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2.君がいないと

「つうわけなんで」

 忙しい毎日を過ごしているうちに、あっさりと辞令は公開された。辞令が貼り出されたからといって今の部署とすぐさまおさらばするわけではないが、公表されてはじめて、異動に向けての行動がおおっぴらにできる。今の部署で引継ぎに与えられた期間は、一週間。

「まじですか。増員なしですか。何考えてるんですか。今このチームの残業がどんだけ増えてるか、まるでわかってないんですか」

 仕事を引き継がれることになった後輩は動転してまくしたてる。自分がこの部署でなくてはならない存在だった、という気はないが、一応一人分の仕事はそれなりにこなしていたはずだ。決して暇ではない今の状況で、一人減るのは相当きついに違いない。

「悪いねえ……」

 自分だって好きで異動するわけではないのだが。

 とりあえず同情の念はあるので謝ってみる。

「引継ぎ書、この分は作ったから。これに沿って説明してくから」

 保守契約案件が六件。クレームや問い合わせ対応中のものもある。見積案件は、受注確度が低いものも合わせると数十件。プレゼン要請のあった新規引き合いが二件。進行中の受注済案件で砂映が設計を受け持った術式は七件。ただし期限が先の、まだほとんど手をつけていない分については、それぞれのプロジェクトの責任者が受け持つことになった。つまり後輩だけでなく、先輩たちにも負担がかかる。

 電話やら何やらで謝ることの多い砂映だが、今日ほど謝った日はなかった。何を言っても二言目には、「すいません」だの「悪いね」だの、「迷惑かけます」だの言っていた。心にもないわけではないが、みんないらいらしてる中、自分のせいではないのに、と言いたい気持も募ってくる。

 いや、それとも、やはり自分のせいなのか?

 試験結果か、仕事のやり方か、何が直接の原因か知らないが、異動になるようなことをやらかした自分が悪いということか?

「砂映くん」

 区切りのいい状態で渡すために昼休み返上で魔法陣の設計書と格闘していると、頭の上から声がした。顔を上げると、見慣れない男が立っている。エセ紳士、ということばがぴったりくる風貌だ。ひょろりとした体格で、仕立てのよいスーツを着ている。鼻の下にちょろりと二本ヒゲを生やし、その下の口は猫みたいだ。

「え、はい」

 まったく見覚えがないが、こんな風に自分の名前を呼ぶということは、おそらく社内の人間なのだろう。目上の人間と話す礼儀として、砂映は慌てて立ち上がる。しかし一体誰なのか。こちらが覚えていないだけで、話したことのある人間なのだろうか。

薮芽やぶめです」

 男は言った。

 名乗るということは、会ったことのある人間ではないのだろう。

 男は自分の名前だけ言うと、猫みたいな口元をにんとさせたまま黙っている。それはつまりあれなのか。顔は知らなくてもよいが、名前は知っていないといけないはずの人だと、そういうことか。

「ええと。あの」

 猫背の砂映と相手の顔は、ほぼ同じ高さにある。ぴんと姿勢のいい紳士は、小さく眉をひそめた。やばいだろうか。やばいかもしれない。しかし、知らないものは仕方ない。

「その……」

 どうにか口を開こうとすると、

「君、異動通知見てないのかい」

 男は言った。

「あ、今日貼り出されたのは知ってます。けど」

 自分の名前をわざわざ確認に行くほど暇ではない。他のメンバーは気になるが、同じ社内でも接点のない人間についてはほとんど知らないので、たぶん見たって何もわからない。それよりは、涼雨か誰かに説明つきで教えてもらえばいい。そう思っていた。

「あ、じゃあ」

 この口ぶりはつまり、新部署の人ということか。

 年齢から言って、部長クラス。つまり、「誰も座りたがらない椅子」を押し付けられたのがこの人、というわけか。

「カスタマーサービス部の部長の薮芽です」

「カスタマーサービス、部?」

 総務部内のチームと聞いていたのに、部?

「ぶ、というのがおかしいかい」

「いえその、総務部内のチームと聞いてたので」

「ぶ、だよ。誰が何と言おうと」

 誰かは何か言っているのか?

「で、砂映くん。他の部員は現場に行ってるんだ。君にもすぐ行ってもらわないと困る」

 ひげを撫でつけながら、薮芽部長は猫みたいに笑ったままの口元で言った。

 配属は、一週間後の十月一日。

 砂映の異動前現在の部長はそう言った。通常そういった配属日は、部長同士の相談の上決められる。

「あの、一週間後だと私は聞いてるんですが……」

 おずおずと訊ねる砂映に、

「そんなことより、今すぐ行ってもらわないと困るんだよ」

 穏やかな口調のままで部長はなおも言う。

 そんなことより。……ということは、配属日が一週間後だとわかったうえで今行けと、そう言っているのか?

「あ……」

 立ったまま、砂映はちらりと自分の島を見る。

 パニック状態で引継ぎ書をめくっている後輩。乱暴に魔法陣にペンを走らせている先輩。いつもより横柄に出される彼らからの指示にちょっと気を悪くしている事務職。そうして自分の机の上に広げられている、書きかけの呪文。

「あの、ちょっとそれはさすがに……」

 砂映がそう言うと、薮芽部長はむにゅ、と拗ねた子供のように顔をしかめた。

「すみません。その、引継ぎでこちらも忙しいんで、だから」

 何とか納得してもらいたくてことばを継ぐ砂映を、薮芽は拗ねた子供の顔のまま無言で見ている。

「あ、その、まだ正式に発足してはいないはずですし。今回は、今までどおり開発を担当した部署で対応いただくわけには」

「……でももう行っちゃったんだ」

「あ、では!その方たちだけで今回は対応……」

「駄目なんだ。君がいないと駄目なんだ」

「ええっ」

 そこまで言ってもらえるのは大変にありがたいことではある。

 けれどこの状況でそんな駄々をこねるように言われても。

「う、その」

 向かいの烙吾が一瞬顔を上げ、刺さるような視線をこちらに向けた。後輩も、吠えつきそうな顔でこちらを見ている。事務職が、砂映への電話を「ただいま打ち合わせをしていますので」とつながずにいてくれている。……もしもここで去ったら、今自分が手をつけている術式の設計は、他の誰かがやらなければいけなくなる。

