名前のない春
人間と竜人は、三百年ほど殺し合っている。
理由を尋ねれば、人間は「竜人が我々の王を殺したからだ」と答える。
竜人に同じことを尋ねれば、「人間が我々の故郷を焼いたからだ」と答える。
では、なぜ王は殺されたのか。
なぜ故郷は焼かれたのか。
さらに昔には何があったのか。
そこまで尋ねると、誰も正確には答えられなかった。
古い歴史書を開けば、それらしい理由はいくつも見つかる。
国境を巡る争い。
竜人が信仰する霊峰への侵入。
人間の王族が殺害された事件。
その報復として焼かれた竜人の集落。
どれが最初だったのかは、もはや誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、人間の子供は竜人を憎むよう教えられ、竜人の子供は人間を憎むよう教えられて育つということだった。
――戦争が始まって三百十二年目の春。
アルセリア王国の第二王子レオンは、そんな竜人の少女を森で拾った。
◇
「……最悪だ」
国境近くの森で、レオンは思わずそう呟いた。
目の前に少女が倒れていた。
年齢は自分と同じ十七、八ほどだろう。
長い黒髪は泥に汚れ、身につけている黒い服には血が滲んでいる。
一見すれば人間の少女と大差ない。
しかし、その頭には後ろへ伸びる二本の黒い角があり、腰のあたりからは細い尾が伸びていた。
――竜人だった。
しかも、まだ息がある。
レオンは無意識に腰の剣へ手を伸ばした。
竜人を見つけたら殺せ。それは命令されるまでもない常識だった。
竜人は残虐な種族で、人間を憎み、村を焼き、捕らえた人間を弄んで殺す。
幼い頃から教師にも、兵士にも、父王にもそう教えられてきた。
そして、それがすべて嘘だとも思っていない。
レオン自身、竜人に襲われた村を見たことがある。
焼けた家の中から子供の亡骸が運び出される光景も覚えている。
だから、目の前の少女が敵であることに疑いはなかった。
剣を抜いた。
少女の腹には一本の矢が刺さっている。
王国軍で使われている矢だった。
傷は深い。
このまま放っておいても、夜まで生きられるかどうか。
ならば、今ここで殺した方がいい。
苦しませずに済む。
敵を一人減らせる。
誰に知られても、王子として正しい行いだったと褒められるだろう。
レオンは少女の首筋へ刃を近づけた。
少女は目を覚まさない。ただ苦しそうに、浅い呼吸を繰り返している。
剣先が止まった。
あと少し腕を動かせば終わる。それだけなのに、動かなかった。
「……くそ」
結局、レオンは剣を鞘へ戻した。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
森の中には、狩人が使っていたらしい古い小屋があった。
レオンはそこまで少女を運び、矢を抜いた。
幸い、鏃には毒が塗られていなかった。
傷口を洗い、薬を塗り、布を巻く。
そこまでしてから、馬鹿なことをしていると思った。この少女が回復して自分を殺したら、世界で一番間抜けな王子として歴史に残るだろう。
少女が目を覚ましたのは翌朝だった。
「……ここは」
「動くな」
少女の身体が強張った。
レオンを見る。
そして、彼の耳と頭に角がないことを確認した瞬間、その目に明確な敵意が浮かんだ。
「人間……!」
「騒ぐな。傷が開く」
少女は反射的に腰へ手を伸ばした。しかし、そこにあるはずの剣はない。
「私の剣は」
「預かった」
「返せ」
「返したら俺を斬るだろ」
「当たり前だ」
「じゃあ返せないな」
少女は起き上がろうとした。
「動くなって」
「触るな!」
伸ばしたレオンの手を払いのける。
その勢いで傷が開いたのだろう。少女は顔を歪め、腹を押さえた。
「ほら見ろ」
「……人間に心配される覚えはない」
「俺も竜人を心配する趣味はない」
「なら、なぜ助けた」
「知らん」
少女が怪訝そうな顔をした。
「知らない?」
「俺が一番聞きたい。殺そうとはした」
「なら殺せばよかっただろう」
「できなかったんだよ」
「臆病者」
「助けてもらって最初に言うことがそれか」
「敵に助けられるくらいなら死んだ方がいい」
「じゃあ今から死ぬか?」
少女が黙った。
