1.砂映・Kの異動
「へい。松岡・デラックス・魔法カンパニーです。はあ、お世話になっております」
オフィスの中では机が島をなし、あちこちで電話が鳴る。みながそれぞれに動き回っている。FAXを配る人。伝票をタイプする人。部長席の前で報告をしている人。立ち話をしている人。一心不乱に呪文を書きなぐっている人。魔法陣の下書きをしている人。書き上げた魔法陣を試験稼動している人。呪符を箱詰めしている人。
「へい。え?ちょっと待ってください。ちょっと今仕様書を確認します。……あ、へえへえ。ごもっとも。ん、そうですね、『火柱』はちょっと特殊な魔法なんで、『樹氷』をあわせて、ちょっとその、縦方向の熱量を削ってやらないといけないんですよ。へい。そう。そういうことですそういうことです」
砂映・Kは顎と肩の間に受話器を挟み、書類をめくりながら話をしていた。顔の造形だけ見れば、鼻筋の通ったかなりの男前である。加えて長身でもある。しかしどうにも、二枚目という雰囲気からは程遠い。表情に、精悍さというものがない。
「へい。そう。あ、よかった。へへ。いえいえ。なによりです。そんなそんな。それじゃあまた。何かあったらまた訊いてください。へへ。とんでもない。それでは。ありがとうございます。失礼します」
へこへこと頭を揺らしながら受話器を置き、手にしていた書類を脇に置く。その途端、同じ島の事務職が声を上げる。
「あ、砂映さん。平塚エンジの芽羅さんから、お電話二番です」
「へい」
砂映は電話をとりながら脇の引きだしを開ける。平塚エンジニアリング向けの案件で、質問を受けそうな事項があった。たぶんそれだ。
「お待たせしました。へい。お世話になってます。はあぼちぼち。へい。え?」
あたりをつけて取り出した書類は脇に置き、砂映はメモ帳にペンを走らせる。火ねずみ。くらげ。700トルク。加速結果。
「ええと、試験成績書が手元にあるんですか?その下の欄見てもらっていいです?そうそう。『火鼠』の加速度が30、ああ、そこに『海月』の冷却損失、あ、いえ、その計算式でなくて。魔法動力はそこ、1.5になるんで。そしたらその値になりません?ああ、よかった。へ。へへへ。はあ。え?『つらら』?」
砂映はいったん保留ボタンを押し、受話器を置く。
「烙吾さん、去年平塚エンジさん向けで納入した電動機効率化魔法陣、なんで『つらら』が組み込まれてるのかって質問出てます」
「値の調整で必要だったって答えておけ」
「前にそう聞いたけど、それはどういうことだって訊いてます」
砂映の向かいの席の烙吾は、じろりと砂映をにらみつけた。撫でつけられた黒髪が、整髪料でてかっている。
「あのな砂映。要領のいい応対をするのも仕事に必要な技術だ」
「はあ」
「相手の質問にいちいちくそ丁寧に答えるな。最低限で答えておけ。言ったって、どうせわからないんだから」
「へえ。わかりました」
ぼんやりとした表情で答えると、砂映は受話器をとる。
「あの、ちょっと確認してから折り返しお電話します。あ、いえいえ。ちがいますよそんな。へい、今日中に。了解いたしました。へえ。失礼します」
向かいの席から烙吾は砂映に不快そうな視線を投げる。しかし口を開く前に、また別の電話が砂映宛に回された。「砂映さん。お電話一番です」
「へい。どうもどうも。いやあそうだといいんすけどね。いえいえ。ああ、あのちょっと待ってくださいね。昨日の見積っすよね。そう、そこ、『風神』を『又三郎』にすると、ちょっと安くなると思うんですけどね。効率が違ってくるんで、どっちがいいか、難しいところですよ。そう。そうです。手数的には『又三郎』の方が断然シンプルなんで、楽なんですけどね。『いわし』?いや、『いわし』はここには使えないっすね。へへ、よくご存知で。へえ、たしかに。へえ、そそ。ああ……そ、すんません、ただね。同じ風系ですけど、ちょっと構成要素がちがうんで。へえ。へ?うう……そのお値段だと、完全に出血です……いや、そこの工数は削れません。ご勘弁を。へい。あ、そうっすね。へい。も一度見積……そこ?いえそこはもう。あ、じゃあ熱効率のグラフをつけて送りますんでご確認をば。へい。へい。ふへ。失礼します」
