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哲学書

作者: 加倉千早

哲学とは、見ている世界の広さと深さを競う学問である。

従って、その優劣は『眼』で決まることになる。


いくら知識を身に着けようとも、いくら論理を磨こうとも、物事の本質を見据える『眼』を持たなければ同じである。


「これが私の世界だ!」と言わんばかりに真理を説こうとする哲学書を、どれだけ読み返そうとも、読み手は著者との差を埋めることが出来ない。

哲学書とは、それを書いた人間の自慢話であって、教則本ではないからだ。


真理とは、それを見据える『眼』を持った者だけに与えられる、宝珠である。

どれだけの論理を積み上げようと、真理を見据える『眼』を持たない者に、真理を見せることは出来ない。


哲学書には、「こんな宝珠を持っている」という自慢話が書かれている。

読み手は、その宝珠に触れたわけでもないのに、積み上げられた論理に酔い、絵に描いた餅を真理だと思い込む。


論理に酔うことが目的であるなら、それも悪くはないだろう。

酔わせてくれる哲学書は、秀逸な娯楽本だと言える。


しかし、この世界で『眼』の確かさを競いたいのなら、話は違ってくる。


そもそも、論理などというものは、真理を説明するための道具に過ぎない。

積み上げられた論理の先に真理が見えてくる、というようなことは、ない。

ない、と思っていたほうがいい。


論理に酔えば、真理を見失う。



哲人を志す者にとって、哲学書は、なんの飾り気もない石段であるべきである。


踏み越えて、ゆけ。






尚、ここで述べていることが絵に描いた餅であることも、当然の帰結と言える。

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― 新着の感想 ―
[一言] 真理を正当化するための言葉、理論が書かれているのは哲学書と言えないのではないでしょうか? その手のものはいわゆる聖書とか法律とか、道徳的なことを言わんとするものでしょう。 どの哲学書が勝手…
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