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4.席がない?

 さて、部長にハンコをもらいに行こう、と席を立ったのが九時半頃だった。とりあえず総務部のある四階――砂映が今仕事をしているのは三階である――に向かう。けれどもフロアに立ってみて、砂映は呆然とした。「カスタマーサービス室」の島は――どこなのか。

「座席がさあ、ないんだよね。悪いけど」

 そうのたまったのは総務部所属の砂映の同期、呉郎ごろう。取引先のお坊ちゃんだとかで、入社前の内定式の時点ではいなかった。彼がいなければ砂映は今頃総務部にいたわけだが……。ともかく呉郎はずんぐりとしただるまのような体形で、でん、と間延びしたように告げた。砂映は耳を疑った。新部署の座席がない?そんなことがありえるのか。

「ええと、それは、十月一日にならないとって意味だよね」

「いや。別に座席なんていらないだろうって」

「ど、どなたがそんなことを仰るの」

「うちの部長が」

 総務部長が。そんな馬鹿な。

「その、じゃあ薮芽さんはどこに」

 薮芽は転勤でここに来たはずで、だとすれば座席はないということになる。そう訊ねると、呉郎は面倒臭そうにたぷんとした顎でしゃくってみせた。示された場所は、パーテーションで仕切られた四人掛けの商談スペース。隅にいくつか並んだその一つに陣取って、薮芽は悠々とカップを傾けながら新聞を読んでいる。

「……でも、じゃあ、異動後も元の部署の机で仕事ってこと……?」

 まったく関係ない仕事をしているのに今と同じ席に着くというのは、そんなの想像しただけで気まずすぎる。部か室か知らないが、メンバー全員席がバラバラというのもひどい。かといって道具や資料だってあるし、常に商談コーナーで仕事というわけにはいかない。

「ちょ、ちょっと待って。……え?」

 混乱している砂映を置いて、呉郎は仕事に戻ろうとする。お、おい待て、と砂映ははちきれそうなその背中に追いすがる。

「それはさあ、ちょっと困ると思わん?」

「さあ。でも、準備しなくっていいって言われたから」

「いや、だって。どうすりゃいいのそれ」

 席がないなんて。そんなのまるで、今すぐやめてほしい、と、そう言いたげではないか。つまりやっぱりそういうことなのか?異動と見せて、これは退職勧告なのか?

「……僕は暇じゃないんだ」

 むっちりした顔に埋もれるような小さな目で、呉郎は不機嫌そうに言った。

「も、申し訳ない。でも」

「ここのところ急な退職者が多いんだ。人事の調整が大変なんだよ。当面は各部署で何とかしたり派遣社員や出向者で補ったりしてるけど、新人説明会開き直したり、中途採用募集したり」

「そ、それは開発第一部と第二部も?」

「開発第一部と技術第一部、技術第二部だけで合計四人やめる。あと開発第一部から第三部の、君らの分も減るわけだから、その分の補充もいる。変化がないのは総務部と営業部だけ」

「そ、な……」自分が退職者と同列で語られていることに震撼しながらも、砂映はそこは考えまいとする。「な、なんでそんな、人が減って大変なのに新しい部署ができたんだ」

「知らないよ」

 呉郎はため息をつき、これ以上聞いてられない、とばかり頭を振って去って行った。砂映は呆然と立ち尽くす。退職者が多くて人が足りない?なのになぜ、急に意味のわからない新部署が作られたのか。なぜこんな退職勧告まがいの仕打ちを受けるのか。そんなに自分は役に立たない存在なのか。試験の成績はたしかに悪かった。でも、たしかに要領はそんなによくなかったかもしれないが、能力もいろいろ足りていないのは認めるが、結構それなりに仕事をこなしていたはずなのに。なぜだ。なぜいきなり、こんなことになったのか。