「砂映さん、三番お電話……」
「砂映!」
事務職の女性の声をさえぎるように、烙吾が声を荒げた。受話器を持ったまま次の電話をとろうとしていた砂映は、事務職に軽く頭を下げ、ぱちくりと烙吾を見る。
「あのな砂映。おまえの仕事はおしゃべりじゃないって、わかってるな?」
「へえ」
「明後日据付の魔法陣の詳細設計、あとおまえの分だけなんだけど」
「すんません」
「今日中にはできるんだろうな。おまえのができないと、魔法陣が書けない。万が一遅れたら、プロジェクトマネージャーの俺の責任になる」
「……ほとんどできあがってます。すんません」
「もうちょっと、さっさと電話を切り上げる方法を覚えろ。誰にでもいい顔して丁寧に答えるから、些細なことでみんなおまえに電話するようになるんだ。もう十年も会社にいるんだから、わかるだろいい加減」
「すんません」
砂映は首をすくめ、大袈裟なほどしょげた表情をしてみせた。烙吾はため息をついて手元に視線を落とす。烙吾の視界から逃れたその瞬間、芝居を切り替えるように砂映はすぐさま電話に手を伸ばす。十年も会社にいるので、この程度の裏表はもはや無意識である。
電話攻勢がやっと途切れたのは、定時の十七時半をとうに過ぎ、十九時を回った頃だった。砂映はふうっと息をつく。喉はからから、空腹で目がくらむ。今日は昼食も食べ損ねた。このまま仕事を続けるのは、まずい。
「あ~、烙吾さん。ちょいとコンビニ行ってきますけど、よかったら何か買ってきますよ」
電話が途切れた途端逃亡を図ったと見なされても困るので、言い訳を兼ねて声をかけた。一応、迷惑をかけている身としての心遣いもないわけではない。
他の人が設計した魔法陣の呪文のチェックをしていた烙吾は、ちろりと目だけ上げて砂映を見る。砂映はとりあえず愛想笑いを浮かべる。烙吾は不快そうな顔をしながら手元の紙にすぐに目を戻した。しかしそのまま低い声で言う。
「缶コーヒーのブラックと、なんか激烈に甘いような菓子パン買って来い」
「へい、了解しました」
「あ、じゃあ俺のも頼む。サンドイッチと炭酸」
横から別の先輩が言った。「へい」砂映が快く答えると、
「あの、僕もいいですか。なんか無性にココアが飲みたくて。それと、なんかスルメみたいな」
魔法事典をめくりめくり呪文を書いていた後輩が言う。
「ちょい待ち。覚え切れんそんなに」
砂映はメモ用紙に、言われたものを書き始める。
「あの、じゃあ私もいいですか。たぶん健康食品の棚にあると思うんですけど、カルシウム添加ウエハースと、あと、ビタミン炭酸と」
「……みなさん変わってますね……俺は普通におにぎり食べたい……」
他の後輩や事務職も次々に希望を口にする。ここまで来たら、逆に全員に声をかけないと申し訳ない。あと一人残業している事務職に、砂映は訊ねる。
「熱海さんは何かいるものない?」
ウエーブの髪を揺らして顔を上げ、小さく首を傾げるように砂映をじっと見ると、熱海さんは形のよい唇を開く。
「じゃあティラミスかチーズケーキお願いします。もしなかったら、ヨーグルトとプリン以外で、あんこの入ってないコンビニスイーツのどれかで」
最後にほんのり微笑むと、また手元の書類に目を落とす。
ティラミスorチーズケーキ、×ヨーグルト×プリン×あんこ。
メモを終え、砂映はポケットに手を突っ込んで歩き出す。広いオフィスの中は、昼間と違いがらんとしている。時期によっていろいろだが、ここ数日は、砂映の島の残業率が高い。他の島には残っていても一人か二人。力の入った前屈みの背中に長い髪を垂らしている、二つ隣の島の唯一の残業者は、砂映の同期である。
