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ep.5 森の魔女と狼の牙


 砦での生活が十日を過ぎた頃、リーゼルの素材採取は森の奥へと範囲を広げていた。


 外縁部で採れる薬草や鉱石はすでに一通り分類が終わっている。ルゥのメンテナンスに必要な月光苔も、自生地を三箇所確認した。次に欲しいのは、もっと希少な素材——特に、アルヴィンの封印術式を解析するための触媒として使える高純度の魔力結晶だ。


 文献によれば、魔力結晶は魔力濃度の高い場所——つまり森の深部に自然生成される。


 問題は、森の深部には魔獣がいること。


 「だから一人で行くなと言っている」


 アルヴィンが、砦の入り口で腕を組んで立ち塞がっていた。


 朝食の片づけを終えたばかりで、手にはまだ布巾を持っている。この十日で砦の家事は完全にアルヴィンの管轄になっていた。掃除、洗濯、調理、水汲み、薪割り。研究以外のすべてを黙々とこなす姿は、もはや助手というより執事に近い。


 「一人じゃないよ。ルゥがいる」

 「ルゥは戦闘力がない」


 リーゼルは首を傾げた。この男は最近、やけに口数が多い。砦に来た当初の、目の死んだ卑屈な奴隷はどこへ行ったのか。


 ——掃除と料理が、人をここまで変えるものだろうか。


 「魔獣の対策は考えてある。忌避剤を調合した。これを身体に塗っておけば、中型以下の魔獣は近寄ってこない」


 リーゼルが革袋から小瓶を取り出した。黄緑色の、どろりとした液体。


 アルヴィンが顔をしかめた。


 「……臭い」

 「魔獣の嗅覚を刺激する成分を配合してあるから。人間にも多少は臭いけど、死なない程度」

 「死なない程度を基準にするな」


 結局、アルヴィンを振り切る形で森に向かった。ルゥを連れて。アルヴィンは首輪のせいで魔力が使えず、剣もない状態では森の深部に同行させるわけにいかない。本人は不服そうだったが、「留守番して洗濯物を干しておいて」と言ったら黙った。


 (……意外と素直になったな、あの男)


 砦の生活に馴染み始めているのだろう。あるいは、馴染んだふりをしているだけかもしれないが——少なくとも、食事を作るときの手際には迷いがない。昨日の野菜の煮込みは、控えめに言って絶品だった。言わなかったけど。


 「ママ。考え事してると足元が危ない」


 ルゥの声で我に返った。


 足元を見ると、木の根が複雑に絡み合った地面。危うく躓くところだった。


 「……ありがと」

 「どういたしまして。ママは研究以外の注意力が著しく低い」

 「うるさい」


 森は、奥に進むほど様相が変わる。


 木々の幹がさらに太くなり、樹冠が空を完全に覆い隠す。地面に届く光は、木漏れ日というには弱すぎる、緑がかった薄明かり。空気中の魔力密度が肌でわかるほどに上がっていて、呼吸のたびに肺の奥がぴりぴりする。


 足元の苔は、外縁部のものよりも色が濃い。踏むと、じゅわ、と水分が滲み出る。靴底が湿る感触。どこかで水が流れる音——沢ではなく、地下を流れる水脈の振動が、地面を通して足裏に伝わってくる。


 「……この辺りから、魔力結晶の生成域のはず」


 リーゼルは目を凝らした。


 術式を「見る」特異体質は、魔力の流れを視覚化する。森の深部では、大気中の魔力が川のように流れているのが見える。その流れが集中し、凝縮される地点に魔力結晶が生まれる。


