ep.9 竜の血
セレンから手に入れた写本は、リーゼルの予想を超えていた。
三日三晩、食事も睡眠も削って読み込んだ。アルヴィンが黙って置いていくスープの椀が、冷めたまま机の端に並んでいくのを横目に、ページをめくる手を止められなかった。
四日目の朝。
リーゼルは研究ノートを閉じ、椅子の背もたれに深く沈んだ。
天井の苔を見つめながら、長く息を吐いた。
「——見つけた」
独り言のつもりだったが、すぐ後ろで布を畳む手が止まる気配がした。
アルヴィンだ。朝の家事を一通り終え、リーゼルの研究着の繕い物をしていたらしい。首輪の封印が第一層外れてから、彼の気配の察知能力は格段に上がっている。リーゼルが息を吐いただけで、何かが変わったことを感じ取ったのだろう。
「……何を見つけた」
「あなたの中に眠ってるもの。正体がわかった」
リーゼルは椅子を回して、アルヴィンに向き直った。
「座って。少し長くなる」
アルヴィンは繕い物を畳み、向かいの椅子に腰を下ろした。背筋がまっすぐなのは、たぶん無意識の癖だ。どれだけ身をやつしても、座り方ひとつに育ちが出る。
「封印の解析を進める中で、ずっと引っかかってたことがある。あなたの身体の異常な再生速度。六層もの封印が必要な魔力量。——それから、封印の第一層を解いた時の、身体組織の反応パターン」
リーゼルは机の上に写本を広げた。
「この写本に答えがあった。ドラグノア帝国の建国神話に遡る話なんだけど——」
「始祖竜の伝承か」
アルヴィンが静かに言った。
「帝国の王族には竜の血が流れている、という。建国王が始祖竜と契約を結び、その力の一部を血統に組み込んだ。……子どもの頃から聞かされていた。おとぎ話だと思っていたが」
「おとぎ話じゃなかった」
リーゼルは写本の一頁を指でなぞった。
「始祖竜の因子。王族の血統に受け継がれる竜の力の残滓。通常は潜在したまま、世代を経るごとに薄まっていく。——でも、数百年に一人、因子が完全に覚醒する個体が現れる」
指がアルヴィンを示した。
「あなただよ」
沈黙が落ちた。
焚き火の爆ぜる音だけが、砦に響いている。
アルヴィンの表情は変わらなかった。少なくとも、表面上は。だが、膝の上に置かれた手が——微かに、拳を握っていた。
「……それは」
「六層封印の理由がこれで説明がつく。通常の魔力を封じるだけなら三層で十分。六層が必要だったのは、竜の因子まで含めて封じ込める必要があったから。宮廷魔術師は、あなたの中にこれがあることを知っていた」
「……知っていて、封じたのか」
「封じなければ制御できないと判断したんだろうね。写本によれば、完全覚醒した因子は——持ち主の感情に呼応して暴走する性質がある。怒り、恐怖、絶望。強い負の感情がトリガーになる」
リーゼルの声は平坦だったが、アルヴィンにはその言葉の重さがわかっていた。
怒り。恐怖。絶望。
——奴隷に落とされてから、どれだけその感情に溺れたか。
「暴走したら何が起きるの、と聞かれると思うから先に言うね」
リーゼルが写本のページをめくった。
「因子が完全覚醒し、制御を失った場合——肉体が竜化する。理性を失い、破壊衝動に支配される。かつての完全覚醒者が暴走した記録では、一つの都市が半日で壊滅している」
アルヴィンの拳が、白くなるほど握り締められた。
「……俺の中に、そんなものが」
「ある。しかも今、不安定になってる」
リーゼルが立ち上がり、アルヴィンの前に来た。
「首輪に手を当てていい?」
アルヴィンが僅かに頷いた。
リーゼルの指先が首輪に触れる。目を閉じ、意識を集中する。
封印の内側——五層目と六層目の間に、微かな振動がある。因子が脈動している。かすかな、しかし確かな鼓動。眠っていたものが、寝返りを打ち始めている。
「第一層を解いた刺激で、因子が反応し始めてる。今はまだ微弱だけど、このまま放置すると——」
リーゼルは目を開けた。
「封印を内側から食い破って、暴走する可能性がある」
アルヴィンの顔から、血の気が引いた。
「……都市が壊滅すると言ったな」
「うん」
「この森の近くには、村がある。獣人の集落もある」
「うん」
「……俺は」
アルヴィンが立ち上がった。椅子が軋んだ。
「俺を、殺せ」
リーゼルが、ぽかん、とした顔をした。
「は?」
「俺が暴走すれば、周囲の人間が死ぬ。ならば——」
「ちょっと待って。なんでいきなりそうなるの」
「これ以上の被害を出す前に——」
「座って」
リーゼルの声は柔らかくはなかった。だが、怒りでもなかった。
ただ——呆れていた。
「座ってって言ってるでしょ」
アルヴィンが、引力に逆らえないかのように座った。
リーゼルは腕を組んで、アルヴィンを見下ろした。
「あのね。いきなり最悪の選択肢に飛ぶのは、思考の怠慢だよ。殺す以外の方法がないなんて、誰が言った?」
「だが——」
「私が言ってないなら、まだ可能性は閉じてない」
リーゼルの紫の瞳が、まっすぐにアルヴィンを見ていた。
「因子の安定化。暴走を防ぐ方法を、私が見つける」