「ほら」
「……卑怯者」
「今度はそれか」
レオンは水筒を差し出した。
「飲め」
「毒か」
「毒殺するつもりなら、わざわざ矢を抜かない」
少女はしばらく水筒とレオンを見比べ、やがて奪い取るように受け取った。喉が渇いていたらしい。
警戒していた割には随分と飲んだ。
「名前は?」
「なぜ教える」
「呼びにくい」
「竜人でいい」
「分かった、竜人」
「……なんだ」
「腹減ったか」
「減ってない」
直後、少女の腹が鳴った。
二人の間に沈黙が落ちた。
「……竜人」
「殺すぞ」
「元気になったな」
レオンが笑いながらパンを差し出すと、少女は睨みつけながらも受け取った。
「セラ」
「ん?」
「名前だ。セラ」
「そうか。俺はレオン」
「聞いてない」
「お互い様だろ」
セラは返事をせず、パンを食べ始めた。
しばらくして、その視線がレオンの腰へ向かった。
「その剣――」
「これ?」
「柄を見せろ」
妙なことを言う。レオンが少し剣を持ち上げると、セラの目が細くなった。柄には、獅子と月を組み合わせた紋章が刻まれている。
「アルセリア王家」
「よく知ってるな」
「敵国の紋章くらい覚える」
セラの目が、今度はレオンの顔へ向いた。
「レオン・アルセリア。第二王子。国王の次男。兄は王太子アーヴェル」
「随分詳しいな」
「敵国の王族だぞ」
「まあ、そうか」
レオンは頭を掻いた。
「じゃあ改めて。レオン・アルセリアだ」
「最悪だ」
「昨日、俺も同じこと言った」
セラは大きく息を吐いた。
「私も名乗っておく」
「セラだろ」
「セラ・ヴァルガ」
今度はレオンが固まった。
「……ヴァルガ?」
「ああ」
「竜王の?」
「第三王女だ」
しばらく二人は見つめ合った。
「最悪だな」
「ああ」
今度は二人とも、同時にため息をついた。
セラの傷が塞がるまで、一週間ほどかかった。
最初の二日間、二人は必要最低限しか話さなかった。
セラは隙があれば逃げようとし、レオンはそれを止めた。
傷口が開くからという理由だったが、セラにはなかなか信じてもらえなかった。
三日目になると、沈黙に耐えかねたのはセラの方だった。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「人間は本当に竜人の血を飲むのか?」
レオンはパンを食べる手を止めた。
「……何?」
「竜人の血を飲めば魔力が増すと信じているのだろう」
「初耳だ」
「嘘をつくな。そう教えられた」
「飲まない。そんな気持ち悪いことするか」
「気持ち悪いとはなんだ」
「血を飲むことだよ」
「我々の血のことかと思った」
「面倒臭いな、お前」
セラがむっとする。
「こっちは竜人が人間を食うって教わったぞ」
「食うわけないだろう」
「そうなのか」
「臭そうだ」
「おい」
「特にお前は」
「助けた恩を返せ」
「それとこれとは別だ」
少しの沈黙のあと、どちらからともなく笑った。
笑ってから、二人とも妙な顔になった。
敵と一緒に笑った。
たったそれだけのことが、何か悪いことをしたように感じられた。
四日目。
レオンはセラの角を眺めていた。
「なんだ」
「いや」
「さっきから見ているだろう」
「角って触ると痛いのかと思って」
「……それを知ってどうする」
「気になっただけ」
「表面は痛くない。根元は痛い」
「へえ」
「触るなよ」
「触らないよ」
「絶対だぞ」
「分かったって」
そう答えたものの、珍しいものは珍しい。つい視線が向いてしまう。
「見るな」
「減るものじゃないだろ」
「人間は失礼だな」
「じゃあ翼は?」
「何が」
「触っていい?」
「お前、触ることしか考えてないのか?」
「だって見たことないし」
「見せない」
「なんで」
「嫌だからだ」
「けち」
「敵に言われたくない」
また笑った。
五日目は雨だった。
小屋の屋根を雨粒が叩き、一日中外へ出られなかった。
セラは窓際に座り、ずっと外を見ていた。
「暇だ」
「寝てろ」
「もう傷は塞がっている」
「じゃあ帰れば?」
「雨だ」
「竜人は雨が苦手なのか」
「髪が濡れる」
「普通だな」
「何を期待していた」
「雨を弾くとか」
「人間は馬鹿なのか?」
