ep.6 封印の第一層
獣人の集落との交流が始まって、五日。
カイの案内で森の深部への素材採取が捗り、リーゼルの手元には十分な量の魔力結晶が揃った。
いよいよ、本題に入る。
「今日、封印の第一層を解除する」
朝食の席でリーゼルがそう告げたとき、アルヴィンの手が止まった。
木の椀を持ったまま、リーゼルの顔を見る。
「……今日か」
「準備は整った。触媒の魔力結晶、解析用の術式陣、身体への負荷を緩和する鎮痛薬。全部揃ってる」
リーゼルは淡々と、今日の天気を告げるような口調で言った。
アルヴィンは椀を置いた。
封印を解く。
それは——つまり、奪われた自分を、一部だけ取り戻すということだ。
首輪に刻まれた六層の封印。一層解除されるごとに、封じられた魔力が少しずつ戻る。帝国の宮廷魔術師が施した、世界でも最高峰の封印術式。それを、この十七歳の少女が解くという。
期待と恐怖が、同時に喉の奥を締めた。
「……危険は」
「ある。封印は身体に食い込んでいるから、剥がすときに反動がくる。痛みは避けられない。鎮痛薬で軽減するけど、ゼロにはできない」
「痛みか」
「あと、封印が一層外れると、五感が急激に鋭敏になる可能性がある。封印は魔力だけじゃなく、身体機能全般を抑制してるから。今まで鈍くなってた感覚が一気に戻ってくる」
「…………」
「怖い?」
リーゼルが、真っ直ぐにこちらを見ていた。
揶揄ではない。純粋な確認。
「怖くはない」
嘘だった。だが、この女の前で弱音を吐く気にはならなかった。
「そう。じゃあ食後に始める。——ちゃんと食べて。体力は必要だから」
アルヴィンは、黙って椀を手に取り直した。
スープを口に運ぶ。自分で作った野菜のスープ。味はわかる。わかるが——舌の上の感触が、妙にぼんやりしている。
封印のせいだ。
首輪をつけられてから、すべてが膜一枚隔てたように鈍くなっていた。色は薄く、音は遠く、匂いはかすかに。食事の味すら、半分しか感じ取れていない。
それが——戻るのか。
あるいは、戻った感覚の洪水に、耐えられるのか。
◇ ◇ ◇
砦の大広間の中央に、術式陣が描かれた。
リーゼルが半日かけて準備した円形の陣。白い粉で床に直接描かれた幾何学模様の中心に、魔力結晶が六つ等間隔に配置されている。結晶の内部で青白い光が脈動し、陣全体がうっすらと発光していた。
「ここに座って。上着は脱いで」
リーゼルに促され、アルヴィンは陣の中央にあぐらをかいた。
上着を脱ぐと、背中の傷跡が露わになる。リーゼルに治療してもらった傷。
もう塞がっているが、赤黒い線が何本も走っている。
その傷跡の上を、リーゼルの指がなぞった。
「——っ」
反射的に身体が強張った。
「ごめん、痛かった?」
「いや……冷たい」
リーゼルの指先は、いつも冷たい。研究で薬品を扱い続けているせいか、あるいは体質か。
「傷跡の状態を確認してた。大丈夫、十分に治ってる。封印解除の負荷には耐えられる」
リーゼルがアルヴィンの背後に回り、首輪に手を当てた。
金属の輪が肌に触れている冷たさとは別の——リーゼルの掌の温度が、首筋に伝わる。
「これから第一層の封印を解除する。手順を説明するね」
リーゼルの声が、背後から聞こえる。近い。いつもの淡々とした口調だが、ほんの僅かに——集中のための緊張が滲んでいる。
「封印は六層構造。各層が異なる原理で編まれている。第一層は最も外側——身体機能の抑制層。これを外すと、魔力はまだ戻らないけど、五感と身体能力が本来の水準に近づく」
「わかった」
「痛みがきたら、我慢しなくていい。声を出して。身体の反応は正確に教えてくれたほうが、私が調整しやすい」
「……俺に、叫べと言うのか」
「我慢されると判断が遅れる場合があるから」
言い返す余裕を与えず、リーゼルの指先から魔力が流れ始めた。
最初は、微かな温もりだった。