「涼雨サン。コンビニ行くけど、何かいる?」
「……いらないわよ」
伝票から顔も上げず、険のある声が返ってきた。砂映は首を縮めて「さいですか」と呟き、ぶらぶらと出口を目指す。
今日中と言われた魔法陣の呪文を完結させ、ひととおり魔力を通してうまくできているか確認し終えたのは、二十二時を過ぎた頃だった。砂映の部署で、他に残っている者はいない。フロアの中を見渡しても、三人、四人。その程度だ。
「おさきに失礼します~」
その残っている人たちに何となく声をかけ、返事が返ってきたり返ってこなかったりしながら、砂映はフロアを出た。終電まではまだ二時間ある。このまま帰ったら間違いなく家に着くなり寝てしまうだろう。それを避けるために、砂映は駅の近くのコーヒーショップに寄った。
総務部以外の総合職は毎年受験しなければならない魔法技術者試験。それが一週間後に迫っている。日々進歩する技術についていくためには、勉強を怠らないことが大切だ。試験結果は昇進や昇給に関わる――そして試験結果があまりに悪いと、開発の仕事をはずされることもありえる。下手をすると、解雇コースまっしぐらだ。
テキストをめくりながらカフェラテをすすっていると、断りもなく向かいの席に女性が腰を下ろした。
「おつかれさま」
「あいよ。おつかれ」
涼雨だった。砂映が帰る時には、もうオフィスにはいなかったはずだが。どこか別の場所に寄ってでもいたのだろうか。トレイの上にはコーヒーの紙コップと共に、サンドイッチの包みも乗っている。夕ご飯は今かららしい。涼雨はちろりと砂映に目をやると、
「見てて腹が立った」いきなり言った。
「へ?」
「どうして後輩にまでパシリさせられてるのよ。なにあれ?普通あの状況だったら、後輩の誰か一人くらい、僕も一緒に買いに行きます、って言わない?先輩がメモとって全員分の買出しに行って、がさがさと袋持って帰ってきて、なんとも思わないのあいつらは」
なんだか彼女はいつも怒っている気がする。砂映は小さく首を縮めた。
「あ、でもさ、金は全員ちゃんと払ってくれたし」
「そういう問題じゃないのよ」
「そういう問題じゃないのか……」
「どうしてそう、あなたは腰が低いのよ。図体でかいくせに。なんで怒らないのよ」
彼女はなんでいつも怒っているのだろう。砂映にとってはそちらの方が不思議だが、そんなことを口にしたらますます怒られそうだ。
「すんまそん」
「なんで謝るのよ」
「いや」
「私に謝られても困るわよ」
「すんまそん」
涼雨はむうう、と不本意そうに砂映をにらみつけた。
砂映はぽりぽり頭を掻き、とりあえず、テキストに目を戻す。
「なあ、子どもの頃……魔法使いに憧れたりせんかった?」
数問解いて、もはや脳が働く気を失っているのに気づき、砂映は口を開いた。正面に座り黙ってサンドイッチをかじっていた涼雨が怪訝な顔をする。
「俺はさあ。時計を分解して中に組み込まれた魔法陣に目の色変えるような子供ではなかったんだけど……お話の中の魔法使いにすごく憧れてたわけですよ。就職のこと考えてる時にふっと思い出して……ちょっと関われたらいいな、って軽い気持でこの会社受けた」
「ああ。あなた、たしか法学部だったわよね。大学で魔法学んだわけじゃなかったんだっけ」
「そ。だから総務部に入るはずだった。まさか開発部署に回されるなんて思ってもなかった」
「でもそれで何だかんだで開発の仕事続けてるのはすごいんじゃないの?」
「だって、使えないからクビ、って初日に言われたから。魔力だってぎりぎりだけど、それはどうしようもないし。死ぬ気で勉強しましたよ。今も毎日死ぬ気ですよ」
「ふうん」
「……なんかでも、ふと思うわけですよ。あんな、子どもの頃憧れた魔法使いにはほど遠いし、そんな魔法使いはどこにもいないんだな、っと」
「どんな魔法使い?」
「そりゃ、手からごおっと炎出して一瞬で悪者を倒したり。手を地面にかざしたら大地が一瞬で凍って、敵を全員足止めしたり」