「王子に向かって言うな」
「ここでは王子ではないだろ」
何気ない一言だった。
だが、レオンは少し黙った。
「……そうだな」
ここでは王子ではない。父王もいない。兄もいない。臣下もいない。正しい王子でいる必要がない。
そして、セラも竜王の娘ではない。敵でもない。
ただのレオンと、ただのセラだった。
そう思うと、この小さな小屋の中だけが、世界から切り離された場所のように感じられた。
六日目の夜、セラが明日帰ると言った。
「傷は?」
「もう大丈夫だ」
「歩けるのか」
「飛ぶ」
「……飛べるの?」
セラは呆れた顔をした。
「竜人だぞ」
「いや、知ってるけど」
「翼があることも知らなかったのか?」
「あるとは聞いてた。でも見たことない」
レオンが身を乗り出す。
「見たい」
「嫌だ」
「なんで」
「お前は子供か」
「一回だけ」
「嫌だ」
「命を助けた」
「それを使うのは卑怯だぞ」
「じゃあパン七日分」
「細かい男だな」
結局、セラが折れた。
二人は小屋を出た。
雨上がりの森には湿った土の匂いが漂い、雲の切れ間から月が覗いている。
セラは少し離れ、目を閉じた。
次の瞬間、その背中から黒い翼が開いた。
――大きかった。
レオンが両腕を広げても到底届かないほどの翼が、月明かりの下に広がっている。
羽毛はない。
薄い膜と細い骨格からなる、まさしく竜の翼だった。
けれどレオンの口から出たのは、恐怖とは正反対の言葉だった。
「――綺麗だな」
セラがこちらを見る。
「……怖くないのか」
「なんで?」
「人間は竜の翼を、悪魔の翼と呼ぶと聞いた」
「俺には綺麗に見えるけど」
セラはしばらく黙っていた。それから少しだけ顔を逸らした。
「初めて言われた」
レオンはその横顔を見た。
なぜか、それ以上何も言えなかった。
七日目。
二人は森の外れまで一緒に歩いた。
道が二つに分かれている。東へ行けば人間の国、西へ行けば竜人の領地。
「じゃあな」
「ああ」
「もう会わない方がいいな」
「そうだな」
当然だった。
ここで別れれば、すべて元に戻る。
レオンは人間の王子。セラは竜人の王女。敵同士。
それが正しい。
「セラ」
「なんだ」
「死ぬなよ」
セラが少し驚いた。それから笑った。
「お前も」
「俺は死なない」
「なぜ」
「強いから」
「私より弱いくせに」
「怪我して倒れてた奴が言うな」
「あれは不意打ちだ」
「はいはい」
「本当だ」
セラは翼を開いた。だが、飛び立つ前に振り返る。
「レオン」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
初めて素直に言われた。
レオンは少しだけ驚いて、「おう」と答えた。
セラが空へ上がる。黒い翼が少しずつ小さくなっていく。
レオンは、見えなくなるまでその姿を見ていた。
城へ戻れば、いつもの生活が待っていた。
剣術の稽古。軍議。貴族との食事。父王からの小言。兄との政務。
レオンは第二王子だった。王になる予定はない。だから兄を支えろと教えられてきた。
「国境で竜人の斥候が確認された。恐らく、春の侵攻に向けた偵察でしょう」
軍議で将軍がそう説明すると、一人の貴族が吐き捨てるように言った。
「竜人は信用できません。奴らは獣と同じです」
以前なら何も思わなかった。
今は、黒い翼が頭に浮かんだ。
『人間は馬鹿なのか?』
レオンは危うく笑いそうになった。
「殿下?」
「いや。なんでもない」
セラは敵だ。
分かっている。
次に戦場で会えば、剣を向けなければならない。
それでも、獣ではないことだけは、もう知ってしまった。
半年後。
二人は再会した。
戦場で。
秋の終わり、国境の平原で両軍がぶつかった。レオンも王族として騎士団を率いていた。
空を飛ぶ竜人を見上げ、その中に一対の黒い翼を見つけた。
見間違えるはずがない。
セラだった。
黒い鎧を身につけ、剣を握っている。森でパンを食べながら悪態をついていた少女とは、まるで別人のようだった。
セラもレオンを見つけた。
目が合った。
ほんの一瞬だけ、周囲の音が遠くなった気がした。
「殿下!」
兵士の声で現実へ戻る。
敵が来る。
レオンは剣を抜いた。セラも空から降りる。
