第五話
たった百年、されど百年ぶりの食事だ。老竜は喝采を叫び、年甲斐もなく黄金の魔核にむしゃぶりついた。この何たる滋味よ、小娘に癒着して取り込まれかけていた己の魔核が、最盛期の脈動を取り戻していくではないか。美味し!美味し!
琥珀竜は「天園」で最も高い古樹の頂上に巣を張り、満足気にうむうむ、と頷きながら獲物を貪っていた。それまでは体躯を少女に合わせて縮めていたが、楔から解き放たれた姿は威厳ある空の覇者、竜王と呼ぶに相応しいものであった。
竜骨山脈の頂上を根城に、眷属を養っていた琥珀竜グランは、百年前、その身を炎剣に焼かれたのだ。
忘れもせぬ。赤髪の女をひと目見た瞬間に危険を察して巣に引きこもっていたが、あろうことかあの女は山をまるまる一つ磨り潰し、巣を丸ごと焼き払ったのだ。かき集めた宝物も、空を共にした眷属も、何もかもご破産にしてくれおった。今もなお魔核に刻まれた火傷の痕が疼いて仕方ない。業腹なことだが、「あれ」には勝てぬ。
傷ついたグランは東海を渡って「天園」に墜落した。そこに「エルフ」がいた。狡猾な老竜は力ない羽虫の如く振る舞った。人のよい長耳族はこの異邦の竜を受け入れて、彼のために休息の地をこしらえた。耄碌した好々爺のように振る舞いながら、竜は抜け目なく彼らを観察していた。
竜ほど強欲な種はいない。彼らは光物が好きで、珍しい物が好きで、とりわけ魔力を秘めた物が大好きで、そして、それを、自分の物にせずにはいられない。それは何もグランに限ったことではない。眷属を養うだけの度量を持っていたのだから、彼は竜種においては「比較的」善性に寄っていたと言えよう。それでもその本能に根ざした貪欲さは、人間のそれに比肩した。
「天園」の生物は皆、その身に魔核を宿している。グランはその事実を知って、じゅるりとヨダレを垂らした。大気に漂う魔素を取り込んでいるうちに、体内で石が生まれるように形作られるのが魔核である。西の大陸で、魔核を持つ、などというのは、呼吸器官が特殊か、意識的に魔素を取り込む訓練を受けた魔術師のいずれかしか無かった。なるほど、この地は魔素が濃いのだ。しかしどうにも自分には合わぬ。呼吸をするたびに肺を汚されているかのような感覚を覚える。では、直接魔核をいただいてはどうだ。この え る ふ とやらは、実に食い頃ではないか。そして何より、美しい。
「のう、巫女どの、ワシの側女として仕えぬか」
銀髪の女の腸を弄びながら、老竜が囁く。熱で固着した傷痕のある歪んだ爪で、真っ白な腹部をさすってやる度に、女は顔を歪めて息を漏らす。激痛を感じているだろうに、健気に声をおさえる様は、大変に趣深い。その背後では九鞭の尾が、それぞれ別の生き物のように忙しく跳ね回り、エルフの村を陵辱していた。もはや悲鳴をあげる者すらいない。男どもを串刺しにした一尾を口元に寄せて、グランは竜の本性を剥き出しに、呵呵と笑う。尾から伸びた逆刺で、獲物をぐにぐにと搾っては、流れだした血を舌で味わう。改めて女に向き直って、グランは邪な契約を持ちかけようとした。が、女の目に先ほどまでの生気が無い。尾に串刺しにされた男の一人に、虚ろな視線を投げかけているだけだ。その意味を読み取って、竜は嘆息した。
「はあ、つまり、此奴はそなたのイロか」
つまらぬ、と言い捨ててグランは串を丸呑みにした。ああ…と女は初めて声をあげた。巨大な竜の顎、剣の如き牙の隙間から、男の声が漏れた。
エレンミア…
己の口中で、女の名前を呼ばれた竜は激昂した。ぐじゃりと乱暴に噛み合わせ、咀嚼して、かつて男だったものをエレンミア、と呼ばれた女の身体の上に吐き出した。気丈に振舞っていた女の目から、涙が滂沱として流れ出す。興が削がれたわ、巫女の分際で何たる好色な、などとグランは喚き散らしたが、女の耳には入っていない。爪先に引っ掛けて、女を乱暴に投げ捨て、残りの尾にかかった獲物に向き直った。
