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3/5

届かない不協和音(なみだ)

 

 

 少女は、来る日も、来る日も、一心不乱にピアノに向かった。

 少年は、来なかった。

 少女はがむしゃらになって、泣く代わりに、叫ぶ代わりに、鍵盤で世界に音を叩きつける。

 観客の居ない、聞く者が無いピアノは、部屋の中に閉じ込められる。其れは其の儘少女の心だった。

 「エリーゼのために」が切々と響く。

 そして、再びあの二人が土手に並んだ日、楽諧が滲んで読めずに、漸く少女の乱暴な演奏は止まった。

 口を引き結ぶ。声を堪えると頭ががんがんと痛んだ。

 拭っても後から溢れてくる涙の意味が解らない。

 偶然、少女がピアノを弾く時間に毎日川原に居る人。それだけだ。

 名前も、かおすら知らないひと。向こうは少女の事も、もしかしたら少女が弾くピアノの事すら認識していないかも知れない。

 そう思うと、益々ぽろぽろと涙が零れてくる。

 恋人たちを祝福しようと決めた筈で、二人を見たあの日に、「観客さん」に舞い上がっていた自分と、少女はさよならをしたのだ。

 ちゃんと前を向こう、と涙を拭った少女は、目をまん丸にした少年と目が合って、固まった。

 


 

 少年は谷本に引きずられて行き、部長とフルマラソンの刑に処された。42.195キロは、果てしなく遠かった。

 しかも、部長の併走付き。暑苦しい筋肉に張り付かれて、長い道のりを走り抜く。過酷過ぎる。言葉通りシバかれた方がまだマシだった。其れからは谷本にストーカーされ、こっそり抜け出せなくなってしまった。隙が無い。こやつ、出来る。

 しかし、一日の癒やしの時間を確保してみせる、と少年は頑張った。

 手強いマネージャーとの駆け引きの結果、何とか抜け出せ、久し振りに少女のピアノを聞く事が出来るとほくほくしていたところを捕獲された。

「ふふ。あんたがいつもあの川原でサボってるって事、知らないとでも思った?」

 ネタは上がってんのよ、と谷本はニイッと口端を吊り上げる。

 何者だこいつ、と少年は一瞬怯んだが、此処で退いてはずっと谷本のターンになってしまう。

「離せ。後生だ。俺にあの川原にサボりに行かせてくれ」

「サボリに行くと聞いて行かせると思うの?」

 鼻で笑われても少年はめげない。バスケット選手がスクリーンをかわす要領で、フェイクを入れて突破する。長距離走者だが、瞬発力が無いわけではない。

「ロードワークの一環で川原まで走って来ます」

「それで川原で飴食べてごろごろするんでしょ? 却下」

 谷本はマネーシャーだが、足か速い。少年に食らい付いて来る。

 捕まるまいと速度を上げつつ、少年は噛み付く様に言い返す。

「のど飴食って何が悪い!」

「ごろごろするなっつってんのよ。サボるな。陸上部なら走れ」

「走ってます。休憩くらい取らせろ下さい」

「取らせろ下さいって何よ。せめて日本語しゃべりなさいよ」

「んじゃ、休憩行って来る」

「サボらせて堪るか。つか、仕事増やすんじゃないわよ! あたしは忙しいのよ!」

「じゃあ俺の事は放って置いてくれ!」

 マンションの前に来て其の音を聞いて、少年は驚いて足を止め、口を閉じた。聞こえて来たのは、いつもの自由奔放な、子猫がボールを追い掛ける様な楽しい音じゃなかった。

 何て重たい「エリーゼのために」なんだろう。

 目に映るもの全てに爪を立て、掻き毟る様な、酷く苦しげな音だ。

 それが、ふっと止む。

 それっきり聞こえて来ない。いつもはまだ弾いている筈なのに、と少年は気になってじっとカーテンの揺れる窓を見つめる。

「ねえ、ねえったら!」

 谷本が少年の肩を掴んで揺さぶった。

「いきなり黙ってどうしたのかって、聞いてるんだけど?」

 怪訝そうなかおで谷本が少年を見ていた。黙り込んだ少年を心配して声を掛けていたのだか、反応が無いので揺さぶったらしい。

「ピアノが、止まった」

「ピアノ? ああ、そういえばちょっと怖い感じのが間こえたけど」

「いつもは、あんなじゃないんだ」

「いつも、って、もしかして――あ、ちょっと!?」

 少年は、そっと足を踏み出す。

 少しだけ、様子を見たい。いつもの演奏じゃないし、途中で止めてしまう事が無かったから、心配だ。

 谷本の制止を無視して、細く開いたカーテンの隙間を覗ける角度に立つ。

 覗きは犯罪だと解るけど、少しだけ。無事かどうかだけ確かめるだけだから。

 少年が覗き込んだ時、ぽろぽろ涙を零す少女と、目が合った。少女は、目を大きく開けて、固まった。

 

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