ep.8 商人の嗅覚
その商人は、予告なく現れた。
カイが「街から変な商人が来てる」と砦に知らせに来たのは、昼過ぎのことだった。
「変な、とは」
リーゼルが研究の手を止めずに聞くと、カイは砦の入り口に腕を組んで寄りかかりながら答えた。
「耳が尖ってる。半分エルフ。やたら愛想がいい。集落の近くの村——ランテルンってところに逗留してて、『森に天才の錬金術師がいると聞いた、取引がしたい』って言ってるらしい」
「天才の錬金術師。誰が言ったのそんなこと」
「お前以外に誰がいるんだ」
「心当たりがない」
「あるだろ」
リーゼルは首を傾げた。村に回復薬を少し卸したことはあるが、あれは集落の獣人たちへの薬の素材を仕入れるついでだ。名前は出していない。
「どうする。追い返すか?」
カイの琥珀色の目が、こちらを窺っている。判断を任せる、という態度だった。この数日でカイとの関係はだいぶ安定してきている。最初の警戒は薄れ、互いの領域を侵さない距離感が出来上がりつつあった。
「……会ってみる。取引内容によっては有益かもしれないし」
「俺もついていく。信用できない相手だったら追い払う」
「助かる」
アルヴィンはその会話を、砦の中で聞いていた。
洗濯物を畳む手が、一瞬だけ止まった。
「……俺も行く」
リーゼルが振り返った。
「あなたが? 村に出て大丈夫? 首輪が——」
「外套で隠せる。それに、得体の知れない商人との交渉に、お前一人で行かせるわけにはいかない」
「一人じゃないよ。カイがいるし」
アルヴィンの眉が、ぴくりと動いた。
「……カイがいるから安心、という判断には同意しかねる。あいつは戦闘力はあっても交渉事には向かない」
「おい。聞こえてるぞ」
カイが入り口から身を乗り出して睨んだ。アルヴィンは涼しい顔で視線を返した。二人の間に流れる空気は、出会った日から一貫して険悪だ。狼と竜が本能的に反発する、とリーゼルは分析しているが、単に性格が合わないだけかもしれない。
「……まあ、来たいなら来て。ルゥも留守番お願い」
「了解、ママ」
ルゥが暖炉の前から手を振った。
◇ ◇ ◇
ランテルン村は、森の外縁部から半刻ほど歩いた場所にある小さな集落だった。
石壁と木造屋根の家屋が二十軒ほど。中央に井戸のある広場。人口は百人に満たないだろう。大陸のどの国にも属さない辺境の自治村で、住人は農民や猟師が中心だ。森の恵みで細々と暮らしている。
村の入り口に差しかかると、広場の井戸端で子どもたちが遊んでいるのが見えた。リーゼルの姿を見つけた子どもの一人が、「あ、薬のお姉ちゃんだ!」と声を上げた。先日、村の子どもの風邪を治してやったことがあるらしい——リーゼルは覚えていなかったが。
「お姉ちゃんと呼ばれている」
アルヴィンが、外套のフードの下から小さく呟いた。
「聞こえてる」
「人間に興味がないはずでは」
「興味がないのと関わらないのは別。効率的に生きるには、最低限の社会関係は必要でしょ」
アルヴィンは何か言いかけて、やめた。
広場を抜け、村の奥にある宿屋兼酒場に向かった。看板には『ハンナの竈』と書かれている。木製の扉を押し開けると、焼きたてのパンと煮込み料理の匂いが押し寄せてきた。
カウンターの奥に、大柄な女性が立っていた。四十代くらい。褐色の肌に、がっしりとした腕。腰にはエプロン。髪は赤みがかった茶色で、後ろに一つにまとめている。目つきは鋭いが、口元にはどこか温かみがある。
「あんたが錬金術師の嬢ちゃんかい」
開口一番、それだった。
「……嬢ちゃん」
「うちの村の子どもの風邪を治してくれたんだろ。礼を言いそびれてた。ありがとうよ」
この女性がハンナ。宿屋の女将。村の人々からは姉御肌の頼れる存在として慕われているらしい、とカイが事前に教えてくれた。
「お礼はいいよ。たまたま素材の買い出しのついでだったから」
「ついでだろうがなんだろうが、助かったもんは助かったんだ。——で、あんたに会いたがってる男がいるよ。奥の席」
ハンナが顎でしゃくった方向に、一人の青年が座っていた。
窓際の席。午後の光が斜めに差し込んで、青年の横顔を照らしている。
最初に目を引いたのは、耳だった。人間よりわずかに尖った耳。ハーフエルフの特徴。
次に、髪。淡い亜麻色の長い髪を緩く編んで、片方の肩に流している。肌は白く、顔立ちは中性的で整っている。美貌、という言葉が男性に対して使われる数少ないケースの一つだ。
そして——目。