「普通に考えて、まず日常に『悪者』やら『敵』やらはいないでしょ」
「いや、そうなんだけど」
「なに?暴力に飢えてるの?」
「そうでもなく」
「なんなの?」
「なんていうか、その……困難な事態を、こう、一瞬で鮮やかに解決するような、特別な力、みたいなものに……憧れたんだ」
砂映はカフェラテをすする。塩が入っているはずはないと思うのだが、ミルク部分がほんのりしょっぱいような気がする。
「でも、魔法を構築して、お客さんにとってより便利なもの……事態をよくするものを作る……んだから、同じでしょ。私はうらやましいわよ」
「同じ、ねえ。お客様のご要望に沿って呪文組み合わせて魔法陣書いて……要件を満たすものができていたら、それでいいんだけど……なんだろう。なにか、こう」
「仕事、いやなの?」
「え?」
「そういう、考えても仕方のないことをうだうだ考えるのは、逃避だと思う」
「考えても仕方のないこと」
「うん。ちがう?」
「そっか。そうなんかな……」
砂映は視線を遠くにやる。
三十も過ぎて、今の自分は一体何をやっているんだろう。
子どもの頃は、三十過ぎなんて、もう十分すぎるほどの大人に見えていたのに。
視線をふと遠くにやった砂映は、そこで「あれ?」と目を止めた。オフィス街の中にある、午後十一時近いコーヒー店。店内にいるのは、会社帰りらしいスーツ姿の男や、OL風の女性たちばかりだ。だがそんな中、中学生くらいの少年が、一人ぽつんと席にいる。
「あんなところに子どもがいる」
砂映が言うと、涼雨も振り返ってそちらを見た。すぐに砂映の方に向き直ると、
「何言ってるの?」涼雨は呆れたような顔をした。
「え?まさか……俺にだけ見えてる?」
幽霊?幻覚?不安に駆られた砂映をよそに、涼雨はため息をつく。「違うわよ」
「じゃあ……」
「あれ、うちの社員よ」
砂映はもう一度その少年、いや、少年にしか見えない男を見る。黒いTシャツに、黒いジーパン姿。……確かに、砂映の会社は私服勤務可だ。いつ客先に行くことになるかわからないので、総務部や退職間際のご隠居たちを除くと男性で私服勤務している者などごくわずかだが。……が、そういう問題ではない。だってどう見ても中学生だろう。高校生、といわれても、ちょっと疑うかもしれない。あまりにも、童顔すぎる。あんなまっさらな顔の大人の男がいるものか。
「……ええと、誰かの子どもが特例で入社したとか?」
「馬鹿」
なんとかつじつまをあわせようと捻り出した解釈は一蹴される。
「ええと、本当に、普通に社員?」
「あなた新年会での新人紹介、覚えてないわけ?」
「……覚えてない」
自分の部署に入る新人ならともかく、直接かかわる予定もない新人の紹介など、真面目に聞いたためしがない。
「普段は見てなくても、あの年は結構話題になったのに」
「なんで?」
「なんでって、今のあなたと同じよ。なんで中学生がいるんだってことで、みんな壇上に大注目したのよ」
「やっぱり中学生なんだ」
「ちがうわよ。本人もわかってるんだわ。自己紹介の時、わざわざ生年月日を言ったもの。出身大学も普通に言ってた。確か今年で入社三年目、二十五のはずよ」
「にじゅうご」
まじか。まじなのか。
「だけどおかしいな」驚きを隠せない砂映を尻目に、涼雨は首を傾げる。「なんでこんな時間にこんなところに」
「そりゃ、俺たちと同じように残業してたんでないの」
彼が社会人だということも、さらに同じ会社だということも信じられないが、少なくともそこが事実なら、当然ここにいる理由は明白だろう。
と、砂映は思ったが、涼雨は首を振ってみせる。
「彼、今、仕事を干されてるはずなのよ」
「へ?」
「というか、入社したての実習期間の後、まともに仕事を与えられていないはずよ」
「……ええと、なんで」
「平たく言うと、嫌われてるから」
そんな理由で仕事を干されてる?二年以上も?