「その、でも……っ」

 その時だった。

 ふわり、といい香りがして、とんとん、と肩を叩かれた。

 見ると、ウェーブの髪の熱海さんがすぐ傍に立っている。

「砂映さん」

 砂映は何度もまばたきして、どこか夢のように立っている熱海さんを見た。

 彼女はやわらかく微笑むと、A4の紙を砂映に差し出して、

「これ、よかったら」

 訳がわからないまま手を出して紙を受け取った砂映を置いて、髪を揺らして向かい側の自分の席に戻っていった。

 見ると、部内回覧用の通知書のコピーだった。



  異動通知 十月一日付

 薮芽・S (新)総務部(カスタマーサービス室)室長 (旧)北部支店長


 砂映・K (新)総務部(カスタマーサービス室) (旧)開発第三部

 秋良・M (新)総務部(カスタマーサービス室) (旧)開発第二部

 雷夜・F (新)総務部(カスタマーサービス室) (旧)開発第一部



 砂映は思わず熱海さんを見た。

 彼女は自分の席に着き、机の書類に目を落としている。

 どういうつもりなのか。……新しい部署でがんばって、という、そういう応援の気持で、これを渡してくれたのか?

「……」

 知らない人の名前の羅列。これだけ見ても、何もわからない。

 でも、これから一緒に働くことになる。

 部長を除けば、たった三人のメンバー。

 同じ境遇で、これからやっていくことになるこの「秋良あきら」と「雷夜らいや」の二人は、すでに「現場」に行っていて、砂映が来るのを待っている。

「……っ」

 がさがさと書類を引っ掻き回す後輩。ぶつぶつと呪文を呟き、荒々しく手をかざして設計書を確認している先輩。電話応対の声に苛立ちが混ざり始めた事務職。一人女神様のように、静かに仕事している熱海さん。

 薮芽部長は脇に立ったまま、ただじいっと砂映を凝視している。

 砂映は下を向いて自分の足元をにらんだ。

「……あの、どこに行ったらいいんでしょうか?」

「ん?」

「その、現場って、どこですか」

 薮芽はぴんとしたひげを引き延ばすようにして微笑んだ。

「一階のフロアで待っていなさい。書類を持って行かせるから」

 烙吾を始めとする先輩たちも、後輩たちも顔を上げて目を剥いている。信じられない、というような事務職の顔も見える。砂映は彼らに深々と頭を下げた。

「……今日は徹夜しますから、許してください」

 そういうと、ばたばたと机を片付け、必要なものを鞄に突っ込んで、砂映はオフィスを飛び出した。


 一階フロアで、砂映は一人ぽつんと立っていた。他の社員たちがはっきりと目的を持った動きで行きかう。彼らを眺めながら、砂映は記憶を反芻する。

 書類を持って行かせるから。

 そう薮芽さんは言った。言ったはずだ。

 嵐のような忙しさから抜け出してこんなところに今所在なく立っている自分は、何かまちがっているのではないだろうか。一体何をまちがえた。聞き間違い?勘違い?またはそもそも、選択自体が大間違い?

 持って行かせる、ということは、部長本人が持ってくるということではないだろう。

 でも、「他の部員は現場に行った」と言っていたのだ。異動通知に事務職の名前はなかった。一体誰を来させるというんだ。手近な他の部署の子に頼んだ?そうしてその子が、そんな余計な雑用は後回しにしているとか?

 時間にしてみれば十分程度。しかし焦る気持の中でただ待つだけの十分間というのは、ひどく長い。

 階段をのぼって、オフィスに戻るべきだろうか。

 でも、あんな風に飛び出しておいて自分のデスクの辺りには行きにくい。そもそも薮芽部長の座席はどこなのだろう。「カスタマーサービス室」の島は、すでにあるのだろうか。あるとしたら、どこにあるのか。

 猫背をさらに丸めるようにして考え込んでいると、そんな自分をじっと見ている存在に気がついた。こどものような背丈。見下ろす形で砂映はそちらに視線を向けた。こどもではない。皺くちゃ顔の、老人だ。

「ほおお」

 口をすぼめて息を吸い込むようにして、目の前に立った老人は声を発した。皺くちゃの顔に埋もれそうな小さな目で、じっと砂映を見つめている。どうしてこんな老人が会社のビル内にいるのか、砂映にはわからない。食堂目当てで散歩ついでに入ってきたのか。いやでも、こんないかにも部外者な老人が入ってきたら、入り口で警備員が止めるはずだ。

 考えながらも、目が合ったので砂映はにんと笑みを浮かべて見せた。老人は笑い返しもせず、さらに数歩近づいて、ほぼ真下から砂映の顔を見上げた。

「あの……?」

 遠慮がちに訊ねると、

「しょぼい魔力じゃなあっ」

 老人は、突如唾を飛ばしそうな勢いで言った。

「は?」

「しょぼい魔力じゃ、と言った」

「いえ、その」

「しょぼい魔力じゃ」

「いえそれはいいんですけど、その、なんで」

「よかあない」

「はい。よくはありませんが」

 魔力というのは通常は計測用に組んだ魔法陣で測るものだ。向きあった相手の魔力の程度がわかるという人がたまにいるが、砂映は眉唾ものだと思っている。砂映の魔力がプロとしては「しょぼい」のは、まあ事実だが。しかし見知らぬ相手に突如そんなことを言われる筋合いはない。

「ええと、すみません。何か御用なのでしょうか」

「御用かじゃと?失礼なやっちゃな」

「すみません」

「まあいい。おまえさんの魔力には不安しかないが、雷夜がいるから問題ないだろ」

 そう言うと、老人は後ろ手に持っていたらしい、A4書類が入るサイズのぶ厚い茶封筒を差し出した。

「へ?」

 とりあえず手を出して受け取る。封はされていない。

 中の書類を取り出して見ると、完了した案件としてキャビネットに保管されているような、いわゆる一件書類の一部をコピーしたものだった。客先要件一覧、仕様書、概要設計書、詳細設計書、概要図、完成魔法陣の写し、検査成績書。

