで拾い上げる。

 指に挟んで目を凝らして見ると、小さな白い硬質の素材に、肉眼ではほぼ読むことができないような小さな黒い文字が書き込まれている。形からしてどうやらそれは魔法文字であり、内容はおそらくここの灯の作動に干渉するものだ。

「いろいろと可能性のある技術だと思うんですけどね。それ一粒の値段、聞いたらびっくりしますよ。そこまでの大きさに縮小することもだし、その白い粒の素材そのものもね、まだコストがかかりすぎるし、正直なところまだ実用化に耐えるものではない。そこまでの小ささに縮小しても力を発揮する精度の魔法文字を書ける人間は、技師をやってる人間の中にもそうはいないしですし。……あなたの書く魔法文字なら十分有効でしょうがね」

 雷夜はしばらく白い粒を光にかざして見ていたが、じきに飽きた。文字が読めないので、それ以上、観察のしようがない。魔法に関わる道具や素材に対してマニアックな興味を持つ技師もいるが、雷夜はそうではなかった。手に押し付けるようにして、鯉留にそれを返す。

「ここの灯りの制御魔法はここ特有のものだ。それはここでしか使えない。……金をどぶに捨てたのか」

「どぶに捨てたつもりはありませんよ。だってそれのおかげで、あなたと会話が続いている」

 にっこり笑って鯉留が言ったので、雷夜は顔をしかめた。

「わかってますよ。あなたの興味はこういうものにはない。でも、あなたがやりたいことを、あなたはこの会社でできているのですか?」

 雷夜は答えなかった。かわりに別のことを――根本的なことを訊ねた。

「何しにここに来た」

「この地下の資料室に――ということなら、答えは一つ。あなたに会いに来たんですよ。このビルに、ということなら、それはいくつかアポがありましたがね。なんせ松岡DMCは弊社の重要顧客ですから」

「ここは社内の人間しか入れないようになってるはずだ」

「方法というのはそれなりにあるものですよ」

「……俺に用事があるなら、さっさと用件を言ってくれないか」

「つれないですねえ。久しぶりにお会いできたのに」

 大袈裟にため息をついて肩をすくめてみせる鯉留に、雷夜は背を向けて歩き出した。灯りがつかなくても、別にかまわない。たとえ真っ暗でも奥の事務所に行ける程度には、歩きなれている。

「……いいんですか?私みたいなのを、こんな重要書類の宝庫に野放しにしておいて」

 歩き出した雷夜に、鯉留は愉しそうに呼びかけた。雷夜は無視して歩き続ける。すると背後で、鯉留は大声で笑い始めた。

「思ったとおりだ!あなたはこの会社に何の愛着もない。そうでしょう!」

 雷夜は立ち止まった。資料室には他に誰の気配もない。途季は事務所にいるはずだし、秋良と砂映はまだしばらく自動販売機のところにいるだろう。誰もいない。誰も来ない。

「だったら、意味はない。ちがいますか?会社への愛着、それはすなわち一緒に働く人間への愛情だ。あなたはこの会社の人間たちが困ろうがどうしようが、知ったこっちゃない。ねえ、ならなぜいつまでもここにいるんです?あなたの失態、何があったか想像がつきますよ。あなたを妬み足を引っ張ることしかできない、そんな人間ばかりのこんな会社にいて、一体何の意味があるんです?

 うちに戻れば、あなたは好きなことができる。あなたは特別な人間だ。その能力を最大限発揮できるよう、私たちは万全のサポートをする準備がある。私はあなたにそれを言いに来たんです、雷夜。こんなところで不本意な待遇を受けているなんて、心底腹が立つ。あなたは自分の価値をわかっていない。あなたのその才能は、こんな会社で腐らせていいものではない!」

 いつもの資料室が、別の空間のように雷夜には思えた。

 暗がりの中にぽっかり浮かんだ光の中で、鯉留は滔々と訴え続ける。

「いつだって構いません。何も気にしなくていい。何の気兼ねもいりません。今日でも明日でも明後日でも、一週間後でも一か月後でもいい。研究所の電話番号は、今でも覚えているでしょう?電話一本で、いつでも迎えに行きますよ」