「そんなことがまかり通ってんの。というか、なんでそんなこと知ってんの」
「事務職の情報共有を甘くみないことね。それに私、技術第一部だし」
技術第一部というのは、魔法陣設置の際に「エネルギー源」として嵌め込む「石」、すなわち賢者の石を扱う部署だ。人の魔力を使わなくても賢者の石があれば魔法を稼動させ続けることができる。同業他社も似たような働きをするものを販売しているがそれらは厳密にはすべて異なり、製法はどれも企業秘密となっている。自社の魔法陣に組み込むのは大抵どこも自社製の賢者の石だし、石の交換も普通は技術者が出向して行うので、技術第一部の取引はほとんどが社内売である。当然社内の人と広く面識があり、情報が入ってきやすいのだろうが……それにしても。
「……正しいことだとは思わないけど、ちょっと仕方ないかも、っていうのが大方の見解よ」
怖いなあ。自分の情報もそんな風に出回ったりしていることがあるのだろうか。そう思ったが、何となく恐ろしいので砂映は慌てて考えを自分の中で消去する。
「仕方ないって、なんで。そんなに使えないの?」
「使えない……って言ったら使えないかも」
「部署は?」
「開発第一部」
開発部署の中でも、大規模案件や新規開発を手がけることが多い、花形部署じゃないか。
「干されてるのにずっとその部署?普通使えないなら異動とか。それでも使えないなら総務部異動で、それでも駄目なら『自主退職』ってのがうちのお決まりコースなんでないの」
「そうだけど。能力はあるから」
ますます意味がわからない。
「能力ある?のに干されてんの?」
「嫌われてるのよ」
「いや、会社ですよ?」
確かに人は好き嫌いで行動する。しかし誰もが認めるほど能力があるなら、通常は上の誰かが何とかするだろう。部署に在籍するだけで、人件費は発生する。定年間近とかならまだしも、二年目や三年目の若手をそんな風に遊ばせておくなんて、聞いたことがない。
「だいたい、使えないのに能力はあるって、なんでわかるの」
砂映が訊ねると、涼雨は人さし指で砂映のテキストを指さした。「それ」
「え?」
「魔法技術者試験。毎回、ほぼ満点だって」
「ええ?」
それはいやだ。そんな奴はいやだ。
砂映は顔をしかめた。魔法技術者試験は、合格不合格ではなく、点数制だ。千点満点だが、千点採る人間なんて、全国でもいるかいないかのレベルのはずだ。大学で魔法を学んだ者の、卒業直後の平均がおよそ四百点前半、仕事として魔法に携わる人間は、とりあえず五百点後半から六百点台を目指して勉強する。砂映は一度も六百点に届いたことがない。五百五十点を下回ると、ちょっと技術者としては低レベルと見なされる。万が一五百点を下回ると、魔法技術者としてはちょっとやばい。そんな試験だ。
「な、それは、なんというか、知識だけあるというか……魔法マニア?」
「まあ、マニアにはかわりないと思うけど。すごくきれいな魔法陣を書くんだって」
「魔法陣にきれいも汚いもあるかい。発動すればいいっしょ」
「そう?よく知らないけど。魔法文字って汚いと発動しないんでしょ?」
「ええと。発動しないほど汚い魔法文字を書く魔法技術者はいないと思われる」
「言ってた子も詳しいわけじゃないけど。何となく、シンプルで、きれいで、気持のいい感じのする魔法陣なんだって」
「あのさ。決まったとおりに線引いて、線の間に設計どおりの文字を埋める、そんだけですよ?」
「何むきになってんの?」
長い髪をかき上げながら、涼雨が言った。
砂映ははっと我に返る。
むきに?なってる?
