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あなたに贈る行進曲(エール)

 

 少年は、手入れされていない川原の草むらに転がり、秋晴れの空を仰いで弾む息を整える。エノコログサなんかの平行脈の草は意外に鋭いので、この間うっかり腕を傷だらけにしてしまった。以来、シロツメクサが群生している場所を指定席にしている。

 胸が大きく上下し、持久力が足りないとバテた身体に実感する。もっと走り込まないといけないと頭では解るが、ひとまず休憩だ。

 息を整えながら、筋肉が固まらない様に充分にストレッチをしてクールダウンする。

 其の間、少年の上には音の雨が降っていた。

 土手の上のマンションから、ドロップの缶を引っ繰り返した様に、其れらは散らばる。

 毎日この時間、其のマンションの一室で練習しているピアノの音。

 てんでバラバラにあちこち散らばり、跳ねる様に奔放。

 何だか子供の時オモチャ箱を開けた様の様に楽しい気持ちで、ドロップ缶を弄びながら少年は飴玉を噛み砕く。

 其れを初めて聞いたのは、熱血部長の目を盗んでこっそり部活をサボった日だった。

 以来、少年は大抵同じ時間に抜け出している為、毎日同じ時間に其のマンションの窓から零れて来るピアノ曲に気付いたのだ。

 この間、薄くしか開いていないカーテンが風に揺れ、「猫ふんじゃった」を鼻歌付きで弾いている少女が見え、揺れる三つ編みに胸がほっこりした。

 上手くはないけれど、一生懸命弾いている事が伝わって来る。

 其の音に励まされて、もっと頑張ろう、と思えた。

 


 

 近付いて来る、軽快な足音と弾む息はスタッカート。力強いフォルテ。大きくなる音は、この部屋に向けてデクレッシェンドされ、優しいピアノに。速さは歩く様に、そして次第に緩やかになり、土手の向こうに消えて行く。

 其の気配を追い掛けてつられて止まりそうになる指を励まして、少女は楽譜を懸命に追う。

 いつも決まった時間に、あの足音は近付いて来て土手の向こうに消える。

 其れは、少女がピアノを演奏する時間だ。

 其れは、ただの偶然。

 あの人が少女のピアノを聴きに来てくれているわけじゃない。

 しかし、聴いているかも知れない人が居る、というのは、彼女に明確な目標を与えた。

 この人の為に弾こう。

 テンポの速い曲は、テンポを気にすると音を飛ばしてしまう。幾つもの音を押さえる和音は、押さえる音を間違えてしまう事がある。曲の調子が変わるところは、何度も躓いて、足踏みでもする様に其処を繰り返さなければならない。

 それでも、毎日たった一人観客が来てくれると思えば、もっと巧く弾きたいと練習に熱が入った。

 少女は一心にピアノで音を紡いだ。

 ボールを追って転がり回る子犬を何とか振り向かせ、お手をさせようと躍起になる主人の様に、辛抱強く指が覚える様に、繰り返し。

 あちこちに散らばってしまう音をかき集めて、五線譜に決められた通りに並べ様と必死になった。

 暫くして、土手の上に草を踏み分けながら上がって来る気配がする。身体のあちこちの筋を伸して充分に解してから、あの足音は来た道を引き返して去って行く。

 来た時とは逆に、ゆったりとしたリズムは次第に速くなり、そして力強く地面を蹴って。

 そろそろと視線を動かし、少女は小さくなる背中をカーテンの隙間から見送る。かおも名前も知らないたった一人の観客に、今日も少女は、常の様に、ヘタな行進曲(エール)を贈る。

 


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