10.おまえは正しい
「僕が悪かったんです」
秋良は言った。
「みんなを心配させたいという、子どもじみた思いがなかったといえば嘘になります。自分の存在価値とか、そういうことをあれこれ考えていて……甘えた考えがひょこっと湧いた。それで雷夜さんに、退職願を出すことを提案したんです。僕が言ったんです。検査魔法陣を使わせてもらうのに、社員になるんだといえば横分の人だって文句はないだろうって」
タクシーの後部座席に揺られる秋良は、疲れたような白い顔をしていた。食事もちゃんともらっていたし部屋の居心地は悪くなかったと言っていたけれど、不安や緊張は相当のものだったはずだ。
「その検査魔法陣の管理責任者が鯉留さんで……雷夜さんが電話をしたら、すぐに来ていいと言ってくれました。雷夜さんは、検査が終わったらとりあえずすぐに実験棟を出た方がいいって、僕に言ってくれてたんですけど……雷夜さんが結果を解析している時に、僕は鯉留さんに呼ばれて。話しやすい場所がいいと言って、宿泊室に連れていかれて、それで契約書の内容を説明されて、そのまま気づいたら鍵をかけられた部屋の中で一人になってて……」
「それは、『賢者の石の研究』に協力しろ、って内容の契約書だったのか?」
助手席から砂映は訊ねた。秋良はためらうような顔で一瞬砂映の顔を見て、それからこくんと頷いた。「僕は、自分にそんなことができるとか、わからないし、というのがまずあって……」
それに僕は、やっぱり、帰りたいと思った。
家族を裏切るようなことはできない。
だからサインはしなかった。
食事を持ってくるのをやめますよ、と最後に言われたけど、それでも。
「でも、僕のせいで雷夜さんが」
秋良は口をへの字に曲げていた。砂映は首を振った。「いや、秋良くんのせいじゃない。雷夜は勝手にやったんだ」
「でも、僕の部屋の鍵を渡させるために」
「その前に鍵はもらってた。その後で、雷夜は灯油をかぶったんだ」
「だけど」
「だけどじゃなくて……雷夜が好きでやったんだ。そもそも火の錯覚の術だって、多少目的はあったにせよやってみたかったからやったに決まってる。やってるうちに、意地でも鯉留をびっくりさせたくなってあんなことしたんだ。好きでどろどろになったんだ。そうだろ、なあ」
砂映は身体をねじり、真後ろに座る雷夜に声をかけた。
本人は、寝ているのか、寝たふりなのか、目をつぶっていて返事をしなかった。とりあえず拭いたものの、その髪の毛は浴びた灯油でぐっしょりとしている。衣服の方もとりあえず絞れるだけ絞って、秋良がいた部屋から拝借した毛布で身体をぐるぐる巻いている。タクシー運転手はかなり渋ったが、汚した場合は車内クリーニング代を出すということで、何とか頼み込んで乗せてもらったのだった。
「雷夜くん、寝てるの?おーい」
砂映はわざとらしく呼びかけてみた。するとやはり眠っているわけではなかったらしい、雷夜は億劫そうに目を開けた。しんどそうな顔のわりに、開かれた目は平常と変わらない。妙に強い精気を放って砂映を見ると、
「おまえは正しい」
と一言言って、目を閉じた。
……開き直り過ぎではないのか。
大袈裟に眉をひそめて口をとがらせ、砂映はおどけた顔で秋良に同意を求めた。秋良は思わずぷっと噴き出して、「あ、ごめんなさい」と言った。それを見て、砂映も笑った。