二人の剣がぶつかった。
「久しぶりだな」
「戦場で言うことか?」
「他に思いつかなかった」
「半年もあっただろう」
「会えると思ってなかった」
再び剣がぶつかる。
セラは強かった。
「傷は?」
「とっくに治った」
「そうか」
「お前こそ、腕が鈍ったか?」
「お前が強くなったんだよ」
「そうか」
「嬉しそうだな」
「嬉しい」
また剣がぶつかる。
殺さなければならない。
互いに分かっている。
だが、どうしても急所を狙えなかった。
そして、相手も同じだと気づいてしまった。
「セラ」
「なんだ」
剣を押し合ったまま、レオンは言った。
「会いたかった」
セラの力が一瞬抜けた。
「……馬鹿」
「悪い」
「今言うな」
「今しか言えない」
セラは泣きそうな顔で笑った。
「私もだ」
その瞬間、矢が飛んできた。
「セラ!」
レオンは反射的に彼女を引いた。矢が地面へ突き刺さる。
「殿下! 離れてください!」
人間の兵士が叫んだ。
まずい。
セラの表情が変わる。
「行け」
「でも」
「行け!」
セラは翼を開き、空へ飛び上がった。
レオンは見送るしかなかった。
三日後。
レオンは一人で森へ向かった。
理由などなかった。あの狩猟小屋へ行けば、セラがいる気がした。
そんなわけがないと、自分でも分かっている。
「馬鹿だな、俺」
小屋へ着き、扉を開ける。
「遅い」
セラがいた。
レオンはしばらく何も言えなかった。
「……なんでいる」
「お前こそ」
二人は顔を見合わせた。
そして、笑った。
それから二人は、ときどき森で会うようになった。
約束はしなかった。
手紙も残さなかった。ただ会いたくなったとき、あの小屋へ行った。
月に一度会えることもあれば、二月に一度のこともある。戦況が悪ければ半年会えないこともあった。
会えば、戦争の話はあまりしなかった。
「人間の菓子は甘すぎる」
「竜人の酒は強すぎる」
「お前が弱いだけだ」
「王子に酒で勝って自慢するな」
そんな、どうでもいい話ばかりだった。
ある日、セラが思い出したように自分の角へ触れた。
「そういえば、お前は昔、角を触りたがっていたな」
「昔って半年前だろ」
「触ってみるか」
「いいの?」
「一度だけだ」
レオンは恐る恐る角へ触れた。
硬い。少し冷たい。
「どうだ」
「角だな」
「それだけか」
「他に何を言えばいいんだ」
「知らん」
「じゃあ翼も」
「調子に乗るな」
城ではレオンは第二王子だった。竜人の国では、セラは第三王女だった。
ここでは、ただのレオンとセラだった。
その時間が二人にとって何なのか。
まだ、どちらも口にはしなかった。
いつから好きになったのか、二人とも分からなかった。
ある春の日。
セラがレオンの肩にもたれ、そのまま眠ってしまった。
森には鳥の声がしていた。風が木々を揺らし、葉の隙間から落ちた光が地面でゆっくり動いている。
レオンは動かなかった。
起こしたくなかった。
しばらくして、セラが目を開ける。
「……どれくらい寝た」
「少し」
「起こせ」
「気持ちよさそうだったから」
セラは身体を起こしたが、離れなかった。
肩が触れたままだった。
二人とも、何となく黙っていた。
「レオン」
「ん?」
「お前は、人間の女と結婚するのか」
「王族だからな。多分」
「そうか」
「お前は?」
「同じだ。竜人の有力な家から選ばれる」
「そうか」
聞かなければよかった。
おそらく二人とも、同じことを考えていた。
「嫌だな」
レオンが言った。
「何が」
「お前が知らない男と結婚するの」
セラがこちらを見る。
「すごく嫌だ」
「……私も」
小さな声だった。
「お前が誰かと結婚するのは、嫌だ」
レオンはセラを見る。
セラも見ている。
近かった。
「セラ」
「なんだ」
「キスしていい?」
「聞くのか?」
「駄目?」
セラの顔が少し赤くなる。
「……聞くな」
だから、レオンは口づけた。
短いキスだった。
離れると、セラの顔は耳まで赤くなっている。
「竜人も赤くなるんだな」
「今それを言うのか?」
「ごめん」
セラは少し睨んでから、視線を逸らした。
「……もう一度」
「え?」
「言わせるな」
今度は、少しだけ長いキスだった。