首輪の表面に触れたリーゼルの魔力が、術式の隙間を探るようにゆっくりと浸透していく。くすぐったいような、ぬるいような、不思議な感触。
「第一層の端緒を特定した。——ほどく。少しチクっとするかも」
チクっと、ではなかった。
ばぎり、と。
音がした。首輪の中で何かが折れるような、硬い音。
直後——痛みが来た。
首筋から全身に向かって、稲妻のように走る激痛。筋肉の一本一本が内側から引き裂かれるような感覚。骨が軋む。歯の根が震える。視界が白く弾けた。
「——ぐ、あ……っ!」
声が漏れた。我慢しようとしたが、身体が勝手に反応した。
背中が弓なりに反り、両手が床を掻いた。石の床の冷たさが掌に食い込む。指先が白くなるほど力を込めて、身体を支える。
「大丈夫。封印が身体から剥がれる反動。あと——」
リーゼルの声が聞こえる。背後から。冷静な、データを読み上げるような声。
「——あと少し。ピークはあと二分で過ぎる」
二分。
たった二分が、永遠に感じる。
身体の中で、何かが変わろうとしている。封印という名の膜が、一枚、剥がされていく。貼りついていた皮膚から古い包帯を剥がすときのように——癒着した部分を引き千切るような鈍い痛み。
そして——
痛みの波が、引き始めた。
潮が引くように、ゆっくりと。
代わりに押し寄せてきたのは——世界だった。
目を開けた。
色が——違う。
今まで見ていた世界は灰色のフィルター越しのようなものだったと気づいた。壁の石の色。苔の緑。焚き火の残り火のオレンジ。ルゥの銀髪。術式陣の白。魔力結晶の青。
すべてが鮮やかだった。鮮やかすぎて、目が痛い。
「眩し——」
壁の隙間から差し込む陽光が、視界を焼いた。封印下では気にならなかった光量が、今は直視できないほどに明るい。
音も。
砦の外で鳴いている鳥の声が、壁を通して明瞭に届く。風が木の葉を揺らす音。遠くで川が流れる音。地面の下を這う虫が石を擦る音まで——聞こえる。聞こえすぎる。
匂い。
石壁の苔の匂い。焚き火の灰の匂い。自分の身体の汗の匂い。術式陣に使われた粉の鉱物的な匂い。そして——
背後にいるリーゼルの匂い。
薬品。インク。微かな汗。それから——何か甘い。石鹸か、あるいは彼女自身の体臭か。今まで気づかなかった匂いが、鼻腔の奥に滑り込んでくる。
「——っ」
触覚。
床に置いた掌が、石の一つ一つの凹凸を感じ取っている。空気の流れが肌を撫でる感触。そして、首筋に当てられたリーゼルの掌。
今まで「冷たい」としか感じなかった指先が——温度だけではなく、質感を持っていた。指紋の渦。掌の柔らかさ。力加減の繊細さ。手の主が、この処置に全神経を集中させていることが、触覚だけで伝わってくる。
世界が、一枚の膜を隔てていたのだと知った。
その膜が、今、剥がされた。
息を吸った。
肺に入ってくる空気が——美味い。こんなに空気が澄んでいる場所に住んでいたのかと、今さら驚いた。
「……どう?」
リーゼルの声が、背後から聞こえた。
さっきと同じ距離、同じ声量のはずだ。だが聞こえ方が全く違う。声の輪郭がくっきりしていて、音の一つ一つが粒立っている。低めの、少しかすれた声。息を吐く音。唇が動く微かな音まで。
「……こんなに——」
言葉が出てこなかった。
封印されていた期間、自分はどれほど鈍い世界に閉じ込められていたのか。色のない、音のない、温度のない牢獄に。
それを今——この女が、一部だけ解放した。
「五感の過敏は一時的なもの。脳が再調整して、数日で落ち着くと思う。それまではちょっと辛いかもしれないけど」
リーゼルがアルヴィンの正面に回り込んできた。
しゃがみ込んで、こちらの顔を覗き込む。薄い紫の瞳が、至近距離でアルヴィンを観察している。
その顔が——今まで見ていた顔と、同じなのに違った。
銀灰色の髪の一本一本の光沢。睫毛の長さ。肌のきめの細かさ。唇の色。目の下のクマすら、くっきりと見える。