 両手をだらりとたらしながら、目も口も半開きで、砂映はゆらゆら歩く。総務部と営業部だけのこのフロアは、他の階に比べるとみんな妙にはきはきして姿勢がいいように見える。もしも自分が総務部に入っていたら、今頃しゃきっとここで働いていたのだろうか。ところどころ、島の端っこの席に暗い顔のおじさんがいる。開発部や技術部から送ってこられた崖っぷち。でも、彼らでさえも、座席はあるのに。

「……薮芽さん、おはようございます……ハンコいただきにまいりました」

 商談コーナーで一人優雅なティータイム然と紅茶を飲んでいた薮芽は、ぬらりと死にそうな声で報告書を差し出した砂映を面白そうに見た。

「ああ、砂映くん。おはよう。どうしたんだい。お疲れかい」

「はあ……」

「ハンコだね?ふふ。ハンコはここに持っているよ」

 薮芽は脇に置いてあった革製の鞄に手を伸ばし、妙に洒落たデザインの印鑑ケースを取り出した。パチッと音を立てて印鑑を取り出し、丁寧に朱肉を付ける。慎重に紙に押し付けると、得意げに砂映に差し出した。内容を確認する気はまったくないらしい。

「ほら、きれいに押せただろう」

「……どうも……」

「砂映くんのおかげで昨日は本当に助かった。ありがとう」

 にん、と笑って見上げている薮芽の顔を、砂映はうつろな目のまままじまじと見た。それから思いきって訊ねたみた。

「あの、カスタマーサービス部は座席がないと聞いたのですが」

 薮芽は一瞬目を見開き、数回ぱちくりとさせた。それからふっと微笑んで、夢見るように言った。

「考えてみてごらん。この社内、どこで仕事をしようと自由だということだ。このオフィスすべてが、我々のものなんだよ……!」

 ど、と砂映は肩に何か乗って来たような重力を感じた。このまま気を抜けば、いとも簡単に倒れることができる。倒れてそのまま眠りたい。何も考えずにただ眠れたら、どんなにいいか。

「……失礼します」

 しかし倒れこむ勇気はないのだった。砂映は薮芽に軽くお辞儀をすると、ハンコをもらった書類を手に、フロアを出た。


 廊下には、人気がなかった。陰気に静まり返っていた。手すりで体を支えながら、砂映は階段を降りた。脚も手も、どうも自分のものではないような感じがする。いつもの高さ。いつもの身体。別に何も変わってはいないはずなのに。

「あ」

 階段の途中で、廊下を横切ろうとする涼雨を見つけた。向こうも砂映に気がつき、こちらを見上げてはっとする。けれども次の瞬間、彼女は不機嫌そうに顔をしかめて目をそらした。そのまま足早に行き過ぎようとする。

「涼雨サン?」

 彼女の怒りの理由は、いつも砂映には見当がつかない。心底面倒くさい女だ、と正直砂映は思う。思うのだが、このまま放っておくのも気分が悪い。

「涼雨サン?おーい」

 追いかけるのはしんどかった。人がいないのをいいことに、砂映は階段の下の廊下にしゃがみこむ。一度目の呼びかけで、涼雨は足を止めた。二度目の呼びかけで、こちらに振り向く。通常よりずいぶん低い位置にあった砂映の目線にびっくりしている。

「……気分悪いの?」

 少し硬い声音で、眉をひそめるように涼雨は訊ねた。砂映はへら、とただ笑う。

「顔色悪いわね」

「寝不足なもんで」

「忙しいの?」

「そりゃもう」

 涼雨のしかめられた顔から、険が消える。かわりに心配そうな色が浮かぶ。「そう。……そうよね。急に異動が決まったら、大変よね」

 砂映は手に持った書類をぱたぱた振った。涼雨が訊ねる。

「それは?」

「新しい部署で昨日した仕事の報告書」

「……配属はまだ先でしょう?」

「でももう仕事をぶっこまれた」

 廊下の隅に埃が溜まっているのを眺めながら答えていると、涼雨が近づいてきて、砂映の手から書類をとった。事務職らしく内容に目を通していたが、押されたハンコに驚いたような声を上げる。「……途季ときさん?」

