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ep.12 仮面の下


 リーゼルが眠った夜は、砦が静かになる。


 普段は深夜までペンの音がしている。あの規則正しい、時々止まってまた走り出す音が、いつの間にかアルヴィンの夜の一部になっていた。それが止んで、代わりにリーゼルの寝息が聞こえてくると——砦の空気がほんの少し柔らかくなる。


 今夜は、珍しく早い時間にリーゼルが寝落ちた。


 机に突っ伏したまま眠ってしまったのを、アルヴィンが見つけた。前にもあった。このまま放置すると首を痛めるので、毛布をかけるか、寝床に移すかの判断が必要になる。


 起こさないように毛布をかけた。


 銀灰色の髪が机の上に広がっている。インクで汚れた指先が、ペンを握ったまま力を失っている。寝顔は——年相応だった。起きている時の、感情の読めない平坦な表情が消えて、十七歳の少女の顔がそこにあった。


 目の下のクマが濃い。頬がこけ始めている。ここ数日の無理が、顔に出ている。


 (……また、無茶をしている)


 自分のせいだ。


 自分の中に眠る因子のせいで、この女は限界まで追い詰められている。


 アルヴィンは机を離れ、暖炉の前に座った。


 火は弱くなっている。薪を一本足した。乾いた木が炎に触れて、ぱちりと弾ける音。橙色の光が揺れる。


 暖炉の反対側で、ルゥが丸くなっている。今は本当に眠っているようだ。人工生命体にも休眠モードがあるらしい。


 静かだった。


 こういう夜に、記憶は忍び込んでくる。


 追い払おうとしても無駄だ。暴走の夜以来、過去の記憶が不意打ちのように浮上することが増えた。因子の影響なのか、単に精神が不安定なのか——おそらく両方だろう。


 瞼を閉じると、映像が浮かぶ。



 ◇ ◇ ◇



 十四歳の自分。


 剣術の師範を打ち負かした日。宮廷の訓練場で、大の大人である師範が膝をついた。周囲から歓声が上がった。


 嬉しかったのではない。当然だと思った。自分は竜の血統を継ぐ者。帝国最強の剣士になるのは、生まれた時から決まっていたこと。


 師範の悔しげな顔を見下ろしながら、何も感じなかった。


 十六歳の自分。


 宮廷の晩餐会で、外国の大使を前に帝国の歴史を滔々と語った。七カ国語を操り、外交の場で臆することなく発言する若き王太子。父王は満足げに頷いていた。


 あの頃の父は、まだ自分を誇りに思っていた——と信じたい。


 だが本当は、父が誇っていたのは「自分」ではなく「王太子という器」だったのかもしれない。器の中身が傲慢で冷酷な人間であることに、父は気づいていたのだろうか。気づいていて、目を逸らしていたのだろうか。


 十七歳。婚約が決まった年。


 イレーネ・フォン・ガルシュタインが、初めて宮廷に来た日のことを覚えている。栗色の髪を丁寧に結い上げて、新しいドレスを着て、緊張した面持ちで——それでも懸命に笑顔を作っていた。


 きれいだと思った。一瞬だけ。


 だが次の瞬間には、もう興味を失っていた。政略で決められた婚約者。自分が選んだ相手ではない。この女と自分の人生が結びつけられることに、本能的な反発を覚えた。


 それからの二年間、イレーネに対してまともに向き合ったことは一度もなかった。


 彼女が手紙をくれたことがある。丁寧な筆跡で、季節の花のことや、読んだ本の感想が書かれていた。返事は書かなかった。


 彼女が贈り物を届けてくれたことがある。自分の好みを調べたのだろう、帝国古典文学の稀覯本だった。受け取りはしたが、礼は言わなかった。


 彼女がどんな思いでそれらを差し出していたのか、考えもしなかった。


 そして——あの夜が来た。


 舞踏会。


 イレーネが、いつもより少し華やかな装いで広間に入ってきた。目が合った。彼女は微笑んだ。控えめで、少し怯えを含んだ、でも精一杯の笑顔。


 その笑顔が——退屈に見えた。


 いや、退屈だったのは彼女ではない。自分の人生が、退屈だった。決められた道。決められた相手。決められた未来。何もかもが他人に設計された箱庭で、自分の意思で選んだものが何一つないという苛立ちが、あの夜、臨界点を超えた。


 イレーネは、たまたまそこにいただけだ。


 自分の苛立ちの矛先を向けるのに、最も都合のいい相手だっただけ。


 それを理解したのは——すべてを失った後だった。


 「お前のような退屈な女と添い遂げる気はない」


 あの言葉を発した瞬間の、広間の沈黙を覚えている。


 イレーネの顔から血の気が引いていくのを、目の前で見ていた。


 何も感じなかった。


 ——嘘だ。


 本当は、何かを感じていた。ただ、それが何なのか認識する回路が、あの頃の自分にはなかった。自分の行為が他人をどれだけ傷つけるか、想像する能力が欠落していた。


 傲慢、というのはそういうことだ。


 他者の痛みが見えない病。他者の存在を、自分の人生の背景としてしか認識できない障害。


 今なら——わかる。


 わかっても、遅い。



 ◇ ◇ ◇



 暖炉の火が、また弱くなっていた。


 薪を足す手が、僅かに震えていた。寒さではない。


 「……眠れないの」


 声がした。


 振り返ると、リーゼルが机に突っ伏したまま、片目だけ開けてこちらを見ていた。毛布が肩からずり落ちかけている。


 「……起こしたか」


 「起きてた。薪の音で」


 リーゼルが身体を起こし、肩の毛布を引き寄せた。くしゃくしゃの髪を手で押さえながら、欠伸を一つ。


 「何か考え事?」


 「…………」


 答えるつもりはなかった。


 だが——口が開いた。


 「俺は最低な人間だった」


 暖炉の火を見つめたまま、言った。


 リーゼルに向けた言葉なのか、独り言なのか、自分でもわからなかった。ただ、この静かな夜に、砦の中にもう一人の人間がいて、その人間が聞いているという事実が——蓋を開けてしまった。