「……俺は」

 暗がりの中に紛れるように立ちながら、雷夜は口を開いた。

「異動したんだ」

 自分の発した声の頼りなさに、雷夜は自分で驚いた。もう少し、堂々と言えたっていいはずなのに。

「それがどうしたんですか?」見透かしたように鯉留は言う。

「ねえ雷夜、それがどうしたんですか?どうなんですか、異動したらあなたは人と和気あいあいと仕事ができるんですか?できそうなんですか?あなた自身、とてもそう信じているようには見えませんよ?ねえ、ぜひとも聞きたいものだ。室長薮芽。入社十年目の砂映・K。入社四年目の秋良・M。たしかその三人でしたよね。どんな感じなんですか?あなたの能力にまるで嫉妬せず、あなたの内面を理解し、ありのままを受け容れてくれたりするんですか?」

 雷夜は返事をしなかった。鯉留は構わず続けた。

「話をしましたよ、砂映・Kとね。彼の前で試しにあなたのことを褒めてみたら、顔をしかめていた。そういうものですよ。そういうものです」

 雷夜は暗闇の方を見つめた。鯉留に背を向けて、そのまま黙って歩き出す。

「何も心配はいりませんよ。すぐに昔みたいに仕事ができます。あなたの才能をこんなところで浪費しないでほしい。どうです、まだ今すぐには決心できない?結構です、電話一本、それでいい。待っています。いつもいつまでも待っていますよ」

 雷夜は足を止めなかった。けれども紙とインクのにおいに満ちた資料室の中に、鯉留の声はいつまでもこだましていた。


 静まり返ったオフィスの中で、砂映は一人で残業をしていた。時計の針は十一時をまわっていた。構築中の術式の問題解決方法は、まだ見つかっていなかった。頭を切り替えるために、砂映はそれを中断して、マニュアル作りの作業を始めた。注意事項を書き込むために資料をコピーし、戻ってくると机の脇に雷夜が立っていた。

「うえっ」思わず砂映は声を上げた。この前もそうだが、仕事を干されているはずなのに何でこんな時間までいるのだろう。資料室で魔法陣を書き写したりしている、あの作業をこんな時間までしているのだろうか。残業手当、なんてものはもちろんもらってはいないだろうのに。いや、もしかしてもらっているのか。というか社長の血縁なら、そんなことはどうでもいいのか。

「こんな時間まで残業してるのか」自分のことを棚に上げて、雷夜は非難するように訊ねた。「仕事が多いのか」

「ああ、まあね」昼のことで若干気まずさを覚えつつ、砂映は応える。「その……雷夜くんはこんな時間までなにしてらっさったの」

「さっきまで、十三年前の案件を見ていた。過去の事例を研究しているんだ。この会社の魔法陣の構築の傾向やくせについて」

「へ、へえ」

「無駄に冗長で非効率な魔法陣が多い。例えば『炎玉ほのおだま』を使っていることで『みぞれ』の冷却効力がゼロになっているものがあった。炎系の動性エネルギーが必要なら、そこは『炎玉ほのおだま』ではなくて『おど』を使用すれば無意味な相殺が発生することもなく、しかも動力は二倍になる。『おど』の拡散性が過剰で制御の必要が出てくるが、それは呪文を二分割して間に『はにわ』でも挟み込み、数値調整すれば何の問題もない」

「そうなんだ」

「全体に、この会社で作られている魔法陣は大雑把すぎる。数値調整せず、魔法事典に載っている基本形の値のまま無理矢理組み込んでいるものが驚くほど多い。相乗や相殺はよく使っているが、呪文の分割や一部使用は滅多に見られない。そして同じ術ばかり選定するきらいがある。火系が必要なら『火鼠ひねずみ』『鳳凰ほうおう』『火柱ひばしら』『炎玉ほのおだま』、よくて『漁火いさりび』『カグヅチ』、特に『火鼠ひねずみ』だ、馬鹿の一つ覚えみたいにどれもこれも『火鼠ひねずみ』だ。もっと適切な術があるのになぜそれを使わない。『流星りゅうせい』『ほたる』『くすぶり』『熾火おきび』『走馬そうま』あたりをこの会社の資料で見かけたことは一度もない。そんなマイナーな術でもないはずだ。今年の魔法技術試験にだって『ほたる』の名前は例文に出ていた」