雷夜が灯油をかぶって砂映が駆け寄った時、弾き飛ばされる一瞬前に砂映の視界に入ったのは明水の姿だった。雷夜の横や後ろには机や段ボールがごたごたと置いてあったわけだが、その机の下に、明水は長身を丸めて入り込んでいた。彼は床に手をかざし、床の上に張り巡らされた魔法陣を制御してエネルギーを送り続けていたのだ。廊下の壁に叩きつけられて呻きつつ、砂映はそのことを理解した。鍵を握りしめながら起き上がり、見ると、雷夜を包む火柱が次第にその勢いをなくしていき、やがて完全に消えた。ぽたぽたと灯油をしたたらせながら雷夜は鯉留に近づいた。
目を開けたまま、鯉留は気絶していた。
明水も机の下から出てきて、やれやれ、といった顔をしながら奥の棚の引き出しを開けた。タオルを取り出し、雷夜に放る。「灯油なんかかぶって、後で皮膚がかぶれても知りませんよ」
雷夜は風呂上がりのようにごしごしと頭を拭いたり身体を拭ったりした。ここの始末は自分がやるから早く秋良くんを連れて帰りなさい、と明水は言い、砂映はとりあえず頭を下げながら雷夜を促した。「早めにちゃんと石鹸で洗うんですよ雷夜」母親のような言い方をする明水の声を背に、砂映と雷夜は秋良のいる部屋へと向かった。三人で外に出て見つけた公衆電話でまずタクシーを呼び、それから砂映は会社に電話をして、薮芽部長に大まかな事態を報告したのだった。
「あ」
ポケットに手を入れて、砂映は思わず声を上げた。
「どうしたんですか」秋良が訊ねる。
「鍵、持ってきちまった」
「え、僕のいた部屋の鍵はドアに差してきましたよね」
「いや、別の鍵」
雷夜に頼まれて持ってきた、灯油缶のあった部屋の鍵だ。紅・Aさん、ごめんなさい。彼女が責められたりしないといいのだが。
「とりあえず明日、部長でも連れて謝りに行かないとな。その時に鍵も返そう」
砂映が言うと、秋良はびっくりしていた。「え、明日横分に行くってことですか?」
「なんでそんな驚くの」
「だってそんな、人を閉じ込めたりする会社ですよ?」
「いやまあ、誰がどこまでそれをわかってるのか知らないけど。とりあえず実験棟の部屋一つ灯油まみれにしたし、明水さんに迷惑かけたし、鯉留さんにもちょっと申し訳なかったし。手土産でも持ってご挨拶して、できれば上の人も出してもらって、謝罪しつつきっちり話つけといた方がいい」
「そういうものですか」
「そういうもの。明日小島ロールでも買いに行くことにして……」
砂映が半ば独り言で呟いていると、
「砂映さん、ロールケーキはだめです!」突然秋良は大声を出した。今度は砂映の方がびっくりする。
「へ?なして」
「あ、すみません」謝りつつ、秋良はしどろもどろ言う。「その、あ、姉が」
「姉?」
「あ、その、熱海姉が」
「うん」
「あ、いややっぱりいいです」
「ええ?」
なんなんだ、と思っていると、なぜか雷夜が目を開けて、「話せ」と秋良に促した。
「その……」妙に言いにくそうに秋良は言う。「ロールケーキは切るのが面倒だから、会社でお土産に持って来られると事務職は嬉しくないって」
「え?熱海さんが?」
以前みんなが忙しかった時、部長が小島ロールを買って帰ってきたことがあった。事務職はみんな大喜びをしていた。していた、ように見えたのだが。
「ほんとに?」
「本当です。『分けるのに手間のかかるお土産を買ってくる人は二流』って言ってました。その、かなり怒ってました」
「熱海さんが?」
「はい」
熱海さん、そんなこと言うのか。そんな風に腹を立てたりするのか。にこにこしてケーキを配っていたのに。そんなことを。
「あの、僕が言ってたってこと、言わないでくださいね」
「え?」
見ると秋良は、言ってしまったことに怯えているようだった。
「ああ、うん」
「雷夜さんも。言わないでくださいね」
雷夜は寝たふりをしていた。しつこく言われ、目を閉じたまま頷く。