「えっと、これってもしかして、俺が今から行く現場の……?」

「それ以外何だっちゅうんじゃ」

「あ、あの、あなたは」

「わしのこと知らんのか」

 やばい。

 もしかして、知っていないといけない人なのだろうか。

「はい。すみません」

「まあ大抵の奴は知らんがな」

「へ?」

「わしは普段資料室にいる。だがめったに姿は見せん。気に入った奴が来た時以外は」

 砂映は改めてまじまじと老人を見た。

 それって、小人とか妖精とか、そういった童話の中の人外のものみたいじゃないか。森の中とかにいて、気に入った相手が来たら現れる、みたいな。

「ええと、その」

 そうやって見ると、本当に、白いひげを生やした小人にそっくりだと思えてくる。

「ありがとうございます」

 とりあえず砂映はそう言って深々とお辞儀をした。

 なんにせよ、丁重に接した方がよさそうな気がする。

 砂映が頭を下げると、老人はまんざらでもない顔をした。

「礼には及ばんよ」

 照れたように目を逸らすと、くるりと踵を返して去っていこうとする。

「あ、あの」

 その老人を、砂映は呼び止めた。

「なんじゃ」

「あの、ええと、僕はどうしたらいいんでしょうか」

「さっさと行け馬鹿者」

「……どこに行ったらいいんでしょうか」

「……」

 老人は振り向くと、皺くちゃの顔で砂映をにらみつけた。わかっていないといけないのだろうか。さっきの茶封筒の中に、そういった指示内容の紙も入っていたのだろうか。

「あ、えーと」

 砂映は慌てて再び茶封筒の中身を取り出した。と、老人はその砂映の様子をきびしい目つきで見上げながら自分のズボンのポケットに手を突っ込み、ごそごそして、何かつまみだした。

「忘れとった。これ」

 そらとぼけた声で言いながらしわくちゃの手が差し出したのは、小さく折りたたまれたA4の紙だった。かがむように近づいてそれを受け取り開いてみると、手書きのメモをコピーしたものらしい。昨年納入 PJNO.65124―884552 異常音・異常光が発生。たまに火花のようなもの。棚卸作業時、コンベヤを近くに置いたのが原因?すぐ来てほしい。有償対応。現場で要概算見積、作業前に。ナルタケ工業 西工場 熱処理一課 朝比あさひ様  TEL ×××―×××―××××

「……」

 紙を見ている砂映を、老人はどこか子供のような顔でじっと見上げている。

「……ありがとうございます」

 とりあえず、砂映は再び礼を言った。老人は白い眉をぴくりと持ち上げ、まじまじと砂映を見た。

「……しょぼい魔力じゃ」

 老人は、再び言った。

「すみません」

 砂映が言うと、老人は再び砂映に背中を向け、小さな身体で歩き出した。

「まあ、おまえさんにはおまえさんの何かがあるから、選ばれたんじゃろ」

 一瞬立ち止まってそう言うと、老人は、行きかう他の社員たちに紛れ、見えなくなった。


 ――選ばれた。

 この異動は、そんな風に思ってもいいものなのだろうか?

 タクシーに乗って流れる外の景色をぼんやり眺めつつ、砂映は考えた。そうしてはっと我に返る。こんな風に悠長にしている場合ではない。今から行く事案の内容を、把握しなくては。さっきのメモを見る限り、クレームではなく有償修理だ。費用が発生するとなると、客の方も作業のやり方には厳しい目を向けてくる。 

 砂映は茶封筒の中身を取り出した。内容をてっとり早く理解するには魔法陣の概要図を見るのが一番早い。ダブルクリップで留められた一件書類はその概要図が表紙になっていて、上端に管理ナンバーと完納日、下端に部署名が印字されている。開発第一部の案件だ。一件書類のぶ厚さが、内容の規模を表している。さぞかし利益もよかったことだろう。

(六芒星型魔法陣か)

 なぜ先に行った二人だけでは駄目で砂映が必要なのか、それでわかった。六芒星型魔法陣は、簡単に言うと六つの異なる術式を統合したものである。六つの術は、すべてが稼動している状態で安定が保たれるよう作られている。修正を行なうためにその一つに対して力を加えるとバランスが崩れ、他の術が暴走を起こしてしまう。それを起こさないためには、一つの術の呪文に修正を加えながら、その値の変化に合わせて他の魔法陣の状態を調整してやる必要がある。シンプルな、二つ程度の術式を組み合わせた統合魔法陣なら、修正作業ともう一つの調整、一度に一人でできないこともない。けれど六つを統合した六芒星型魔法陣、しかも仕様内容を見る限り一つ一つの術式自体がいくつもの術の複合であるおそろしく複雑な高エネルギー魔法陣、下手すると三人でも事故が起こる可能性がある。二人だけでは絶対に無理だ。

(多少面倒でも、いったんバラした方がいいかも)

 砂映だって技術者として一人分として数えていい程度の技能はあるが、仮に砂映とまったく同じ能力の三人での作業だとしたら、ほんのちょっと不安がある。バランス調整を二つ分受け持つのはまあ問題ないにしても、修正作業者は、変更を加えつつ他方の値の調整をするという、まったく別の術の行使を同時にやらなければいけない。魔力の配分、コントロール能力もいるし、よほどの経験を積まないとかなり難しい作業だ。慎重にことを進めると、下手をすれば解体再形成より時間がかかるかもしれない。異動通知の並びから見て、他の二人は砂映よりも年下である。能力はわからないが、リスクを冒すより、再形成の方が確実だろう。幸い納入時の詳細設計書は揃っている。頑張れば三人×三日ほどの作業で完了させることができるだろう。

(とりあえず、詳細設計を読み込んでおこう)

 頭に内容が入っていれば、その分現物の状態を見た時に異常点も発見しやすい。一から再形成するにしても、どこがどうなっていたのかは報告書に書かなくてはならないのだし。

 砂映は足元に置いた鞄から、ハンディ版魔法辞典を取り出す。詳細設計書に書かれた呪文を読みながら、わからない単語をパラパラと調べる。

 ……もし三日作業になるとしたら、毎日会社に十八時頃戻るとして、それから引継ぎ関連の仕事をして、それで……

 徹夜でコンディションが悪くても、そんなのは言い訳にならない。技師一人分としての仕事はこなさないと。いや、他の二人がどんななのかはわからないけれど(老人のことばを信じるなら、少なくとも「雷夜」というのは強い魔力を持っているらしいけど)、場合によっては一人分以上こなさないといけないかもしれない。