「瞳孔の反応は正常。発汗、やや過多。心拍数——」
リーゼルがアルヴィンの手首を取り、脈を測った。
指先が手首の内側に触れた。
脈が跳ねた。
自分でわかるほど明確に、心臓が一拍大きく打った。
リーゼルが僅かに眉をひそめた。
「心拍数、高いな。……痛みがまだ残ってる?」
「…………いや」
痛みではない。
だが、何が原因かを説明できる言葉を、アルヴィンは持っていなかった。
リーゼルは手首を離し、ノートを取り出して何かを書き込み始めた。
「封印第一層の解除、成功。身体機能の抑制解除を確認。五感の過敏反応あり、想定内。心拍数の上昇——要経過観察」
データを記録する横顔を、アルヴィンはぼんやりと見つめていた。
鮮明になった視界で見るリーゼルは——きれいだった。
自分でも唐突にそう思って、すぐに打ち消した。封印解除の反動で感覚が過敏になっているだけだ。見慣れたものが新鮮に見えるのは、当たり前のことだ。
「よく耐えた」
リーゼルが、ノートから目を上げずにぽつりと言った。
無意識の一言だったのだろう。ペンを動かしながら、思いついたことをそのまま口にしただけ。たぶん本人は、自分が何を言ったか覚えていない。
だが——その三文字が、鮮明になったばかりの聴覚で、やけにはっきりと聞こえた。
「…………」
返事ができなかった。
喉の奥が、つかえている。
泣きそうだ、と思った。泣く理由がわからない。痛みはもう引いている。恐怖も去った。封印は一層だけだが、確かに解かれた。
なのに——この、目の奥が熱くなる感覚は何だ。
「あ、そうだ。これ飲んで。鎮痛薬の追加分。五感の過敏が辛かったら、これで少し鈍らせられる」
リーゼルが小瓶を差し出した。
アルヴィンはそれを受け取り、一口飲んだ。苦い。だが、苦味を「苦い」と正確に感じ取れることが、今は嬉しかった。
「……ありがとう」
小さく言った。
リーゼルは「ん」と短く応えて、もう次の記録に取りかかっていた。
ルゥが術式陣の外から、こちらを見ていた。
「同居人二号。泣いてる?」
「泣いてない」
「目が赤い」
「五感の過敏反応だ。涙腺が刺激されているだけだ」
「……ママも、同じようなこと言う。都合の悪い感情を、別の原因にすり替えるの」
「…………」
否定できなかった。
アルヴィンは目元を袖で拭い、ゆっくりと立ち上がった。
脚が少し震えている。だが立てる。歩ける。感覚が戻った身体は、封印下の鈍重さが嘘のように軽い。
壁の隙間から差し込む光が、まだ眩しい。
でも——目を逸らさなかった。
この光を見ていたいと思った。
この女が——リーゼルが返してくれた、世界の色を。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルヴィンは眠れなかった。
五感が鋭くなった身体は、今まで気づかなかった森のすべてを拾い上げる。梟の羽ばたき。遠くの獣の遠吠え。虫が壁を這う足音。焚き火の薪が燃える際の微かな、ぱちぱちという弾ける音。
そして——部屋の向こう側で、リーゼルがペンを走らせる音。
規則正しく、時々止まり、また走り出す。
その音を聞きながら、アルヴィンは天井を見つめていた。
この手が——どうしてこんなに温かいんだ。
傷を塞いだ手。封印を解いた手。毛布をかけた手。
同じ手だ。冷たくて、細くて、インクと薬品で汚れた手。
そのぜんぶが——温かかった。
---
* * *
「封印第一層解除 実験記録
被験者:アルヴィン(人間・要検証)
結果:成功。五感過敏反応、想定内。心拍数上昇、原因不明。
——次回は心拍数の変動原因を特定する必要あり。
何かの疾患の可能性? 要観察」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、研究ノートより
(※心拍数上昇の原因は、最後まで特定されなかった)
---