「そうなんだ」

「風系魔法と炎系魔法の動性に関する基本的な誤解もよく見られる。炎系魔法の動性の本質はランダムなものだ。たとえ直進設定がされている『走馬そうま』であっても、術の成り立ちから考えればそれは追加仕様的なものなのに、それがわかっていなかったりする。移動要素を取り入れるために炎系魔法を組み込むなんて愚の骨頂だ。無駄が多いし魔法陣の脆弱性にもつながる。根本への理解がなってない。『ヒガンバナ』と『花火はなび』を混同するような、厳密さの軽視が招くいびつさについて考えが足りな……」

「あ、ええと」

 抑揚のない口調で語り続ける雷夜に対して、砂映は何とか口を挟みこんだ。

「その……あのさ、ごめん。何の用?」

 雷夜は口を閉ざすと、大きな黒い目でまじまじと砂映を見た。あまり感情が出ない顔つきで、けれどもそこに、ほんの少し、拗ねた子どものような色がある。砂映はもう一度謝った。「あ、いや、悪い。たださ。その……話が見えんもんだから」

「この会社で作られた魔法陣はお粗末だという話だ」

「へ、へえ……」砂映はぼりぼり頭を掻く。「なんでその話を今俺にするんだろう?」

「……」

 雷夜は一度目をそらし、再びまじまじと砂映を見ると、

「二十円を返しに来た」と突然机上の散らかった書類の上に硬貨を二つ置いた。

 どこからも取り出した様子はなかったので、どうやらずっと手に握りしめていたらしい。

「あ、り……律儀にどうも……」

「じゃあな」

 あっけにとられる砂映に背を向けて、雷夜は去ろうとする。

「あ、おい、待て」砂映は思わず呼び止めた。

「なんだ」雷夜は振り返らずに答える。

「ああ……ええと」砂映自身、なぜ呼び止めたのか自分でもわからなかった。ただ何となく、いつもよりほんの少し前屈みな少年めいた背中に、呼び止めてほしそうな気配を感じてしまったのだった。

「あ。あ……そうだ。これ。この術式って、どうしたらいいと思う?」

 振り向いた雷夜に、砂映は呪文の下書きを差し出した。さっきまでやっていたがどうにもうまい解が見つからない、例の分だ。期限は明日だというのに。

「……なんでこんなことしてるんだ?」紙を受け取って一瞥すると、雷夜は言った。

「あ、と、それはどういう意味」

「『みぞれ』と『関取せきとり』の値調整がうまくいかないのはわかるが、そもそもなんでここに『関取せきとり』を配置するのかわからない。何がやりたい魔法なんだ。仕様書はないのか」

「……これ」

 ホッチキスで留めた仕様書を手渡すと、雷夜はカーペット敷きの床の上に座りこんだ。その辺の誰かの椅子に座るよう砂映は促したが、雷夜は反応さえしない。学生みたいな紺の肩かけ鞄をごそごそすると、中からノートと筆記用具を取り出し、屈みこむようにして猛然とペンを走らせ始める。