「ああ、それなあ。誰なんだろ」

 やっぱり普通気になるだろう。辞令にそんな人は載っていなかったし。……と同意のつもりで見上げると、涼雨はあきれた顔で砂映を見下ろしていた。

「……なんかおかしいこと言いました?」

「言いました」

「なに」

「やだほんとに……ほんとに知らないの?」

「何が」

「途季さんよ」

「……知ってないとおかしい人?」

「おかしいわよ」

 首を傾げている砂映の前で、涼雨はため息をついて言った。「毎年新年会でネタになっているじゃない」

「……なんで?」

「挨拶してもらおうとして、でも会場にいらっしゃいません、って」

 なんなんだそれは。

 というか雷夜の件といい、自分は毎年新年会に参加しているはずなのに、どうしてこんなに知っていることに差があるのか。

「……で、誰」

「前の社長のお兄さんよ。現社長のお父さん。今は会長。でも変わり者で滅多に人前に姿を見せないから、社内のほとんどの人が顔も知らないって」

 砂映はぽかんとした。……偉い人だ。それはもう、おそろしく偉い人ではないか。

「……なんでそんな人のハンコがここに押されてるんでしょうか」

「だからこっちが訊いてるのよ」

 こっちだって訊きたい。

 確実に知っているのは秋良だが……しかし早朝のあの様子だと、訊くのはどうにもためらわれる。

「そういえば、さっき怒ってた?」

 ふと思いつき、砂映は涼雨を見上げて訊ねた。書類を手にうーんと考え込むような表情をしていた涼雨は、ちらりと砂映に目を向けると、澄ましていれば相当に美人ともいえるその顔をひん曲げるように歪めて答えた。

「別に怒ってないわよ」

 大抵そう言う。そして実際に怒っていなかったということもあるが、実際は怒っていたということもある。

「ならいいけど」

 面倒臭いので砂映はそれ以上追及せず床に目をやった。

 恨みがましい顔で涼雨は砂映のその様子を見ていたが、やがて自分を落ち着かせるようにふう、と息を吐いて言った。「でも、安心した」

「なんで?」

「薮芽さんが室長だっていうから……」そこまで言うと、涼雨は突然しまった、というように口をつぐんだ。「あ、ええと、なんでもない」

「どういうこと」

「え?うん」

 目をそらした涼雨を、今度は砂映がじっと見る。

「言わない方がいいと思うわ」

 涼雨は軽く笑みを浮かべて目をそらしている。

「気になるので言ってもらえんですかね」

「やめておきます」

「途中でやめんでいただきたい」

「なによ、自分だって、異動のこと黙ってたくせに」

「関係なかろう。それにあれだ、辞令出るまで他言禁止」

「そうね。そうよ」

 どうやら怒りの原因はそれだったらしい。涼雨の顔に不機嫌の色が戻る。言いたいことを抑えるかわりに、顔中に憤怒の表情が広がり始める。

「面倒くさ」砂映は思わず呟いた。ぴくり、と涼雨の眉が動いた。

「今『面倒くさ』って言ったわね」

「……気のせいです」

「はっきり聞こえました」

「……だって自分でそう思わん?」

 頭上が静かになったので、砂映は顔を上げた。

 涼雨の顔の歪みっぷりは、先ほどとは比べものにならないほど激しいものになっていた。唇はぎゅっと引き結ばれている。行き場を失ったいろいろな感情が、顔面筋肉を使って自己主張合戦を繰り広げている。いくつかの怒りといくつかの悲しみ、そしてそれらを繕おうとする微妙な笑み。