そうこうしている間に、タクシーは松岡のビルの脇に到着した。
雷夜と秋良を先に下ろし、運転手さんと後ろの座席が汚れていないことを確認してから、砂映は支払をして車を出た。裏口から入り、喫煙コーナーから雷夜を遠ざけるようにしつつ階段を上る。こちらを見る人がいないでもなかったが、小柄な雷夜を両脇から挟むように歩いていたので、さほど目立ちはしなかった。会社に戻ったらとりあえず来るように言われていた三階のはずれの会議室。ノックをすると、薮芽部長の声が返ってきた。「どうぞ」扉を開けると、薮芽部長、熱海さん、総務部長の三人がいて、熱海さんが駆け寄ってきた。
「よかった!」
脇目も触れず、秋良をぎゅっと抱きしめる。
うん、感動の場面だな、と思いつつ、ほのかな嫉妬が砂映に湧かないこともない。秋良はやけに迷惑そうな顔をして、それでもしばらくなすがままになっていた。
「とりあえず、雷夜。シャワー浴びて着替えてきなさい。すごい匂いだ」薮芽部長の言葉に、熱海さんが我に返ったように秋良から離れ、テーブルの上に置いてあった大きなビニル袋の包みを雷夜に手渡した。タオルや着替えについて、砂映が電話であらかじめお願いしていたのを買ってきてくれたものらしい。
「シャワー室どこかわかるか?」砂映が訊ねると、
「シャワー室なんてあるのか」大きな包みを抱えたまま、雷夜は訊ね返す。
「ああ、その、残業続きの人とか用に」
「そうか」
言ったきり、雷夜はそのまま突っ立っている。わからない、教えて、という気はないのか。砂映は顔をしかめて雷夜を見る。雷夜は涼しい顔で、ただそこに立っている。早くしなさい、という視線を、薮芽部長は雷夜にではなく砂映の方に向けてきた。へいへい、と心の中で呟いて、砂映は場所を説明する。こくんと頷き、雷夜はすたすたと歩いていく。
「扉、閉めてくれるかな」
薮芽部長に言われて、砂映は「ハイ」と戸を閉めた。口の形に置かれた会議室のテーブルの、手前に薮芽部長、直角の位置に総務部長、そしてその正面側に熱海さんと秋良が座っている。「お腹空いてない?お茶飲む?」熱海さんは心配そうに秋良の世話を焼いている。砂映は誰にも着席を勧められなかったし、さりげなく座れそうな場所もなかったので、扉の前に立ったままでいた。部長たちは口を開く気配もない。間の抜けた時間がのろのろと進む。
「……あの、薮芽部長」
砂映が口を開くと、薮芽は「ん?」と猫のような口をして砂映を見上げた。総務部長は椅子にふんぞりかえるように腰かけて、やけに不愉快そうな目で横から砂映を見ていた。姿勢を正して立ちこうやって上司たちに向き合うと、なぜか自分が「サラリーマンを演じている」ような気分になる。
「電話で報告したとおりなんですが……明日、横分を訪問したいので、ご同行願えますか。できれば手土産でも持参して」
「ううむ」薮芽は目を細めておもちゃのように首を揺らす。「いや、君は来なくていいよ」
「え」
「明水さんという人の名刺あるかな」
「え、はい」
「くれる?」
「え、でも」
「大丈夫、あとで返すよ」
砂映が戸惑っていると、
「君はこれ以上この件に関わらんでいい」横から総務部長が横柄な口ぶりで言った。
砂映はとりあえず、指示に従って明水の名刺を薮芽に渡す。
「来週からよろしくね」にん、と笑って部長は言った。
「砂映、口外していいことと悪いことはわかるな?」総務部長はねめつけるように口を挟む。「明日君にも秘密保持契約に判を押してもらうが。君は一社員として知るべきでないことまで知ってしまっている。大変遺憾なことに」
砂映は総務部長に目をやった。自分は何か、彼を怒らせるようなことをしたのだろうか。
