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ep.4 助手の仕事は掃除から


 地獄だった。


 いや——地獄のほうがまだ秩序がある。少なくとも地獄には「罪人を罰する」という明確な運営方針があるだろう。ここには方針がない。あるのは混沌だけだ。


 アルヴィンは砦の大広間に立ち尽くし、絶句していた。


 昨日まで、自分は寝床の周囲しか見ていなかった。傷が痛くて動けなかったし、暗がりの中では全容が把握できなかった。


 だが今朝——身体の調子が幾分回復し、朝の光が壁の隙間から差し込む中で改めて見渡した大広間は、想像を遥かに超える惨状だった。


 まず、机。


 研究机と呼ぶにはあまりに酷い。羊皮紙の山、インク壺の群れ、正体不明の液体が入ったフラスコ、干涸びた薬草の束、齧りかけのパン(推定三日前)、空の革袋、折れたペン、折れていないペン、ペンに見えるが実は何か別のもの——それらが地層のように積み重なっている。


 机の上だけではない。床にも「地層」は広がっていた。


 蒸留装置の周りには、使用済みの硝子器具が洗われることなく放置されている。薬品で変色した布切れが散乱し、壁際にはラベルの剥がれた薬品瓶が無造作に並んでいる。中身が何かわからない瓶が少なくとも三十本。


 そして——隅に追いやられた食料保管箱。開けてみた。


 パン。硬い。石かと思った。


 干し肉。干し肉だったもの。色が変わっている。


 チーズ。——いや、もうチーズと呼べる状態ではない。独自の生態系を築きかけている。


 アルヴィンは箱の蓋を静かに閉じた。


 「……お前」


 大広間の隅で、床に直接座って羊皮紙を広げているリーゼルに向き直った。


 「なに」


 リーゼルは顔も上げずに応えた。ペンを走らせながら、左手で齧りかけのパン——おそらく昨日の残り——を口に運んでいる。服は三日前と同じ研究着。髪は結ぶのを諦めたらしく、銀灰色の滝のように背中に垂れている。


 「お前、これで生活しているのか」

 「してるけど?」

 「人間の生活環境ではない」

 「人間の定義による」

 「ならない。どの定義でもならない」


 リーゼルがようやく顔を上げた。不思議そうな目でアルヴィンを見ている。


 「何がそんなに問題なの。ものが多いだけでしょ。散らかっているように見えて、実は全部把握してるんだよ。あの机の三番目の地層の左端にある羊皮紙は、古代封印術式の解析メモ。その下の——」