エレンミアは腹部を気遣いながら、背後の竜に気付かれぬように、そっと惨劇の場を後にする。出血の量は、それほどでもない。ただ、ああ、アグラミア、太陽の如く笑う私の恋人。血に濡れた身体を抱いて、彼女は地を這い進む。吐き棄てられた男たちの残滓の中に、確かにアグラミアのそれがあったのだ、と、彼が身につけていた真珠の耳飾りが物語っていた。
淡々と味気ない食事を終えて、グランはふと巫女のことを思い出す。引きずられた血の跡が、逃げ出した女の行く先を教えていた。もはや女に興味はないが、竜の目は一度見出した宝を逃したりはしない。べっと口中から、真珠の耳飾りを吐き出して、つがいを象った物が片割れしかないことに憤慨した。宝物に手をかけて持ち逃げした罪人を、許す道理はない。未だ眷属を使役するだけの力は戻っておらぬ、億劫ではあるが、自ら血痕を追わねばならん。おおそうだ、あの美しい銀の髪を己の琥珀に漬けて、鬣の一部に加えてやろうと、口角を吊り上げた。
しゅるしゅると、意思を持った九鞭の尾がエレンミアの腿を絡め取ろうと追いすがる。竜はどうやら狩りの真似事で遊んでいるらしい。彼女が崇める神の祭殿には、強固な石室があり、ひとまずはそこに逃げ込もうという算段であったが、そこまでは辿り着けそうにない。苔むした遺跡の入り口を前にして、エレンミアの脚に、琥珀の蛇が噛み付いた。前のめりに倒れながらも、彼女は身体を丸めて衝撃を逃がそうとする。腿の内、皮膚を裂いて入り込んだ尾が、細く形態を変えてのたうち回る。
「これがそなたの仕える神の社か」
竜の声に、金属音が混じっている。魔素を取り込んで回復し始めたのだろう。力無く振舞っていた羽虫の面影は微塵もない。エレンミアは地に爪を立て、少しでも遺跡に近づこうと這い寄った。ああ、神よ、この時になって、初めてあなたに心よりお仕えする覚悟を致します。不心得な巫女でございました、捧げるべき供物を何一つ持たぬ巫女でございました、ですが神よ。今一度、我らに恩情をお与えくださいませんか…
「この子に恩情を賜えくださいませぬか!」
エレンミアの叫びが深緑の森にこだまする。返らぬ答えに屈せずに、巫女はまだ進んでいく。
「ふぅむ、この女、狂うたか。命乞いをする相手を間違えてはおらぬかな」
ざくざくと、さらに二本の尾がエレンミアの脚を地に縛り付けた。巫女は喘ぎすら漏らさぬ。脚を裂かれながらも、一心に祭殿と思しき遺跡へと這いずっていく。感心なことであるが、芝居がかり過ぎだ。グランは鼻白んで、この遊戯を終わらせようと決意した。するりと、鍛え上げられた剣の如き一尾を抜き放つと、巫女の首筋を一閃した。見事な一太刀であった。ぽとりと落ちた首が前方へ転がり出て、ひとつ、ふたつと回って遺跡の入り口を越え、祭殿の闇へ消えた。静寂のなか、残された身体に近づきながら、ふと気づいたのだ。この女、先ほど、この子、などと口走ったか。外見からは判断しかねたが、よもや身重だったか。確かめようと爪を上げたとき、異様な気配を感じて竜は身をこわばらせた。
落とした首が、女の顔が、充血し見開かれた目が、遺跡の闇の中に浮いていた。遅れて男が現れた。エレンミアの首を抱えた、黒髪の男。相貌に生気は無く、乾き切った肌に、痩けた頬、骨張った鼻は高く、美丈夫であった面影を僅かに残している。
竜は一目で、「これ」が人ではないと見抜いていた。エルフの祖先の霊神の類でもない。何より男の身なりに既視感を覚えたのだ。黒髪の美丈夫、継ぎ目の無い黒鎧、そして腰に下げられた黒剣。あれは自分が勇者と取引した破剣に相違ない。だがそれは遠い過去の話だ。ここにいる者が勇者であるはずがない。何よりあの快活を信条とした男と、目の前にいる幽鬼とが一致せぬ。怖気に震えながら、竜は威厳を保とうと言葉を発した。
「貴様、その剣をどこから掠め取った。下賎な盗賊ごときが触れられる代物ではないぞ!」
男は空気を震わせて、しゅーしゅーと音を紡いだ。竜の眼が驚愕に歪んでいく。竜語を解する眼前の男が、確かに己の知る勇者に相違ないと思い知らされた。男は続けて、グランに償いを要求した。自らの庇護する巫女が、命を供物にお前に呪いをかけたのだ、という。知古の唐突な要求に琥珀竜は当惑したが、それが嘘ではないと思い知らされた。体が大地に癒着し始めていたのだ。