「あの、呉郎くんに……今日の件、総務部長が僕への指示を出したとお聞きしたのですが」
そう言うと、総務部長の顔は突如ゆでダコのように赤くなった。「私の判断ではない。いいか、君の首を切るのは簡単なことなんだぞ」
さらに怒らせてしまったらしい。
しかし砂映には、訳がわからない。
どうして会社というのは、こう、訳のわからないことが多いのだろう。裏で誰が何を言っていて、どういう利害が働いているのか。砂映には、知りようがない。
「肝に銘じておきます」
ともかく害意がないことを示すべくぐんにゃりと身体を折ってお辞儀をして、顔を上げて気づく。ああ、今ここで、自分は今、招かれざる客みたいになっている。
「そいじゃ私は失礼します」
儀礼的に頭を下げて、砂映は扉を開けた。
するとちょうどそこに、シャワーから戻ってきた雷夜が立っていた。ネクタイはしていないが、白いシャツにズボンのスーツ姿だ。サイズがまるで合っていない。ズボンはだぼだぼで裾は折り返され、シャツも肩のあたりがごわごわと余っている。
「今だけだ」砂映の視線に気づいて、雷夜は言った。
「今だけか」砂映はその言葉を繰り返した。
雷夜を中に入れ、砂映は外に出て扉を閉めようとした。そこに熱海さんがやって来て、隙間から顔を覗かせ「ごめんなさい」と言った。
「あの、ごめんなさい砂映さん。その……秋良を連れ帰ってくれて、ほんとうに、ほんとうにありがとう」
下からまっすぐ見上げてくるその目が、潤んでいる。やっぱりすごく、綺麗だと思う。
「俺、何もしてないし」
「そんなことない」
「灯油を運んだだけ」
「え?」
砂映は口の端で笑って、静かに扉を閉めた。
腕時計を確認すると、十六時過ぎだ。オフィスに戻って、烙吾に押し付けた仕事を少しでも片付けよう。その前に地下の食堂にでも行って、うどんでも食べようか。昼食を、食べ損ねていたし。
ポケットに手を入れて、気がついた。
紅・Aさんに返すべき鍵を、渡すのを忘れていた。
ここで戻るのはなんというか恥ずかしいが、仕方ない。砂映はくるりと踵を返し、はっきりと伝わるように少し強めにノックをした。
しばらく待ったが何の返答もないので、おそるおそる扉を開ける。
全員が、こちらに注目していた。特に総務部長は、射るような視線でこちらを見ている。彼は手元の紙を隠すようにしていた。総務部長と薮芽の間の位置に腰かけた雷夜の手元にも紙がある。見る気はなかったのに、目に入ってしまった。「年棒」という文字と、砂映の年収より一桁多い金額と。
「……あ。ええと、すんません。その、薮芽さん。明日横分に行った時に、これを返しておいていただけないでしょうか。まちがえて持って来てしまったんです」
砂映は薮芽に近づき、テーブルの上に鍵を置いた。
薮芽はにん、と笑って頷く。
砂映はお辞儀をして、すぐさま出て行こうとした。「砂映くん」それを薮芽が呼び止める。
「カスタマーサービス部の座席は、明日設けられるそうだ」
「あ、はあ」
「十月一日月曜日から、晴れてみんなでスタートだ」
「はあ」
「楽しみだねえ」
「はあ」
「楽しみだろう?」
「え、あ、ハイ」
失礼します、と砂映は会議室を出た。
眠かった。家に帰って眠りたい、と思った。
でもそうせずに、座席に戻り、血走った目の烙吾に声をかけ、資料のかたまりを引き取った。
金曜日の夜のコーヒーショップは、そこそこ賑わっていた。ふう、と息をつきながら、砂映はカフェラテをすする。開発第三部最後の一日は、とりあえず無事に終わった。残っていた見積書はすべて提出できた。問い合わせは、ほぼ烙吾が対応してくれた。開発案件は、プロジェクトリーダーに現状を伝えて渡した。保守案件は引継ぎ書を後輩に渡し、「わからないことがあったら電話して」でほぼ済ませた。同じ社内にいるのだから、まあ、何とかなるだろう。いなくたって、いざとなったら何とかなる。