 窓の外に目をやると、ため息が漏れた。

 このままどこか遠くに連れて行ってください。いつまでも、こうやってぼんやり、ただ車に揺られていたいんです。

 タクシー運転手につい言ってみたくなっていたところで、無情にも目的地に到着し、車は停止した。

「着きましたよ」

「どうも……」

「お客さん、眠そうですね」

「……へへ」

 お金を出して領収証を受け取ると、砂映は身体を丸めるように車から降りた。


「すんま、せーんっ」

 門の脇にある小さな小屋のような構内入門受付所を覗くと、中には誰もいなかった。門は閉まっているので車両は入構できないが、人だけなら受付所を通り抜ければそのまま構内に入ってしまえる。しかし入ったところでどこに行ったらいいのかはわからない。受付の人がいないというのは、困る。

「すんま、せーんっ」

 とりあえず、大きな声を出してみる。どこかから、返事をしながら誰か走ってくるのを期待する。しかしあるのは沈黙だけだ。

「……」

 砂映はその場にしゃがみこんだ。薄汚れたタイルの表面を見つめていると、構内の方から、ざかざかと小屋に近づいてくる足音が聞こえた。

「おらあっ」

 野太い声とともに、下を向いていた砂映にまともに人がぶち当たり、そのまま派手に床に転がった。どうやら人間が、放り込まれてきたらしい。砂映は衝撃でつんのめり、カエルのようにタイルに手をついた。そこにもう一人放り込まれてきた人間は、たたらを踏んで砂映の背中にがっと手を置き踏んばった。しかしそれだけでは勢いを殺せなかったらしい。背中を押さえつけられているのでとりあえず顔だけ上げた砂映の、今度はその後ろ頭に叩く勢いで体重を乗せたので、砂映はそのまま顔からずべしゃと地面に潰れこんだ。たたらを踏んでいた人間は、砂映の頭を地面に押し付ける形になりながらぱっと体勢を直し片膝をついている。黒いズボンに包まれた、少年めいた細身の脚。

「異常がある」

 その脚の主が、声を発した。

 どこかで聞いた声だ、と砂映は思う。

「あのな、こどもの遊び場じゃないんだよ。ここは立入禁止だ」

「異常がある。直さないと困るのはそっちだ」

「訳のわからんことを言うな」

「事故が起きてからでは遅い」

 その時、はじめに放り込まれた方の若い男が、うめき声を発しながら身体を起こした。

「ぼ、僕たちは!呼ばれたんですよっ!」

 裏返った声で彼はそう叫んだ。野太い声がうるさそうに「ああん?」とそれに答え、若者は座り込んだままうろたえるように後ずさりする。

「なんなんだ。ユーレイとか、そういう話か?」

「ちが、依頼でっ」

「誰に依頼されたんだ」

「え、その、それは……」

 頭上で口ごもる声。

「あ……」砂映はうめいた。頬をタイルにこすりつけ、わずかに顔を傾けて呟く。「あさひさま……」

 自分の手が人の頭を床に押し付けていたことにそこでようやく気がついたらしく、黒いズボンの少年の手が、ふっと砂映の頭を離れた。

「なんだいつの間に一人増えたんだ」

 野太い声の男が言った。

 砂映はよろよろと立ち上がった。ゆらりと懐に手を入れる。

「すんません。松岡デラックス魔法カンパニーの砂映・Kといいます」

 名刺を差し出すと、野太い声の男――ガタイもいい――は胡散臭そうな目で砂映を見た。

「はい?こいつらの、お仲間さんですかい?」

「お仲間さんです。同じ会社の技術者です。ええと、熱処理一課の朝比さんに呼ばれて来ました」

 男は砂映を、上から下までじろじろ見た。砂映がめずらしく姿勢を正すと、その男より背が高かった。

「ちょっと確認しますのでお待ちください」

 そう言うと、男は砂映の名刺を持って受付の奥に消えた。


 砂映が再びしゃがみこんで唸るように一息吐いていると、先ほど声を裏返していた若者がぼそぼそ話す声が聞こえてきた。

「そうだ、なんで思い出せなかったんだろう、朝比さんだ、朝比さん……」

 砂映を床に這いつくばらせた黒いズボンの――ついでに言うとTシャツもジャケットも黒い――「少年」の方は、色の白い無表情の顔のまま相手のことばに頷いている。声を裏返らせていた若者の方も、襟付きのボタンシャツと多少フォーマルな雰囲気の高級そうなジャケットを着ているとはいえ、ビジネスマンの装いではない。誰が見たってこのコンビ、「ちょっとお坊ちゃん風の大学生とその弟の中学生」だと思うだろう。

 砂映はげんなりした。黒ずくめの「少年」。前にコーヒーショップで会った、涼雨いわく「魔法技術者試験ほぼ満点」の、「仕事を干されている」三年目だ。あの日砂映の間違いだらけの魔法陣を見て「凄まじいな」と呟いた声は、悪夢のように砂映の耳に残っている。そうしてもう一人も、「少年」同様、技術や知識があるのかは知らないが、今の様子を見る限り、社会人としての常識はあまり期待できそうもない。

「……」

 俺は大人だ。一緒に仕事するのだし、コミュニケーション、大事。

 ごほん、と砂映は咳払いをしてみた。

 黒ずくめ少年に変化はなかったが、声を裏返らせていた若者の方は目を合わせないもののこちらをかなり意識していたのだろう、びくりと大きく肩を揺らせて反応する様子を見せた。

「あのさお二人さん。とりあえず、自己紹介でもせんですかい」

 ことさら間延びした口調で言ってみると、声裏返りの方は一瞬だけ砂映の方を見た。すぐに視線をそらすと、これは独り言ですよ、とでも言わんばかりに下を向いて「名刺が、まだないんですよ」とぼそぼそ言った。

「ああ、うん。まだ新しい部署のはもらってないな」

「え、さっき出してたのは?」

「今……ああいや、前の部署の」

「それ、僕はないんですよ。あと、その、この会社の担当者の名前を書いた紙、なくしてしまったんです。その、だからどうしようもなくて。僕が悪いとわかってるんですけど。その」

