第十話
デュランダルの撃退から一週間が経過し、使節と思しき一団がやってきて、壁に喰われた。そんなことが何度か続き、さらに二ヶ月が経過した。辰巳がこの世界に降り立ってから五ヶ月が過ぎていた。
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この仮初めの肉体は、食事を知らない、睡眠を知らない、疲れを知らない。ただ「味わいたい」「寝たい」「休みたい」という快楽を貪ろうという意思には適切に反応した。魂のあり方に反応して、君の望む姿になるのだ、とロキは言っていた。
いつの間にか、ロキは通天閣の展望台を寝所として、旧北部砦の司令官室を引き払った。辰巳は変わらず、ここで寝起きしている。
窓の外の様子は、二ヶ月前と変わらない。壁が取り込んだ人間や生物を、ショゴスが接待して、そこから得られる快悦の上前を、ロキが信仰点という形でハネている。
正気を失った者たちが、常夜、客引きに呼ばれるままに回遊する。絞られ切った者は最終的に遊女に喰われ、壁の中で再生させられて、当初の状態でまた街へと送り込まれてくる。
ただ、二ヶ月前とは、その規模が違う。すでに通天閣は、第四十三番通天閣まで建っていた。新世界の大路から左右に二ブロックほどを一塊として、それらをコピーした土地が、噛み合わないピースを乱暴に押し込んだパズルのように組み合わさって、視界の至るところに通天閣が生えている。
「不老不死!快楽の極みを無限に貪ることを許された、究極の都だ!」
芝居がかって熱弁するロキの目には、いつもの不自然な作り笑いがない。辰巳はロキが正気であることこそ、狂神である証左だと確信した。そして、その神の下僕としての状況を受け入れつつある自分の正気も、とっくに破綻しているのだと自嘲する。
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「ヤバいのが来たよ、タツミ君」
ロキは、言葉とは正反対に楽しそうだった。待ちに待った、まともな使節だ。もっともこれまでの連中も、言葉を伝えるだけの使いっ走りとしては良かったのだろうが、今回の相手は壁が手を出さない。それだけの力を持った相手だ。交渉の裁可を下せる相手だろう、と期待できる。
デュランダルは弱い相手ではなかった。神格者としての能力も鍛錬も積んだ武人だっただろう。それが、何の音沙汰もなく消え、送った使節団も尽く帰ってこない。そして、デュランダルの片髭が、相手の手に届いたのだ。
その状況のなかでやってきた、この実力者。十中八九、この相手は神格者だ。
相手を遠目に視認したのだ、というロキは、交渉用のサーカステントを構えて、使節を迎え入れる準備を整えた。そして辰巳に、既に得た土地の支配権を認めさせるようにと命じ、自らは舞台裏から見ていると言い残して消えた。
入り口の暗幕が割れ、赤髪の女が入ってきた瞬間、テントの中の温度が上がった。半円形の部隊に立つ辰巳の周囲を、炎のリングが囲む。射抜くような視線が辰巳の胸を刺した。
「衛生局のフランベルジェというものだ。王の名代で参った」
紅蓮の軍服を着た、威圧感の塊のような女が、一歩一歩舞台に近づく度に熱波が寄せてくる。ヤバい、こいつはダメだ。致命的失敗なんかで、どうこうできる奴じゃねえ。運が良くても、悪くても、何がどうなっても、こっちが死ぬ。
「私は貴様らのような汚物は一切合切消毒して、地上から消してしまうべきだと思っているのだ」
彫りの深い、褐色の美女。彼女の唇が震えるたびに、言葉とともに、竜の吐息のような炎が吐き出される。こちらを値踏みしている。視線が通るたびに、体の内側から焼かれたような痛みを感じる。
「だが、情け深い王は、貴様らゴミ屑にも生きる権利とやらをお許しになられた」
そのことを伝えに来ただけだ、何一つ交渉する余地などない、と女は言い放ち、王都の北と壁の間に空白地帯を設ける旨を通告した。私が刻印してきたから、見ればわかる、と女は言った。辰巳は何一つ言葉を発することができない。口を開けば、喉を焼かれる。
「覚えておけ、王国はこのような屈辱を二度とは許さん。貴様らはその大層な壁の向こうで震えて眠れ」
そう言い残して、フランベルジェはテントを後にした。
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生きていた、生きていた、まだ生きていた。完全にただの気まぐれだ。相手が「交渉」するつもりなら、死んでいた。相手が結論を出していたからこそ、助かった。女の去った後、炎は自然と鎮火した。ひょっこりと現れたロキは、真顔で言った。
「運が良かったね」
そうだ、運だ。運が良かった。そういう意味では「幸運」の力なのか。
「いや、君自身の持っている天運という奴だ。僕はそれが欲しくて、君を選んだ」
僕は賭けに勝った、とロキは嬉しそうに笑った。続けて、君には感謝している、契約は履行された、と言った。
「報酬は来月、時間潮流が寄せた際に渡す。それまで君は自由にしてくれて構わない。あと、思った以上に信仰点が稼げてるから、君と君の友人の素体を改めて作りなおしてあげよう」
興奮してまくしたてるロキに、辰巳はついていけてない。一息に喋り継いで、あと伝えておくべきことはあったかな、とロキが呟く。辰巳は先程までの出来事を、ぼんやりと反芻していた。
何だったんだ、今のは。この世界に来てから、最悪の地獄を見たぞ。悪寒が止まらない。ロキの声が遠い。この体になってから、初めて吐き気を感じる。なんだ、何を叫んでいる、ロキ?
