第四話
エンデミーの武勲は、獣人達の間に知られた童歌である。とはいえ下品というか、直接的に性を扱った内容であるため、おおらかな獣人にあっても、「へっこへこー」などと、子どもたちが合唱する姿には眉をひそめて、あるいは初心な乙女らは赤面するのだった。
それでも部族に口伝される勇者エンデミーとの関わりを思えば、このような猥歌にも自分たちの起源が残されているのだと、故郷を離れた旅人が望郷の念を持って口ずさむものでもあった。
それがいつの時代なのかは、とうに失伝されていた。ただ自分たちが「獣」であった時代、そこに現れた勇者エンデミーはどうも「人」であるにも関わらず、祖先と交わりをもってただの獣であった彼女らに情愛を教えて去っていったというのである。驚くべきことは、狗族も猫族も鳥族は言うまでもなく、虎、獅子、熊、象はおろか、蛇、蜥蜴、鰐に至るまで、出会った獣は「別け隔てなく」「ことごとく」昼夜を問わず愛し続けたというのだ。…さらに一部の獣人族にあっては、武勲には秘奥の続きがあって、雌に限らず雄とも交わって、エンデミーは自らの腹に子を宿しながら、日が七つ昇るうちに乱れに乱れ、あらゆる獣人の母ともなった、と歌われるのだった。
若い獣人たちは眉唾だと笑ってはいたが、自らの内に勇者の血が流れていることを誇りにした。一部の長命な種の…例えば亀族の最長老などは、エンデミーの名を耳にしては「彼は偉大な父であり、永遠の恋人だった」などと頬を染め、きらきらと瞳を輝かせて嘯くのであった。獣人の村落に純粋な人が混じって住む姿が、まれに見られるが、そのほとんどは同性愛者だった。彼らは人の社会から逃れ、お伽話に聞いたエンデミーの武勲を心の支えに歌いながら流れてきた。秘奥のくだりを歌う者を、獣人は粗略に扱わない。それは自分たちのルーツであり、誇りであり、それを共にしようとするものもまた、部族の一員であった。彼らは皆、エンデミーの子であった。
フランベルジェの東方への旅を追って、獣人に属する者たちがサーブルに辿り着いたのは、気まぐれではない。伝承では、勇者は彼らと情愛を交わし、知恵と勇気を与えて、東へと更なる冒険の旅を続けたとされているのだ。あるいは人王の治めた国々が、神の怒りに触れて崩壊した際、残された人々を率いて東へ逃れた、とも。故に獣人にとって東方は新天地であるだけでなく、父祖の目指した土地でもあった。大陸を縦に隔てた竜骨山脈の切断は、伝承を覚える者にとって天啓に等しく、部族をあげての大移動の契機となるに十分な意味を持っていた。
サーブルは獣人にとって初めて得た文明都市であった。狩猟採集を生活基盤にしてきた彼らにとって、砂漠の民の「交易」と、ドワーフの「工業」の概念、何より安定して供給される淡水と、区画整理され管理の行き届いた「農耕」は旧来の生活様式からかけ離れたものだった。最初期の入植者の多くは挫折し、都市庁舎や礼拝堂の周囲に、加護を失った者同士が身を寄せ合うスラムを形成した。炎熱に炙られ、少しでも身を休めようと建物の影に寝そべる者たち。それを背景にして飾り窓が並び、猥雑な花街ができあがった。加護を失った者にとって春を売るのは最も安い選択だったからだ。
高僧ヌルハチはこれに危惧を覚え、娼婦らに売春業も労働であると「認識」せよ、すれば加護は再び得られる、との教えを授けた。それとともに、炎神に「恩恵」の拡張、即ち「働きたいです」の承認を求め、望まずスラムに堕ちた者を引き上げる手立てを取った。
百年が過ぎ、住人は世代交代を経て当初のように不本意ながら加護を失うという事態は、ほぼ起こらなくなった。それでもスラムは存在するが、フランベルジェは「そういう者もいるだろう」と、鷹揚に言い、特にこれを無くすような施策も、過度の施しもせぬように、とヌルハチに言葉を授けた。獣人は先達の苦労を次の世代に伝えようと、学問所を開き、流民の受け皿となった。
しかし、ときたま、東海からの風に吹かれて思い出すのだ。私達は、どこへ行くつもりだったのかと。勇者エンデミーは、私達を、どこへ導くつもりだったのか。
砂の都はよいところ、水は美味いし、魚も美味い
狗族の旅人は、街の東端、堤防の上に立ち、流行歌を口ずさむ。これはノスタルジアなのか。父祖の目指した地は、この東の果てで、確かに正しかったのか。どこまでも続く水平線、この東海の向こうに、まだ見ぬ約束の地があるのではないか。
水辺に遊ぶオッターの幼生を眺めながら、旅人は日差し除けのフードを脱いだ。キンキン、と魔素の鳴る音がする。ぴゃ、と甲高い鳴き声が聞こえてきた。彼らはただの獣ではない、魔核を持つれっきとした魔獣である。そのオッターたちが何かを見つけたらしい。いやにでかい魚だな、と遠目に旅人は目を細める。オッターは、僧となってからは乾物を好んで食するが、それまでは生魚を群れで狩猟する。そしてとらえた獲物を、玩具にしながら、少しずつ食べるという無邪気な獰猛さを備えていた。
(…違う、人だ!)
魚かと思ったそれらが波間に浮かぶ姿から、三人の子どもであると判断された。旅人は素早く堤防を駆け下りると、水辺に走り寄っていく。オッターが人を襲った、というのは聞いたことがないがもしそうなら、これは危険だ。オッターたちはぴゃあぴゃあと、打ち上げられた身体の周りを走り回っていた。どうも、襲っていた、のではなく、反対に身体を引き上げていたらしい。金髪の少女、銀髪の少女、そして、黒髪の少年。三人共に目立った外傷はない。しかし、呼吸はどうだ。海水を飲んではいないか。
「そこに転がってるのは、うちのかい?」
頭に直接、声が響いてきた。しゃがれて、甘く、濃厚な。旅人は身動き一つ取れずにいる。炎熱の加護に守られて、快適な気候のこの街で、今自分の身体を流れ落ちる、この大量の汗はなんだ。視界に褐色の素足が入り込んできた。赤い足爪の内側に、炎が脈動している。先ほどまで騒ぎ立てていたオッターたちは、静かに頭を垂れて前足をそろえている。
「魔核を抜かれたのか」
その瞬間、周囲の温度が急激に上がった。怒りだ、これは、神の。汗が蒸発し、喉が乾ききり、露出した粘膜、感覚器、全てが命の危険を鳴らしている。しゅわっ、と海が音を発して、気づくと旅人は身体を抱えて震えていた。炎熱のあとに残されたのは、強烈な悪寒だ。我に返ると、旅人の肩から僧衣がかけられていた。高僧ヌルハチである。
「詫びはいずれするでのぅ…」
申し訳無さそうに言い残して、ヌルハチは走り去った。その背後にしばらく遅れて、オッター僧達が追いかけていく。少年少女の身体はすでに無かった。これまで炎神に触れて生きていた者はいない。僧たちを除いては。僧衣に隠された、旅人の背には炎神の聖痕が残された。決して消すことの出来ぬ烙印を、八つ当たりに押されたのだ。
その日、サーブルに住む全ての獣人が東の空を見た。それはただのノスタルジアではなかった。遠い過去に約束された、勇者の帰還を、彼らは無意識の内に感じ取っていた。