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3.横分の鯉留さん

 深夜のオフィスで、砂映は一人残業していた。他の部署の人間は全員消灯して帰っていったので広いフロアはほぼ闇、砂映のいる場所だけが、ぽっかりと白い明りに照らし出されている。やらなければいけないことは山積みだ。集中しなくてはいけない。わかってはいる。しかし。


 あれはなんだったのだろう、とつい考えてしまう。「魔法のようだ」ということばは、「ありえないような不思議なこと」を指したりする。魔法のしくみをしらない人間にとって、それは「ありえないような不思議なこと」だ。でも、魔法という技術についてきちんと学べば、そこにはしくみや法則というものがちゃんと存在している。できることとできないことが、確実にある。それが、砂映にとっての常識だった。

 帰りのタクシーの中で、砂映は雷夜に訊ねた。あの魔法陣の暴走をどうやって止めたのか。一体何をやったのか、と。「相殺」を使ったのだ、と雷夜は答えた。たとえば「水」の属性を持つ呪文に対して、「反対」の構造を持つ「火」の属性を持つ呪文をぶつけると、どちらの現象も発現せずに消失する。あの魔法陣の、あの時の「暴走状態」の「反対」構造の魔法を作って、風系魔法で吸引しつつ「相殺」したのだ、と。

 こともなげに言う雷夜に、思わず砂映は食ってかかった。魔法技術者のはしくれとして「相殺」くらい知っている。しかしそういう問題じゃないだろう、と。「鳳凰ほうおう(火)」という術に対する「竜神りゅうじん(水)」だとか、「野分のわき(風)」に対する「岩男いわお(土)」だとか、基礎知識レベルの単一構造魔法の「反対」であれば、瞬時に構築できたっておかしくはない。しかし六芒星型などに比べればシンプルだとはいえ、あの円型魔法陣もかなりの量の呪文が書きこまれていた。設計書も読まずにすぐに把握できるほど単純な構造ではないようだったし(第一あの時、雷夜はあの魔法陣をまともに見てさえいなかったのだ)、それに暴走中のあの時の状態は「魔法陣どおり」ですらなかったはずだ。ただ同じものを再現するのだって数週間はかかるだろう。ましてやそのまったく反対の構造を持つ魔法陣を完璧に構築するなんてことは、数か月かけたって砂映にはできる自信がない。しかもその反対構造の魔法は、普通に考えればあの魔法陣と同量の呪文を必要とするはずなのに、雷夜が魔法用紙に書きつけたのは、せいぜい七語か八語程度だったではないか。

「『省略』とか『置換』とか、知らないか?」

 きょとんとして、雷夜は訊ね返した。

 だから、そんなことは知っている。まとめすぎるとわかりにくくなったり後で修正がしづらくなるので通常は加減するが、やろうと思って頭を捻れば結構呪文を短くできることも、知ってはいる。

 知ってはいるが、あの膨大な量の情報をあの一瞬であそこまで短くまとめるなんて、普通はできることではない。確かに自分には知識や能力について足りない部分があるし、技術者試験の成績だって悪かった。でも、それでも十年近く魔法技師として働いてきたのだ。ありえることとありえないことの区別くらい、つくつもりだ。

 けれど砂映の問いに対し、雷夜はやはりぽかんとしていた。子どものようにあどけない、心底不思議そうな顔で、「なんでできないのかがわからない」と言った。不毛だった。一体あの「少年」魔法技師をどう考えたらいいのか、砂映には、わからない。わからないといえば、そういえば秋良の方も、よくわからないところがある。帰りのタクシーの中で、秋良はほとんど口を利かなかった。「報告書は二件分僕が作ります」とだけ強い口調で言った。魔法陣の暴走を引き起こしたことで落ち込んでいたのだろうか。しかしいくら経験が浅くても、魔法技師として会社に所属している人間が、あんな基礎的なミスを犯したりするものだろうか。


 がたん!