「び、美人が台無しですよ」

 気を遣ってそう言ってみた。じろり、と冷たい視線が落ちてくる。

「……聞いたらショックを受けるだろうから、言わないでおこうと思ったのに」

 押し殺したような声で、涼雨は言った。

 ならやっぱりいいです、と言う間もなかった。

「カスタマーサービス室の室長で辞令出てた薮芽さん、『首切り役人』として有名よ。あの人が行った支社や支店、たいてい人数が半分になるか、閉鎖になってる。大っぴらじゃないけど、たぶんそういう仕事を割り当てられてる人なのよ。そういう人が室長ってことは、つまりそういうことなのよ」

 そう言うと、涼雨はヒールを鳴らして去って行った。報告書を、投げつけるように返された。

 砂映は呆然とその場にしゃがみこんでいた。

 ……どうしよう。

 立てない。


 とはいえ実際にいつまでも廊下に座っていられるわけもない。通りがかった他部署の部長に不審な目を向けられつつ、そそくさと砂映はその場を去った。戻ってくると、砂映の机はFAXと電話メモで埋め尽くされていた。これだけの人が、自分に何かを求めている。けれどもきっと砂映がいなくなれば、その要求は他の人に回るのだろう。砂映は引継ぎ相手の後輩に目をやった。後輩は、話しかけるなというオーラを全開にしてがりがりと呪文を書いている。砂映は観念した。ともかく今は、自分がやるべきだ。求められている仕事をして、せめてもの責任をまっとうすべきだ。やるべき仕事もまだ山のように残っている。

 資料を調べながらFAXに回答を書き込んだり、事務職に指示を出したり、電話をかけたりしているうちに午前中が終わった。時折射るような視線を感じ、顔を上げるとそれは烙吾のものだった。ひどく険しい表情だが、それはおそらく二日酔いのせいだろう。あんなになるまで飲んだのだから無理もない。

 昼休憩の時間になり大半の人が席をはずした中、仕事を続ける砂映に烙吾が話しかけてきた。「その、悪かったな」向かいの席から険しい形相のまま、ばつが悪そうに言う。

「覚えてますか?」

「覚えてない。が、うちのが言うには、おまえが送りに来たと」

 はは。砂映は少し笑った。可愛らしい奥さんは寝ずに待っていて、見たこともない泥酔した夫の姿におろおろしていた。

「しかしおまえはここで残業してたんだよな。なんで俺は夜中にオフィスに戻ったりしたんだ?」

「さあ。あの、横分魔法研究所の人と一緒でしたよ。坊主頭の」

「え」

 烙吾は苦虫を噛み潰したような顔をし、きょろきょろとあたりを見回した。情報漏洩に厳しい昨今、みだりに社外の人間をオフィスに入れるなと注意喚起が通知されたところだ。応接室や商談コーナーではなく技術資料や顧客の工場設備の配置図なんかがそのまま机の上に置かれていたりする座席スペースへ、しかも夜中に、なんてことが発覚したら、見せしめに降格やら減俸やらされかねない。

「今度奢る」

「それはどうも」

「俺は何を言ってた」

「ええと」

 砂映は少し考えて、

「僕が今度行くカスタマーサービス室のメンバーが、みんな評判悪いと」

 そう言って烙吾の顔を窺った。烙吾は考え込む表情になった。

「そんなこと言ったのか」

「はい。そんなこと言ってました」

「……そうか」

「そんなに。そんなに評判悪いんですか?」

 それにしてもどうしてみんな社内の噂に詳しいのだろう、と砂映は思う。本当に、自分が疎すぎるのだろうか。

「……おまえは昨日、雷夜に会ったんだろ」

 烙吾は言った。「どうだった」

「……変わった奴でした。でも、技師としてはもの凄いです。もの凄すぎてどうしていいかわからない感じでした」

 砂映のことばに、烙吾はうんうん、と頷いた。「俺の同期が開発第一部にいて、そいつに聞いたんだがな」

「はあ」

「雷夜の指導員をしたのが、まあ当時五年目くらいのやつでな。そいつも悪いと言えば悪いんだが、入りたての新人の雷夜に、何も教えずに術式の構築をやらせたらしい」

 何も教えずに。

 ……何一つ専門知識を持たずに入社した自分で想像すると、とりあえず誰かを捕まえて何か教わらなければ呪文の一単語も書けなかったに違いない。が、大学で魔法を学んでいれば、個人差もあるが単純な二つ三つの複合術式くらい書けるだろう。砂映も指導員の経験があるし、同じ部署の後輩の様子から知っている。