「戦争が終わったら――」
ある日、レオンが言った。
「その言葉は禁止だ」
「なんで」
「三百年だぞ。戦争が終わる日を待っていたら、私たちは骨になっている」
「竜人は長生きだろ」
「人間より少し長いだけだ」
「じゃあどうする」
「今を生きる。会えるときに会う。それでいい」
レオンは少し考えた。
「俺は嫌だな」
「何が」
「それだけじゃ足りない」
セラが彼を見る。
「普通にお前と歩きたい」
「……」
「町を歩いて、飯食って、くだらないことで喧嘩して」
「喧嘩は今もしている」
「確かに」
二人は笑った。
「子供も」
「……気が早い」
「そう?」
「結婚もしていない」
「じゃあ結婚しよう」
「順番の話ではない」
セラは笑った。
でも、少しして、その笑顔が消えた。
「できたら、いいな」
「ああ」
「そんな日が」
レオンはセラの手を取った。
「来るよ」
「嘘つき」
「なんで」
「お前にも分からないだろう」
「じゃあ、来るようにする」
セラはしばらくレオンを見つめ、それからその手を握り返した。
「……そうだな」
だが、その「いつか」は来なかった。
二年後、竜王が人間の軍に殺された。
セラの父だった。
戦争が始まって三百年以上、人間と竜人の王族が戦死すること自体は珍しくない。それでも、竜王の死は竜人たちを激昂させた。
報復が行われた。
一月後、アルセリア国王が竜人の刺客によって殺された。
レオンの父だった。
そこからは早かった。
和平を口にする者は裏切り者と呼ばれ、人間の街では「竜人を滅ぼせ」と叫ぶ者が増えた。竜人の国では「人間を焼き尽くせ」という声が広がった。
そして、レオンの兄アーヴェルが戦死した。
王位がレオンへ回ってきた。
同じ頃、セラの兄と姉も相次いで戦死した。
第三王女だったセラは、竜王になった。
二人はそれぞれの国で、最も相手を憎まなければならない者になった。
王になってから、二人は一度だけ森で会った。
昔と同じ狩猟小屋だった。
先に来ていたセラを見た瞬間、レオンは言った。
「痩せたな」
「お前も」
「眠れてるか」
「少し。お前は?」
「似たようなもの」
そこで会話が途切れた。
以前なら、くだらない話がいくらでもできた。菓子が甘いとか、酒が強いとか、角を触るなとか、そんなことで何時間も過ごせた。
今はできなかった。
父親が死んだ。
兄が死んだ。
姉が死んだ。
部下が死んだ。
民が死んでいる。
そして、そのすべての向こう側に、愛する人の国がある。
「レオン」
「ん?」
「父を殺したのは、お前ではない」
レオンは黙っていた。
「私の父を殺した兵士も、お前の命令ではない。それは分かっている」
「ああ」
「お前の父を殺したのも、私ではない」
「分かってる」
分かっている。
レオンはセラを憎んでいない。
セラもレオンを憎んでいない。
だが、二人の背後にいる何万人もの人々は違う。
「逃げるか」
レオンが言った。
セラが目を見開く。
「二人で逃げよう」
「……」
「王も国も戦争も、全部捨てる。誰も知らない場所まで行けばいい」
セラは何も言わなかった。
レオンは続ける。
「小さい家を建てる。前に話しただろ」
「……ああ」
「町を歩いて、飯を食って、喧嘩して」
「畑も」
「そう。畑も」
「お前、農業できるのか」
「できない」
「私もだ」
「覚えればいい」
セラが笑った。
そして。
泣いた。
「行きたい」
小さな声だった。
「お前と行きたい」
レオンはセラを抱きしめた。
「じゃあ――」
「でも、できない」
セラがレオンの胸を押した。
「私が逃げれば、次の竜王が戦争を続ける」
「……」
「お前が逃げれば、次の人間の王も同じだ」
「ああ」
「今より、もっと死ぬ」
レオンにも分かっていた。
分かっていて、それでも言ったのだ。
「それでも、お前といたい」
「私もだ」
セラはレオンの服を強く掴んだ。
「私も、お前といたい」
それなのに、
二人は王になってしまった。
「最悪だな」
セラが泣きながら笑った。
「最初に会った日みたいだ」
レオンも笑った。
「ああ。本当に最悪だ」
その夜、二人は夜明けまで一緒にいた。
そして、朝になれば別々の国へ帰った。