 誰もいないはずのオフィスで、その時大きな音が響き渡った。我に返り、砂映は思わず身体を緊張させた。暗闇の中から、しゃっくりの音が聞こえた。

「やっぱりいた!さえいくん~おつかれさまぁ」

 誰かと思ったら、烙吾先輩だった。髪はきっちり七三に整ったままだが、顔も手も真っ赤になっている。タコのようにへなへなとして、見知らぬ坊主頭の男の肩に掴まりながら何とか歩いている。飲み会の時にだって、ここまで泥酔した烙吾を見た記憶は砂映にはない。

「だ、大丈夫ですか」

「あのねえ。ひどいよ。ひどいよさえいくん」

「はい?」

「いきなり異動なんてきいてないよ~」

 普段とはまるで違うトーンの声に、砂映はうろたえる。「す、すみません」

「さえいくん~」

「はい」

「なんで異動なの~?」

「俺が訊きたいですよ」

「らいやとかさあ、あきらとかさあ、やぶめとかさあ。みいんな評判悪いんだよ~なんでそんなとこにさえいくんいっちゃうのさ~」

 ひくっと大きなしゃっくりをしたかと思うと、烙吾はそのままぐらりと傾き、見知らぬ男もろとも床にひっくり返った。砂映は慌てて二人に駆け寄る。

「あの、すみません、あなたは」

 むくっと起き上った男に、砂映は訊ねた。

「ああ、かれはねえ、よこわけまほうけんきゅうじょのこいるくんだよ~」

 床に横たわってぐにゃぐにゃしている烙吾が答えた。坊主頭の男はどこか爬虫類を思わせる顔を砂映に向けて微笑むと、

横分よこわけ魔法研究所の鯉留こいるです」と言った。

 ああ、それはそれは。

 横分魔法研究所にとって、砂映たちの勤める松岡デラックス魔法カンパニーは重要顧客である。砂映たちが使う魔法に関連する消耗品、呪文を書くペンや魔法用紙や呪符用紙、聖水やら石板タイプの魔法陣の材料となる砂やら、護符用のクリスタルやらは主にここから仕入れている。必要な時には設備や施設の用意などをしてもらうこともある。部署によっては他の会社を利用しているところもあり、その選択は各部署の担当管理職の判断に任されている。だから魔法具メーカーの営業担当者たちは何とか彼らと良好な関係を築こうとし、最新技術や業界動向の情報をくれたりちょっとした便宜を図ったりしてくれるのだ。これはその一環として……いわゆる接待をしてもらっていた、ということだろう。

「すみません、ご迷惑をおかけして」

「いえいえとんでもないです。烙吾さんにはいつもお世話になっているんで」

 細い目をさらに細め、響きのある妙にいい声で男は言った。一緒に飲んでいたのだと思うが、男には酒に酔った様子は微塵もない。

「あの、もう帰っていただいていいですよ。あとは俺がどうにかするんで」

 男はいえいえ、と恐縮していたが、砂映がさらにそう言うと、ではこれを、とタクシーチケットを差し出した。砂映は断ったが、いやいやこれは経費として申請済なので逆に受け取ってもらわないと困るのです、と強硬に言われたので、押し切られて受け取った。

「急に異動になったとお聞きしましたよ、砂映さん。それでこんな深夜まで。お疲れ様です」

「いえ、その……自業自得なんですよ」

 頭を掻きながらそんな風に言うと、

「雷夜さんという方は、大変優秀だと窺っています。その同じ部署に異動だなんて、あなたもさぞ凄いんでしょうね」

 すっと引いた切り口のような目を頬で押し上げるように笑いながら、鯉留は言った。

 そんなことはないんですよ。ぜんぜんなくて。はあ、ともかくお疲れ様です。あの、お気をつけてお帰りください。ここで水飲ませて、様子見てから送っていきます。はあ、本当にお気になさらず。とんでもないです。はあ。では。

 しゃがみこんだままぺこぺこ頭を下げる砂映に対してすっと一礼すると、坊主頭の男は、闇の中に消えていった。


 タクシーで烙吾を送っていき、アパートの自分の部屋に帰って一時間だけ仮眠をとると、砂映は会社に戻った。変わらない暗闇の中で、今度はそれなりに集中できた。窓から明かりが差し込んで、事務所の中がいつの間にかほんのり明るくなっていた。目をしょぼしょぼさせて何度もまばたきをしながら、砂映は書き終えた呪文を簡易魔法陣でくくって指でなぞる。テスト稼動した魔法は光に変換され、青や赤の光がひらひらと舞った。すっとそこに影がさしたので、砂映は顔を上げた。