翡翠色の瞳が、こちらを見ていた。柔和な微笑みを浮かべている。だが、その笑顔の奥が読めない。光を受けた翡翠の表面のように、きれいだが中身が見通せない。
「お待ちしておりました」
青年が立ち上がり、優雅に一礼した。所作が洗練されている。商人というよりは、宮廷の外交官のような身のこなし。
「セレン・アストレアと申します。旅の商人をしております。——あなたが、森の錬金術師殿ですね」
「リーゼル。どこで私のことを」
「商人の嗅覚、とでも申しましょうか。辺境の村で突然出回り始めた高品質の回復薬。原材料の調達先は森の奥。となれば、腕の立つ錬金術師が近くにいるのは明白です」
丁寧語。柔らかい口調。だが、情報の分析力は鋭い。
「率直にお話しします。あなたの回復薬を仕入れて、各地で販売させていただけませんか。品質は街の薬師のものを凌駕しています。適正な対価をお支払いします。——それから、こちらからも、あなたのお役に立てるものをご提供できるかと」
セレンが鞄から小さな布包みを取り出し、テーブルに置いた。
包みを開く。
中には——高純度の合成素材が三種、希少な触媒鉱石が二つ、そして古代ドラグノア語で書かれた写本が一冊。
リーゼルの目の色が変わった。
「……これ」
合成素材はルゥの修復に使えるもの。触媒鉱石は封印解析の効率を上げるもの。写本は——タイトルだけで、リーゼルの心拍数を上げるのに十分だった。
「『始祖竜因子の系譜と封印術式の変遷』。古代ドラグノア帝国時代の禁書の写しです。原本は帝国の宝物庫にあるとされていますが、写本がごく少数、闇市場に流れています」
セレンが微笑んだ。
「商人の嗅覚が正しければ、あなたはこの写本に大変な興味をお持ちのはずです」
リーゼルは写本を手に取り、最初の数ページをめくった。指先が微かに震えている。
「……これが本物なら」
「本物です。鑑定はご自由にどうぞ」
リーゼルは数秒間、写本に見入っていた。それから顔を上げ、セレンを真っ直ぐに見た。
「条件を聞かせて」
「回復薬を月に五十本。そちらの要望する素材を、私の流通網で調達して納品します。差額は金貨で精算。——いかがでしょう」
「悪くない。でも、回復薬の品質を維持するには森の素材が必要。採取量に限度がある。月三十本なら確約できる」
「では間を取って四十本で」
「三十五本。これが上限」
「……承知しました。三十五本で」
セレンが苦笑した。商人同士のやり取りに慣れた笑顔だったが、その奥にある感情は——感心、だったかもしれない。
「お強い交渉をなさる」
「効率の問題。無理な約束をして品質が落ちたら、双方の損になるでしょ」
「まったくもって。——では、最初の納品は来月の頭に。素材のリストをいただければ、次回訪問時にお届けします」
リーゼルが素材リストを書き始めた。セレンはそれを待つ間、自然な仕草でテーブルの向かいに座り直し、ハンナが運んできた茶を受け取った。
「ありがとうございます。——ところで」
セレンの翡翠の視線が、カウンター近くの壁際に立っているアルヴィンに向けられた。
「そちらの方は、お連れ様ですか」
アルヴィンは外套のフードを目深に被ったまま、壁に背を預けて立っていた。腕を組み、セレンとリーゼルの交渉を黙って聞いていた。
リーゼルが手を止めずに答えた。
「助手」
「なるほど。——助手の方は、随分とお目が鋭くていらっしゃいますね」
セレンが微笑んだ。
アルヴィンは答えなかった。フードの奥の深紅の瞳が、セレンを見据えている。封印の第一層が解除されてから、アルヴィンの眼光には以前にはなかった鋭さが戻り始めていた。
セレンの観察眼は商人として一級品なのだろう。フードの下の眼差しだけで、ただの「助手」ではないことを察したに違いない。だが、それ以上の追及はしなかった。
代わりに、立ち上がりながら穏やかに言った。
「リーゼル殿。素晴らしいお取引になりそうです。今後ともよろしくお願いいたします」
手を差し出した。
リーゼルが握手に応じた。セレンの手は細くてしなやかで、適度な力加減だった。——商人の手だ、とリーゼルは思った。駆け引きと信用を商う者の手。
「よろしく、セレン」
「ええ。——それにしても」
セレンがリーゼルの手を離し、ちらりとアルヴィンのほうを見た。唇に浮かんだ微笑みの角度が、ほんの少しだけ変わった。
「素敵な助手をお持ちですね」
カウンターの向こうで、ハンナが鼻を鳴らした。
アルヴィンが、フードの奥で低く言った。