「なんだこれは、お前の仕業か、勇者よ!」
「違うと言っても信じまい。それにおれにはもう、そんな力は無いのだ」
「否、否、貴様のその身はすでに人ではない。神格を昇華して、この地を領地に設定した神の位にあるものが、竜如きを謀ろうというのか」
一方的なやり取りである。じわじわと琥珀竜の体が土に侵食されていく。交渉の余地などまるで無い。
「参った!参ったから、何とかしてくれ。私とお前の仲ではないか」
男は心底興味無さそうに、身動きを取れぬグランを見下ろしていた。そして抱えていた巫女の首を乱暴に投げ寄越したのだ。ごろごろと帰ってきた首が、邪竜と目を合わせ呪詛を吐いた。
「竜ノ二枚舌ヲ信ジル者ナドイナイ」
ヒッと竜が声にならぬ叫びをあげる。首だけになったエレンミアは竜の舌に飛びかかり、それを食い千切った。べっと舌を吐き棄て、彼女は首だけになった己を、竜の口中に滑りこませると、ドロドロに溶けて食道を焼いた。二股の舌は地面の上で跳ねながら、未だに囀りをやめようとはしない。
「売女め!売女め!下等な蛮族の分際で、わしの体を台無しにしおって!」
黒き長剣が、舌を刺す。
「なんじゃ、これ以上ワシに何をしろと」
男はもはや無言である。残されたエレンミアの身体を憐れみ深く眺めながら、その腹に黒剣を差し入れた。苦肉の策だ。胎児の命を救うには、これしかない。
「お前が育てろ、グラン。その子にはおれの加護を与える。もし邪な企てをすれば、再びお前の身を我が呪が焼く」
もはやグランの声はない。未だ形にならぬ生命の胚に溶けてしまったのだ。顕現するための信仰を使い切った男の体は、端からボロボロと灰になっていく。大地に癒着した琥珀竜の抜け殻も、また塵へと帰っていく。母胎に突き刺さる黒剣は、優しく光を放ち、新たな生命に祝福を与えて融けた。呪われた加護である、一族の返り血を苗床にして育つ徒花である、仇を育ての親に、半身に持つという宿業を背負って産まれてくる。それでも天園は、この子を決して見捨てぬだろう。太陽の輝きと、銀の髪、そして孤独な夜は空を見上げよ。一族は星々の煌きとなって、お前を見守っている。
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グランは破剣に融かされながら不承不承、我が身の定めを受け入れた。どうやら死ぬわけではないらしい、あの男はこの期に及んで、なお甘さが抜けきらぬ。呪がこの舌を縛っておるうちは、好々爺として、この娘を騙くらかすしかあるまいて。ん、なんじゃ、この脈動は、いや、待て待てそれはわしの核になる部分じゃ、やめい、やめてくれい、食べないで、ソレ以上やられたらワシ消えちゃうから!そうそう8:2でワシの取り分に、え、いや6:4、わかった半々じゃ!半々!ん、あ、ダメ、ソレ以上はほんとダメなんじゃよ、3:7はやり過ぎじゃって、勘弁して!
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グランは半身にジルバという名を授けた。それは竜語で巫女を呼ぶ音に近い発音だった。ジルバは無口ではあったが、グランが何をしたか、自分がどのように生まれてきたかを全て知っていた。故にこの娘はこの老竜を厳しく躾けて、肉体の主導権を握りながら、また自らに加護を与えた主神の復活に祈りを捧げて生涯を過ごすと誓っていた。
そして百年の月日が流れた。長命なエルフ族の血を引くジルバは、未だに身体の成熟を迎えてはいなかった。天園もまた、何一つ変わること無く穏やかに時を刻んでいた。あの日以来、勇者の顕現することは無かった。彼女は日々欠かさず祈りを捧げて暮らしてきた。
その日、西から異邦者がやってきた。衛生局極東支部局員、イヴ・フラックスは金髪を跳ね上げ、東海を走ってやってきた。ジルバは変わらず祈りを捧げた。天園はざわめきを持って、この出会いを迎えた。グランは面倒事にため息をついた。勇者は未だ、石の中にいる。