「あの」立っていたのは秋良だった。

「お、おう」目をしばしばさせながら、砂映は秋良を見上げる。

「おはようございます」

「おは。……早いね随分と」

「はい。その、昨日の報告書作ったんで、砂映さんの机に置こうと思ったんです。そしたら、その……」

「なに」

「なんでいるんですか」

「なんでと言われても。仕事があるから」

「……そんなに仕事があるんですか」

「まあ、なんつーか」

「……」

 秋良はひどく顔をしかめ、砂映の机の上をにらみつけるようにうつむいた。なんだ。なんなんだ。砂映にはその理由が見当もつかない。

 とりあえず、受け取った報告書にぱらぱらと目を通す。はじめの不具合を隠ぺいしなければいけないことも含め、いろいろと修正を入れなければいけないと思っていたのだが。

「……完璧じゃねーの」

 砂映は思わず感嘆の声を漏らした。定型フォーマットに、几帳面な文字が並んでいる。雷夜が直したはじめの不具合はなかったことにする、点検して問題なかったという内容で作るように、ということは、確かに帰りのタクシー内でしつこく伝えていた。でもここまでちゃんと作ってくるとは、正直思っていなかった。「当初発生した異音については、一時的な共鳴作用によるものであり、構造に作用するほどの影響はなかったと思われる」などと、かなりもっともらしい説明がなされている。四年目や五年目の砂映の後輩たちの報告書は、誤字脱字を含めて朱を入れるといつも真っ赤だ。こんなにしっかりとした報告書を書く奴はあまりいない。

「すごいな」

「いえ、そんなことないです」

「すごいよ。ほへえ、こんな書き方があるんだなあ。へえ」

 しかし砂映が褒めても、秋良はかけらも喜んだ様子を見せない。なお一層顔をしかめ、自分の足元をにらんでいる。

 ふと気づいて、砂映は訊ねた。

「あれ、このハンコは?」

 報告書の右上には認証欄がある。担当者枠には秋良のハンコが押されていたが、その斜め上の欄外に、「途季」という名前の印がある。

「……誰?」

 砂映に他意はなかった。

 しかしその瞬間、秋良はびくりと肩を揺らした。

「ん?」砂映はおや?と秋良を見た。秋良は無言だった。そのまま、何も言わずにすっとその場を去っていく。

「え?おい……」

 思わず立ち上がったが、走って追いかけるほどの気力は、砂映にはなかった。

 手に残った報告書をまじまじと見る。……ともかくよかったではないか。一つの仕事がスムーズに済んだのだから。

 提出は郵送でもよいか、先方に訊き忘れていた。持参して、他の魔法陣もちゃんと見せてもらって、話をいろいろ聞き出して、点検や置き換えを提案して商機に繋げるのがいい……と思ったりもするけれど、はたして「カスタマーサービス室」がそれをするのは余計なことではないのか、そもそもどういうスタンスで仕事をしていったらいいのか、まだよくわからない。今回の魔法陣を作ったのは開発第一部だから、もしかしたらすでに強固な関係性が築かれているのかもしれないし。何かあったらご相談、それに対してご提案、の形がすでにあるのに、自分たちが横からしゃしゃり出ているという、その構図である可能性だってある。それなら今回自分たちが頼まれたのは不可解ではあるが。というかそもそも、余計なことをして別件を背負いこむ余裕など、今の砂映にはない。

 ……とりあえず、責任者欄を埋めないといけないな。

 あの放任主義の部長に、ハンコをもらいにいかなければ。

 ため息をつきながら、砂映は椅子に座りなおした。

 他の社員が出社してくる時刻まで、もう少しある。

 この術式の確認が終わったら、次は問い合わせに対する回答資料の作成をして、それからやりかけの呪文の構築があと二つ。片方は大まかな術の選定しかできていない、もう一つはどうにもうまくいかない部分があるのを、何とかしなくては……