最後の戦争が始まったのは、その一年後だった。
人間六万。竜人三万。
アルセリア平原へ、両国が動かせるほぼすべての兵が集まった。
人間が勝てば竜人の王都まで進軍する。竜人が勝てば、アルセリア王国の中央部まで人間側にまともな防衛戦力は残らない。
どちらが勝っても、片方の国は滅びる。
そんな戦いだった。
レオンは人間軍の先頭にいた。
平原の反対側には、セラがいる。
姿は見えない。
それでも、いると分かっていた。
王なのだから。
逃げられないのだから。
「陛下」
隣にいた老将軍が言った。
「ご命令を」
レオンは剣を抜いた。
六万の兵士が武器を構える音が背後から響いた。
反対側でも、竜人たちが翼を広げている。空を覆うほどの翼だった。
あと一言。
進め。
それだけ言えば、三百年の戦争で最も大きな殺し合いが始まる。
レオンは手の中の剣を見た。
父が使っていた剣だった。
兄も一度だけ握ったことがある。
王の剣。
国を守るための剣。
その向こうに、黒い翼が浮かんだ。
『綺麗だな』
あの夜。
月明かりの下で見た翼。
驚いた顔をした少女。
レオンは目を閉じた。
「……馬鹿だな、俺」
「陛下?」
剣を落とした。
老将軍が息を呑む。
「陛下、何を――」
レオンは一人で歩き出した。
「陛下!」
誰かが止めようとする。
だが、振り返らなかった。
武器を持たず、平原の中央へ向かって歩いていく。
竜人側からも、その姿は見えていた。
たった一人の人間が、軍から離れてこちらへ歩いてくる。
セラには、すぐに誰なのか分かった。
「……馬鹿」
思わず笑った。
昔からそうだ。
敵である自分を助けたときも。
戦場で「会いたかった」と言ったときも。
逃げようと言ったときも。
いつも馬鹿なことを先にするのはレオンだった。
セラは自分の剣を見た。
そして、
地面へ落とした。
「陛下?」
部下が声を上げる。
セラも歩き出した。
「どちらへ!」
「少し――」
セラは前を向いたまま答えた。
「恋人に会ってくる」
誰もそれ以上、何も言えなかった。
平原の中央で、二人は再会した。
「久しぶり」
レオンが言った。
「三日前の軍議で顔を見ただろう」
「遠かった」
「そうか」
「痩せたな」
「お前も」
昔と同じ会話だった。
けれど、二人の背後には九万の兵士がいる。
レオンは人間の王として。
セラは竜人の王として。
そこに立っている。
「セラ」
「なんだ」
「戦争、やめないか?」
セラは少し目を丸くしてから、笑った。
「軽いな」
「重く言うと怖いから」
「臆病者」
「知ってる」
セラは振り返らずに、自分の背後にいる軍を意識した。
「私はやめたい」
「俺も」
「だが、皆が許さない」
「うん」
「父を殺された者がいる。母を殺された者も、子を殺された者もいる」
「いるな」
「三百年だ」
「ああ」
「憎しみが多すぎる」
「そうだな」
簡単に消せるものではない。
二人が愛し合ったからといって、それで過去に死んだ者が帰ってくるわけでもない。
それでも。
「だから、ここから始めよう」
レオンが言った。
「何を」
「やめることを」
「……」
「三百年前の人間にはできなかった。三百年前の竜人にもできなかった」
レオンはセラを見る。
「でも、俺はお前を知ってる」
セラの目から涙が落ちた。
「私も」
セラは笑った。
「お前を知っている」
その瞬間――
矢が飛んだ。
どちらの軍から放たれたのかは、後世まで分からなかった。
人間は竜人が放ったと言い、竜人は人間が放ったと言った。
あるいは、誰か一人が戦争を止められることを恐れただけだったのかもしれない。
一本の矢が、レオンの胸を貫いた。
「レオン!」
セラが彼を抱きとめる。
次の瞬間、もう一本。
今度はセラの背中へ刺さった。
二人は折り重なるように地面へ倒れた。
両軍から叫び声が上がった。
だが進軍の命令は出なかった。
「セラ」
「いる」
「痛い」
「私もだ」
レオンは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「死ぬかな」
「多分」
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