「おそろしく複雑なやつだ。見積時点の見通しで、十四の術を複合させることが想定されていた。しかも連結型だと」

 砂映の考えを見越したように烙吾はそう説明した。げ、である。十年近く開発の仕事をしている砂映でも、十を超える術の複合が必要な呪文を構築することになったら、正直うげ、となる。複合というのは、異なる術の呪文を単純に並べて書けばいいわけではない。相殺と増幅の作用を考えて、こっちの値の調整をしつつあっちの帳尻を合わせ、不要な重複は削除しつつ、「一つの完結した魔法」を作らなければいけない。三つの複合なら満たさなければいけない条件も少ない。しかし数が多いと……すべてがぴたりと収まる解を見つけるのはなかなか容易にはできない。知識と経験をフルに動員して単語の置換やら値の増減を繰り返し、ちまちまと調整を重ねた末にやっとすべてが許容範囲に収まればしめたもの。結局構築できず、術選定からやり直すはめになることも少なくない。加えてそれが連結用魔法陣だとするなら、そこにはさらに必要な項目がいろいろと出てくるわけで……。

「それはいくらなんでも」

「そう、いくらなんでもだ。俺の同期が二週間後期限でその指導員に渡していたその仕様書を、新卒の雷夜は何の説明も受けずにぽん、と渡されたわけだ。まあ、態度が悪かったらしいから、とりあえずやらせてできないことを思い知らせて、鼻をへし折って指導しようという、そういう魂胆だったんだろうがな、その指導員は」

「でも、できちゃったと。そういうことですか」

 昨日の雷夜を見ていれば、それは容易に想像がつく。仕事を干されていたという話だから、会社で積んだ経験はほとんどないはずだ。それであれなのだから、それはつまり、新人の頃からあんなだったにちがいない。

「できちゃったわけだ。しかも半日で」

 ……それは夢のような話ではないか?

 魔法陣の開発コストの大半は人件費、かかった時間と人数だ。昨日のような出向修理では言い逃れできないが、社内での開発であれば客にばれるおそれはない。新人半日のコストを、堂々と中堅×十日で計算して請求できる。部署としてはボロ儲けではないか。

「まあ単純に考えれば、そんな逸材を手に入れられてラッキーだという、そういう話だ」

 そういう話に……けれどもどうしてならなかったのか?

「けどその魔法陣は、開発第一部が数十年前提案して工場設備用魔法陣すべて一式納入した現場の新規追加案件で、術式には専用の特殊仕様が必要ということになっていたらしい。仕様書には慣例で記載がなく、そして指導員はそのことを教えず、プロジェクトマネージャーもなぜか気づかずに雷夜の書き上げた呪文をそのまま魔法陣に配置して納入した。検査用術式になんでチェックが組み込まれてないのか、なんで上司も気づかないのか、はっきりいって体制の不備だと俺は思うがな。ともかくその魔法陣自体はそれで完結していて据付試運転も滞りなく済んだらしいんだが、数か月後工場内の別魔法陣が立て続けに不具合を起こして、その原因がその仕様の欠落の影響だということが判明した。点検修理はもちろんすべて無償、さらに部長謝罪に始末書提出の大ごとになったってことだ。もちろんこの話を聞いて雷夜が悪いと思う奴はいないだろうし、新人雷夜に誰も責任の話なんて出さない。そもそも新人が責任なんてとりようもない。プロマネは減俸処分、指導員もまあこっぴどく怒られたらしい。ただ、そういった表側の処置の裏側で、実はプロマネはわざと気づかぬふりをしたのではないか、指導員がそんな行動に出たのもやむをえないのではないか、そのくらい雷夜はいけすかない、という解釈が『感情的に』まかり通った、らしい。以降誰も雷夜の面倒は見たがらず、どんなに忙しくても仕事を回そうとはしなかった。そういうわけで、雷夜は仕事を干されることになった。ほとんど島の机にも寄り付かなくなったらしいが、何か上の取り決めがあるのか、解雇にも転勤にも異動にもならず、籍はずっとそのまま開発第一部にあった、ってことだ」

