二人に贈る夜想曲(エール)
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いつもの時間になると、鍵盤の上を滑る少女の指は、スキップでもする様に軽やかになる。
どうしよう、「エリーゼのために」が童謡曲みたいにコミカルに響いて聞こえる。
ベートー・ベンは、とても苦しい恋をしたのだと先生は言っていた。叶わない片思いの気持ちを込めて書いたと聞いて、少女は悲しくなった。
先生の弾いたお手本は、幼い少女をキュンと切なくさせるくらい、喜びと哀しさに溢れていた。なのに、少女が弾いても少しも悲しい気分ではない。片恋の切なさを少女はまだ知らなかった。
楽譜通りに弾くだけじゃなくて、書いた人の気持ちを考えて弾きなさい、というのが先生が持っている音楽論だ。
何か、哀しい事を思い浮かべ様と思う。しかし、少女は近付いて来る足音の事しか考えられない。
浮かれた「エリーゼのために」。ああ、でもあの人にこんな曲を聞かせるわけにもいかない。
少女は指を止めて別の楽譜を乗せる。テクラ・バダジェフスカ「乙女の祈り」。
鍵盤から弾ける様に音がきらきら零れ出す。今の気分にぴったりだ、と少女は口元を綻ばせた。
聞こえて来る足音。振り向きたくなる気持ちを押さえて、もつれかけた指を鍵盤の上で躍らせる。軽やかなステップを踏んで、ダンスを踊る様に。 いつかあの人のかおを見てみたくて振り向いた時、目が合いそうになって慌ててピアノに向き直って弾いた「猫踏んじゃった」は、酷かった。
少女の小字校では、休み時間に生徒がオルガンを弾いても良い事になっている。
グランドピアノばかりなので、大屋根、大きな上蓋を上げたり閉めたりすると怪我をしてしまう子もいる。なので、アップライトピアノみたいな形をしたオルガンだけ、先生の目の届く範囲で開放されているのだ。
音楽室が二つ。ピアノはーつずつあって、オルガンもーつずつ。だが、盲点がある。
体育館だ。ピアノが一つ、オルガンも一つある。穴場なので弾き放題だ。 少女も友達と先生の腕を引っ張って行って、オルガンを弾いた。子供達の間では、「猫踏んじゃった」や「キラキラ星」が流行っている。
あまりに慌てた所為で、休み時間に弾いていた通り、指が鍵盤をなぞったのだ。
あんまりだった。ヘタとは言え、精一杯練習していた曲ではなく、休み時間のお遊びを指が覚えていたなんて。それは、確かに楽しかったのだけど、あんなに練習したのに曲を指が全く覚えていなかった事は、少女をがっかりさせた。
そして、更に練習量を増やし、咄嗟でも指が動くように頑張ろうと決める。
「観客さん」は毎日一生懸命走っているのだもの、頑張ってエールを送るのだ。
張り切る少女は、少年が部活をサボりに来ているとは知らない。
「――もう、こんなところに居た!」
不意の大声に、少女の肩がびくりと震える。
呆れた様な声に、あの足音が止まった。
溜息交じりの声が応じる。
これは誰の声だろう、と凍り付いた頭で少女は考える。
鍵盤から零れた音が、きらめきを失って部屋の中にちばらる。
雨が降るみたいに、暗い。部屋の中も、「乙女の祈り」も。
シューベルトの「魔王」が、少女の頭の中で鳴り響く。少女は森の木々を「魔王」だと指差す赤ん坊の様に、己を脅かすものが窓の外に居る様な気がした。そして、魔王など居ないよと宥める父親の様に、そんな者は無いと自分に言い聞かせる。
彼女の中に嵐が吹き荒れた。
耐えかねて思わず少女が振り向けば、薄く開いたカーテンから、曇り空の下、気安く言葉を交し合う男女の姿。
そんな、と少女は打たれた様に震える。 弾き終わるまで、まるで舗装されていない道を自転車で走る様にガタガタ音が跳ねていた。
二人が手を繋ぐのが見え、少女のかおが絶望に歪む。幼い彼女にとって、其れは二人の関係を決定付ける場面に見えた。
震える細い指が、楽諧に伸びる。「別れの曲」。
何とか楽譜を捲る。
きゅっと噛んだ唇を、ぐいっと結ぶ。大丈夫、と言い聞かせる。
弾ける。何度も緑習した。へタでも弾ききってみせる。
少女は、きっ、と楽譜を睨む。
楽譜を書いた人の思いを読み取って、その気持ちを乗せるのだ。
大丈夫、と少女は深呼吸する。
巧く弾こうと思うな、気持ちを籠めて贈ろう。エールを。
指を最初の音に置く。そして、弾き始めた。
これは少女の別れの曲。バイバイ、観客さん、と少女は二人が連れ立って帰って行くのを見送った。
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「――もう、こんなところに居た!」
大きな声に、士素の上を走る少年の肩がびくりと震える。もう直ぐ、いつもの川原に着くところだったのに、厄介なやつに見付かったなあと少年はかおを顰め、どうすれば振り切れるか考える。
「部長、カンカンよ。今日こそはシバくって言ってたわ」
呆れた様な声がして、少年の足が止まっる。
嫌々ながら振り返れば、マネージャーが眉を寄せて立って居た。
「谷本。普段あんなに忙しいって言ってんのに、案外暇だな」
少年は溜息を吐く。一瞬途切れた音を気にしてマンションを振リ向けば、谷本が更に声を張り上げた。
「うっさい。誰のせいよ、誰の。とにかく、戻るわよ」
「ハイハイ、戻りますよ。先戻れ、谷本」
投げやりな言葉で手を振れば、其の手を谷本が掴む。
「良いから、黙って、走る。いいわね?」
谷本のうるさい声が少女の集中を乱しているのではないだろうか、と少年はぎこちなく流れて来るピアノを気にした。
演奏を聞いていたいが、今日はもう戻った方が良さそうだ。此処で騒いでは邪魔をしてしまう。
谷本に引きずられながら、少年は渋々戻る事にした。
其の耳に届いたのはこれまで幾度か聞いた曲。
少女の弾くピアノをここで聞く様になってから、ネットで少し調べて少年はこの曲の名前を知っていた。
リストの、「愛の夢」三番。副題は、「おお、愛しうる限り愛せ」。
歌詞がついていて、其の日本語訳を読んでも中学生の少年にはぴんと来なかった。
彼の中では小学生が弾くイメージではないが、何だか今日はやけに情感が篭っているな、と少年はのど飴を噛みながら、遠くなる音色に耳を澄ませる。
上達した成果が目に見えた様に感じ、少年は嬉しくなった。
何を笑っているの、と谷本に胡乱な目で見られ、別に何もと、慌ててて取り繕う羽目になったが。