「……助手だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「ええ、もちろん。そうおっしゃると思いました」
セレンの微笑みが、ほんのわずかに深くなった。
「でも、そんなに睨まなくても大丈夫ですよ? 私はただの商人です。お取引先のパートナーに手を出すほど、無粋ではありません」
「……誰も睨んでいない」
「そうですか。失礼いたしました」
セレンは一礼して、宿屋を出て行った。
扉が閉まった後、しばらく沈黙が流れた。
カイが壁際で腕を組んだまま、口を開いた。
「あの半エルフ、信用できるのか?」
「信用するかどうかはこれから。でも取引内容は合理的だった。少なくとも、詐欺師なら最初からあんな高価な素材は見せない」
リーゼルは写本を鞄にしまいながら答えた。
「それに、あの写本が本物なら——アルヴィンの封印解析が大幅に進む」
アルヴィンの名前を出した途端、当のアルヴィンが小さく咳払いをした。
「……あの商人。底が見えない」
「商人ってそういうものでしょ」
「品物の質は認める。だが——あの目は、ただ商売だけを見ている目ではなかった」
リーゼルが首を傾げた。
「どういう意味」
アルヴィンは答えなかった。代わりに、視線を逸らした。
カウンターの奥でハンナが、大きな鍋を火にかけながら言った。
「あんたら、そこ突っ立ってないで座りな。どうせ昼飯まだだろ。うちのシチューでも食べていきな。——あんたも」
最後の「あんた」は、リーゼルに向けられていた。
「あんた、ちゃんとご飯食べてないだろ。顔色が悪い。クマがひどいよ」
「……食べてるよ。アルヴィンが作ってくれるし」
「あの子の料理は上手いけど、食べる量が足りてないんだろ。ほら、座りな」
有無を言わさぬ声だった。母親の声だ、とリーゼルは思った。自分の母親は、こんな声で自分に話しかけたことはなかったけれど。
三人はカウンター席に並んで座った。リーゼル、アルヴィン、カイ。ハンナが大きな椀にシチューをよそって、一人ずつの前に置いた。
「はい。残さず食べな」
リーゼルがスプーンを手に取った。一口。
——美味しかった。じゃがいもと玉ねぎと、塩漬けの豚肉。素朴だけれど、身体の芯に染み込むような、温かい味。
「美味しい」
「当たり前だ。三十年やってんだから」
ハンナが、ふん、と鼻を鳴らした。でも、口元は笑っていた。
アルヴィンが黙々とシチューを食べながら、ハンナの調理手順を観察していることに、リーゼルは気づいていた。料理人の目だ。味を分析して、自分のレパートリーに組み込もうとしている。
カイは椀を持ち上げて、犬のように一気に飲み干した。
「おかわり」
「行儀が悪いね、あんたは」
ハンナがもう一杯よそいながら、リーゼルを見た。
「あんた。これからもたまには村に来な。あんたみたいな子がいると、村の連中も助かる。——一人で抱え込むんじゃないよ」
リーゼルはスプーンを止めた。
一人で抱え込む。
そんなつもりはなかった。一人が楽だから一人でいるだけで、抱え込んでいるわけではない。
——本当に?
その問いに、答えが出る前に、アルヴィンが口を開いた。
「……この人の言う通りだ。お前は自分の限界を把握するのが下手だ」
「あなたに言われたくない」
「俺は自分の限界を嫌というほど思い知っている。だから言える」
反論できなかった。
ハンナが、二人のやり取りを聞いて、にやりと笑った。
「いいね。面倒見のいい助手じゃないか」
アルヴィンのフードの奥で、耳の先がわずかに赤くなったのを、リーゼルは見逃した。
カイは見逃さなかったらしく、にっと牙を見せて笑ったが、何も言わなかった。
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* * *
「商取引記録
取引先:セレン・アストレア(ハーフエルフ・旅商人)
取引内容:回復薬月35本と引き換えに、希少素材の定期納品
初回特典:古代ドラグノア語写本『始祖竜因子の系譜と封印術式の変遷』
所感:商人としては優秀。知性的で会話が成立する。貴重な取引先。
追記:助手が商談中ずっと不機嫌だった。理由不明。
胃でも痛いのだろうか。鎮痛薬を調合しておく」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、取引記録帳より
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