「おつかれさま」
「おうおつかれ」
向かいの席に、涼雨が現れて腰を下ろす。彼女も残業していたらしい。定時の終業時間頃に部員達の前で形だけの異動挨拶をした砂映を、離れた島からにらむように彼女は見ていた。何か文句を言われることを覚悟していたが、特に何か言い出す気配はない。単に注目していただけなのかもしれない。
「来週から、別のフロアなのよね」
「ああ、うん」
「そういえば、辞令の貼り紙が訂正されてたけど」
「へ?」
「カスタマーサービス室、の『室』に二重線が入って、『部』になってた。回覧用の配布まではなかったけど」
「へえ」
よくわからないがこだわっていたから、薮芽部長が変えさせたのかもしれない。総務部所属ではないということになるのか。それによってどう変わるのか。というか月曜から何をするのか。……よく考えると、わからないことだらけだ。
「そういえば、昨日のことだけど」
「はい。ああ、そうだ、涼雨サンのこと毎日拝まないといけないんだった」
「……いいわよ。そうじゃなくて」
まずいなあ、と砂映は思う。話さないことをまた責められるのだろうか。でも昨日のことに関わる事情は自分の辞令どころの話ではなく口外できないことばかりだし、それを伏せて辻褄を合わせて話すのは……だいぶ面倒だ。
「あのねえ」砂映の表情に気がつき、涼雨はため息をついた。「人を鬼みたいに思うのはやめてくれない?」
「へ」
「別に何でもかんでも無理やり聞き出そうと思ってるわけじゃないんだから」
あれ?そうなのか?
でも、この前怒っていたのは、話さなかったから怒っていたのではないのだろうか。
「うん」
「それはいいんだけど。……今日、明水さんが夕方に来られて」
薮芽部長は昼過ぎに先方に行ったと言っていた。ということは、その後にこちらに来たということか。
「手に火傷してた」
「え」
火傷。ということは、雷夜の裏方で魔法陣の制御をひそかにしていた時に違いない。どういった範囲で効力を発揮する魔法陣なのか、砂映ははっきりとわからなかったけれど。瞬間では消し損ねた火が、当たってしまったのかもしれない。
「どうしたんですか、って訊いたら、砂映さんに訊いたらわかると思いますよ、って」
「ええ?」
何を言ってくれてるのだろうか明水さん。
薮芽部長が訪問した後だということは、当然こちらの事情もわかっていると思うのだが。それでそんなことを。
「ええと。何でそんなこと言うかな明水さん」
砂映は目を泳がせる。「その、あれだ、雷夜が馬鹿な実験をしたとばっちりで」
「馬鹿な実験?昨日、横分に行ったのよね。何してたの?」
「何してた、って言っても難しいんだけど」
「なんであんなに明水さんと引き合わせたの喜んでたの」
「そのお、それは、横分に行くつてがほしくて」
「なんで?」
「ええと、なんつうか、その」
砂映が困っていると、涼雨は急に、噴き出すように笑った。
砂映があっけにとられていると、涼雨はくすくすと笑いを引きずりながら言う。
「明水さんが、『訊いたら砂映さん、困ると思いますよ。多少困らせてみたらいいと思いますよ』って言ってて」
な。なんでそんなことを言うのか明水さんは。砂映はぽかんと口を開け、やけに愉しそうな涼雨を見る。何なんだ。それは、何らかの腹いせなのか。
砂映が憮然としていると、涼雨は笑いながら「ごめん」と言った。「昨日、大変だったのよね。おつかれさま」