 「机に地層があること自体が問題だと言っている」


 「地層は文明の証だよ」


 「詭弁を使うな」


 ルゥが暖炉の前から、こちらを無表情に見ていた。


 「同居人二号、怒ってる」

 「怒ってない。呆れてる」

 「ぼくのデータベースでは、その表情は『怒り』に分類される」

 「データベースを更新しろ」

 「ママと同じこと言う」


 アルヴィンは深く息を吸い、吐いた。


 帝国の王宮には百人の侍女がいた。床は毎朝磨き上げられ、花は三日ごとに替えられ、食卓には七皿の料理が並んだ。


 あの暮らしは二度と戻らない。それは受け入れている。


 だが——最低限の衛生環境は、人間として譲れない一線だ。


 「掃除をする」


 アルヴィンは宣言した。


 「え、もう? まだ身体——」


 「掃除をする」


 有無を言わさぬ声だった。自分でも驚くほど、強い声。奴隷に落ちてから初めて、自分の意思で何かを決めた瞬間だったかもしれない。


 きっかけが掃除というのは、我ながらどうかと思ったが。


 リーゼルは一瞬ぽかんとした顔をして、それから肩を竦めた。


 「……まあ、助手の仕事だしね。好きにして。ただし研究机には触らないで。あの地層には意味があるから」


 「意味はない」


 「ある。あれは時系列順に積層された研究ログであり——」


 「ゴミだ」


 「失礼な。ゴミと研究資料の区別もつかないの」


 「区別がつかない時点で整理が必要だと言っている」


 二人の間で、しばし無言の睨み合いが発生した。


 先に折れたのはリーゼルだった。


 「……わかった。机は触っていい。でも捨てる前に私に確認して。本当に大事なものが混じってる可能性はもある」



 アルヴィンは砦の中を見回した。掃除道具は——ない。当然だ。この女が掃除道具を持っているはずがない。


 だが、水はある。砦の裏手に湧き水が出ているのは昨日確認した。布切れなら散乱している。箒がなくても、枝を束ねれば代用できる。


 ——帝国軍の野営訓練で、こういうことは叩き込まれた。


 王太子は、前線に出ることも想定されて育てられる。泥の中で寝起きし、限られた装備で陣地を整える技術は、実は身についている。まさかこんな形で役に立つとは思わなかったが。


 外に出て、手頃な枝を集めた。蔦で束ねて即席の箒を作る。湧き水で布切れを絞る。


 そして——掃除を始めた。


 まず床。


 枯れ葉と泥と、正体不明の粉末(たぶん錬金術の素材のこぼれたもの)を掃き出す。箒を動かすたびに埃が舞い、朝の光の中できらきらと輝いた。


 次に壁際。


 薬品瓶を一本ずつ確認し、ラベルのないものはリーゼルに中身を聞いて分類した。「これは?」「解毒剤の試作品」「これは」「爆発する」「……なぜ爆発するものをラベルなしで放置する」「ラベル貼る前に次の実験始めちゃって」「死にたいのか」「死なないよ。致死量じゃないし」「致死量の問題じゃない」


 この問答を、瓶の数だけ繰り返した。三十回以上。


 食料保管箱は全て処分した。独自の生態系を築いたチーズは、丁重に森に返した。二度と帰ってくるな。


 蒸留装置の周りは、硝子器具を一つずつ洗浄した。湧き水は冷たく、指先が赤くなった。だが汚れた器具が透明になっていく過程は、奇妙に気分がいい。


 作業を続けるうちに、アルヴィンは気づいた。


 ——身体が、動く。


 昨日までの鈍い痛みが、掃除に集中しているうちに薄れている。いや、痛みが消えたわけではない。ただ、手を動かし、足を動かし、目の前のものを片づけていくという行為が、痛みよりも強い感覚を上書きしている。


 何かをしている。自分の意思で。自分の手で。


 奴隷の日々にはなかったものだ。


 命令されて動くのではなく、自分で「ここが汚い」と判断し、自分で「きれいにする」と決めて、自分の手で変えていく。


 ——たかが掃除だ。


 王太子がやるような仕事ではない。


 でも、今の自分は王太子ではない。


 今の自分は——この変な錬金術師の助手だ。助手の仕事は、掃除から始まる。


 数時間後。


 大広間は、見違えるようになっていた。


 床は掃き清められ、壁際の薬品瓶は種類別に整列し、蒸留装置の周りは清潔な布で拭き上げられている。食料保管箱は空にされ、新しく仕分け用の棚を石材で即席に組んだ。窓のない壁の隙間から差し込む光が、きれいになった石壁に反射して、広間全体が明るくなった。