「……別にむきになってるわけじゃありませんよ」砂映はぶつぶつと口の中で言う。「まあさ、俺もよく知らない時は、何かこう、魔法陣って模様みたいな感じするから、きれいとかごちゃごちゃして汚いとか、思ったことありましたよ、そういえば」
「きれいな方が、やっぱりいいんじゃないの。どんなものでも」
「素人さん考えですよ。関係ない」
「何よ急にプロぶって」
そうこうしている間に、件の「少年」は先ほどの席から姿を消していた。能力あるのに仕事干されている、それはつまり、余程厄介な性格とか、そういうことなのか。
「そういえば今度、新しい部署ができるって噂が……」
話を変えた涼雨に視線を戻しかけ、砂映はおう、と軽くのけぞった。涼雨の後ろを、その黒い服の「少年」が、今まさに通り過ぎようとしていた。近くで見ると、ますます二十歳を過ぎた大人には見えない。あどけないつるんとした顔。やけに大きな目をしている。が、そんな幼い造形にも関わらず、なぜか妙に冷たい印象がある。黒い服のせいなのか。変に作り物めいた顔つきのせいなのか。
「!」
凝視していたので当然といえば当然だが、目が合った。真っ黒い深淵のような目が、まっすぐにこちらを向いた。砂映はばつの悪い思いにかられながらも、同じ会社なのだし、と笑みを浮かべて会釈した。しかし相手はにこりともせず、そのまま目を落として砂映の手元を見た。〇より×が遥かに多い、書き込みで真っ赤になった魔法技術者試験テキスト。
「……凄まじいな」
眉をひそめて少年は呟いた。砂映の笑いは思わずひきつった。そのまま少年はふっと視線をはずすと、出口に向かってすたすたと歩いて行った。
「今のって、褒めたわけじゃないわよね……?」
涼雨が言った。
砂映はがっくりとうなだれた。
その日は朝からさんざんだった。魔法陣の、砂映の設計した部分にミスがあり、その修正が他の人の担当部分にまで影響をおよぼすものであったため、砂映のせいで全体の工程が大幅に遅れることになった。砂映はひたすら謝り倒した。そうして、数日前に受けた魔法技術者試験の結果も返ってきた。
「げ」
砂映は目を疑った。……四百二十二点?
確かに今回、あまり勉強する時間がとれなかった。前日は早く寝ようと思ったが、妙に目が冴えて眠れなかった。与えられた条件で魔法陣を構築する実践的な問題が大半だから、ちょっとしたうっかりが容赦なくマイナス点になる。しかし。
五百点なかったら、魔法技術者としてはちょっとやばい。
四百点台の前半ともなると。
「どうでした?」
後輩が覗き込むように訊いて来た。砂映は慌てて通知の紙を握りつぶす。「ああ、いやあ、はは」
「やっぱり今回も駄目でした。五百五十点の壁はきついっす」
「そっか」
「砂映さんは六百ありました?」
「いや……」
「仕事で経験積んだつもりになってても、点数は伸びないものなんですね」
「はは。仕事で得る知識と試験は別物だからなあ」
「でも、査定にかなり影響するんですよね」
「え?うん、まあ、うちの会社の制度はね。うん」
いやな汗をかきながら話していると、部長に呼ばれた。
「ちょっといいか」
その場での話ではなく、会議室に連れて行かれた。
扉を閉めると、まあ座れ、と促された。きっちりネクタイに七三分けの部長は、当然部内全員の試験結果を把握している。
「ひどい点数だったね」穏やかに、部長は言った。
「申し訳ありません」
とりあえず謝りつつ、考える。点数が返ってきたのは今日だ。いくらなんでも今日の今日で、開発部署をやめてもらうとは言わないだろう。いくらなんでもまさか。
「実はね、君に異動の話がある」
「え」
そのまさかなのか?
さすがに砂映は全身の血が凍りつくのを感じた。
「あ、いや、点数が悪かったのは関係ないよ」
部長はとりなすように言う。いや、でもじゃあ今回の試験以前に、すでに能力に問題があると見なされていたと?
「そ、総務部ですか?」
ついに開発部署ではなくなるのか。
いや、元々総務部に入るはずだったのだ。今さらと言う気もするが、総務部で役に立つ人材になれれば、それはそれでいい、はずだ。いい……本当に?