辰巳の胸に、髪の毛ほどの太さの穴が開いていた。穴の周囲が不自然に溶けかかっている。焼かれたのだ。
辰巳は、暗幕の裂け目から、煌々と燃える視線を感じた。フランベルジェは何もしなかったわけではなかった。出会った瞬間に、こちらの胸に穴をあけ、体内から焼いていたのだ。そして今も、その結果を確かめている。辰巳の体が、一気に崩れ落ちた。
「お…い、ロキ、お前、約束は守れよ」
ロキが、初めて人間らしい表情で、辰巳の顔を覗きこんでいる。あどけない、歳相応の美少年の顔だ。
「もちろんだ。だけど、残念だ」
皮肉の一つも言われるかと思ったが、殊勝にもロキは傷口に手を当てて、心底残念そうな顔をしている。
「残念だよ、魂まで焼かれている。とんでもない魔女だ。おそらく君は助からない」
十分だ、玉三郎にもう一度チャンスを与えられるなら、それでいいだろう。辰巳は遺言らしきものを残すべきかと思ったが、特に何も思い浮かばなかった。
「ああ、実に、残念だ」
ロキの右手に、赤く捻れた肉の楔が握られている。なんだ、それは。
「君を君のままに、しておいてあげられないのは」
ぐじゅり、と傷口に当てられた肉塊が辰巳の体の内側へ潜り込んだ。異物に対する、根源的な恐怖が辰巳を焼く。ああ、おれの内側に!おれの体の内側に!!
やがてそれは、魂を侵食するだろう。義侠心に厚く、天運に恵まれ、勇気ある魂だった。だが、今やそれは名状しがたきものと交じり合い、純粋な人の魂ではなくなってしまった。
フランベルジェは小高い砂丘の上から、テントの内側の出来事を遠見する。そして、一際強く辰巳の身体を睨みつけた。
辰巳の魂は犯された。辰巳の肉体は灰をも残さず焼きつくされた。そして今、この場に残るのは遊興の邪神と、獄炎の魔女。互いの存在を脅威として認知しながらも、戦う理由の無い二人は、それぞれの道へと帰っていく。
◆
激しい頭痛とともに、目が覚めた。知らない天井、いや、灰色の空だ。
「お目覚めかな、タツミ君」
道化師がケタケタと笑いながら、見下ろしている。その声音は出会ったときと変わらぬ美しさだが、どこか馴れたような色が混じっている。
「さて、勇者殿よ。契約履行の時間だ。望み通りの、オーダーメイドの肉体を作らせてもらおうか」
川村辰巳は二度死んだ。人として、肉体の死を迎え、魂の死を迎え、今や彼は名状しがたきものの一員に迎え入れられた。ロキは自らの信仰の聖地を得て満足そうだ。
辰巳は、不思議と、悪い気分ではなかった。生まれ変わったような晴れやかさがある。そして、辰巳の背中に、聞き覚えのあるアクセントで、兄貴、と呼びかける者がいた。
「ああ、うん、えっと、誰だ?」
猫耳の美少女だ。ひどいよ、兄貴!と返しながら、擦り寄ってくる。猫耳?猫耳だと?顔は人間的なくせに、耳だけ猫の中途半端な…いや、それよりも…まさか…。視線の意味に気づいて、ロキが笑みと、サムズアップを示してくる。
「彼女がタマちゃんだね」
「玉三郎です!」
辰巳は顔をそむけ、灰色の空を仰いだ。
<第一章 完>