涼雨はどこまで知っているのだろう。それも謎だ。謎だが、こちらの情報を伏せてそれを聞き出すのはフェアではないし。
「明水さん、『砂映さんによろしくお伝えください』って言ってたよ」
「今さらそう言われても」
「『雷夜くんにいい同僚ができてよかった』とも言ってた」
顔を上げると、ちょうど涼雨の後ろに立った人物と目が合った。砂映はのけぞりそうになった。いつから店内にいたのか。近くにいたのか。まるで気づかなかった。……明らかに、こんな夜のオフィス街のコーヒー店では目立つ風貌なのに。
「え」涼雨が身体をねじるように振り返って見上げる。
今ちょうど名前を出した人物がそこに立っているのを見て、涼雨は絶句した。
「……『風神』の発動は完璧だったから俺に害はなかった。吸引後の『みぞれ』の発動にコンマ一秒時間差が生じる設計ミスが原因だ。『風神』に混ぜ込んだ『海月』だけでは冷却が完全ではなかった。『関取』の数値調整が甘かった」
抑揚のない口調でそれだけ言うと、雷夜は去って行った。トレイの置かれている、少し離れたテーブルに着く。涼雨はそんなに大きな声で話していたわけではないはずなのだが。
「……え、今、よくわからなかったんだけど、何を言ってたの?」涼雨が眉をひそめるようにして砂映に訊ねる。
「ええと、たぶん、明水さんの火傷の原因を説明してくれたんだと」
今のこの会話も聞こえているのだろうか。なんというか……地獄耳?
「びっくりした」
「そうでしょうとも」
「変わってる」
「うん」
「でも、わざわざ教えに来てくれるって……親切?」
「大変親切ですよ彼は」
砂映はカフェラテをすする。「雷夜にとっていい同僚」、その部分に、雷夜は文句をつけなかった。よかったではないか。
「ところで、試験はだいぶ先よね?」
涼雨が砂映の手元を見て、訊ねる。
「まあ、そうだけど」
「なのに今から?」
「うん。もっと勉強しようと思って。勉強は、大事だなあ、と思って」
涼雨が首を傾げる。砂映は魔法技術者試験の問題集を広げていた。書き込んで、真っ赤になっている。魔法の世界は途方もない。信じられないくらい途方もない。けれどすくんでいるわけにもいかない。できるところから、地道に、やっていくしかない。
「がんばってるのねえ」
「がんばりますよ」
「月曜から新しい部署だものねえ」
「まあ、それだけが理由でもないですが」
書き込みを再開した砂映を、涼雨はしばし眺めていたが、「あ」と突然思いついたように大声を出した。
「ねえ、なんか説明するの好きそうだったし、雷夜氏に教えてもらったらいいんじゃないの?」
言ったかと思うと、涼雨は立ち上がった。「こっちに呼んでこようよ」
「え」
砂映の返事も待たずに、涼雨は立ち上がり、雷夜のテーブルへと向かっていった。……すごい行動力だ。
しばらくすると、雷夜はトレイを持って涼雨の後ろから歩いて来た。ごく平然と、当たり前のようにやって来た。照れとかそういうものはないらしい。ちょうど空いたところだった隣の席に涼雨は自分のトレイを置き、砂映の隣に腰かけた。雷夜は砂映の正面に座る。
「おす」砂映はとりあえずそう言ってみる。
「ああ」雷夜はよくわからない返事を返す。
「ええと、この人知ってる?」涼雨を指して、砂映は訊いてみる。
「前に見た」
「……ああ、そうだろうなあ」
「涼雨・Lです」にっこり笑ってみせながら、よくわからないノリで涼雨が挨拶した。
「雷夜・Fです」なぜか雷夜も律儀に名乗る。前に砂映が名乗った時は一向に名乗らなかったのに。
「あれ、砂映さん」