「いや、別に責めてるわけでなく」

 若者は上目づかいで砂映を見た。ずいぶんと気が小さいんだなあ、と砂映は思った。まあこの様子なら、慣れたらうまくやれるかもしれない。

 それより問題は。

 声を裏返らせる若者とは対照的に、大きな黒い目でこちらがいたたまれなくなるほどじっと見据えてくる、「少年」。

「ええとさ、俺は砂映っていうんだけど」視線を返しながらそう言ってみると、

「知っている」

「少年」は揺らがない漆黒の瞳をじっと砂映に向けたまま、無表情に口だけを動かしてそう言った。

「うん。あのさ、『人に名前を訊く時は自分の名前を先に名乗る』っていうことば、聞いたことありますか」

「ある」

「そう。それはよかった。それでさ、俺が名乗っているということは、どういうことだと思いますか」

「少年」は、考える表情をした。

 やがて口を開く。

「訊かれる前に名乗っている」

「……」

 砂映は酸っぱいものを食べたような顔をした。

「もういい。雷夜くんと秋良くん、だよね。どっちが雷夜くん?」

 目を合わせない若者とじっと見つめる少年、二人に目をやりながら、砂映は訊ねた。

 黒ずくめ少年が、口を開いた。「砂映」

 呼び捨てかい、と砂映は思ったが、「ん」と目線でそれに答えた。

「受付。戻ってきた」

 しゃがんだまま振り返ると、がたいのいいさっきの男が背後に立っている。ああどうも、と砂映は立ち上がった。

「あの、朝比さんに確認できましたんで」

「それはよかったです」

「けど、その」

「はい?」

「その、この二人は本当に、同じ会社の技術者なんですか?」

「ええ」

「その、おたくの会社は、未成年者を雇っているんですか?アルバイトにしたって、その……若すぎやしませんか」

 男がそう言うと、少年はズボンの後ろからすっとパスケースを取り出し、中から二枚のカードを取り出すと、がたいのいい男に差し出した。社員証と、国の発行する身分証明書だった。雷夜・F。そうかこっちが雷夜か。横から砂映は確認する。

「そっか社員証……!」

 また声を裏返らせて、もう一人の若者――秋良・Mが叫んだ。

受付の男が視線を向けると、慌てたように目をそらす。男は雷夜に二枚のカードを返すと、秋良に向かってごつい手を差し出した。

「そちらさんも見せてもらえますか。社員証」

「へぇう、え、はい」

 秋良はわたわたと上着の内ポケットを探った。そちらの社員証もまじまじと見ると、受付の男はむくれるような顔をした。くるりと背を向けると、「そんじゃついてきてください」と歩き出す。



「足元気を付けて」

 案内は、途中で受付の男から作業服の若い男に替わった。時折注意を促されながら、工場内の通路を歩く。両脇に並ぶチューブや配線だらけの金属製の機械、そうしてその下のコンクリートの地面や壁に配置された数々の魔法陣。たんなる模様のようにひっそりと刻まれたそれらの線が、機械の振動に合わせてときおりほんのり光を放つ。

「それにしても広い工場ですねえ」

「もうそろそろ着きますよ」

 砂映も気づいた。通常の機械の音とは異なる、かすかな高音と、低く不安定にうねる虫の羽音のような低音。開け放して固定されている金属の扉の向こうから、それらの音は聞こえてきた。

 そうして、その扉を抜けた瞬間だった。それまで無表情で歩いていた雷夜が、突然ひどく緊張した顔つきになった。白い顔に朱が差し、目に妙に強い光が宿ったかと思うと、少年は突然走り出した。

「ここの……えっ」

 唐突な行動に、案内してきた男もびっくりしたようだった。雷夜は居並ぶ巨大な機械の一つに突進すると、突然激しい勢いで、コンクリートと見た目はほぼ大差ない、魔法陣の刻まれた床の上に身を投げ出した。六芒星の中心部に設置された機械の下にうつぶせにいったんもぐりこみ、這いつくばって出てくると、腹を地面につけたまま、ぼおっと脈打つように光を放つ魔法陣の表面を手の平でまさぐっている。

「ら、雷夜、くん……っ?」

 度肝を抜かれつつ、砂映は呼びかけてみた。が、案の定ではあったが、返事も反応もない。真剣な表情で雷夜はごろんと向きを変え、今度は片耳を床につけるようにした。確かに異常音は、その魔法陣が発している。まあ光の様子を見る限り、それなりに稼動状態を保っているようなのだが。

「どうもお待たせして。熱処理一課の朝比です。……えっ」

 奥の事務所から出てきた担当の朝比さんも、遠くで一人床に寝そべっている黒い少年の姿に唖然とした。彼はすがるような顔で砂映に目を戻す。

「……あの、……はい。彼もうちの技師です。その、彼は仕事熱心でしてね。あまり時間もありませんので、先に魔法陣の状態を確認しております」

 何とか笑みを浮かべて、砂映はそれに応えた。隣の秋良は口をぽかんと開けたまま、まだ雷夜の方を眺めている。

「あ。あ……そうですか。その、異音と異常光なんですけどね、それがなぜか、ちょっと前から収まって、今は調子よく稼動しているんですよ。今朝はたまに火花が出たりして、ああ、こりゃもう駄目だ、と思ったんですが、今は落ち着いたもんです」

 朝比さんが大人でよかった、と砂映は思った。視界の隅の変な少年について、ありがたいことに彼はそれ以上追及しなかった。

「ああ、そうなんですか。でも一度そういった異常が出たのなら、どこかが狂っているのは間違いないので……一度解体して再形成させていただきたいと思っているんですが」

 砂映はにこやかに相手に合わせた。ほぼ魔力もなく訓練もしていない人と魔法技師との間には、感覚に大きな差がある。今響いている異音は、どうやら一般の人には聴こえないレベルのものらしい。

「それなんですけど、だいたいおいくらぐらいかかりそうですか」

「そうですね。あの規模の魔法陣だと、三人で一日八時間の三日作業、なんで……あ、ちょっとすんません」

 砂映は鞄から紙とボールペンを取り出し、その場でしゃがみこむと簡単に見積を書き始めた。作業費、特殊技術加算、書類作成費、交通費、諸雑費……

「あの、あ、お名前なんとおっしゃるんでしたっけ」

「砂映です」

「砂映さん。あの、一応見積を確認してから作業をお願いしたいと思ってるんですが」

「もちろんです。概算ですけど今お渡しします。ちょっと待ってください」

「あの、あの人何かやってるんですけど、あれは作業とは別ですか」

「えっ」

 しゃがんだまま、砂映は振り向いた。

 白い紙の人形。人の手は二つしかないので、複数の箇所に魔力を送る時の受信媒体として使われる魔法具の一つだ。魔法陣の中央部に設置された機械は元気よく稼動中で、ごおんごおんと揺れている。黒い服を着た少年は、魔法陣の六つの角の五つまでに、その紙人形を置いたところだった。そうして人形を置いていない手前の角に両手を載せると、素人目にもはっきりと見えるほどの黒いオーラがその体から立ち上った。