 視界の端に、淡い光の集中点が見えた。


 岩場の裂け目。そこに——あった。


 親指の先ほどの、透明な結晶。内部で微かに青白い光が脈動している。純度は高い。これ一つで、封印解析の触媒として十回は使える。


 「いいの見つけた」


 腰を屈め、岩場の裂け目に手を伸ばした。指先が結晶に触れる。冷たい。氷よりも冷たい、魔力の凝縮体特有の温度。慎重に周囲の岩を崩さないように摘み出して——


 「動くな」


 声がした。


 リーゼルの背後。低い、唸るような声。——人間の声だ。


 ゆっくりと振り返った。


 木々の影から、一人の男が姿を現した。


 最初に目に入ったのは——耳だ。


 人間の耳ではない。頭頂部に生えた、三角形の獣の耳。灰褐色の毛に覆われている。狼の耳。


 次に目に入ったのは、体格。長身で、筋肉質。革の胴着に、腰には大きな山刀を帯びている。腕は人間のものだが、爪が鋭く伸びていて、明らかに獣の特徴が混じっている。


 琥珀色の瞳が、こちらを睨みつけている。


 ——獣人。


 ファングリアの獣人族。大陸北部の森林地帯を治める種族。人間とは距離を置き、独自の社会を築いている。


 男の後ろに、さらに二人の獣人が控えていた。一人は女性で弓を構えている。もう一人は若い男で、槍を持っている。三人とも、警戒心を剥き出しにしていた。


 リーゼルは結晶を握ったまま、静かに立ち上がった。


 「……こんにちは」


 場違いなほど平坦な挨拶に、狼耳の男が眉を跳ね上げた。


 「こんにちは、じゃねえ。ここは俺たちの狩場だ。人間が何の断りもなく踏み込んできて、のこのこ結晶なんか持ち出そうとしてるんじゃねえよ」


 声は荒いが、知性のある話し方だった。怒っているというよりは、警告している。


 「ルゥ、下がって」


 ルゥがリーゼルの後ろに移動した。表情は変わらないが、体勢が僅かに低くなっている。


 リーゼルは男を観察した。


 歳は二十代前半。獣人としては若い戦士だろう。身のこなしから察するに、腕は立つ。三人がかりで囲まれている以上、逃げるのは難しい。


 だが——殺気はない。


 威嚇はしているが、本気で殺す気なら、声をかける前に矢が飛んでいるはずだ。警告してきたということは、交渉の余地がある。


 「申し訳ない。領域を侵したのは非があった」


 リーゼルは素直に謝った。嘘ではない。他種族の領域に無断で立ち入ったのは、こちらの落ち度だ。


 「森の外縁部にある廃砦に住んでいる錬金術師で、素材を探していた。あなたたちの狩場だとは知らなかった」


 男が目を細めた。


 「廃砦? ……ああ、あの崩れかけの石の箱か。あそこに住んでる人間がいるって噂は聞いてたが——お前か」


 「噂になってたんだ」


 「森の入り口で変な煙を出したり、夜中に光を放ったり。集落じゃ『魔女が住み着いた』って話になってる」


 「魔女……」


 否定する材料がなかった。実際、やっていることは魔女と大差ない。


 男がリーゼルをじろじろと見た。上から下まで。


 「思ったより小さいな。てっきり、もっと恐ろしい婆さんかと」


 「十七歳だけど」


 「は? ——ガキじゃねえか」


 男が素で驚いた顔をした。後ろの二人も目を丸くしている。


 リーゼルは内心で溜息をついた。年齢で驚かれるのは慣れている。学院でもそうだった。能力に年齢は関係ないのだが、人間も獣人も、見た目の若さに過剰に反応する。非効率な偏見だ。


 「で、この結晶は返したほうがいい?」


 「当然だろ。それは——」


 男が言いかけた時、弓を構えていた女性獣人が声を上げた。


 「カイ、待って。この子、もしかして——薬師じゃない?」


 カイ、と呼ばれた狼耳の男が振り返った。


 「あ?」


 「革袋の中身。薬草でしょ。それに匂い——錬金術の薬品の匂いがする。あの忌避剤の匂いも。こんなもの調合できるのは、相当な腕の……」


 女性獣人がリーゼルに視線を向けた。


 「あなた、薬は作れる?」


 リーゼルは首を傾げた。


 「薬は専門じゃないけど、錬金術の応用で大抵の薬は作れるよ。何かあるの」


 女性と男——カイが目を見合わせた。


 何かを迷っているようだった。しばしの沈黙のあと、カイが低い声で言った。


 「……集落に、病人がいる」



 ◇ ◇ ◇



 獣人の集落は、森の中腹に作られた木造の集落だった。


 巨木の幹に沿って建てられた家屋が十数棟。地面と樹上を繋ぐ梯子や吊り橋。木々の間に張られた革のテント。子どもの獣人が数人、木の上から珍しそうにこちらを見ている。


 リーゼルが集落に足を踏み入れると、大人の獣人たちが一斉にこちらを見た。警戒の目。敵意ではないが、好意でもない。「人間がなぜここに」という純粋な疑問と、本能的な警戒。


