愛の夢を見る
*
少年、響は部屋に入れて貰い、キャンディ模様が散らされたクッションを勧められ、可愛らしい柄に気後れして辞退した。多分座っても潰してしまうだろう。響には小さかった。
少女は上の空で、そうですかと相づちを打つ。付き合っていない。この言葉が、教会の鐘の音みたいに頭で鳴り響いていたのだ。
しかし、少女とて、一度あれ程落ち込んだのだ、用心深くなる。まだ、彼女が居る可能性が無いわけではない。
「あの」
少女が勇気をだして呼び掛けると、なあに、と響はにっこり笑う。少女は再び舞い上がるが、響は怖がらせまいと必死だ。
「まいにち、聴いててくれたんですか?」
「偶然ピアノの音を聞いて、それから毎日此処で聞くの、楽しみにしてたんだ」
おずおずと少女に尋ねられて何の気はなしに答えた響は、ハッとした。マズい、まるでストーカーの様じゃないか。
響はストーカーじゃない。だだのサボリ魔だ。
しかし、少女は俯いて響の言葉を噛みしめる。毎日、楽しみに、していてくれた。じわじわっと胸の奥が温かくなる。
響は俯いてしまった少女に慌てた。
「あの、ストーカーじゃないからね? 聞こえたピアノが、あんまり楽しそうだったから」
楽しそうに聞こえた、というのは、少女には嬉しい誉め言葉だ。
ふっくらしたばら色の頬にえくぼが浮かび、響はほっとした。
「おにいさんは、彼女はいますか?」
え、コイバナってマジで女の嗜みなの、と響は焦る。響に彼女はいない。楽しい話題提供など出来ない。
少女はじっと、とても真剣に答えを待っている。どう答えよう、と響は迷う。
「……いない」
響は結局本当の事を話した。嘘を言ってもボロが出ると思ったのだ。
少女の目がきらっきら輝いた。響は落ち込んだ。彼女がいない事を喜ばれるってどういう事。いや、憐れまれてもグサッと来るけど。
「本当に?」
身を乗り出して来る少女の、毛先がくるくるした猫っ毛が、ぴょんぴょん跳ねる。可愛らしいが、その仕草さえ、響の落ち込みに拍車を掛けた。
「…………ウン」
少女は落ち込んだ響に気付き、自分の行動を振り返って眉尻を下げる。
フラれたと勘違いした時、少女はとても悲しかった。きっと、響は同じくらいとても悲しい気分なのではないだろうか。
どうしよう。少女は、ピアノを見た。それは、彼女の言葉なのだ。
「おにいさん、きいて」
弾く曲は、決まっていた。
大丈夫、この曲が前よりよく解る。
少女はピアノに向かって深呼吸し、最初の音に指を触れる。
ありったけの想いを指先で紡ぐ。
響は、唐突に始まった演奏に驚いたが、少女の真剣な表情に、ピアノに耳を澄ませる。
それは幾度か聞いた曲だ。
だが、そのどれもと違った。
知らない間に随分と腕を上げたものだと舌を巻く。
サボリ魔の響は身につまされた。
この間聞いた時にも情感が籠もって上手になったと思ったが、この短期間で更に一段上を見せられるとは。
「おお、愛しうる限り愛せ」。
小学校低学年で、こんな演奏が出来るなんて、彼女はまさかリア充なのだろうか。
響は更に落ち込んだ。最近の小学生は凄い恋をしてるんだな、と拗ねる彼は、まさか少女が自分に恋をしているとは気付かない。
恋がしたいな、と彼は嘆息した。
弾き終わって、少女は椅子を降り、響に一礼する。
響はパチパチと拍手をした。
「いつの間にこんなに上手になったの? この間聴いたのも巧かったのに、また巧くなってて驚いた」
「おにいさんのおかげです」
少女はにっこりと笑った。
「俺?」
何もしていないのに礼を言われて響は戸惑った。
「おにいさんが、聴いててくれたから。頑張れました」
「どういたしまして……?」
張り合いになったという意味だろう、と響は考える。
「それで、あの、おねがいがあるんです」
「? なあに?」
もじもじする少女に、微笑ましいなあ、とほのぼのしながら響は促す。
「これからも聴いてください」
ものすごく真剣に言われた願いは、とても単純で、簡単なものだった。
だから、響は簡単に頷く。
「いいよ。勿論」
響の言葉に大きなチョコレート色の目がきらきらと輝く。可愛らしいなあと目を和ませる響は、待ってて下さいね、という少女の言葉を本当の意味で理解しなかった。
*
響は休日になると少女の家を訪れ、小さな手にドロップを落とす。
サボリはダメ、と少女にまで窘められてしまったので、相談の結果そうなったのだ。
人見知りな少女も、「ヒビキさん」なんてはにかんだ笑みで呼ぶくらい懐いてくれている。
ピアノの方は正確に譜面通りに弾ける様になり、感情を籠める事で最近は音に深みが出て来た。
ただ、ドロップの中みたいに彩りに溢れ、キラキラした音なのは変わらない。
うかうかしてはいられない。
走るのは好きだが、ただ走るのが味気なかった日々。サボっていたところに降って来たピアノの音は、響をワクワクさせた。
しかし、今はそれだけではない。いつだって一生懸命な少女の音はきらめいている。負けていられないと少年の中で何かが急かす。
じっとしていられなくて、走らずにいられないのだ。
部活を抜け出さなくなった響を谷本はニヤニヤ笑い、部長は人が変わった様だと言いながら、満足気に頷く。
自主トレに始めたロードワークであのマンションの前を通る度、彼は少女に、頑張れ、と胸の中でエールを送る。
そんな響を想い、今日も少女は、以前より巧くなった愛の夢(エール)を贈る。
早く大人になって、彼の隣を歩く日を夢見て。
了