 リーゼルが、研究の手を止めて広間を見回した。


 「……きれい」


 ぽつりと言った。


 それから、少し困惑したように眉を寄せた。


 「きれいだけど……なんか落ち着かない」


 「慣れろ」


 「前の状態のほうが安心したんだけど」


 「二度とあの状態には戻さない」


 リーゼルはしばらく黙って広間を眺めていたが、やがて肩を落とした。


 「……まあ、確かに蒸留装置の効率は上がりそう。埃が混入しなくなるから」


 素直に「ありがとう」と言えない女だった。だが、それが精一杯の肯定であることは、なんとなく理解できた。


 「昼飯は」


 アルヴィンが聞くと、リーゼルが首を傾げた。


 「パンが——あ、捨てたんだっけ」


 「石と化していたから処分した。他に食材は」


 「ない」


 「…………」


 「森に行けば食べられるものあると思うよ。たぶん」


 「たぶん、で食事を賄うな」


 アルヴィンは砦を出て、森の外縁部を探索した。


 幸い、食べられる野草はいくつか見つかった。野蒜に似た球根。食用のキノコ。沢にはエビに似た小さな甲殻類がいる。


 ——帝国軍の野営訓練が、再び役に立った。


 砦に戻り、焚き火で簡素な食事を作った。野草のスープと、沢エビの塩焼き。塩はリーゼルの素材の中にあった(「岩塩。精製度は低いけど食用にもなる」とのこと)。


 三人分——リーゼル、アルヴィン、ルゥ。ルゥは食事が不要らしいが、匂いを嗅ぐのは好きだと言うので、小皿に少しだけ盛った。


 リーゼルが、木の椀を受け取って中身を見た。


 「……これ、あなたが作ったの」


 「他に誰がいる」


 一口飲んで、リーゼルの目が僅かに見開かれた。


 「……美味しい」


 「……当然だ」


 当然のことを言っただけなのに、なぜか胸の奥がざわついた。


 リーゼルは椀を両手で包んで、もう一口飲んだ。それからまた一口。いつもは食事に興味を示さない人間が、黙々とスープを飲んでいる。


 ルゥが小皿の上の沢エビを凝視していた。


 「ぼくは食べられないけど、この匂いは好き。データベースに『良い匂い』として登録した」


 「そう」


 アルヴィンは自分の分のスープを飲んだ。


 美味くはない。野営飯だ。王宮の厨房とは比べものにならない。


 だが——自分で採った食材を、自分で調理して、誰かに食べさせている。

その「誰か」が「美味しい」と言った。


 それだけのことが。


 たったそれだけのことが。


 妙に——嬉しかった。


 「……ごちそうさま」


 リーゼルが、空になった椀を差し出した。おかわりの要求だと気づくまで、三秒かかった。


 「……もう一杯いるのか」


 「いる。今まで食べたパンより百倍美味しい」


 「パンと比較するな。比較対象が低すぎる」


 「じゃあ千倍」


 「数字の問題ではない」


 文句を言いながら、鍋からスープを注いだ。


 リーゼルが二杯目を飲み始めるのを横目に見ながら、アルヴィンは焚き火に薪を足した。


 火が爆ぜる。


 橙色の光が、きれいになった広間を照らしている。


 ——こんな気持ちになるのは、いつぶりだろう。


 思い出せない。


 王宮にいた頃は、料理は他人が作るもので、掃除は侍女の仕事で、自分は何もしなかった。何もしなくていい立場だった。何もしないことが、権力の証だった。


 今は違う。


 掃除をして、料理を作って、誰かの「美味しい」を聞いている。


 惨めか?


 ——少し前なら、そう思っただろう。元王太子が、逃亡者の飯炊きをしている。これ以上の転落があるだろうか。


 でも、今は。


 不思議と——惨めではなかった。


 「ママ、同居人二号の表情が変わった」


 ルゥが、沢エビを指先で突きながら言った。


 「さっきより、柔らかい。データベースの分類では——」


 「ルゥ。黙っていろ」


 「……了解。でも記録はする」


 余計なことを記録するな、と言おうとして——やめた。


 代わりに、もう一本薪を火にくべた。


 明日は、もう少しマシな食事を作ろう。


 罠を仕掛ければ、小動物くらいは獲れるかもしれない。香草があればスープの味も良くなる。保存食の仕込みも必要だ。——この女は放っておいたら本当にパンだけで生きようとする。


 (……なぜ俺は、この女の食事の心配をしているんだ)


 答えは出ない。出す気もない。


 ただ、明日のことを考えている自分がいた。


 昨日までは、考えられなかったことだ。



---


*    *    *


「掃除は環境の再構築であり、すなわち錬金術の一形態である。

 ……という理論武装で、あの潔癖な助手を納得させられないだろうか。

 無理か。無理だな」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、研究ノートの隅に書かれた独り言


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