「……見つけられるのか」
「わからない。でも、写本の中にヒントはある。因子を安定化させた過去の記録が断片的に残ってる。足がかりはある」
リーゼルが写本を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
「それに——正直に言うと、始祖竜の因子なんて、錬金術師として一生に一度出会えるかどうかの研究対象だよ。目の前にあるのに手をつけないなんて、そんなもったいないことできない」
アルヴィンが、微かに目を見開いた。
「……もったいない、で済む話なのか。大陸が滅ぶかもしれないのに」
「大陸が滅んだら困るでしょ。私の研究が続けられなくなる。ルゥの修復もできなくなる。あなたが作る飯も食べられなくなる」
最後の一言は、たぶん無意識に出たものだった。リーゼル自身、言ってから少し間が空いた。
「……とにかく。死ぬとか殺せとか、そういうのはなし。私が手を尽くしてから言って」
アルヴィンは、しばらく何も言えなかった。
この女は——本気だ。
大陸を滅ぼしかねない力を前にして、怯えていない。恐れてもいない。いや、恐れているのかもしれないが、それよりも先に——「どうすれば解決できるか」に意識が向いている。
手がつけられない難題を前にした時、人間は大きく二つに分かれる。
諦める者と、方法を探す者。
この女は——迷いなく後者だ。
「……わかった」
声が、喉の奥から絞り出すように出た。
「お前に、任せる」
「任せるっていうか、一緒にやるんだよ。あなたの身体のことなんだから。データが必要な時は遠慮なく協力してもらう」
「……被験体の仕事か」
「助手の仕事でもある。自分の身体の感覚の変化を、正確に報告すること。因子が反応してる時、あなたにしかわからないことがある。それを私に教えて」
アルヴィンは頷いた。
リーゼルは写本を抱えて机に戻り、新しいノートを開いた。白紙のページに、最初の一行を書き込む。
『始祖竜因子安定化計画——実験記録#1』
ペンが走り始める。
その背中を見ながら、アルヴィンは拳を開いた。
掌に、爪が食い込んだ跡が残っていた。
——怖い。
自分の中に眠るものが怖い。暴走して、すべてを壊してしまうことが怖い。この砦を。この森を。この女を。
自分がまた、取り返しのつかないことをしてしまうのではないかという恐怖が、腹の底に重く沈んでいる。
でも——
あの背中が、「方法はある」と言った。
根拠は薄い。成功する保証はない。「わからない」と正直に言っていた。
だが「わからない」と言いながら、もうペンを走らせている。
あの手は止まらない。
それだけが——今のアルヴィンにとって、唯一の確かなものだった。
◇ ◇ ◇
その夜。
リーゼルは写本と格闘していた。古代ドラグノア語の記述は難解で、アルヴィンの翻訳補助があっても読解に時間がかかる。
向かい合って座り、アルヴィンが原文を読み、リーゼルが内容を記録する。
二人の間に広げられた写本の上で、時折指先が触れた。
そのたびにアルヴィンが僅かに手を引くのを、リーゼルは気にしていなかった。——たぶん。
「……ここ。この一節」
アルヴィンが指さしたのは、写本の後半にある短い記述だった。
「『因子の覚醒者を繋ぎ止めるものは、鎖ではなく声である。人の声が、竜の咆哮を鎮める唯一の楔となる』」
リーゼルがペンを止めた。
「声」
「……詩的な表現だな。具体的な術式のことを比喩で書いているのか、それとも文字通りの意味なのか」
「どっちもありえる。——でも、面白いヒントだ」
リーゼルが目を細めた。何かを考え込んでいる顔。ルゥのメンテナンス中に口ずさんでいた鼻歌のことを思い出しているのかどうかは、アルヴィンにはわからなかった。
「続きを読もう。もう少しで全体像が見えてくると思う」
「ああ」
夜は深く、焚き火は静かに燃え続けた。
二人の間に写本があり、その向こうに互いの顔がある。
アルヴィンは文字を追いながら、時折、写本越しにリーゼルの横顔を盗み見た。
焚き火に照らされた銀灰色の髪。真剣な目。インクで汚れた指先。
この女が——「方法を見つける」と言った。
信じていいのか、まだわからない。
でも、信じたいと思っている自分がいることは——もう、否定できなかった。
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* * *
「始祖竜因子安定化計画 初日
因子の現状:潜在的覚醒段階。微弱な脈動を確認。
暴走リスク:中~高。感情のトリガーに注意。
方針:写本の記述を手がかりに安定化の術式を構築する。
必要なもの:時間、素材、データ、そして——
あの男が死にたがるのをやめてくれること。
それが一番難しいかもしれない」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、実験記録帳より
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