 「婚約者がいた。政略で決められた相手だったが、彼女は本気だった。……俺に向き合おうとしてくれていた。手紙を書いてくれた。贈り物を届けてくれた。俺は——何一つ返さなかった」


 リーゼルは何も言わなかった。机の上で頬杖をついて、こちらを見ている。


 「最後には、人前で侮辱した。彼女が何を感じていたかなんて考えもしなかった。自分の苛立ちを、一番弱い相手にぶつけた。——最低だろう」


 「……知ってる」


 リーゼルが言った。淡々と。


 「知ってる?」


 「あなたが話してくれた過去から、大体は想像がついてた。公衆の面前で婚約破棄を宣言するような人間は、その瞬間、相手のことを人間として見ていない。——違う?」


 否定できなかった。


 「お前は、怒らないのか」


 「なんで私が怒るの」


 「普通は——」


 「普通は知らない。私は私の反応しかできない」


 リーゼルが毛布の端をいじりながら、少し間を置いて言った。


 「過去のあなたは今のあなたじゃないでしょ。あの時のあなたと、今ここで暖炉に薪をくべてるあなたは、同じ名前の別の人間だよ」


 「……そう簡単に割り切れるものか」


 「割り切ってるんじゃなくて、事実を言ってるだけ。人間は変わる。変わらなかったら、あなたは今ここにいない。——少なくとも、自分で『最低だった』と言える人間は、最低のままではいないよ」


 沈黙が落ちた。


 暖炉の火が、ぱちりと弾けた。


 「……それに」


 リーゼルが、少しだけ目を逸らした。


 「私も大概だから。人の倫理観を語れる立場じゃない」


 「お前が」


 「違法研究で国を追われた人間だよ、私は。人工生命の製造なんて、見方によっては命を弄んでるのと同じ。ルゥのことは大切だけど——ルゥを作る過程で、私が切り捨てたものもある」


 リーゼルの声は平坦だったが、そこには確かに重さがあった。


 「だから——あなたの過去を裁く気はない。裁けるほど、きれいな人間じゃないから」


 アルヴィンは、しばらく暖炉の火を見つめていた。


 断罪されるほうが、楽だったかもしれない。


 「お前は最低だ」と言われれば、「そうだ」と頷いて、自罰の中に逃げ込める。罰を受けている限り、自分と向き合わなくて済む。


 だがリーゼルは裁かなかった。


 許しもしなかった。


 ただ——「それはそれ、今は今」と、事実を切り分けた。


 過去は変えられない。でも過去に縛られる必要もない。


 そんな単純なことが——今まで、誰にも言ってもらえなかった。


 いや、言ってくれる人間がいなかったのではなく、聞ける状態になかったのかもしれない。


 聞けるようになったのは——


 (……この女が、いたからだ)


 胸の奥で、何かが静かに、確かに動いた。


 因子の脈動ではない。もっと柔らかくて、もっと人間的な——何か。


 名前をつけかけて、やめた。


 今はまだ、つけるべきではない。自分にその資格があるとは思えない。


 「……ありがとう」


 小さく言った。


 リーゼルが、少し意外そうな顔をした。


 「何が」


 「聞いてくれて」


 「……別に。あなたが勝手に話しただけでしょ」


 「そうだな。——でも、聞いてくれる人間がいたから、話せた」


 リーゼルは何も答えなかった。


 毛布を引き寄せて、机に頬を載せた。片目がこちらを見ている。


 「……寝なよ。明日、術式の新しいアプローチを試したい。手伝って」


 「ああ」


 「古代ドラグノア語の翻訳、まだ残ってるし」


 「わかった」


 「あと、朝ごはん」


 「……注文が多いな」


 「助手でしょ」


 その言い方には、もう最初の頃のような突き放した響きはなかった。


 アルヴィンは薪を一本足して、自分の寝床に向かった。


 横になり、毛布を被る。暖炉の光が天井に揺れている。


 机の向こうで、リーゼルがまた突っ伏した。今度こそ本当に眠るらしい。呼吸がすぐに深くなった。


 静かだ。


 自分の中にある「何か」が、暖炉の火のように、小さく、確かに燃えている。


 名前はまだつけない。


 でも——消すつもりもなかった。



---


*    *    *


「深夜雑記

 助手が眠れないと言うから少し話を聞いた。

 過去の話。婚約者のこと。

 あの人は自分を『最低だった』と言った。

 最低だったのだろう。たぶん本当に。

 でも——最低だった人間が、今は毎朝薪を割って、

 水を汲んで、ルゥの分まで小皿を用意して、

 私が寝落ちしたら毛布をかけている。

 人は変わる。変わらないのは、石と死体だけ。

 ……なんか哲学的なこと書いてしまった。

 寝ぼけてるからだと思う。忘れよう」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、研究ノートの隅


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