「ちょい待……っ」

 砂映は思わず叫んだ。紙人形を置けば確かに理論上、統合魔法陣の同時調整も可能となる。でもそれはあくまでも理論上だ。まったく異なる五つの術式を同時に制御する、そんなことは普通無理だ。それを一つの術式に修正を加えながら一人の人間が行うなんて、そんなことはできるわけがない。魔法陣は暴走するだろう。そして暴走が限界を超えると、魔法陣は魔法爆発を起こす。魔法爆発の人体や物体への影響はまだほとんど解明されていないが、「よくない」ことは確かである。しかも、機械の電源も切っていない。魔法爆発が、物理的な爆発をも引き起こすかもしれない。そうなったら、少なくとも工場のこの一角は吹き飛ぶだろう。

 雷夜から立ち上るオーラが一気に濃さを増し、吸い込まれるように床に置いた手に向かって流れた。目には見えないが、六芒星の他の五点にも、同じタイミングでエネルギーが放たれていたにちがいない。エネルギーだけでなく、細やかなコントロールがその異なる五点に同時に働いていた、はずだ。一瞬で修正を済ますほどの凝縮した影響力、その行使だけでもありえないのに、それに対応した複数の調整もその同じ瞬間にやってのけた。そんなことができるなんて信じられるものではない。けれどもできた、のでなければ、訪れた静寂に、理由がつかない。

「なんですか、今のは」

 朝比さんは相変わらず人のよさそうな顔で、のんびりと砂映に訊ねた。

 三人×三日の技術員人件費。

 消耗品の魔法具代、対応法の調査費などの特殊技術加算。

 三人×三日の交通費。

「ええと」

 砂映は自分が書いたばかりの見積書に目を落としながら言いよどんだ。なんだ今のは。そんなのこっちが訊きたい。

 今のですべてが済んだのか。そういうことなのか?

 そうだとして……けれど今のこれに対して、いったいどれくらい費用を請求したらいいのか?中堅技術者三人×八時間×三日がこの規模の異音事例対応ではあくまでも妥当なはずだ。それがなんだ、一人×十分足らずだ。技術者一人の単価をどれだけ上げたらいいんだ。社内でスペシャリスト認定を受けている技師だって、単価は新人の一.八倍程度だ。さっきの瞬間で消し炭になった五つの紙人形の実費と、交通費。そもそも三人分の交通費……請求できるのか?

「ああ、今のは、その」

 短時間で済みました。手間も少なく済みました。事故も起こらず、費用は安く、みんなハッピー。そう言いたいけれど、それで済まないのが仕事なのだ。今回これで済んだという前例を残すと、今後同じような修理の依頼を受ける時には、同じくらいの金額で、と言われるのだ。相手がわかっていないだけなら、今回のはちがうんです、と資料を作って説明して、何とかする。しかし今回のこれがこんなあっけなく済んで、次回、同様の修理で桁のちがう見積書に難癖つけられた時に、説得できる気がしない。こんなことはありえない。自分だって十年近く魔法技師として仕事して、経験だってそれなりにある。こんなことは、ありえない。

「その……今のは単なる点検でして、その……」

 嘘をつくのはストレスが溜まる。いつだって、まじめで正直な誠意あふれる技術者でいたい。でも、今回の例を認めてしまうわけにはいかない。この会社の今後の修理すべて、常に雷夜が赴いて常に彼が奇跡を起こせるわけではない。ない以上、これはもう、なかったことにした方がいい。今ので完全に直っているにしても、あと二日、ここに通って作業をするふりでもした方がいい。勤め人としての砂映はそう判断した。が、ためらいながらつこうとした嘘は打ち砕かれた。

「すごい!直った!」

 無邪気に声を裏返して、秋良が叫んだ。すたすたと歩いてきた雷夜は、つまらなさそうな顔で砂映を見ると、「早く帰りたい」と呟いた。 

「あの、どういうことですか」

 朝比さんがやや不安そうに砂映に訊ねる。

 俺だって早く帰りたいわ、と砂映は心底思った。思ったが、そうは問屋が卸さない。

「朝比さん。……異常に気がついたのは今朝なんですよね?」

「ええ。早朝にコンベヤの修理業者が来ていて、その部品類を近くに置いたんです。それが原因かなと」

「それは……非常にいけないことです。魔法陣の影響下で稼動していた機械の部品を稼動中の別の魔法陣の近くに置くのは、大変まずいことです。そういったことをする場合には、魔法技師の指導が必要です。その作業の時に、魔法の知識のある人間はいなかったんですか?」

「ああ、それぐらいいいかな、と言って……火花が出て、初めてうわあってなりまして……魔法に詳しい人間は誰もいませんでした」

「その後も?」

「え?」

「おたくの社内で魔法に詳しい人に見てもらったりとかそういうことは?」

「うちの課は疎い人間ばかりで……」

 砂映は神妙に頷き、

「繰り返しますが、今後二度と、そういったことはなさらない方がよいです。立ち合い費用なんて微々たるものです。ご一報くだされば技師が向かいますので」

「はい」

「しかしですね」

 そこで砂映は、一瞬ちらりと天井を見上げた。高い天井は、鉄筋が剥き出しで、配線が縦横を這い回り、そこかしこに護符が嵌め込まれている。

「今回に限って。本当に奇跡的なことなのですけどね。ほんの少し狂いが出た程度で、当該魔法陣に異常はなかったようですね」

 隣に立っていた雷夜がその瞬間口を開きかけたのを察して、砂映はがっとその首に腕を回すと抱え込むようにしてその口を塞いだ。少年は暴れたが、ここは体格の差で砂映に分があった。あっけにとられている朝比さんに、