 砂映はぽかんと口を開けて烙吾の話を聞いていた。

「……ほんとうに?」

「ほんとうに。そんな状況でなんでずっと開発第一部に籍があったのかは謎だ」

「そうじゃなくて。ほんとうに、誰もその能力を活用しようとは思わなかったんですか?」

 思わず必死になって砂映は言った。

 烙吾は目許をしかめて砂映を見る。

「だってそんな、金の……黄金の卵を、そのへんに放っておくような真似……誰も、もったいないと思わなかったんですか?」

 なおも訊ねた砂映に、烙吾は険しい目つきのまま、口の端を歪めるようにしてわずかに微笑んだ。

「まあ、会社にはいろんな奴がいるがな。開発第一部はうちの会社で最も技術力のあるメンバーが揃ってる。全員プライドがある。聞いた話だと、まあ他人が作った魔法陣にも雷夜はあれこれ言ったらしい。何年か開発をやったことのある人間なら誰でもわかることだが、術式の解は一つじゃない。はっきり言って時間との闘いだ。許容範囲の値が出せる解が出ればそれでよしとする、それが会社の仕事というものだ。それを横から新卒に、もっといい解があるだろう、としたり顔で言われたら、おまえどう思う。しかも自分が数日かけて苦労して構築した術式について、一目見ただけの新人がすらすらと『もっといい解』を並べ始めたら」

「……むかつきますけど」

「だろう」

「でも、それこそ、仕事だと思って我慢すると思うんですけど。だってそれに従ってその呪文を直したら、よりいいものができるんですよ?」

「それは誰の得になる。値段はもう決まってるんだ。許容範囲の中で効率が若干上昇する、術の構造がシンプルで扱いやすいものになる、それで誰の得になる」

「……そりゃあ、お客さんにとって……」

「客が気づきもしない得をする。そのためにおまえがむかつく。それがほんとうに『いい』ことか?」

 砂映は黙る。

「……まあ、はっきり言ってしまえば、開発第一部は人手が足りていたんだろうよ。そしてそんな奴に仕事を与えた日にゃ、自分たちはやることがなくなってしまう。そう感じたんじゃないか」

 砂映は憮然とした表情になった。

 ――うらやましい話だ。

 まっさらな工場に魔法の有用性を説いて設備全部に魔法を組み込む一大プロジェクト。そんなカッコいい仕事がメインの開発第一部と、こっちはあの会社から買った魔法陣、あっちはあの会社から買った魔法陣、と機械ごとになりゆきやしがらみでちゃちな魔法陣を設置しているつぎはぎな工場向けの、魔法磁場の干渉性や影響力、他社製呪符との互換性や機械との相性などに神経を使わなければいけないせせこましい仕事が大半の開発第三部。しかもそういった、魔法環境的にややこしい状態になっている工場を持つ会社というのは、主に予算かつかつの中小企業だ。開発第一部にいたことがないので実際のところは知らないが、大手の客先はきっとそこまで金額交渉ネゴも厳しくないのではなかろうか。多くの場合値切りに値切られて、はなから到底不可能な期限で無理やり構築を迫られているこちらとは、根本的な感覚が違うのだ。時間がないのに答えが出ず、頭を捩じりまわしながらひいひい徹夜している時に、瞬時に最適解を教えてくれるような人間が傍にいたら、砂映はその人を拝んでもいいと思う。死ぬほど頑張っているのに見積で設定したより大幅に時間がかかってしまって赤字覚悟、しかも納期遅れで客はカンカン……なんて事態は、雷夜一人いればすべて回避できる。まるで救世主ではないか。