 砂映はしばらくそのさまを眺めていたが、やがて自分の作業に戻った。他に残業している人間はいないのでフロアは真っ暗で、砂映の島だけがぽっかりと灯りのもとに浮かび上がっている。子どもの頃のことを、砂映はふと思い出した。砂映は一人っ子だが、従弟たちがしょっちゅう砂映の家に遊びに来ていた。砂映が机に向かって勉強しているその足元で、一番年下の従弟はよく鉛筆を握りしめて寝そべっていた。「もうちょっと待て。あとちょっとで宿題終わるから」一緒に遊ぼうとしつこくせがむ従弟にそう言って待たせていたのに、いざ砂映が宿題を終えて声をかけても、その従弟は絵を描くのに夢中になって砂映の声に反応すらしない。砂映は本か雑誌に手を伸ばし、そのうち飽きて別の部屋に行ったりする。戻ってくると日が暮れて部屋が真っ暗になっていて、なのにその真っ暗な中で、目を凝らさないと手元もちゃんと見えないだろう状態で、従弟は鉛筆を動かし続けていた。灯りをつけても顔も上げない。声をかけても返事もせず、一心不乱に自分の世界に没頭していた。

 雷夜が現実に戻って来たのは、およそ二時間が経過してからだった。席をはずしていた砂映が戻ってくると、雷夜は顔を上げ、今がいつでここがどこかわからないような表情で呆然とまわりを見回していた。給水器で汲んできた水の紙コップを差し出すと、小動物のように両手で受け取ってすぐさまそれを飲み干した。大きな黒い目で何度もまばたきし、しばらくしてようやく自分が人間であることを思い出したらしい。

「……ん」

 ややバツの悪そうな顔で、雷夜は呪文を書いた紙を砂映に差し出した。端正な魔法文字が、びっしりと並んでいる。砂映が九割まで書き上げていた呪文とは、使われている術からしてほぼ別物だ。

 ……砂映がこの案件に着手したのは十日前だった。魔法事典やハンドブックの助けを借りつつ仕様書とにらめっこして術を選定し、呪文を書き出してあっちを書き換えこっちを書き換え、最後の調整段階に入ったのが今朝。もちろん他の仕事も並行しているしずっとやっていたわけではないが、それでも合計すれば、問題にぶち当たるまでの段階で十時間、いや十五時間くらいは費やしているだろう。それが全部無にされた。二時間で、まったく別のものにされてしまった。

 紙を握りしめ、ふう、と砂映はいったん大きく息を吐く。

 それからへら、と笑った。

「あのさ、これ……ここ。ここにくっついているの、何ですか?」

「『黒点こくてん』を分散させている。これと、これと、これ。この部分は『ほたる』と『かすみ』と『土竜もぐら』に影響して、別魔法陣との連結を安定させると同時に出力温度を下げる働きをする」

「ええと、こっちは?」

「『ヒル』の後半の呪文だ。『ヒルの尻尾』と呼ばれてる部分で、力の流れに垂直の動きの制御に影響する。これを入れておくと『なだれ』がスムーズになる」

 砂映はあれこれ質問した。自分の担当分としてこの設計書を提出するからには、せめて内容を理解していなければならない。予想に反して馬鹿にされることもなく、雷夜は細かく説明してくれた。確かに自分はまだまだ知らないことがある、とは思っていたが、それどころではなく、魔法そのものについて、根本から認識を改めさせられる部分がたくさんあった。「へえ」とか「ほお」とか、何度感嘆の声を洩らしたかわからない。気がつくと、窓の外がうっすらと白み始めていた。

「うわあ、やべえ……」

 差し込む光に気がつき、砂映は目をしょぼしょぼさせた。雷夜も魔法陣から顔を上げ、窓の外に目をやる。相変わらず人形のように無機質に整った幼い顔で、眠そうな様子は微塵もない。

「徹夜つきあわせて悪かった。とりあえず俺は始発でいったん家に帰るけど……」机の上を軽く片付けながら砂映は言った。

「そうだな。俺も」

「そういや家ってどこ」

「……東」

 言うと雷夜は筆記用具やノートを鞄につっこみ、立ち上がった。

「あ、灯り消して施錠入力するからちょい待……」

「じゃあな」

 肩に鞄をかけ、窓を背に立った雷夜は、影そのもののように見えた。

 大きな黒い目がじっと砂映を映していた。逆光のため、実際はその表情も、もちろん目も、砂映からは翳って何も見えてはいなかった。けれどもなぜか、そのような感じがした。

 一瞬の後、雷夜は一人で歩き去った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