第九話
エデン十七位階、従三位にある男、デュランダルは、万全の準備を整えてきた。フルプレートの鎧に、背に相棒の聖剣を携え、丁寧に巻かれたカイゼル髭を撫でている。威厳ある歴戦の強者の姿である。
眼前の状況にデュランダルは愕然とした。二ヶ月前、北部平原に名状しがたきものが大挙し、その地が陥落したという報があった。しかし異形の肉塊は以来その侵攻を留めていたため、危機度の低下を判断した王は、このときまでデュランダルの派遣を遅らせたのだった。だが、今自分の目の前にあるものは何だ。東西に伸びる長大な壁。遠目にその壁の表面が蠢き、近くを飛ぶ鳥に向かって触手を伸ばし捕食したように見えた。送った斥候部隊が一人として帰ってこなかったのはこのためか。しかし、そんなものより、あの壁の向こうだ。大人の背丈十人分はあるだろう壁の向こうに見えるソレ。巨大な、それは巨大な、空を覆うほどの肉塊が横たわっていた。
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「ルール2、何事にも例外は存在する」
ロキは道化師帽を脱ぎ、白い長髪を垂らして、浮遊する玉座に腰掛けている。その足元にショゴスが擦り寄って、フットマッサージしている。程よい温感と、包み込まれるような感触がたまらないのだそうだが、正気値が削られることは間違いない。テケリ・リと鳴きながら別の肉塊が辰巳の足元に寄ってきたが、引きつった顔で丁重にお断りした。
陥落させた北部の砦の最上階、あのトマト司令官が居室にしていたであろう部屋で、辰巳とロキは喫茶を楽しんでいた。窓から見える景色は、辰巳の見慣れた風景だ。ネオンで彩られた大路に客引きがたむろし、真っ直ぐに伸びる道の先に建つタワーの側面には「Inspire the next」の文字が輝いている。
「なんで通天閣なんだよ…」
「え、新世界を思い浮かべたら、この風景が出てきたんだけど」
通りは酔客でごった返している。その中に、北部会戦の際に幕舎で対峙した連中の顔を認めて、辰巳は顔をしかめた。千鳥足で歩く人間は一様に口の端からよだれを垂らし、視線は虚空をさまよっている。完全に正気を失っているのだが、客引きの肉塊が足元に擦り寄ると、パッと目に生気を取り戻し、喜びながら、通りの店の中へと消えていくのだ。
「なんだよ、あれ…」
「え、ああいう女の子が流行ってるんじゃないの」
街頭に備え付けられたスピーカーからはドヴォルザークの交響曲第九番が大音量で流されている。
「皆、楽しんでくれているようで良かった」
満面の笑みを浮かべる道化師に、辰巳は返す言葉が見つからない。こいつの狙いは一体なんだ、何をしようとしている。辰巳の疑いに、ロキは答えた。
「信仰をね、集めないとさ、何もできないじゃない」
ロキの言うところの例外、神が人間に対して直接的に介入する手段。そのためには、行動に応じて信仰点とやらを消費するのだという。君の体だって、僕が信仰点を消費して用意したんだよ?と、ロキが恩着せがましく言ってくる。
「僕はね、遊興の神だから、ああやって僕が用意したものの恩恵に浴して、皆が遊んでくれると、それが信仰という形で僕の力になるわけ」
遊んでる…のかどうかはかなり怪しいが、話の大枠はつかめた。思った以上に順調だよねー、やっぱりクトゥルフ萌えは間違いなかったよ、とロキが嘯く。
「エデン側の神格者はまだ来ないみたいだし、タツミ君も準備万端って感じじゃない」
辰巳は手中のトランプを激しく混ぜあわせて、床に放り出す。広げられた五十三枚のトランプを、端からめくっていく。神経衰弱だ。♣K、♠K、♥K、♦K、♣Q、♠Q、♥Q、♦Q、♣J、♠J…
ドヴォルザークの静謐な第二楽章が終わり、第三楽章が流れ始めた。辰巳の手が淀みなく動く。五十二枚のトランプを開ききり、最後の一枚、JOKERが表に返る。パーフェクト・ゲーム。