「……じゃあたとえば、うちみたいな部で開発の仕事やってくれたら……」

 砂映が何気なくそう口にすると、

「もうおまえの部じゃない」

 烙吾は冷たく言い放った。

 砂映は思わずむっとして唇をへの時に曲げる。

「……もとい、開発第三部に。もしそんな奴がいたら、かなりありがたくないですか?」

「うちはそんな奴いらない」

 烙吾はきっぱりと言った。

「会社っていうのは、人と協力して仕事をする場所だ。話を聞く限り雷夜という奴には協調性がない。それにそんな奴がいたらまわりはやる気を失ってしまう。いくらそいつ一人優秀だとしても、それは部としてはマイナスだ」

 ……せっかく。せっかく人並みはずれた素晴らしい能力を持っているのに、誰にも評価されず、歓迎されず?

「……そういうものですか」

「そういうものだ」

 烙吾は立ち上がった。「ああ、蕎麦くらいなら食えるかな」独り言のように呟く。時計は十二時半を指していた。中断していた手元の仕事を再開した砂映に、烙吾は独り言の続きのように言った。「おまえはよかったのにな」

 行きかける烙吾を、砂映は呼び止めた。

「あのお。烙吾さんは、『途季さん』ってご存知ですか」

 新年会のネタの人、という答えが返ってくると思いきや、烙吾は別のことを言った。「ああ、資料室のじいさんだろ」

「……資料室のじいさん?」

「俺は会ったことないがな。噂で聞いたことがある。『資料室のトキさん』は資料について熟知しているが、気に入った人間の前にしか姿を現さないらしい」

 なんだか似たような話を最近聞いた気がする。

「会長は資料室にいるんですか?」

「会長?」

「途季さんって、会長なんですよね。社長のお父さんだとか」

「……ああ」

 烙吾は初めて気づいた顔をした。「トキさん」と「途季さん」を結びつけて考えてはいなかったらしい。「途季さんって、そうか。あの新年会で毎年言ってる途季さんか」

「……別人ってことですか?」

「さあな。で、途季さんがどうしたんだ」

「あ、いえ」

 会社の物凄い偉い人が、カスタマーサービス室の書類にハンコを押してくれていた。ということは……

「まあ、だから何という話でもなく……」

 ということはつまり、どんな関わりがあるのか知らないが、少なくとも彼は味方だということではないのか?ならばその人の力をもってすれば、メンバー全員席も与えられずに解雇への道を歩まされるなんて事態は、避けられるのではないか?あるいは今カスタマーサービス室の置かれている状況を、この人は知っているのではないか?

「……!」

 突然目を輝かせた砂映に、烙吾は不審な目を向けた。

「なんとかなるかもしれない」

「なにがどうした」

「いえ、ちょっとしたピンチが、なんとかなるかも」

「なんだ、いい解でも浮かんだか」

 実をいうと今取り組んでいる呪文は泥沼にはまっていた。はっきりいって集中できず、何度も後回しにしては別の仕事を先に片付けることを繰り返していた。しかしこういったものは気分の問題も大きい。気持が晴れれば、もう少し集中できるかもしれないではないか。

「いい解は浮かんでないんですが、浮かぶかもしれない」

「なんだそれは」

「いえ。ええと」

「その設計は明日十時までだったよな?できないとこっちは困る」

「がんばります」

 砂映はがたん、と立ち上がった。

「おまえも蕎麦行くか?」

「いえ!」

 砂映はそのまま烙吾を残して走った。資料室は地下にある。三階から、砂映は階段を一気に駆け下りた。

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