 「俺の客だ。手は出すな」


 カイが周囲に一喝した。若いが、集落での発言力はあるようだ。


 病人は、集落の奥まった家屋にいた。


 老齢の獣人——狐系の耳と尾を持つ老婆が、粗末な寝台に横たわっている。呼吸が荒い。肌が青黒く変色している部位があり、四肢の先端が時折痙攣している。


 リーゼルは寝台の横にしゃがみ、老婆の手首に触れた。脈を測りながら、変色した皮膚を観察する。


 「……いつから?」


 「ひと月前からだ。最初は倦怠感だけだったが、十日前から肌の変色が始まった」


 カイが、苦い顔で答えた。


 「集落の薬師が手を尽くしたが、原因がわからない。人間の街の治癒師に頼もうにも、獣人を診てくれる治癒師なんて——」


 「ああ、差別。非効率な話だね」


 リーゼルの言い方にカイが一瞬眉をひそめたが、何も言わなかった。


 リーゼルは老婆の皮膚の変色部分を注視した。


 視界が切り替わる。通常の視覚の上に、魔力の流れが重なって見える特異体質。老婆の体内の魔力循環が——滞っている。特定の部位で魔力が凝固し、血管のように張り巡らされた魔力路を塞いでいる。


 「……これ」


 リーゼルの目が、ふっと輝いた。


 研究者の目だ。


 「面白い。——いや、面白いって言うと不謹慎か。興味深い症例」


 カイの眉が跳ね上がったが、リーゼルは構わず続けた。


 「獣人特有の魔力循環系の疾患だね。人間には起こらない。獣人は魔力を身体機能に統合してるから、魔力の流れが滞ると身体機能にダイレクトに影響する。——たぶん森の深部の魔力濃度が上がったことが原因。体内の魔力バランスが崩れて、循環が詰まってる」


 「わかるのか」


 「見える。私の目は、魔力の流れが見えるから」


 カイが息を呑んだ。


 リーゼルは革袋を開けて、素材を取り出し始めた。


 「魔力循環を正常化する薬を調合する。一時間くれる?」


 「……作れるのか。本当に」


 「たぶん。獣人の身体構造に関する知識は文献レベルだから、微調整は必要だけど。——ああ、だからお婆さんの身体をもう少し詳しく見せてもらっていい? 獣人の魔力循環系を実地で観察できる機会なんて初めてだから」


 カイが複雑な顔をした。


 「……人助けの動機が、純粋じゃない気がするんだが」


 「動機はどうあれ、結果が出ればいいでしょ」


 リーゼルはすでに手を動かし始めていた。持参した薬草を刻み、小瓶の中で混合し、指先から魔力を注いで触媒反応を促す。集落の獣人たちが遠巻きに見守る中、わずか四十分で薬を調合した。


