哲学書
哲学とは、見ている世界の広さと深さを競う学問である。
従って、その優劣は『眼』で決まることになる。
いくら知識を身に着けようとも、いくら論理を磨こうとも、物事の本質を見据える『眼』を持たなければ同じである。
「これが私の世界だ!」と言わんばかりに真理を説こうとする哲学書を、どれだけ読み返そうとも、読み手は著者との差を埋めることが出来ない。
哲学書とは、それを書いた人間の自慢話であって、教則本ではないからだ。
真理とは、それを見据える『眼』を持った者だけに与えられる、宝珠である。
どれだけの論理を積み上げようと、真理を見据える『眼』を持たない者に、真理を見せることは出来ない。
哲学書には、「こんな宝珠を持っている」という自慢話が書かれている。
読み手は、その宝珠に触れたわけでもないのに、積み上げられた論理に酔い、絵に描いた餅を真理だと思い込む。
論理に酔うことが目的であるなら、それも悪くはないだろう。
酔わせてくれる哲学書は、秀逸な娯楽本だと言える。
しかし、この世界で『眼』の確かさを競いたいのなら、話は違ってくる。
そもそも、論理などというものは、真理を説明するための道具に過ぎない。
積み上げられた論理の先に真理が見えてくる、というようなことは、ない。
ない、と思っていたほうがいい。
論理に酔えば、真理を見失う。
哲人を志す者にとって、哲学書は、なんの飾り気もない石段であるべきである。
踏み越えて、ゆけ。
尚、ここで述べていることが絵に描いた餅であることも、当然の帰結と言える。