そこに、がやがやと席を立って返却口に集まっていた集団から一人が離れてやって来た。秋良だった。ほんのり顔が赤いのは、お酒が入っているせいかもしれない。いつもどこかしら漂っている緊張感も、今はほとんど見られない。
「あ、今日、部の壮行会だったんです」
秋良はテーブルの脇に立ち、「砂映さん、昨日はありがとうございました」とおぼつかない動きで深々と頭を下げた。それから手前に座った雷夜に初めて気づき、「うわあ」と大袈裟にのけぞった。
「み、みなさんで何をされてるんですか?」
「何っていうか」
なんだろう。砂映にもわからない。というか何でこんなに人が集まってくるのだろうか。
「あっちはもういいの?」
「はい。先ほど解散したので」
「……よかったら、そこ」
席を勧めると、秋良は素直に着席する。
「お二人は、壮行会は別の日だったんですか?」秋良が訊ねた。異動などの場合、普通は壮行会を行う。あまりよろしくない、例えば左遷のような異動の場合は有志だけでひっそりとしたり、まあそれは、状況等によっていろいろ変わってくるわけだが。
「俺は来週」砂映は答える。異動後に壮行会なんて普通に考えるとおかしいが、ありがちなことだ。異動前は何かと忙しい。
「雷夜さんは?」
「……さあ」雷夜は首をひねる。ない、のかもしれない。誰も言い出さなかった場合、それもありえないことではない。
秋良はしまった、という顔になった。「そうだ、新しい部署の発足会もしたいですよね」慌てたように話題を変える。
「雷夜、は酒飲めないんだっけ?」たしか明水さんが、雷夜はお酒が嫌いだと言っていた気がする。砂映がそう訊ねると、しかし雷夜はむっとしたような顔をした。「いや」
「二十歳過ぎてるんだから飲めるわよ」横から涼雨が非難めいた口調で言った。いやちがう、からかいの意味ではなくて、別に普通に訊いたのに。なぜここで悪者扱いされなくてはいけないのか。
「いや、その、あんまり好きじゃないのかと」
「そんなことはない」
なぜか雷夜はがんと言い張る。
「その、明水さんが、雷夜はお酒が好きじゃないとか言ってた気がするんだけど」
悪いのは俺じゃない、とばかりに砂映が言うと、「ああ」と雷夜も納得したようだった。
「明水には飲まないように言われている」
「え?なんで」
「わからない」
秋良と砂映は顔を見合わせた。それはぜひとも飲ませてみなくてはなるまい。
ざわめく店内で、とりとめもなく砂映たちは話した。涼雨はあまり遅くなるのも、と途中で帰った。砂映の手元の問題集が話題に出ることはなかった。ふとそのことに気づき、……とりあえず明日がんばろう、と砂映は問題集を閉じた。
閉店間際に、店を出た。
「月曜から、よろしく」別れ際に、砂映は言った。こんな年になっても、不安と期待がうずくように胸にある。それをごまかすように、殊更に軽く言う。
「よろしくお願いします」
秋良は生真面目に返す。
雷夜は無言だった。そういう奴だと、もう砂映にもわかっていた。全員が解散する駅前で、じゃあおつかれ、と砂映は歩き出そうとした。
その瞬間、雷夜は身体を折り、深々と頭を下げた。
「お、」
砂映も秋良も、思わず呆気にとられて雷夜を見た。
雷夜は姿勢を戻すと、そのままくるりと背中を向け、何も言わずに歩き去っていった。砂映と秋良は顔を見合わせた。そうして、どちらからともなく笑った。
「じゃあなお疲れさん」
「お疲れ様です」
「気をつけてな」
秋良が去り、砂映も歩き出す。駅にはたくさんの人がいた。仕事を終えた勤め人が、これから家路に向かおうとしている。さまざまな人が、さまざまな表情をして、そこにいた。