「食べる?」

 突然降って来た女性の声に、砂映はばっと顔を上げた。

 立っていたのはこんなに早朝でも美しい――いや、朝の光の中でますます美しく見える熱海さんだった。ほっそりとした身体に淡い色のカーディガンを羽織り、そして手にはコンビニの袋を持っている。なぜか熱海さんが持つと、コンビニの袋までが何か神々しいものに見えてくる。

「え?あ……へ?」

 突然女神さまが降臨してきたら、きっとこんな感じだろう。咄嗟にまともなことばなど出てこない。ただでさえ睡眠時間が足りていないのだ。何も考えられず、阿呆みたいに口を開けてただ目を丸くしている村人一。許していただきたい。待て。落ち着け。

「……なんで」

「うん。ちょっと仕事が残ってて、でも昨日は予定があったから。砂映さん、きっといるんだろうなと思って、多めに買ってきました」

 いたずらっぽく微笑んだかと思うと、突然くるっと背を向けて、どこか普通の人と違う重力の中にいるような軽やかさで歩き去って行った。え?あれ?これってもしかして夢なのかな。まあ、ちょっとくらいいいか。そんな風にぼんやりとその背中を見送り、姿が見えなくなったので、改めて手元の魔法陣に目を戻す。しかしそこで自分が猛烈な空腹に襲われていることに気がついて愕然とした。やばい。眠気と空腹のダブルパンチでくらくらする。しかもなんだ、味噌汁のいいにおいがしてきた。なんだこれ、幻覚か。

「はい。あったかいものがいいかと思って」

 ご丁寧にお盆に載せられて、お茶とインスタントの味噌汁とコンビニおにぎりが現れた。熱海さんの笑顔つき。なんだ。夢が。夢が帰って来た。

「……あ、ありがとうございやす」

 口の中でぼそぼそ言いながら受け取ると、自分の机の上は散らかり過ぎているので、隣の後輩の席を拝借していただくことにする。熱海さんは自分の机でおにぎりのビニルを剥き、小さな口をすぼめるようにして食べ始めた。ぼうっとそれを眺めながら砂映は味噌汁をすすり、涙が出そうになった。

「あの」

「ん?」

「熱海さんも忙しくなってしまったのかと。その、俺のせいで」

 熱海さんは入社年度は砂映の一年先輩である。けれども砂映は大学に入る時に一年浪人しているので、年は同じだった。そうして事務職は、基本的に業務中は総合職に敬語を使ったりする。だからことば使いをどんな風にしていいか、いつも砂映は迷ってしまう。きっと、だからこんなにどきまぎするのだ。

「そんなことないよ」

 熱海さんはにこっと笑って否定した。気遣いなのか実際そうなのかわからない、たださらりとそう返した。

 砂映はこの珍しい二人きりの機会に、できればもっと熱海さんと会話を交わしたかった。けれど適当な話題が思いつかない。

「あ、ええと、熱海さん」

「うん?」

 訊き返してこちらを見る、それだけでなぜ、こんなに胸を打つほどに魅力的なのか。

「熱海さんの家って、A区なん?」

 数日前の男だけの飲み会で、そんな話題が出たのだった。その席での会話の内容は、決して本人にはお聞かせできないようなものだったのだが。

「うん」

「あのへんって高級住宅街だよねえ」

 ずずず、と味噌汁をすすりながら、砂映は自分でも、この会話でどこに向かいたいのかわからない。

「そう言われてるね」

「熱海さん家も豪邸なんだ」

「さあ、どうかなあ」

 にこにこしながら熱海さんは曖昧に答え、おにぎりをかじる。砂映も目をしょぼしょぼさせながらむさぼる。ああ、甘辛いおかかが沁みる。

「熱海さんは実家だよねえ」

「うん。砂映さんは一人暮らしなんですよね」

「ん」

「ご飯とか、いつもどうしてるんですか?」

「ん……てきとう……」

 二つ目のシャケのしょっぱさも感動的だった。味噌汁を飲み干し、緑茶を飲み干すと、妙な充実感があった。

「はあ、ごち」

 何となく手を合わせると、袋の中にゴミを収めて近くのゴミ箱に突っ込む。そうして自分の席に戻ると、改めて魔法陣を手に取った。

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