「ああ、すみません。ちょっとね、気分が悪くなったみたいです彼」

 腕に力を込めながら、砂映はにこやかに言った。

「ともかく。朝に異音や異常光が出ていたのは、部品の影響を受けた直後だったからでしょう。収まったのなら、もう心配ありませんよ」

「あの、でも……」

「え、なに言って……」

 朝比さんと秋良が同時に言った。秋良は少し離れた場所に立っていたので口を塞ぐことができない。かわりに砂映は横目でぎょろりと秋良をにらみつけた。それで秋良は黙った。

「……朝比さん」

「はい?」

「ちょっとですね、上司への報告をする必要がありまして。電話をお借りしたいんですが」

「じゃあ事務所の」

「いえそれが、うちの規定上、公衆電話じゃないといけないんですよ」

「じゃあちょっと遠いですよ。来た道を戻って、途中の廊下にあるんですが」

「ありがとうございます。ちょっと失礼します」

 雷夜を引きずるようにしながら砂映は出口に向かいかけ、また戻ってくると秋良の肩に空いている方の手を置いた。ぽかんとしている朝比さんを気にしつつ早口でささやく。

「秋良君。今の魔法陣の扱いについて、ちょっと上司に相談してくるから。あの魔法陣については何も言うな。適当に他の魔法陣をチェックでもしとけ。いいな?」

 気迫に押されて秋良が頷いたのを確認すると、砂映は振り向いて、へらっと笑って朝比さんに会釈した。雷夜を小脇に、今度こそ扉を抜け、廊下に出る。


「死ぬかと思った」

 公衆電話の脇でやっと砂映の腕から解放された雷夜は、平坦な声で呟いた。どう聞いても実感のこもらない声だったが、顔を見ると白い顔がさらに白くなっている。砂映は口を開きかけたが、その時電話のコール音が途切れた。

「あ、もしもし。ええと、開発第三部の砂映ですが。お疲れ様です。その、薮芽さんに連絡をとりたくてとりあえずそちらに電話をしたんですが、どこにおられるかわかります?」

 総務部の事務職が、ちょっと待ってください、と言って、そのまま隣の誰かに相談している声が聞こえてくる。やぶめえ?という総務部長の声もした。どうもあまり好かれているような感じではない。

「あ、お待たせしました」

 女の子の声が、受話器の近くに戻って来た。今から繋いでくれると言う。ふう、ととりあえず息を吐いていると、雷夜はいつの間にか砂映の足元にしゃがみこんでいた。砂映は口を開きかけたが、そこで保留の音楽が止まった。

「あ、お疲れ様です。砂映です」

「ご苦労様。大変だったんじゃないか?それで、うまくいったのかい」

 思いがけず優しい声に、砂映はほろりとした。なんだ、いい部長じゃないか。他のメンバーはともかく、上司には案外恵まれたのかもしれない。

「それがですね、ちょっとご相談がありまして」

 砂映はざっと事態を説明した。魔法陣は明らかに修理を要する状態となっており、修正作業は三人がかりで三日か四日はかかるだろうと判断したこと。それなら一度解体して再形成する方が早いと思っていたこと。しかしそれを、雷夜は一人で一瞬にして直してしまったこと。あの規模の魔法陣の不具合をこんな風に簡単に直してしまう前例を残してはのちのち困るのではないかと自分は考えていること。前例を残さないために、今回は無償対応とすべきだと判断したこと。

「すみません、正直、頭が混乱しています。うちの部署がどういったスタンスで……どういった予算で運営されることになっているのかも自分はよくわかっていなくて。それと雷夜くんの能力が規格外すぎてそれをどう扱っていいのかもわかりません」

 目を向けなくても、黒い瞳が足元からじっとこちらを見ているのが感じられた。気まずいが、仕方ない。

「今ならまだ別の説明もできるので、部長の判断を……」

 砂映は真剣に訴えたつもりだった。

 が、受話器の向こうからは、なぜか吹き出したような息の音が聞こえてきた。砂映は耳を疑った。いや、今のはきっと気のせいだ。気のせいだ。と自分に言い聞かせていると、

「ははは。好きにしていいよ。はは。大丈夫大丈夫」

 がちゃん。

 そこで電話は切れた。

 砂映はなおも受話器を握りしめ、しつこく耳を澄ませ続けていた。しかしどんなにがんばっても、もうそこには、つー、つー、という通話終了後の音しか聞こえてこない。

「……」

 なにげなく視線を下げると、雷夜の大きな黒い目と合った。

 砂映はへら、と笑った。

「素敵な上司だよ。素晴らしい部長だ。好きにしていいんだって」

 大袈裟な身振り付きで歌うように言うと、

「よかったな」雷夜は真顔で答えた。わかった上で言っているのかまるでわかっていないのか、砂映には判断がつかない。

「あのね雷夜くん」ともかく砂映は言ってみることにする。

「雷夜くんはすごい。すごいと思います。でもさ、何かする時は、他の人の意見も聞こうよ。上司なり先輩なりにお伺いを立てようよ。一人で黙ってするんでなく、みんなで協力するのが大事なのよ会社は」

「緊急事態の時は?」大きな丸い目で、雷夜は訊き返した。

「緊急事態の時は……事態を何とかするのが優先だけど」なんとまあお利口な切り返しをするものだ、と思いながら砂映が内心ため息をついていると、

「さっきのは緊急事態だった」

 まっすぐな目を砂映に向けたまま雷夜は言った。

「あ?」

 いささか腹も立ってきて、ぞんざいに砂映は問い返す。しかし相手の目は、どこまでも澄んでいた。

「あと十秒遅れていたら、魔法爆発を起こしていた」

「でまかせいうなよ」

「本当のことだ」

「そんな兆候なかっただろ」

「わからない方がどうかしている」

「あの程度の不具合で爆発なんて起こるはず」

「どうしてわからないんだ」

 砂映は顔をしかめた。

 雷夜がムキになっていたなら、ああ、単にへそ曲がりのガキなんだな、と思える。こっちは大人らしく、先輩として振る舞える。

 だが雷夜はあくまでも冷静なのだった。子どものような顔なのに、黒い瞳はどこまでも静かで興奮のかけらもない。ただありのままそこにある暗闇のように、変化する気も歩みよる気もなく、本気でそうだと信じているし、本気でこちらがわからないことを不思議がっている。

 ……不毛だ。

 砂映はため息をついた。「へいへい」議論をしても仕方がない。

「緊急事態以外の時は、ご相談ください。頼んます」

「わかった」

 生真面目な顔で、雷夜はうなずく。

「……とりあえず戻るけど。余計なことを言わないでいただけると助かるんで」

 持ったままだった受話器を置きながら砂映が言うと、

「何が余計で何が余計でないかは難しいな」

 真剣な表情で雷夜は呟いた。


 廊下を歩いていると、途中で雷夜が大きな目をさらに大きくした。森に住む小動物とかを思わせる奴だな、と砂映は思ったが、しばらくすると砂映にも雷夜のその反応の意味がわかった。異音が聞こえる。それも、かなりやばい感じの、金釘でガラスでもひっかくような不協和音だ。