「確かに総務部だ。けど、君の考えているのとはちょっとちがうよ」
諭すように部長は言った。
「新しい部署が作られる。部署というか、チームだね。とりあえずは総務部所属という形になるが、今後どうなるかはわからない。実験的なチームだから」
「実験的」
「まだ詳細は言えない。というか、決まっていない。とにかく来週あたりに辞令が出る。とりあえず今は、それだけ言っておく」
「ああ、それってカスタマーサービス室のことじゃない?」
人事に関することは基本的に辞令が出るまで口外禁止だ。砂映は自分が異動ということは伏せて、総務部に新しいチームができるらしいけど、と話を振ってみた。いつものコーヒー店。向かいに座った涼雨はこともなげに新部署の名前を口にした。なんなんだ、涼雨はどれだけ情報通なのか。それとも事務職の情報網とやらで、すでに出回っていることなのか。あるいは周知のことなのか。社内の情報に、自分が疎すぎるだけなのか。
「か、かすたま?」
「おっさん臭い言い方しないでよ」
「いや、なんか小じゃれてて恥ずかしいっつうか。きれいな声のオペレーターのお姉さんとか出てきそうな名前じゃないですか」
「出てくるのかもしれないじゃない」
出てくるのかもしれない。はじめだけ。裏に控えているのは、崖っぷち総合職のおっさんですが。
「あ……どんな経緯でそんな部署が作られることになったのか、って知ってる?」
「ああ、なんかね、社長が推し進めたらしいよ。各開発部署にまかせていると、やっぱりクレームフォローはおろそかになりがちだ、って。売った後にもちゃんと責任を持ってフォローする体制を整える必要がある、とか言って。まあ、もともとそういう部署が必要なんじゃ、っていう声はところどころから上がってたらしいけど」
社長がそんな風に。
ということは少なくとも、使えない技術者の掃き溜め……もとい、受け皿として作った部署ではない、と思っていいのだろうか。
「でも、私にはよくわからないんだけど、そもそも保守メンテナンス契約範囲だったら納めた開発部署が対応するはずなのに、どうやって線引きするのか疑問だ、って意見も聞いた」
「あ……それはたしかに」
「なんか微妙な感じらしくて。現実的にはどの開発部署も戦力を手放したくはないだろうし、なんか結局いらない人の集まりになるんじゃないか、って聞いた」
……社長の理想はともかく、やはり結局はそうなのか?
そうして「あっても意味ないな」と部署を閉鎖するに伴って、メンバーは全員「自主退職」願う、というパターンか?
「……なんでそんな難しい顔してるの?」
「あ、いや別に」
「そういえば試験どうだった?」
「のーこめんと」
「……大丈夫?」
「のーこめんと。……その、誰がそのチームに入る予定かって、知ってる?」
「さすがにそこまでは。あ、でも」
涼雨はさすがにためらう様子を見せて、砂映に顔を近づけるようにして声を落として言った。
「ここだけの話ね。社長の甥っ子がそこに入る、っていう噂は聞いた」
……ああ。
社内に社長の甥がいる、というのは、伏せられているが、もう公然の秘密のようになっている。ただし、誰が、ということは砂映は知らない。
「知ってんの?誰がその、社長の甥っ子なのか」
「ううん、それは知らない」
さすがの涼雨も、そこまではつかんでいないらしい。
「でも、ということは部署閉鎖に伴って自主退職パターンはないってことか?」
思わず口に出して言ってしまい、涼雨がきょとんとした顔で砂映を見た。
「あ、いや。新しい部署作って、その閉鎖の時にメンバーの大半も退職する、ってパターン、今まであったから、今回もそれかと」
「ああ……うん、やっぱりそうなるんじゃないの」
砂映の気も知らないで、涼雨はあっさり言う。
「いや、えええ?社長の甥っ子いるなら、そんなことしないでしょ」
「そう?これは私が考えた説じゃないけど、社長の甥っ子が誰なのかいまだにわからないのって、なんでだと思う?」
「へ?それは、特別扱いされないように、っていう社長と本人の意向でしょ」
「入社当初はそうだったと思うわよ。でも、仕事をする上で、たとえばお客さんの信頼を得るとか、関係会社とやりとりする上で、社長の甥ってことは、すごく有利になるはずよ。だから彼が入社してたぶん三年か四年が経ってるはずだけど、ちゃんと仕事できているなら、そろそろ明かしたって、マイナスにはならないと思う」
「それはつまり……」
「ちゃんと仕事できてないから、明かせないんじゃないかって」
たしかにその線は、ありうる。
「今の上司はいやでしょうね。社長の甥っ子を退職に追い込むようなこと、したくないんだと思う。総務部への異動さえさせづらい。でも、社長が提案した新規部署への異動なら、全然問題ないじゃない?そこの上司は自分じゃないし」
「『そこの上司』は誰になるか決まってんの?」
「さあ。たぶんみんないやがって、なすり付け合ってると思うけど」
そうか。誰も座りたがらない椅子なわけか。
その上司の下で、自分はこれから働くことになるわけか。
「ふふふ」
「どうしたの?」
「いや、なんでも」
砂映はカフェラテをすする。
なんだかやはり、しょっぱく感じた。