うんうん、いいねいいね、とロキがにこやかに揉み手する。周囲のショゴスもテケリ・リと歓声をあげた。ろくでもねえ仲間だ。
◆
デュランダルは壁の真下までやってきた。突然、壁の一部がへこんで穴が広がった。そこから、黒髪の男が出てくる。生存者か?だが、どうにも様子がおかしい。北軍の制服では無い。不思議な光沢を放つ黒鎧の男は、こちらに近づいてくる。
「おれは遊興神ロキの使者だ、あんたと交渉がしたい」
男はこちらに向かって、ドスの効いた声で投げかけてきた。ロキだと?初めて聞く名前だ。そもそも神と言ったか。主神ウラノス以外に、神はおらぬ。異端の邪教の類と交渉する必要はあるまい。
デュランダルは自らの名を冠した剣を抜き放つと、両手で握りこみ、上段に構え、振りぬいた。
デュランダルは聖剣である。善悪正邪の別を判じて、邪悪に傾くものを割断する。何者にも遮られず、決して折れることのない破邪の剣である。故に、デュランダルが自らの正義を確信して振りぬく刃は、あらゆる事象を切り裂いてきた。
振りぬかれた剣閃は伸長され、異端の教徒である黒鎧の男、そしてその背後に蠢く異形の壁と、不気味な肉塊をまとめて切断しようと迫った。
「判定、致命的失敗」
いつの間にか間合いを詰められていた。聖剣の刀身は男の右手に握りこまれている。聖剣が割断に失敗したという事実に、デュランダルの目が見開かれる。その隙を見逃さず、男は捻りこまれた上体の影から左拳を突き出した。デュランダルの腹部に拳がめり込む。だがたかが拳だ、高密度の魔力体で構成された我が現身に傷ひとつ与えることはできまい…
「判定、絶対成功」
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辰巳の拳の触れた部分がパリパリと音を立ててひび割れる。紙を割くように敵の腹に左拳がめり込んでいく。何重にも張り巡らされた魔防結界を、難なく破り捨てて、辰巳はデュランダルの魔核に指をかけ、引きぬく素振りを見せた。
「おいアンタ、おれはただ交渉したいだけだ」
辰巳が声を荒らげた次の瞬間、辰巳の背後の壁から無数の触手が飛び出し、失神した敵の四肢に絡みつく。力の抜けた身体をバラバラに引き裂いて、その残骸はあっという間に壁に捕食されてしまった。
頭上から拍手が鳴った。名状しがたい壁の上に、ロキは玉座を設え、辰巳の戦いを観戦していたらしい。壁が聖剣をもしゃもしゃと食べ、テケリ・リと鳴いた。
ロキの与える加護は「幸運」だ。それはただの幸運に過ぎない。だが、現世に顕現し続けることの難しい異形の者たちがロキの領地の内では、生き続ける。正邪を判別して割断する聖剣が、その判断を誤る。何重にも張り巡らされた防御が、何も無かったかのように破られる。
それらを可能にしたのは、ただの「幸運」だ。確率を判定し、都合のいいように賽の目を振り直す、ペテンの加護だ。
「この髭だけ、エデンに送っておこうね。次は多分、交渉に応じてくれるだろう」
ショゴスの口から立派なカイゼル髭が、半ば融かされて吐き出された。ロキは満足気に髭をつまみ上げ、悪趣味な視線でそれを舐めまわした。
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明滅するネオンの下を、片髭の男が千鳥足で歩いている。その目は虚ろだ。全身をぶるぶると震わせながら、だらしなく口を開けて多幸感に酔っている。男の脚を、何かが掴んだ。目の端に捉えたものは、妻と娘の姿。その瞬間、爽やかな香気が漂って、男の頭をスッキリとさせた。大路から伸びる路地へ、男は故郷へと帰るかのような足取りで消えていく。
その背に、ドヴォルザークの第四楽章が、フィナーレを鳴らしていた。