「秋良くん?」

 フロアに入ると、三つ並んだ円型魔法陣の真ん中の一つに秋良がしゃがみこんでいた。そうしてその異音は、その魔法陣の両隣含む三つの魔法陣から発生しているらしい。

「……あ」

 振り向いた秋良の顔は、今にも泣きだしそうだ。

 その場に朝比さんはいなかった。案内してきた作業着の男が一人、困惑したような様子で秋良の方を眺めている。

「その。ちょっとこの機械、最近性能が落ちてるから見てほしいって言われて。この真ん中の魔法陣が摩耗して弱まっているから、再刻印をしようと思って……可変状態にしたらこの機械が変な動きをして、それでこの音……っ」

「可変状態にする」というのは、魔法陣における線や文字を自由に書き換えることができる状態に戻す、つまり「一度固めた粘土を再び柔らかくする」ようなことだ。

 円型魔法陣それ自体は、先ほどの六芒星型なんかに比べるとかなりシンプルな構造ではある。けれどそれがいくつか連結されている場合、やはりその調整は他との兼ね合いでかなり難易度の高いものになる。そもそも、固定状態で稼動している連結魔法陣の一つを可変状態に変えたりしたら、バランスが崩れて全体が暴走し、他の魔法陣もろとも制御不能になる。技術者として、常識レベルのことである。

 ……というようなことを、今説明している場合ではなかった。

 これは実際に魔法爆発を起こしかねない。なにかがずれているような違和感が空間に満ちている。機械の輪郭が時折歪んでおかしな膨張を見せたりしている。

「ともかくまずは機械の電源を切って……」

「それが、電源切れなくて。スイッチがきかなくなっててっ」

「『石』を外して魔法陣の方のエネルギーをとりあえずゼロにして」

「同化しかかっててとれないんですっ」

 砂映は駆け寄って、赤やら青やら紫やらめまぐるしく色を変化させて発光している魔法陣に手をついた。痛いほどの熱さと冷たさとしびれが同時に手の平を突き刺す。砂映は魔力が弱いので、咄嗟にうまく皮膚を守ることができなかった。

「ともかく強制断絶が最優先だから、一人一つずつ、せーので魔力をぶつけて……っ」

 砂映たちは金属をこすり合わせるような大音響の中にいたが、作業服の若者は、ぽかんとした顔で秋良や砂映を眺めていた。魔法に関する訓練を受けていない人間には、ほとんど聞こえないか、別の小さな音として認識されているのだ。声が大きくなりすぎないよう注意しながら砂映は秋良に指示をした。秋良は慌てて魔法陣に両手をかざしたが、雷夜はあらぬ方を向いて立ったままでいる。

「おい雷夜!」

 聞こえていないのだろうか。砂映が少し大きな声を出すと、雷夜はやっと振り向いた。

 笑っている。

「他の魔法陣も共鳴してる」

「あ?なんだって?」

「この工場にあるすべての魔法陣が共鳴してる」

 ひどく愉しそうだ。砂映には、理解できない。というか今はそれどころではない。

「いいから、こっち来て手を貸せ!」

「余計なことかもしれないけど、今の状態で魔力を加えると魔法陣三つともばらばらになって壊れる」

「いいから。雷夜!」

「雷夜さん、お願いします!」

 魔法陣の上は方向の定まらない風が吹き荒れ、小さな埃が舞い踊っている。明らかに常軌を逸した色合いの光が砂映と秋良のまわりを乱れ踊り、異音はますます音量を増している。魔力のない作業員の若者にも、顔をしかめて風になぶられている二人の姿は見える。異変を察して不安そうな目をしている若者の脇で、しかし音も光も誰より強く感知できているはずの雷夜は、平然とした顔で砂映と秋良を眺め、

「ばらばらにするよりいい方法がある。緊急事態じゃないから、説明した方がいいか?」と言った。

「そんな場合じゃない!」

 思わず砂映は叫んだ。

 すると雷夜はすっと笑いを消し、砂映たちに背を向けてすたすたと歩き出した。作業員の男は、風の渦を巻き起こしている魔法陣と雷夜を見比べてあっけにとられている。雷夜は上着のポケットから魔法陣用の紙の切れ端とペンを取り出すと、歩きながら何やらさらさらと書き始めた。広々としたフロアの中、すべての機械と魔法陣から距離をとると、雷夜は手にした紙をくしゃくしゃに丸めて無造作に空中に放り投げた。

 じゅん!

 その瞬間、異常を起こしていた三つの魔法陣から、光も、音も、風も、発生していた何もかもがその紙屑のようなくしゃくしゃの魔法陣に吸い込まれた。砂映と秋良にもその強烈な「引っ張る」力は感じられたが、実際には何の影響も受けなかった。ただ突然、自分たちを取り巻いていたあらゆるエネルギーが消えたのだった。砂映にも秋良にも、何が起こったのかわからなかった。

「……どうしたんですか?」

 呑気な声で訊ねたのは、異変に気づいて奥の事務所から出てきたらしい朝比さんだった。

 落下してきた紙玉を片手で受け止めると、雷夜はそれをポケットに突っ込んだ。砂映は激しく瞬きをし、朝比さんと作業員の若者が説明を求めて自分を見ているのに気がついた。無理やり口角を上げてとってつけたような笑みを浮かべると、

「……なんでもありませんよ」

 砂映は何とか言った。

 雷夜は無言で戻ってくると、沈静化したもののいまだ「可変状態」にある魔法陣に手をついた。刻印に水が流れるように魔力が行き渡り、今の暴走で変化した文字列や摩耗によって変形していた文字が、本来のものに戻る。それを確認して、雷夜は一瞬不思議そうな顔をした。一度手を離し、再び静かに触れ直す。魔法陣は「固定状態」に戻り、魔法技師の手からの魔力ではなく、「石」からのエネルギーで通常の稼動を開始する。

 そのさまを、砂映と秋良はただあっけにとられて見ていた。

 何も知らない朝比さんは、にこにこしながら首を傾げていた。 


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