 薄い緑色の液薬。


 「これを一日三回、七日間飲ませて。魔力循環の凝固を徐々に溶かすから。三日目あたりで肌の変色が引き始めるはず」


 カイが、半信半疑の顔で液薬を受け取った。


 老婆に一服目を飲ませると——十分後に、痙攣が止まった。呼吸が穏やかになった。


 集落に、ざわめきが広がった。


 「……効いてる」


 カイが呟いた。琥珀色の目が見開かれている。


 「完治には七日かかるけど。あと——」


 リーゼルが立ち上がり、周囲を見回した。


 「同じ症状の人、他にもいない? 森の深部に近い場所に住んでる人は、同じリスクがある」


 カイが、弓の女性獣人と目を合わせた。


 「……いる。軽い症状を入れると、五人」


 「全員分の薬を作る。素材が足りなければ採取場所を教えて。——あ、あとさっきの魔力結晶。あれは封印術式の解析に必要だから、採取させてもらえると助かるんだけど」


 リーゼルの目が、ちらりと光った。


 カイは一瞬黙り込み——それから、低い声で笑った。


 「お前、したたかだな」


 「等価交換って、錬金術の基本原理だから」


 「……わかった。結晶の採取は許可する。ただし、俺がついていく。勝手に森を歩き回られると困る」


 「了解。——ありがとう」


 リーゼルが軽く頭を下げた。


 カイが、不思議なものを見るようにこちらを見ていた。


 「……お前、面白いな」


 「それ、今日何回言われるんだろう」


 「言ったのは初めてだが」


 「ああ、ごめん。別の人の台詞と混同した」


 カイの耳がぴくりと動いた。狼の耳が何かを感じ取ったかのような仕草。


 「お前、名前は」


 「リーゼル」


 「リーゼルか。——俺はカイ。カイ・ファングウルフ。この集落の……まあ、戦士の一人だ」


 「よろしく、カイ」


 握手を交わした。カイの手は大きくて、分厚い掌をしていた。握力が強い。手の温度が高い——獣人は基礎体温が人間より高いのだろう。触れた瞬間の体温データを頭の中にメモした。


 「……お前、今なにか計測してるだろ」


 「してない」


 「嘘つけ。目がヤバい。研究対象を見る目になってる」


 「気のせいだよ」


 「気のせいじゃねえ! 俺の直感は外れねえぞ!」


 カイが一歩後退った。狼の耳が後ろに倒れている。威嚇ではなく——警戒だ。

 研究者に対する、本能的な警戒。


 リーゼルは内心で苦笑した。獣人の勘は鋭い。



 ◇ ◇ ◇



 夕方、砦に戻った。


 門の前に、アルヴィンが立っていた。


 腕を組んで、壁に背を預けて。洗濯物は干し終わっているらしい——砦の裏手に、きちんと並んだ衣類が夕風に揺れている。


 「遅い」


 開口一番、それだった。


 「ごめん。予定外の寄り道をした」


 リーゼルが事情を説明した。獣人の集落のこと。病人のこと。カイという狼獣人の戦士と知り合ったこと。結晶の採取許可を得たこと。


 アルヴィンは黙って聞いていた。


 「——で、今後はカイが森の案内をしてくれることになった。素材採取がかなり効率的になると思う」


 「…………」


 「どうかした?」


 アルヴィンの表情が、微かに変わっていた。何がどう変わったのか、リーゼルには読み取れない。


 「いや。……その獣人は、信用できるのか」


 「信用できるかどうかはこれからだけど、少なくとも敵対する理由はない。集落の病人を治してあげたから、対価として協力関係を築けた」


 「対価」


 「等価交換。錬金術の基本」


 アルヴィンが、ふっと息を吐いた。


 「お前の人間関係は、全部取引なのか」


 「取引じゃない関係って何?」


 「…………」


 アルヴィンは答えなかった。代わりに、視線を逸らした。


 夕焼けの光が、砦の石壁をオレンジ色に染めている。


 「飯はできている。……今日は、川魚が獲れた」


 「おお。楽しみ」


 リーゼルが砦に入っていく。ルゥがその後に続く。


 アルヴィンは、しばらくその場に立っていた。


 腹の奥に、名前のつかない感情が沈殿している。


 あの錬金術師が——あの変人の、人間に興味がないはずの女が——

 他人と、自然にやりとりができるのだ。自分が知らない場所で。自分がいない場所で。


 ——別に、それは問題ではない。


 彼女が誰と関わろうが、誰に治療を施そうが、アルヴィンには関係のないことだ。自分はただの助手だ。被験体兼家事係。彼女の行動範囲に口を出す権利はない。


 わかっている。


 わかっているのに——腹の底が、ざわつく。


 (……何だ、この感覚は)


 不快ではない。だが、心地よくもない。

 胸の奥に小骨が刺さったような、飲み込みきれない異物感。


 リーゼルの声が砦の中から聞こえた。


 「アルヴィン、ご飯早く。お腹空いた」


 「……今行く」


 自分の名前を呼ばれるだけで、異物感が少し和らぐことに、アルヴィンは気づかないふりをした。



---


*    *    *


「獣人の魔力循環系は、人間とは根本的に構造が異なる。

 特に狼系獣人の掌の温度は基礎体温比で約二度高く、

 魔力の放散効率が——って、なんでこの研究メモを書いてると

 助手が不機嫌になるんだろう。謎」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、研究ノートより


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