二人は血に濡れた草の上で、互いの手を探した。
指が触れる。
握る。
それだけで、少しだけ怖くなくなった。
「森」
レオンが言った。
「ん?」
「あそこに、家を建てたかった」
セラの目から涙が落ちた。
「小さいのがいい」
「雨漏りするくらい?」
「それは嫌だ」
「俺が昔住んでた家はした」
「直せ」
「俺、不器用だぞ」
「知ってる」
二人は笑った。
「畑も作ろう」
「お前、農業できるのか」
「できない」
「私もだ」
「じゃあ無理だな」
「覚えればいい」
「そうだな」
セラは目を閉じかけ、また開いた。
「時間は、たくさんあるから」
レオンは泣いた。
そんなものは、もうない。
分かっていた。
セラも分かっている。
それでも――
「ああ」
レオンは答えた。
「たくさんある」
「レオン」
「ん?」
「好きだ」
「知ってる」
「お前は?」
「言わなくても分かるだろ」
「言え」
レオンは笑った。
「愛してる」
セラも笑った。
「私も」
それが二人が交わした最後の言葉になった。
戦争は、その日、始まらなかった。
始められなかった。
人間の王が死んだ。
竜人の王も死んだ。
互いを殺そうとして死んだのではない。
二人は平原の中央で、手を握ったまま死んでいた。
六万の人間と三万の竜人が、その光景を見ていた。
誰も進めとは言えなかった。
もちろん、それだけで三百年の憎しみが消えたわけではない。
和平までには、さらに十二年かかった。
その間にも小さな戦いは起きた。報復を求める者もいた。レオンを裏切り者と呼ぶ人間も、セラを人間に誑かされた愚かな女王だと罵る竜人もいた。
それでも、あの日のように両国の全軍が集まることは二度となかった。
なぜならあの日、九万人が見てしまったからだ。
敵国の王が、怪物ではない誰かを愛していたことを。
そして自分たちの王もまた、敵に愛されることのできる一人の人間だったことを。
――五十年後。
かつて両軍が向かい合ったアルセリア平原には、一軒の小さな家が建っていた。
人間と竜人が一緒に建てた家だった。
立派な城でも、二人を称える神殿でもない。
木造の小さな家。
家の前には畑がある。
初めて畑を作った者たちは農業に慣れていなかったらしく、最初の年はほとんど何も育たなかったという。
翌年からは、少しずつ作物が実るようになった。
春になると、家の周囲には白い花が咲く。
そして家の前には、二つの墓が並んでいた。
レオン・アルセリア。
セラ・ヴァルガ。
それだけ。
王とは刻まれていない。
人間とも竜人とも書かれていない。
ただ、二人の名前だけがあった。
――ある春の日。
二人の子供が墓の前で遊んでいた。
一人は人間の少年。
もう一人は、頭に小さな角の生えた竜人の少女だった。
少女が墓石を覗き込む。
「ねえ。この人たち、誰?」
少年も隣から覗く。
「知らない」
「昔の人?」
「たぶん」
「恋人かな」
「なんで?」
「お墓が隣だから」
少年は少し考えた。
「じゃあ、そうかも」
「ふうん」
それだけだった。
二人はすぐに墓への興味を失い、白い花の咲く草原へ走っていった。
「待ってよ!」
「遅いぞ!」
「翼使ったらずるい?」
「ずるい!」
「じゃあ使わない!」
笑い声が遠ざかっていく。
人間の少年と竜人の少女が、当たり前のように手を繋いで走っている。
誰も止めなかった。
――三百年。
人間と竜人は、互いを怪物だと教えてきた。
けれどレオンはセラを知った。
セラはレオンを知った。
最初は、それだけだった。
一緒にパンを食べた。
くだらないことで喧嘩した。
笑った。
角に触れた。
翼を綺麗だと言った。
そして、好きになった。
世界を変えるには、あまりにも小さなことだった。
けれど、世界が変わり始めるには、それで十分だった。
やがて二人の物語は伝説になった。
伝説は昔話になり、昔話も少しずつ語られなくなった。
それでよかった。
二人が欲しかったのは、自分たちの恋が永遠に語り継がれる世界ではない。
人間と竜人が恋をしても誰も驚かない。
誰も止めない。
悲劇にも、伝説にもならない。
そんな、当たり前の世界だったのだから――。




